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BibleMsg > ルカの福音書 > 04-38 あなたのうちの光

04-38 あなたのうちの光

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/24 (2263 回閲覧)
2004年ルカの福音書38講

あなたのうちの光

御言葉:ルカ11:29-54
要 節:ルカ11:35

 先週、私たちは悪霊、それも口をきけなくする悪霊を追い出しておられたイエス様について学びました。悪霊追放を見た群衆は驚きました。でも、彼の中にはイエス様を悪霊の同族のように言う者がいました。それに対してイエス様は言われました。「わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」と。そうです。悪霊追放は神の指、神の力によるみわざでした。私たちがサタンの支配から救われて聖なる国民となったのは神の指によるみわざです。どうか、神の指によって私たちが1:1聖書先生として働き、日本が祭司の王国、聖なる国民となるみわざに用いられるように祈ります。
 今日の御言葉はイエス様がしるしを求めている人々に話されたことです。私たちはしるしを求める代わりに知恵を求め、神様の御言葉の前で悔い改めなければなりません。その時、私たちは神様の子どもとして霊的な目が明るくなり、霊的な洞察力を持つようになります。また、イエス様はパリサイ人と律法の専門家たちの問題についても話されました。彼らは霊的な指導者として呼ばれていましたが、霊的な盲人であり、偽善者でありました。イエス様は彼らに「忌まわしい者だ」と叱っての、高慢と偽善を悔い改めるように促されました。
この時間、聖霊が私たちに働いてくださり、私たちにある高慢と偽善的な要素を悔い改めさせてうちの光を輝き出す者へと導いてくださるように祈ります。

?.悔い改め、知恵を求めるように助けてくださるイエス様(29-32)

