2006年クリスマスのメッセージ

王の王であるイエス様

御言葉:マタイの福音書2:1-12
要 節:マタイの福音書2:11そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

Merry Christmas! 皆さんがご存知のようにクリスマスは地球上で最高の日です。アメリカのHappy Holidayであり、隣の国韓国の祝日でもあります。今はヨーロッパだけではなく、神様がいないという中国も一ヶ月前からクリスマス祭りの雰囲気だそうです。王の誕生日には全国民が祭りするようになっているので、王の王であるイエス様の誕生日に全世界が祭りをするのは当然なことでしょう。
先ほど、東京UBF合唱団が「メサイア」という曲の中から「ハレルヤ・コーラス」を歌いましたが、イエス様は「メサイア」に歌われているように「主の主(The Lord of lords)」「諸王の王(The King of kings)」です。「メサイア」とはヘブル語の「メシア」ですが、その英語読みが「メサイア」です。その意味は「油注がれた者」、「王として、あるいは祭司として、または預言者として、油注がれた者」という意味です。それがユダヤ人たちの間で次第に、「メシア」とは「救い主」を意味する言葉として使われるようになりました。確かにそのことばのとおり、まことの神であるイエス様はメシア、救い主です。新約聖書の原語であるギリシャ語では「キリスト」です。事実、イエス様には聖霊が鳩のように降りられました。すなわち、聖霊の油が注がれたのです(ルカ4:18)。ですから、イエス様はまことに最高の王であり、最高の大祭司であり、最高の預言者でもあります。そこで「ハレルヤ・コーラス」は「全能なるわれらの神である主が王となった!」「ハレルヤ!ハレルヤ!主の主!諸王の王!」と賛美しています。
そして、世界の歴史はイエス様を救い主、王の王として認め、信じる人々、つまりクリスチャンによって動いてきたと言えます。受験で世界史を勉強してきた人はよく分かると思いますが、世界の歴史の中でキリスト教が与えてきた影響は計り知れません。「自由」「平等」「民主主義」などはイエス様を王として信じている人々が作り上げてきたものです。日本においても、明治以降、クリスチャンは日本の近代化、民主主義化に多くの影響を与えて来ました。事実、イエス・キリストが王の王であることを悟って信じ従うようになると、個人も、国も、世界の歴史も変えられて行くのです。
先ほど私たちが聞いた「メサイア」を作曲したヘンデルもイエス様が王の王であり、救い主であると信じて変わりました。彼は1741年、56歳の時に「メサイア」を作曲したのですが、その頃は彼の生涯の中で、もっとも暗く、辛く、苦しいときでした。リューマチに苦しみ、また脳卒中(のうそっちゅう)のため、右半身が麻痺してからだの動きが取れなくなりました。さらに、彼らの音楽をもっともよく理解し、支持し、経済的にも助けてくれていたキャロライン王妃が突然なくなってしまいました。ところが、ヘンデルが病気と絶望と貧しさの中で伏していたある日、チャールズ・ジェネンズという人から「メサイア」の台本が届けられました。それには王の王であるイエス様の生涯を描写し、イエス様による救いの素晴らしさが書かれていました。台本には聖書の詩篇、イザヤ書、ルカの福音書などの御言葉が書かれ、編集されていました。それを読むと、ヘンデルの心の中に、王の王であり、救い主であるイエス・キリストに対する信仰が火のように燃え上がりました。そこで、彼は貧しいアパートの一室でこの素晴らしい大曲、「メサイア」を書き上げたのです。「完成した瞬間、ヘンデルの目からは涙があふれていた」とヘンデルの姿を見ていた人は伝えています。ヘンデル自身「私は天国が自分の目の前に広がり、神ご自身を見たような気がした」と言っています。ヘンデルは、人生の最悪の状況の中で、逆境の中でありましたが、王の王であるイエス・キリストに出会った時、彼の人生は変わりました。あのすばらしいハレルヤ・コーラスを作曲して主を賛美し、ほめたたえ、主を喜ぶ人生へ変えられたのです。彼は「メサイア」を作曲してから十年後の67歳の時に失明してしまいます。しかし、目が見えなくなってもそれでも積極的に生きることができました。失明した時まで作ってきた曲の上演や作曲を続けました。このように、クリスマスにお生まれなったイエス・キリストと本当に出会うことができた人は、どんな状況の中でも安心して力強く生きていけます。
