2006年新学期準備の御言葉

失われた人を捜して救うために来られたイエス様

御言葉:ルカの福音書19:1-10
要 節:ルカの福音書19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

 みなさん、失われたものを見つけた時の喜びが経験したことがあるでしょうか。
先月、私は家族の永住権のために24日までパスポートを持って入管に来てくださいという葉書をもらいました。そこで、私たちは20日入管に行くことにして19日の夜、家族5人のパスポートを捜しました。ところが、長男のパスポートを失っていました。捜しても、捜しても見つからなかったので、20日に行くこともできませんでした。ところが、22日の昼、めったに職場には電話をしないマリヤ宣教師から電話がありました。ただ、「見つかったよ。」と言われました。私は仕事に夢中だったから「何を見つかったと言うのよ。」と言い返しました。すると、彼女は「あまりにも感激したのであなたにも知らせたくて・・・」と言いました。彼女は失われたものを見つかった大きな喜びのゆえに夫に知らせずにはいられなかったのです。たった一枚のパスポートでも失われたものを捜して、探して見つかった時の喜びはそれほど大きいものでしょう。
ましてはずっと失われていた私ひとりを捜して、捜して見つかった時、神様はどんなに喜んだでしょうか。イエス様は失われた人を捜して救うために来られました。失われた私ひとりを捜して救うために栄光の天から汚れているこの地まで下りてきてくださいました。失われていた私たちを捜して救うために来られたイエス様は私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださいました。そして死者の中からよみがえられました。よみがえられたイエス様は、今日も聖霊の働きによって失われた人を捜して救うために歩き回っておられます。
今から2000年前もイエス様は失われたザアカイひとりを捜して救うためにエリコにはいって、町をお通りになりました。そして、ザアカイはイエス様に見つけられて救われ、新しい人生を生きるようになりました。失われた者、捨てられた者の人生、罪人の人生ではなく、神様に見つけられた宝としての人生、非常に高価で尊い人生、聖なる国民としての人生を生きるようになったのです。
この時間、新学期を迎える私たちも再び失われていた私たちを捜して救うために来られたイエス様に出会うことができるように祈ります。イエス様によって見つけられた宝として、神様に尊ばれている者としての自分を発見しましょう。そして失われた若者たちを捜して救うために来られたイエス様のみわざに用いられるように祈ります。

1節をご覧ください。「それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。」とあります。エリコはなつめやしの町として知られていました(申命記34:3)。この町は経済的には貿易の中心地であって取税人としてはユダヤの中で一番良い勤務地でした。
 2節をご覧ください。そこに、ザアカイという人がいました。彼は取税人のかしらで、金持ちでした。当時の取税人は人々から嫌われていました。植民地のイスラエル人は、ローマのために税金を集める取税人を憎んでいたからです。でも金儲けのためにはいい仕事でした。だから、ザアカイは一生懸命に勉強して税理士試験に合格し、金持ちの町エリコで取税人の仕事をはじめたでしょう。やってみると、やはり金儲けのためにいい仕事でした。彼は熱心に働いて取税人のかしらとなり、金持ちになりました。しかし、人々から認められることも、尊敬されることない仕事を続けることはやさしくなかったようです。人はお金だけで満足できるものではないからです。人間にはアダムの子孫として肉の欲に従う弱さを持っていますが、同時に神の形に似せて作られた者として善を行ないたいという思いもあります。ザアカイは、かしらになるまでの長い人生の中で、やっと自分の人生の方向が間違っていたことに気づきました。皆に嫌われる取税人になるべきではなかったこと、お金が人生の全部ではないことが分かりました。そのような時、彼はイエス様が自分の町エリコを通られると言うことを聞きました。すると、彼はどうしましたか。
3a節をご覧ください。「彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、」とあります。彼はイエス様がどんな方か見ようとしました。でも、見えませんでした。背伸びしてみようとしたでしょうが、それでも見えませんでした。すると、いきなり背を伸ばすこともできないから絶望せざるを得ませんでした。しかし、彼はあきらめませんでした。どうしてもイエス様を見ようとする熱望を押さえることができませんでした。そこで、彼は取税人のかしらとしての地位を捨てました。となりにイチジク桑の木が見えると、彼はどうしましたか。
 4節をご一緒に読んでみましょう。「それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。」おもしろい光景ですね。ザアカイは、取税人のかしらで金持ちだからある程度年も取っているし、お腹もかなり出ていたと思いますが、木登りをしたのです。イエス様をぜひとも見たいという熱望から、無邪気にも木に登りました。ここに、子どものようになっている大人の姿が見えます。ほんとうに謙遜な姿です。
