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BibleMsg > ルカの福音書 > 04-35 私の隣人とは誰か

04-35 私の隣人とは誰か

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/24 (2870 回閲覧)
2004年ルカの福音書第35講
だれが隣人になったか
御言葉:ルカの福音書10:25-42
要 節:ルカの福音書10:37「彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」」

先週、私たちは収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさいと言われたイエス様の御言葉を学びました。どうか、主が私たちを働き手として用いてくださるように祈ります。また、実りが多いこの国に多くの働き手を送ってくださるように祈ります。
今日の御言葉は有名な良きサマリヤ人のたとえ話について学びます。ここで私たちは永遠のいのちを得る道、だれが隣人になるのかを学ぶことができます。私は日本に来て始めに感じたことの一つは良きサマリヤ人のような人たちが多くいることでした。恥ずかしいことですが、私は学生の時、アルバイト先でだまされて三ヶ月間の給料をもらえなかったことがありました。ところが、日本に二日目から印刷工場でアルバイトしましたが、人々は日本語ができない私を親切に助けてくださいました。契約もしなかった自給以上にポーナスもくれました。良きサマリヤ人のことがよく思い出されました。ではイエス様が良きサマリヤ人のたとえを通して私たちに教えてくださることは何でしょうか。

?.それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます(25-28)
 先週の御言葉を通して学んだように、イエス様が遣わされた70人の弟子たちは喜んで帰って来てイエス様に報告しました。そこで、イエス様は聖霊によって喜びにあふれて言われました。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」とあります。昔の王も預言者たちも到達できなかったメシヤの働きが弟子たちを通して起こっているのだといって賞賛しました。
すると、自分は賢い者、知恵のある者だと思っていた律法の専門家は不愉快に思いました。自分の目から見ると、子どものような弟子たちが認められ、賞賛されることが気に入らなかったのです。そこで、彼はどうしましたか。
25節をご覧ください。「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」」とあります。律法の専門家は、数千年の伝統、学問の体系、こういうものに立脚し、その中から救いに至る道を探ろうとしている人です。律法の研究のためにあらゆる努力をしている人たちです。彼らは決していいかげんな偽善者ではなく、今風に言えば、学者肌の真面目な信仰者、神学者、あるいは熱心な信者と言っていいでしょう。ところが、無学で教養もなく、神学校での勉強も、宗教的な修業も積んでいないイエス様とその仲間のような連中が、神様の栄光を見て喜んでいるのです。そこで、律法学者はそう簡単に「神の栄光」をみてたまるものかと思いました。そこで、彼は教養ある信仰者にふさわしく「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」質問しました。上品に礼儀正しく質問しています。しかし、その意図は純粋ではありませんでした。イエス様をためすためでした。イエス様の聖書の実力をためすとともに人々の前で自分の実力を見せたかったようです。彼はおごり高ぶっているのです。イエス様はそんな彼の質問にどう答えられましたか。
26節をご覧ください。「イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」」イエス様は彼の質問に対して質問を持って答えられました。そのイエス様の質問に彼は見事に答えました。27節をご一緒に読んでみましょう。「すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」実に見事な答えです。律法の精神は愛です。これは神様に対する愛と隣人に対する愛に分けることができます。られます。
 まず、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして神様を愛することです。これは100%全幅的に神様を愛しなさいということです。神様は目に見えないから神様に対する愛をないがしろにし、適当にしやすいです。また生活の一部分のように考えやすいです。しかし、神様を愛することは生活の全部であり、どれよりも最優先でなければなりません。神様が私の生活の中心となり、人生の目的とならなければなりません。神様が私の喜びであり、望みであり、すべてのすべてにならなければならないのです。
また、隣人を自分自身のように愛することです。人はだれでも自分自身を貴く思い、愛します。腹が減ると食べるし、寒ければ暖かくしようとします。このように隣人も貴く思って大切にし、愛しなさいということです。律法の専門家はこのような戒めに対してよく知っていました。御言葉を理解していることだけではなく、覚えていました。御言葉に精通している律法の専門家でした。それでも彼は精通していました。聖書先生として聖書を教えることにも熱心でした。しかし彼自身が御言葉を行なうことはしませんでした。11:46節を見ると、イエス様は言われました。「あなたがた律法の専門家たちも忌まわしいものだ。あなたがたは、人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本もさわろうとはしない。」律法の専門家たちは御言葉を実行していなかったのです。御言葉をよく知っていて教えることで信仰生活をよくしていると錯覚していました。しかし、ヤコブの手紙2:26節は言います。「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」。そうです。御言葉を数多く知っていてもそれが知識的な理解に留まっているなら、心の中に喜びも、望みも、永遠のいのちに対する確信も持てませんでした。本文の律法学者の心は死んでいる人のような顔つきをしていました。いのちの中にある生命力も、エネルギーも、輝きもありませんでした。
 イエス様はそんな彼に言われました。28節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」」『それを実行しなさい。そうすればいのちを得ます』本当に神様を愛し、隣人を愛しなさいという戒めを実行するならいのちを得ます。「いのち」は愛から生まれるものです。生物学的にも男女が愛し合って新しいいのちを得ます。子どもに対する愛から子どもを育てる力もエネルギーも得ます。子どもを愛する愛から不思議な力が出るのです。友だちや恋人を愛する愛でも愛を実行している人は生き生きとしています。私たちも本当に真実に神様を愛し、兄弟姉妹たちを愛するとき、私たちの心の奥底から生きる喜び、生きる勇気が湧いてきます。愛が大きければ大きいほど大きいいのちを得るようになります。世界中にいるUBFの牧者や宣教師たちの証を読んで見ると、一般人より200%、300%以上に働いている方が数多くいます。それができるのは、神様を愛し、民族と国を越えて兄弟姉妹たちを愛しているからでしょう。本当に愛する時、いのちを得て喜びと望みと生命力にあふれて生きるようになるのです。ですから、律法の専門家がほんとうに永遠のいのちを得たいと思うなら、自分が知っている御言葉のとおりに行なうことです。御言葉を実行することが永遠のいのちを得る道です。
 ところが、律法の専門家はイエス様の教えを素直に受け入れませんでした。そこでイエス様は彼にたとえ話を語られました。