今日の御言葉に記された東方の博士たちもそうでした。博士たちは、王さまを拝むために旅をしてきました。イエス様を王様として拝み、ささげものをしました。彼らから私たちはもっとも賢い人たちの賢い生き方を学ぶことができます。それは「イエス様を自分の王さまとして認め、礼拝し、王様に従って生きる」ということです。この時間、御言葉を通して東方の博士たちの人生を学び、彼らが王様として拝んだイエス様について深く学ぶことができるように祈ります。何よりも、私たち自身もクリスマスに王の王としてお生まれになったイエス様に出会うことができるように祈ります。王の王であるお方にふさわしい礼拝をささげ、王の王であるイエス様に従って生きる者となりますように祈ります。

1-2節を読んでみましょう。「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」この御言葉はイエス様がヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったことを教えてくれます。その時、東方の博士たちがユダヤの都エルサレムにやって来ました。ここで、「東方」というのは昔のバビロン、ペルシアを指していると言われています。つまり、東方の博士たちは今のイラン・イラク地域から数ヶ月の旅をしてエルサレムまで来たのです。交通機関の発達していない当時のことを考えてみると、その旅行は決してやさしくなかったと思われます。何千キロという道の途中には砂漠もあり、いろいろ予測の出来ない危険もあったことでしょう。では、どうして彼らはさまざまな苦難と危険があったにも関わらずここまで来たのでしょうか。それはユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝むためです。彼らはユダヤ人の王としてお生まれるになる方を拝むことができるなら、何ヶ月間も仕事を休んでもいいと思いました。その方を拝むことができなら、いかなる苦難も、危険も問題にならないと思いました。本当の王さまに出会って拝むことができるなら、どんな犠牲をしても構わないと思ったのです。ですから、彼らは最高の贈り物を準備し、随行員たちとともに今日のイラク地域からイスラエルまで来たのです。おそらく、ユダヤ人の王としてお生まれになるイエス様がどんな方であるかを知らない人たちはそこまで自分を犠牲する必要があるのかと非難していたでしょう。今日、この礼拝に来てイエス様を拝むために遠くは仙台からも来ていますが、クリスマスについてよく分からない人たちがなかなか理解できないでしょう。愚かなことのように思うかも知れません。しかし、仙台から宣教師も博士ですが、東方の博士たちは一国の王様と住民たちが恐れ惑うほどに影響力のある博士たちでした。彼らは東方の賢者、Wise Manとしてとても賢い行動をしました。なぜなら、ユダヤ人の王としてお生まれになるお方、イエス様こそ王の王であり、まことに拝むべき唯一の救い主だからです。
事実、この世の中では本当に拝むべきお方、礼拝すべき方を知り、その方に礼拝することほどに大切なことはありません。多くの人々はまだ拝むべき方、礼拝の対象を知らずにさ迷っています。また、多くの人々は偽りの神々を拝んでいます。サタンの支配を受けているのです。
去年、私は子どもたちと一緒に「ナルニア国物語」という映画を見たことがあります。この映画を見ると、ナルニア国は本当の王ではない魔女によって治められ、そこにいる生き物は百年もの間、雪と氷と、恐怖に閉じ込められていました。しかし、ナルニアの本当の王、アスランが来ると、ナルニアは長い冬から解放され、そこに再び春がやってくるのです。この映画の原作は英国のクリスチャンの作家C.Sルイスが聖書を題材に書いたもので、彼はナルニア国の王、ライオンの中にキリストの姿を描いています。ナルニア国の物語のように、今日人々は、本当の王ではないものに支配されています。悲しいことです。自分も知らずにまことの神ではなく、この世の神、サタンを王にしているからです。お金や財産、地位や名誉を王さまにして、その奴隷になっている人もいます。それで多くの人々のたましいは不安や恐怖、ねたみや憎しみに支配されています。しかし、私たち人間は、そういうものに支配されていてはなりません。それらは私たちの本当の王ではないからです。イエス様こそが本当の王です。そして、イエス様を自分の王として受け入れ、信じる人は寒い冬のような人生から、春のように暖かく、明るい人生に変わります。東方の博士たちは本当の王であるイエス様に出会うようになった時、この上もなく喜ぶようになりました。彼らが博士になるまで悲しみもありますが、多くの喜びも経験したと思いますが、そういう喜びとは比べられない喜びを経験したのです。