 29節をご覧ください。「さて、群衆の数がふえて来ると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」とあります。イエス様は「この時代は悪い時代です」と言っています。これはいろいろな社会的、道徳的な悪ということもあると思います。しかし、何よりも神様に対する不信仰を言っています。しるしを求めている不信仰です。
 イエス様は当時、神の国の福音を宣べ伝えました。多くのしるしも行なわれました。するとイエス様に従って来る群衆の数も増えてきました。ところが、多くの人々が、まだイエス様の御言葉を素直に受け入れて信じることができませんでした。人々は悪霊追放のような奇蹟を見ても信じず、イエス様に、もっと大きなしるしを求めました。エリヤが天から火を降らせたようなしるし(?列王記18:38)を見せてほしいと求めていたのです。そんな彼らにイエス様はヨナの説教を聞いて悔い改めたニネベの人々、ソロモンの知恵を聞くために遠いところがやって来た南の女王のこと(?歴代誌9:1)を話されました。
ヨナというのは、ご存じのように、旧約のヨナ書に出て来る預言者です。彼に主の言葉がありました。ヨナ書1:2節を見ると「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」とあります。しかし、ヨナは最初、主の御顔を避けて別の方に逃げました。ヨナは神様に逆らったのです。それにもかかわらず、哀れみ深い主は彼を見捨てることなく、三日三晩、魚の腹の中に入れて悔い改めに導きました。それで、ヨナは、主のことばのとおりに実際にニネベに行って神の言葉を伝えました。すると、驚くべきみわざが起りました。町中の人々が皆信じて、悔い改めました。ニネベの人々が何か具体的な裁きのしるしを見たからではありません。ただヨナの説教を聞いて信じ、悔い改めたのです。滅びるべき民は、本当に幸いな人に変わりました。28節でイエス様は「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」と言われましたが、そのとおりだったのです。本当に幸いな人、恵まれた人、本当に祝福された人の姿がそこにありました。ニネベの人々は、邪悪な人々であったにもかかわらず、ヨナの言葉を神の言葉と信じたのです。そして信じただけでなく、自分達の在り方を反省して、悔い改めたのです。これが「ヨナのしるし」です。
また、もう一人の人が引き合いに出されています。これも旧約聖書の有名な話しです。31節をご覧ください。「南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、彼らを罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。」とあります。
この「南の女王」というのは、シェバの女王のことです(?歴代誌9:1-12)。シェバというのは、アラビア半島の南の地方です。だから、この女王はソロモンの知恵が素晴らしいのを聞いて、シェバからはるばるイスラエルまだ訪ねて来たのです。しかも彼女は、多くの贈り物を携えてやって来ました。そして、彼女は心にあるすべてのことをソロモンに質問しました。ソロモンは、彼女のすべての質問を説き明かしました。ソロモンが分からなくて、彼女に説き明かせなかったことは何一つありませんでした。そこで、彼女はソロモンの神様、生ける神様の存在を賛美せざるを得なくなりました。彼女の知恵への熱望は彼女がソロモンを通して神様に出会うようにしたのです。
そしてキリストは、ソロモンよりもはるかに優る方です。イエス様はすべての知恵を造られた神様です。しかし、人々は神様の知恵に興味を持ちませんでした。彼らはしるしばかりを求めていました。彼らは刺激的なスポーツを見たり、ゲームをしたりするために宿題をやらない学生たちのようでした。本質的なことを後回しにしていました。彼らは真理に対する聖なる欲望も知恵への熱望もなく、肉の欲望と堕落された人間の本性に従っていました。結局、彼らは今を楽しませてくれること、刺激的なしるしだけを求め、知恵を求めなかったのです。彼らに今の楽しみ、自分たちを刺激してくれるものがなかった時、彼らはイエス様に要求することばかりになりました。イエス様がなさることに対しても批判的になってしまいました。イエス様はそんな彼らに「南の女王が、さばきのときに、彼らを罪に定める」と警告されました。彼女が彼らを罪に定めるのは、彼女にさばく権威があるからではなく、彼女の学ぶ心(learning mind)、真理への熱情が知恵を求める者の良い模範となったからです。
何よりも、知恵を求める者の最も素晴らしい模範はイエス様ご自身です。イエス様が十二歳になられた時のことです。イエス様は宮で教師たちの真中にすわって、話を聞いたり、質問したりしておられました。イエス様は12歳の時にエルサレムの学者たちと肩を並べるほどに御言葉を学ぶことへの熱心があったのです。このように学ぶ心、御言葉への熱望があった時、少年イエス様はますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神様と人とに愛されました(2:52)。
神様は人間に学ぶ心と知恵を求める心を与えてくださいました。神様は私たち人間の知恵がますます進み、能力も成長するように造られたのです。ですから、私たちがシェバの女王のように知恵を求め、イエス様のように熱心に御言葉を学ぶなら私たちもますます知恵が進み、霊的に成長していきます。
今の時代もイエス様がご覧になると「この時代は悪い時代です。」と言わざるを得ないと思います。新聞の社会面を賑わす色々な問題を見ますと、やはり「この時代は暗く悪い時代です」という印象をもちます。この時代が悪いのは、社会的な面もありますが、その原因は真理を求めないでしるしを求める所にあると思います。何か刺激的なことを求めるのです。それで、マインド・コントロールによって人を集める集団が増えています。人々はマインド・コントロールによって変化されていく自分の姿を通してしるしを体験したと思い込んでしまいます。先週、オウム真理教の麻原に死刑判決が下されましたが、しるしだけを強調する集団がいかに恐ろしい結果をもたらすのかを見せてくれたのではないでしょうか。
もちろん、私たちクリスチャンもイエス様を通してしるしを経験することがあります。病が癒されたり、足なえが歩くようになったりします。ガンが癒された証も聞きます。イエス様の初期活動を見ると、未信者や信仰の弱い人たちのためにしるしを見せてくださいました。しかし、イエス様は私たちがニネベの人々のように御言葉を聞いて素直に悔い改めることを願っておられます。シェバの女王のように真理の御言葉を慕い求める心を願っておられます。
私達は、この聖書の証言を、そのまま受け入れたいと思います。特に御言葉を読み、学ぶ時、習慣的に、知識的にするのではなく、一言の御言葉が心の中に入るまで闘争することです。神様は私たちが神様の御言葉を勉強する時ごとに、メッセージを聞く時ごとに知識を増やことより、謙遜に悔い改める生活に励むのです。知恵を求め、知恵を得るために投資することです。悔い改めることは辛く思われる時もありますが、悔い改めるときに人は成長します。私たちが御言葉を聞いて悔い改めることは神様の御言葉に対する基本的な態度です。