?。良きサマリヤ人のたとえ(29-37)
29節をご覧ください。『しかし、彼は自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」』とあります。彼にとってやはり律法は、知識でした。正しく知ることがまず第一です。だから、隣人を正しく定義する必要があります。隣人とは誰か、それを正しく定義してから、その隣人を愛しましょうということです。
私たちの中でもこのように考えている人が多くいます。御言葉の勉強をしますが、実行するのには負担があるから議論を楽しむのです。御言葉の前で真実に自分を告白して闘争することよりすべてのことを客観的にしなければならないと言って自分はその問題から逃げるのです。そういう人は信仰と生活が分離されています。そういう人たちは聖書勉強を多くしてもなかなか変化も、霊的な成長もできません。ここで、イエス様は求めておられることは、行なうこと、実行することです。隣人を定義し、正しく知ることではなく、「隣人になること」です。ですから、イエス様はたとえ話をしてから「誰が隣人か」ということではなく、「誰が隣人になったか」と問われます。また、この律法の専門家が「誰が隣人か」と質問したことには「無制限に愛することはできない。」ということを現わしています。無制限の愛は現実的ではない、現実的な話をしましょうというわけです。それは常識的な判断でした。しかし、そうやって「隣人」に枠を決め、隣人を選択し、限定して愛するなら本当の愛ではありません。イエス様は「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。(マタイ5:46、47)。と語られました。本当の愛は、限定があってはならない、愛に制限があってはならないということを教えられます。もちろん、一般常識では愛に制限があります。それで、私たちもそれを当たり前のようにしている考え方があります。無制限に愛することはできないと理屈をつけて、自分を正当化します。自分も忙しいし、相手も忙しいからといって人の家に訪問できなかった、皆を招くことは無理だからといってひとりももてなすことができなかった自分を正当化するのです。自分のフェローシップに制限をつけて、他のフェローシップの方の病気のことや悩みのことをよく知らなかったことを正当化します。知らせがなかったから知らなかったという理屈をつけて愛を実行することができなかった自分を正当化するのです。しかし、愛には制限や限定があってはなりません。家族を超え、自分の民族と国家を超えて愛するべきです。そのことを明らかにするためにイエス様はサマリヤ人のたとえを話されました。理屈をつけて横を通り過ぎた人と、実際に人を助けて人を対比させています。しかもここにユダヤ人と対比しているサマリヤ人を登場させて、民族を超えて愛するべきことを教えてくださいました。
30-32節をご覧ください。ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われました。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行きました。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行きました。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行きました。
ここで、祭司とは神様に仕える身分の人です。今でいう「牧者、宣教師」のような立場の人です。彼は見て見ぬ振りをして通り過ぎて行きました。「私は聖い者だから、汚れたものに触れると神様の働きにつけない」そんな理屈をつけたかもしれません。 次にレビ人ですが、教会に仕える人と言ったらいいでしょうか。その人も見るとすぐに場所を変えて反対側を歩いて行ったのです。
ところが、この現場にだれが来ましたか。33-35節をご一緒に読んでみましょう。「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