この時間、静かに、何が自分の王になっているのかを考えてみましょう。・・・・。そしてまだイエス様が自分の王になっていない方は東方の博士たちのように賢い決断をしてイエス様に出会うことのために祈ってください。イエス様が自分の王であるつもりですが、完全にイエス様に支配されていないと思われる方も、再びイエス様に出会い、イエス様を拝むことのために祈ってください。テレビやインターネットは必要なものですが、私たちがそれらに支配されていてはいけません。いうまでもなく、良くないゲームや淫乱サイト、変な漫画や雑誌などに支配されていてはいけません。ある人は自分の人生、自分が生きると言って自分自身が自分の王になっていますが、それもいけないことです。自分が自分を治めることもよくないことです。ある人は自分の家では自分が王様です。しかし、自分の妻、あるいは自分の夫を支配してもいけません。私たちはこの世の何かを治めることも、何かに治められることもいけないのです。私たちはただイエス様に治められるべきです。ほんとうの王はイエス・キリストだからです。イエス様は全知全能の王です。知恵の王であり、能力の王です。愛と平和の王です。「ハレルヤ・コーラス」に歌われているように「主の主、諸王の王」です。
ですから、私たちが心からイエス様を王の王として受け入れ、信じるとき、私たちは、私たちを縛っていたものから解放されます。そして、王の王であるイエス様の支配と導きを受けるようになります。イエス様はWonderful Counselorとして私たちと交わり、歩むべき道を示してくださいます。力ある神として私たちに必要な知恵と力を与えてくださいます。永遠の父として私たちを保護し、平和の君として私たちの平和の道に歩ませてくださいます。このようにしてくださる真の王様が私たちには必要です。人には人を生かして治めてくださる、確かな王さまがどうしても必要なのです。イエス様はそんな私たちのためにクリスマスにお生まれになった、まことの王様です。クリスマスに私の王、皆さんの王、全人類の王であるイエス・キリストがお生まれになったのです。この方こそ王の王です。
 賢い東方の博士たちは地上で自分の国やユダヤを支配している人が王ではなく、ユダヤ人の王としてお生まれになる方こそ真の王であることが分かりました。本当の王はヘロデのようにある地域を支配する王ではなく、全人類の王、全宇宙を支配しておられる王であると信じていたのです。夜空に輝く星を造られ、その星を支配して輝かせることもなさっておられる方こそ真の王であると信じていました。そして、その方は一つの星によって示されることも知っていました。聖書を見ると民数記24:17節に「私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。」とあります。おそらく、ユダヤ人たちがバビロンに残した聖書からこの御言葉を知り、預言のとおりにヤコブからの一つの星が上ると信じていたでしょう。そして、ある日一つの星を見ると、この星こそ、約束されたメシアを示していると確信したでしょう。そして、一つの星によって示されたイエス・キリストを拝むために東の方から遥か遠いエルサレムまで来たのです。そこで、彼らは彼らを先導した星が、ついに幼子がおられる所まで進んで行き、その上にとどまった時はその星を見てこの上もなく喜びました。そして準備してきた贈り物をささげました。
10、11節をご一緒に読んでみましょう。「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」とあります。彼らは本当の王、王の王であるイエス・キリストに出会ってキリストを拝むことができたのです。そして、彼らは宝の箱をあけて、幼子イエス様に黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげました。

以上をまとめますと、東方の博士たちは、『新しい王、王の王であるお方』の出現を待ち望んでいました。自分たちの国も、ユダヤも超えて全世界を治める王の王を待ち望んでいたのです。目に見える世界も、見えない世界も支配しておられる本当の王さまを待ち望んでいたのです。そしてそれは彼らのVisionでした。また、ユダ人の王としてお生まれになる方を拝むことが彼らのMissionでした。彼らにはこのMissionのために燃え上がるPassion、情熱もありました。情熱があったからこそ、あの昔、交通機関も不便な時代に外国まで行くことを決断することができたでしょう。しかし、燃えるPassionがあってもそれだけでは何も手に入れることはできません。ところが、東方の博士たちにActionもありました。彼らは王の王であるイエス様を拝むために行動しました。彼らは東のペルシアから遥か遠いユダヤまで来ました。彼らには博士らしく、今日でも成功したと言われる人々に見られるVision,Mission,Passion,Actionがあったのです。しかし、それらよりも素晴らしいことは彼らの信仰です。彼らはユダヤ人の王としてお生まれるになる方こそ、救い主であり、王の王であると信じていました。