私たちは謙遜になった時、イエス様に出会うことができます。すべての恵みは謙遜な人に与えられます。謙遜になった人に神様の祝福が注がれます。家でも家族が謙遜になると、会話ができるし、幸せの門が開かれます。教会も謙遜になると、天国の窓を開いて注がれる神様の祝福をいただくことができます。ザアカイはお金も権力もあるから心を低くすることがあまりありませんでした。実は、神様の御前でも誇れるものは何もないのに虚しい高慢のために愚かな人生を生きていたのです。しかし、彼は悔い改めました。自尊心も、メンツも捨てました。謙遜にイエス様を受け入れることにしたのです。それで彼はイエス様を見るために、前方に走り出て、イチジク桑の木に登りました。すると、ちょうどイエス様がそこを通り過ぎようとしておられました。謙遜になると、すぐそこにイエス様がおられたのです。そうです。謙遜になった心に、イエス様は訪れてくださいます。そして、イエス様は私たちの悩みも、苦しみも担ってくださいます。私たちの身代わりにあらゆる罪と咎を担ってくださいます。ですから、イエス様と出会いによって私たちの悩みも苦しみも消え去ります。罪と咎は赦されます。そこにほんとうの喜びがあります。このような祝福を「霊的な祝福」と言います。この素晴らしい霊的祝福によってたましいが幸いを得ます。すると、すべての点でも幸いを得、健康であるようになります。インマヌエル、イエス様によって何をしても栄えるようになるのです。
人間の悲劇は背が低いところにあるのではなく、自分の背が高いと思っている高慢から始まります。私たちは人々の目で自分を判断しやすいです。お金、地位、権威、人気などによって自分の背が高いと思います。ある程度の収入があり、地位を持つようになると、自分は富んでいる、豊かになっていると思います。特に、クリスチャンはノンクリスチャンと比べて、自分は道徳的に、霊的に生活していると言うプライドを持ちます。ところが、そのように思ってしまう高慢こそ、人間の悲劇の始まりであるのです。「自分はある程度やっている、会社でも、教会でも他の人よりはよくやっている、自分は優しい人でまじめな人であると思う者こそ、神様の御目には卑しいものです。おそらく、その人は、人々との深い交わりができていないはずです。心には感謝も、喜びもありません。
ザアカイは「かしら」であり、「金持ち」であったから、別の言葉で言えば地位と財産を持っていました。背が低くても高い地位を持っていました。少なくともこの世的には幸せな生活を営みうる環境の中にいたのです。しかし、彼はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者でありました。人々との交わりを断たれ、冷たい視線の中に身をおくザアカイは孤独であり、不満でありました。この間、ヨハネの黙示録で学んだのですが、3:17節を見ると「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」とあります。人々はこのことをよく知らないから高慢になります。しかし、ザアカイは子どものようにイチジクくわの木に登るほど謙遜な人になりました。自尊心も、メンツも捨てて、ただイエス様を一目でも見ようとしました。そして、彼はお金や地位に頼らず、自ら木に登りました。彼は静かに、謙遜にイチジク桑の木に登って、自分より背の高い人たちの上からイエス様を見たのです。
すると、どんなことが起こりましたか。
5節をご覧ください。「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」」とあります。イエス様は『ザアカイ。急いで降りてきなさい』と呼んでくださいました。彼の名前を呼んでくださいました。ザアカイはイエス様を見るために木に登ったのですが、実はイエス様が彼の名前を知っておられたのです。と言うのは、ザアカイが初めてイエス様を見たとしても、イエス様は彼のことを知っておられたということです。イエス様は取税人として経験する彼の寂しさ、彼の苦しみ、彼らの悲しみを知っておられました。一生懸命に勉強して税務会計士試験に合格し、税務署では一生懸命に働いて取税人のかしらになっても遊女や泥棒のような罪人として嫌われている彼の孤独も、イエス様は知っておられました。そして、彼と人格的に交わるために『ザアカイ』と呼んでくださいました。このイエス様の御声には謙遜にイエス様を求める人に対する深い関心と愛情が含まれています。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。』というのは、失われている者を捜しておられる良き牧者イエス・キリストの御声だったのです。