サマリヤ人は『彼を見てかわいそうに思い』ました。ユダヤ人が蔑視しているサマリヤ人です。彼も通り過ぎてしまうことができました。よくない民族感情を考えると、半殺しになっている彼にさらに悪を加えたことでしょう。しかし、彼はかわいそうに思い、哀れみをかけました。かわいそうに思うことだけではなく、近寄りました。強盗に襲われたことを考えると、一刻も早く逃げなければならない状況です。自分も襲われる危険があるからです。サマリヤ人はその危険があったにもかかわらず、近寄って行きました。そして傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをしました。自分の持ち物を出して助けています。油は痛みを弱める鎮痛剤であり、ぶどう酒は消毒の役割をしました。彼は応急治療をしてからは自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやりました。そしてもっとかかったら、私が帰りに払います』と言ったのです。本当に素晴らしい愛の実践です。かわいそうに思い、自分を犠牲にして助けるだけではなく、最後まで責任を持って助けています。しかも隠れたところで全を施しています。本文の御言葉を読んで見ると、ユダヤ人が「お礼をした」ことは記されてありません。「ありがとう」と言われたことも記されてありません。しかし、サマリヤ人は黙々と自分の方から進んで、自分のものも、時間も犠牲にして人に仕えました。しかも責任を持って最後まで助けたのです。サマリヤ人はかわいそうに思った時、人種、国境、民族感情を越えて時間と物質を犠牲にしながらも最後まで人に仕えることができました。義務的にするとある程度できても限界があります。律法的にすると、すぐに疲れてしまいます。ちょっとだけ自分が犠牲になっても損害意識に苦しみます。教会活動、教会での奉仕は主の恵みに感謝してやることですが、それでも人と比較してしまう時もあります。しかし、かわいそうに思う心を持つとき、私たちはどんな状況の中でも犠牲的に人を助けることができます。人々からの賞賛がなくても最後まで責任感を持って人を助けることができます。かわいそうに思う心は神様の御心であり、イエス・キリストの御心です。
神様が我々人間をかわいそうに思ってくださらなかったら、ひとりも残らず、滅んでしまったはずです。しかし、神様は罪のためにサタンの奴隷になっている私たちをかわいそうに思い、この地に近寄ってきてくださいました。ひとり子イエス様を送ってくださったのです。そしてイエス様は罪とサタンの勢力にやられてずたずたにされている私たちの傷と痛みを癒すためにご自分を犠牲にされました。十字架につけられて死なれるまでにご自分を犠牲にされたのです。それで、私たちが惨めで悲しくても、どんな中にあっても、イエス様は全部赦し、その代価を払って下さいます。痛みを受け、犠牲を払う覚悟を持ってイエス様は私達に接して下さっています。私たちの罪をあがなうために死なれましたが、死者の中からよみがえられたイエス様は今なお私たちに対して責任を持って導いておられます。インマヌエルのイエス様がご自分の翼に私を載せて、天の御国まで導いてくださいます。
イエス様はサマリヤ人のたとえを話されてから律法の専門家に質問されました。36,37節をご覧ください。イエス様は「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」と問われました。彼は「その人にあわれみをかけてやった人です。」と答えました。するとイエス様は言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
以上のたとえから私たちはだれが本当の隣人になったのかを学ぶことができました。私たちの隣人は隣に住んでいる人ではありません。私の助けを必要としている人がまさに私の隣人です。私の愛の実践を必要としている人です。私たちの周りには隣人を必要としている人たちが多くいます。特にキャンパスに強盗に襲われている人々が本当に多くいます。新興宗教と言われる異端の勢力が数多いたましいたちを破滅に陥れています。また、情欲と快楽主義のために体も心も傷ついている人たちがいます。純粋な青年の心が運命主義と虚無の強盗が襲っています。それで、多くの若者たちが精神病やうつ病のために苦しんでいます。彼らはだれかが隣人になってあげなければ罪と死の勢力の中で滅んでいきます。救急車を呼んでいる兄弟姉妹たちが数多くいるのです。だれが彼らの隣人になるでしょうか。イエス様は私たちに命じられます。「あなたも行って同じようにしなさい。」私たちは強盗に襲われて死んでいくたましいたちを顧みてかわいそうに思わなければなりません。神様が私たちにサマリヤ人のようにかわいそうに思う心を与えてくださるように祈ります。私たちがかわいそうに思い、キャンパスに近寄って行くことができるように祈ります。そして、彼らを御言葉の油と祈りのぶどう酒、犠牲的な愛によって助けることができるように祈ります。一時的に助けるのではなく、最後まで責任を持って助ける牧者として生きるように祈ります。すると、希望を持たずに滅び行く人々が生きるようになります。私たち自身もいのちを得て力強く生きることができます。本当に生きがいあり、意味ある人生、いのちにあふれた人生を生きるようになります。