その信仰は彼らが幼子イエス様を見、ひれ伏して拝んだことと、彼らがささげた贈り物によく現われています。博士たちはヘロデ王を拝みませんでした。幼子イエス様の御前にひれ伏して拝みました。彼らは飼い葉おけであっても宮殿に来たように振るまい、最も栄光ある王に対するように、謙遜の限りを尽くして、幼子を拝んだのです。この行動はイエス様が真に王の王であると告白したことであり、王に対する服従を誓ったことです。彼らはこれから王であるイエス様に従って生きることを決断したのです。そして黄金、乳香、もつ薬の贈り物を捧げました。黄金は変わらない信仰のシンボルです。黄金は古代の世界において最高の指導者や大切な人に自分の忠誠心を誓うときに捧げられました。ですから彼らが黄金を捧げられたのはイエス・キリストこそ、最高の指導者であり、絶対的な権威を持つ王であると認めたことです。つまり、この黄金は、王の王であるイエス・キリストに対する変わらない忠実な信仰を意味するのです。
乳香は、神様のところに立ち上る祈りのシンボルです。乳香はアラビア地方で取れる香ばしい松脂(まつやに)で神殿祭儀や捧げ物としてよく用いられる高価な香料です。そして、黙示録5章8節によると香の壇から神様に捧げられる香とは聖徒たちの祈りであると記されています。ですから、乳香は、暗闇の中にあっても常に目を覚まし、祈ることによって、夜を照らす光として到来するイエス・キリストを迎え入れようとする贈り物です。特に世の終わりを生きる聖徒たちにとって祈りは神様が非常に喜ばれる贈り物です。私たちは祈りによって博士たちがささげた高価な乳香を神様にささげることになります。ルカ21:36節を見ると「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」とあります。
没薬は死に対する備えのシンボルです。没薬はおもに防腐剤として使用されます。最も身分の高い人や大切な人の死体にのみ塗る大変高価なものです。ですから没薬はイエス・キリストを最も身分の高い王であることを認め、イエス様の受難と死に対する備えの贈り物でもあります。イエス様は罪人に赦しを与え、神様と人の和解と平和のために来られましたが、そのために人間のすべての不幸と苦しみを受け、ついに自分の命を捨てられました。まさに、イエス様はこの十字架の死のためにお生まれになったお方です。イエス様は私の罪の為に十字架の苦しみを受けて下さいました。博士たちが捧げた没薬は、救い主の誕生を祝うと同時にイエスの犠牲の苦しみ、十字架の死に備える為の行動でもあったのです。

結局、三つの贈り物は、イエス様が変わることなく、私たちを治める王の王であり、祈る祭司であり、また私たちの罪の犠牲となって死なれる贖い主であることを示しているのです。東方の博士たちは外国人として幼子イエス様について詳しい知識はあまりなかったと思われますが、イエス様を王として、それにふさわしい仕方で礼拝したま。では私たちはイエス様こそ王の王であると信じてそれにふさわしく礼拝しているでしょうか。イエス様に最大の愛、最高の敬意をあらわし、最も良いものをささげているでしょうか。どうか、2006年クリスマスを迎えて「主の主、王の王」であるイエス様に対する信仰を新たにしましょう。何をしても王の王であるイエス様の主権を認め、イエス様に治められることは大切です。日々私たちが王の王であるイエス様に治められると、東方の博士たちのように賢い人生を生きることができます。夜中歩いてみると、天気が晴れて星が見える時、星が全く見えない時は全く違います。私は軍隊で訓練を受ける時、とても苦しい夜を過ごしたことがあります。悪天候のために星も、月も見えないと先頭に立って行く隊長が間違った道に導いてしまったのです。1時間だけで駐屯地に着くはず距離だったのに、雪がひざの高さほどに積もっている道を一晩中歩き回った時の虚脱感、体の疲れは言い尽くせないほどでした。その時、ただ一個の星でも見えれば方向が分かるのに・・・と何度も何度も思いました。ところが、王の王であり、100%信頼できるお方であるイエス様は常に私たちを照らし、安心して生きることが出来るようにしてくださいます。私たちが変わらない信仰を持って祈る生活をするなら、神様は聖霊と御言葉の星を通して私たちが歩むべき道を示し、完全な神の御国まで導いてくださるのです。そのために、イエス様はクリスマスにお生まれになりました。私たちを罪から救って治め、天の御国まで導きいれるために王の王としてお生まれになったイエス様を心から賛美します。そして、私たちが東方の博士たちのように王の王であるお方にふさわしく礼拝する人となりますように祈ります。さらに、王の王であるイエス様が完全に支配する神の国に対するビジョンと情熱を持って福音を知らせる使命を果たすことが出来るように祈ります。