イエス様は彼を呼ばれることだけではなく、彼と交わることもすでに計画しておられました。おそらく、イエス様がご覧になると、ザアカイにとって一番大きな問題は人々との交わりであったようです。イエス様はその問題を助けるために彼の家に泊まって彼と人格的に交わろうとされました。自分のことばかり考えて取税人になった彼には、心を開いて話し合える友達もいなかったでしょう。その時の寂しさはどんなに大きかったでしょうか。人は社会的な動物ですから、付き合いができなければほんとうに寂しくなるものです。イエス様はその心を理解し、彼の家に泊まることにしました。また、彼の家族も救うために、彼の家に泊まることにしてありました。9節を見るとイエス様は「きょう、救いがこの家に来ました。」と言われました。救いはただひとりザアカイのみではなく、彼の家族にも及ぶのです。使徒16:31を見ると「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」とあります。
イエス様は今日も、私と私の家族を救うために私のたちの家にも泊まることを願っておられます。私たちの友となって交わることを願っておられます。友となって共に食べ、共に飲むことを願っておられます。黙示録3章20節をご覧ください。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」とあります。では、イエス様に呼ばれたザアカイはどのように反応しましたか。
6節をご一緒に読んでみましょう。「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」ザアカイは感激したあまり急いで降りてきました。そして、大喜びでイエス様を迎えました。ほんとうに素晴らしい光景です。ザアカイにとって忘れられない瞬間でした。ザアカイは踊りながら自分の家に案内したのではないでしょうか。
7節をご覧ください。「これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。」とあります。イエス様は罪人を救うためにザアカイに案内されて行きましたが、人々はそれを理解することができませんでした。彼らは自分なりのまなざしでイエス様を非難し、つぶやきました。今でも一般的には「罪人と付き合ってはならない。悪い人と付き合ってはならない。不審な人に注意しなさい」と言われました。罪人に対する人々の視線は冷たいものです。ですから、人々は尊敬するイエス様が罪人のところに行って客となられることを許したくありませんでした。取税人のような人には何も良いことはないから、そんな人と付き合ってはならないと思うのです。ですから、人が一度いじめられると、なかなかそこから解放されることができません。人々は一度悪い人、罪人、弱虫、利己主義者というようなレッタルが付けてしまうと、ずっとその先入観で見るからです。反省しても、悔い改めても悪い人は悪い人です。なかなか人の心や習慣が変わらないことも事実です。しかし、イエス様に出会った人は違います。ほんとうにイエス様に出会ったなら、その人は変わります。キリストとの出会いは人を変えます。人格的にイエス様に出会った人は変わるのです。ザアカイも変わりました。イエス様に出会った彼の価値観は完全に変わりました。
 8節をご覧ください。「ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」とあります。これは御言葉に従って生きる人生を決断したことです。モーセの律法によると、そのかすめた品や、強迫してゆすりとった物に対しては元のものを償い、またこれに五分の一を加えなければなりませんでした。(レビ6:1?7)。また、盗んだものが無くなった場合は4倍で償わなければなりません。もし盗んだ物が、牛でも、ろばでも、羊でも、生きたままで彼の手の中にあるのが確かに見つかったなら、それを二倍にして償わなければなりません(出22:1?4)。ところが、ザアカイは四倍にして返すと言いました。これはただ大げさに言ったことではありません。キリストに出会って救われ、変えられた恵みがあまりにも大きくて最高の償いを約束したのです。
人は霊的に生まれ変わり、恵みを受けると物質に対する価値観も変わります。お金しか知らないと言われるけちな人が喜んで神様のためにささげ、人々に施す人生を生きるようになります。使徒の働き2:44?47節を見ると「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」とあります。この生活は恵みを受けた結果です。
私たちクリスチャンは祝福された人たちです。実際に、神様は私たちを祝福してくださいます。ピリピ4:19を見ると「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」とあります。ですから、イエス・キリストに出会った人、イエス様から恵みを受けている人は、余裕を持って人を助けることができるようになります。
ある人は数多いメッセージを聞いて「素晴らしかった。ほんとうに恵みを受けました。」と言います。また、有名なメッセンジャーのメッセージを聞くために、大阪や福岡まで行って来たことを誇る人もいます。それによって病が癒され、新しい人生を生きるようになったら素晴らしいことです。しかし、生活においてザアカイのような変化がなければ、意味がないのではないでしょう。メッセージを聞いて涙を流したとしても、価値観が変わらず、生活に変化がなければ、ほんとうの意味では「恵みを受けた」と言えないことでしょう。