?.あなたのうちの光を輝き出しなさい(33-36)
33節を読んでみましょう。「だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。」
これはだれにでも分かるごく単純な譬えです。「あかり」というのは、当時の人があかりにしていた油にひたした「ともし火」です。新共同訳聖書では、「ともし火」と訳されています。夜になって、ともし火に火をともしたならば、それはだれでも部屋の中が明るくなるように、一番目立つ所に置きます。せっかくの火を穴倉や枡の下に置く人はいません。そういうことをすれば、せっかくの光りも役に立ちません。これはだれにでもよく分かる話しです。ここで言われているあかりとは一体何でしょうか。
 それは、キリストであり、キリストが私達に与えて下さった福音です。聖書において、キリストはしばしば、光として言われています。例えばヨハネの福音書1章9節では、「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」と言われていますが、これはもちろんキリストのことです。ザカリヤはイエス様を暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く「日の出」として呼びました。イエス様の光が私たちの内側を照らしています。それで、私たちは光のうちに歩み、神様と神様の民との明るい交わりができます。私たちは神様がこの国で働かれ、自分の職場や家で働いておられることを見ることができます。
 家の中ではともし火を一番中心に置くべきですが、そのように私達の生活においても一番中心は、まことの光なるキリストの福音です。せっかく与えられたキリストの福音も、分からない所、目立たない所に隠してしまっては何にもなりません。キリストの福音によってすべてのものを照らす必要があります。私たちは心を暗くする問題が起ると、人間的な方法より、実は聖書を深く読みながら御言葉の光に照らしてみなければなりません。なぜなら、キリストの福音、御言葉によって、光が与えられるからです。光から力が与えられ、勇気が与えられ、恵みが与えられます。
 34節をご覧下さい。「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。」この御言葉の意味は何でしょうか。一般的に考えると、「心のあかりは目です。清い心の人は目が輝いている」というでしょう。また「心が健全ならあなたの全身も明るい」というのではないでしょうか。どころが、イエス様は「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。」と言われました。これは私たちの目の焦点を指していると思います。「どのような見方で見るか」ですね。曲がった目で見るのではなく、健全な考え方を持ってみるなら、全身も明るいです。しかし、目の焦点が曲がっていると、からだも暗くなります。ですから、私たちは心から正しく見ることが大切です。内側から輝き出す光が大切なのです。
35節をご一緒に読んでみましょう。「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」この「うちの光」が私達にとって、最も大切なものです。
 私達は、この世で生きる時、実にさまざまな光りに照らされて生きています。そして、実にさまざまな光があるために、最も大切な「うちの光」を隠してしまい勝ちなのです。そして別の光を照らして物事を見てしまいます。しかし私達があらゆる生活において、最も全面に出すべき光りは、キリストの福音の光りではないでしょうか。この光を照らすことによって、あらゆる物事を見、判断すべきではないでしょうか。私達は、物を見る時、それは光りによって非常に影響されます。それゆえ、私達の生活にとって照明は、非常に重要です。この間、結婚式の時、室内をもっと明るくするために電球を入れ替えしました。 
白い物であっても、赤い光を当てれば、赤く見えます。緑の光を当てれば、緑に見えます。また、弱い光りであれば、はっきり見ることができません。太陽のような強い光りに照らされば、それが白い物だとはっきり分かります。
 私達は、いろいろな事にであって、判断をする場合、実はそれにいろいろな光を当てて判断をしているのです。どの光を当てるかによって、私達の価値観が違ってきます。私達は、人生の歩みにおいていろいろな場面に遭遇して、その時々、いろいろな光を当ててそれを判断し、歩んでいると思います。その時に重要なのは、その時々に正しい光を当てて、正しい判断をしているか、ということです。私達にとって、正しい光りとは、勿論福音の光りです。
 私達は、キリストから、この福音の光をいただいているのですから、私達の人生の時々に、この真の光りを当てていかねばならないと思います。
せっかく真の光を与えられても、それを隠してしまったら、何にもなりません。人生の歩みにおいて、福音の光を掲げて歩みましょう。パウロは、ローマの教会の人たちに、「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(1:16)
と言っていますが、ローマの教会の人達の中には、福音を恥とする人たちがいたようです。彼らは、せっかく与えられた福音の光りを、穴倉の中や枡の下に隠していたのです。しかし、福音の光こそ、神の力です。このことを確信し、うちの光が明るく輝き出す生活ができるように祈ります。