?。必要なことは一つだけです(38-42)
38-42節は著者ルカが良きサマリヤ人のたとえを通して全を行なうことこそ大切であると思ってしまいがち人々のために書き記したと思われる内容です。ここにはイエス様を迎え入れた二人の姉妹のことが書き記されています。マルタの行為は、日本の家庭の中で客を迎えたときに見るごくありふれた光景だと言えます。気配りと言う面から見るとマルタはマリヤよりもよほど気が利いています。賞賛に値するでしょう。それなのに、せっかくの彼女の素晴らしい主への奉仕が台無しなってしまったのです。それはマルタから出た一つの不満のことばによってです。彼女のこの不満の原因は、彼女が心から喜んでしていなかったというだけではなく、彼女の選択の基準に問題があったと言えます。彼女もイエス様の話を聞きたかったのならば、マリヤと同じようにすれば良かったのです。「そうしたい」と思いながら、ついに気配りが優先してしまったのでしょう。あまり気の進まない方を選んでしまったのです。肉的な動機と言ってしまえばそれまでです。しかし、決して責められるべきことではありません。ただ彼女自身にとって満足できるものではなかったのです。私たちの回りでもいや私たち自身もこれと同じ事をやっている事がしばしばあります。「良いほうを選ぶ」ということは決してやさしいことではないからです。
ところで、興味深いことは「良いほう」の「ほう」とは「分」のことで、元の意味は食事の「分量」を意味する言葉だということです。ですから「良いほう」とは、自分に見合った食事の分量とでも言えます。バイキング料理のときなどつい余分にとってしまうことがありますね。でも自分にとってふさわしい分の選択はそういう意味で間違えた選択だったといえます。反対にマリヤの選択は、自分にとって「どうしても必要な」なかからの選択であったのです。そこで、主は言われました。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」私たちもマリヤのようにして生きたいと思います。マルタも主を愛し、主に喜んでもらいたくて彼女なりの方法で心尽くしのもてなしをしました。もちろん主はそれを喜ばれたし、受け入れてくださった、しかし主が本当に願われたことは、それではありませんでした。もてなしのために髪を振り乱し、八つ当たりしてまで、心を乱すことを望んではおられなかったのです。それよりまずどうすることが主に喜ばれ、主が願っておられることか、それを聞くことでした。自分の思い、自分の方法、自分の願いと、自分が大きくなっていくことではなく、むしろ主が大きくなっていくことを求められたのです。マリヤが主の膝下に膝まずき、主の言葉に聞こうとしたのは、自分ではなく主を大きくする姿だったのです。主が求められたのは、熱心に奉仕するとかもてなすということではなく、何が本当のもてなしとなり奉仕となるか、それをまず主に聞くということでした。そして単に学ぶとか聞くということではなく、何よりそれは主を大きくするということだったのです。主を第一とするということでした。自分が、自分が、という思いから解放されて、主が、主がという思いで満たされるということでした。主に仕えるために、必要なことはただ一つです。それは主に聞くという心、自分を小さくして主を大きくする心です。主に聞き、主を第一とし、主に従うということです

結論的に、私たちはまず御言葉を聞いて御言葉に従って神様を愛し、隣人を愛する生活しなければなりません。特に、愛することは良きサマリヤ人のようにかわいそうに思い、近寄って助けることです。自分を犠牲にして責任を持って助けることです。私たち一人一人が良き隣人になって愛の戒めを実行する生活ができるように祈ります。

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