ところが、ザアカイは自分の財産の半分も貧しい人たちに施すと決断しました。また、「だれからでも、だまし取った物は、四倍にして返します。」と言いました。ほんとうに素晴らしいことです。彼は神様の御前で悔い改め、悔い改めにふさわしい実を結ぶために決断したのです。イエス様はその決断を祝福してくださいます。
9節をご覧ください。イエス様は悔い改めたザアカイに言われました。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」イエス様はザアカイの家に救いを宣言されました。キリストに出会って悔い改め、悔い改めにふさわしい決断をした人に救いがありました。神様は悔い改めにふさわしく決断するその決断を祝福してくださることが分かります。ザアカイはアブラハムの子孫でありながらもその資格を失われていたのに、それを回復することができました。彼がアブラハムの子孫であるユダヤ人を遠ざけて取税人なった時は人々に悲しみを与える不幸の源になってしまいました。彼はユダヤ人から仲間はずれになって孤独な道を歩んでいかなければなりませんでした。失われている一匹の羊に過ぎませんでした。しかし、イエス様が彼を捜して救ってくださると、失われていたアブラハムの子孫としての資格を回復することができました。再び、彼は祝福の根源となりました。自分の財産を持って施し、人々を祝福する人生になったのです。イエス様は失われていた彼を捜して救い、アブラハムの子孫として祝福された人生を生きるようにしてくださったのです。実は、イエス様はこのみわざのためにこの地に来られました。失われた人々を捜して救うために来られたのです。
10節をご一緒に読んでみましょう。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」イエス様がこの世界に来られた目的は「失われた人を捜して救う」ことです。「失われたもの」とは、何でしょうか。あるものが本来あるべきところから逸脱して誤った場所にあるとき、「それは失われている」と言われます。したがって失われたものは、本来あるべき位置に戻さなければなりません。そして、それができたときは大喜びがあります。私はパスポート一つでも失われた物を見出した時の喜びは大きいことを話しました。とすれば、失われた私を見出された時、天の神様の喜びはどんなに大きかったでしょうか。私は神様から離れて自分勝手な道に歩んでいました。安逸と情欲の道を歩み、病気のために行き詰っていました。この負け組のひとりとして、劣等感と運命主義にさいなまれて自虐しながら滅び行くものでした。取税人のように自分のことばかり考えながら惨めな人生を生きていました。イエス様はそんな私を捜して救ってくださいました。神様の子どもに戻してくださいました。そしてこんな罪人でも神様は私の救いを大いに喜んでくださいました。そして今は自分だけではなく、日本と世界宣教のために働く者にしてくださいました。神様に心から感謝します。
でも、この恵みは私だけではないでしょう。言うまでもなく、皆さん一人ひとりが救われた時も、天国では大喜びの祭りが開かれたはずです。神様から離れていた時、私たち人間は失われた存在です。そして、神様のもとに立ち戻り、本来のあるべき場に戻るなら、その人は失われていたのに、見出されたといわれるのです。イエス様はその救いのみわざのためにこの地に来られました。ですから、イエス様はつねに失われたものに深い関心を寄せておられました。15:6節を見ると、イエス様は迷える一匹の羊を発見したことに対して」友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。」言っておられます。また15:32を見ると、失われていた放蕩息子が帰って来たとき、「だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」と言っています。父親の喜びが満ち溢れたことばです。父なる神様は失われた者を捜して救うためにイエス様をこの地に使わしてくださいました。ですから、イエス様の使命は失われた者を捜して救うことでした。イエス様はこの救いのみわざのために十字架の苦しみを受けられました。十字架にかかられて「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈ってくださいました。そして、神様は、このイエス・キリストの十字架によって失われていた者たちを救ってくださいます。そして、ひとりひとりが見出されて救われる時は、大喜びで喜んでくださいます。

以上で、失われた人を捜して救うために来られたイエス様を学びました。新学期を迎える私たちがもう一度、自分を捜して救ってくださったイエス様の恵みを覚えて感謝しましょう。また、イエス様は今日も私たちと交わるために、私の家に泊まることにしておられるイエス様に出会いましょう。そして、私たちも失われている者を捜して救うために来られたイエス様の使命を担って行きましょう。4月になると、多くの新入生が私たちのぶどう園であるキャンパスに入ってきます。ところが、99%の人はまだ失われた者です。どうか、彼らを捜して救うみわざに私たちが貴く用いられるように祈ります。