 ?.宗教指導者たちに悔い改めを促されたイエス様(37-54)

イエス様が話し終えられると、ひとりのパリサイ人が、食事をいっしょにしてください、とお願いしました。そこでイエスは家にはいって、食卓に着かれました。食事好きのイエス様の姿見えます。福音書を読んでみると、イエス様は人に招かれると、断ることがないですね。イエス様は家に入ったらまっすぐに食卓に座って食べ始められました。それを見たパリサイ人は、イエス様が食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て、驚きました。すると、主は言われました。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。だが、忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがたは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛とはなおざりにしています。これこそ、実行しなければならない事がらです。ただし他のほうも、なおざりにしてはいけません。忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがたは、会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。忌まわしいことだ。あなたがたは、人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」
 ここで、パリサイ人の問題について具体的な指摘をしておられます。それは、外面や形式を整えるが、そこには真心がない、ということです。イエス様を食事に招待したのも、あるいはイエスを真心からもてなそうとしたのではなく、そうすることによって、当時多くの人に支持されていた方を丁重に扱っているということを人に見せたかったからかも知れません。
イエス様がここで言わんとしていることは、勿論外面や形式を整えることではなく、大切なのは、内面であり、真心である、ということです。手を洗うという外面的なことが重要なのではなく、イエス様との関係、イエス様の言葉に心から耳を傾け、イエス様に真心から接するという内面的なことが重要なのです。これは、35節にある「うちの光」とも関連のあることです。
 私達も常に、イエス様の福音に照らされ、またイエスの福音に真心から従っていくことこそうちの光を輝かすことでしょう。日々の歩みが建前で歩む者ではなく、真実にうちの光を輝き出す者でありたいと思います。
 45-54節はイエス様が律法の専門家たちに言われた御言葉です。彼らは律法の文字にこだわって儀式を強制に行なわせ、律法の解釈にいろいろな細目を設けて人々に重荷を負わせるだけで、それを行なうためのなんの助けも与えませんでした。また、昔の預言者を尊敬するかのようにその墓に石碑を建てますが、今預言者中最大の預言者キリストを拒み、殺そうとしていました。また、彼らは知識のかぎを持ち去り、自分もはいらず、はいろうとする人々をも妨げました。このカギは知識の門を開くカギのことです。信仰という恵みによって人間は神様の救いに入れるのに、律法の専門家はそれを彼らから取り上げ、代わりに善行によって救いに入れるという誤った教えを確立してしまったのです。
これらのことは、どれも何も二千年前の宗教指導者たちだけに言われたことではありません。イエス様は今も高慢な人、たてまえと本音が違う偽善者たちに憤っておられます。「忌まわしい者だ」といっておられます。神様の恵みを素直に受け入れよとせず、ひたすら自分の良い行いを持って自ら正しいとする人々にイエス様が激しく憤っておられるのです。特にリーダーとして仕えている私に言われている御言葉です。私は今年の副要節はイザヤ50:4です。「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」です。疲れた者をことばで励ますことができるように祈っています。ところが、皆さんが主日礼拝に来て疲れが癒され、励まされるどころか、むしろ重荷を負っていくようなことばあるならば、それは私の責任です。私が神様の御前で真実に悔い改め、重荷を負わせる牧者ではなく、疲れた者をことばで励ますことができるように祈ります。イエス様から「忌まわしい者だ」と憤られることがないようにただ聖霊に頼って主からいただいたリーダーの務めを担っていくことができるように祈ります。

結論的に、イエス様は私たちがしるしを求めるより、鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、知恵を慕い求め、御言葉を聞いて悔い改めることを願っておられます。私たちのうちに与えられたキリストの福音、神様の御言葉が内側から輝き出すことを願っておられます。たてまえと本音が違う生活ではなく、真実に生きること、信仰によって生きることです。どうか、私たちが半地下に小さな教会に通っていてもうちの光が輝いている者でありますように祈ります。

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