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BibleMsg > ルカの福音書 > 04-34 収穫のために働き手を送ってください

04-34 収穫のために働き手を送ってください

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/24 (3072 回閲覧)
2004年ルカの福音書第34講

収穫のために働き手を送ってください

御言葉:ルカの福音書10:1-24
要 節:ルカの福音書10:2「そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

先週、私たちはまことに偉い人はイエス様のように謙遜な人であることを学びました。イエス様は天地を造られた創造主としてのすべての栄光と誉れと権勢を捨ててこの地に来てくださいました。すべての人々に仕え、ついに十字架の上でご自分のいのちまでもあがないのいけにえとしておささげになりました。神様はこのイエス様を死者の中からよみがえらせ、王の王、主の主としてくださいました。どうか、私たちがイエス様の謙遜を深く学び、身につけてまことに偉い人として成長できるように祈ります。
今日の御言葉はイエス様が70弟子を収穫のために働き手として遣わされた出来事です。イエス様はご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになりました。遣わされた弟子たちは病人を直し、神の国を宣べ伝え、帰って来て伝道旅行の報告をしました。ここで、私たちはこの世に対するイエス様の観点、主から遣わされた者の使命と心構え、本当の喜びを学ぶことができます。聖霊が私たちに神様の使命と喜びを悟らせてくださるように祈ります。

?。働き手を送ってください(1-8)
1節をご覧ください。「その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。」とあります。九章の前半部を見ると、イエス様は神の国を宣べ伝え、病気を直すために十二人の弟子を遣わされました。その後、イエス様は別に七十人を定め、ご自分の行くつもりのすべての町や村へ、二人ずつ先にお遣わしになりました。つまり、イエス様はご自分が行かれる所に前もって弟子達が遣わされました。イエス様がこの地上での活動を始められる時も、前もって主の道を備えるバプテスマのヨハネを遣わされました。イエス様はご自分が働かれるところにまず弟子を遣わして備えておられるのが分かります。遣わされた弟子たちは曲がっている人々の心をまっすぐにし、素直にイエス様の言葉に耳を傾けるように備えます。するとイエス・キリストに関する偏見を持っていた人でも真実なクリスチャンの活動や祈りを通して好意を持つようになります。その備えとしてイエス様は70人を遣わされました。私たちが救いに導かれる時も、前段階として色々な人が用いられたことを覚えます。私たちがイエス様に出会って救われる前に神様から遣わされた人々の働きと祈りがあったのです。
去年、石原牧者のお母さんは洗礼を受けました。今年、お正月、家族が集まった時は、お母さんが言い出して家庭礼拝をささげたそうです。石原牧者は家族の救いのために祈ってきましたが、こんなにも早く家族全員が一緒に礼拝できるとは思っていなかったといいました。神様は石原牧者を先に遣わして妹もお母さんも救いに導かれたのです。神様は石原牧者だけではなく、様々な人の小さな言葉や挨拶、行動を用いて心を備えさせ、実らせてくださったことでしょう。何よりも様々な方の祈りがあって、ご家族の魂が救いに導かれたことでしょう。私たちもみな、先に遣わされた方たちのさまざまな働き、愛と祈りがあって、イエス様に出会い、救いに導かれました。イエス様がご自分の先に遣わされた弟子達の働きがあったのです。私たちはその恵みを感謝すると共にそれぞれの家族へ、職場へ、キャンパスへ、「先駆者、あかし人」として遣わされていきたいと思います。人々はイエス様から遣わされてくる弟子たちを待っています。キリストの弟子たちが収穫してくれることを待っているのです。
2節をご一緒に読んでみましょう。「そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手は少ない。だから収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
この御言葉には、この世に対するイエス様の観点がよく表れています。当時、弟子たちが遣わされて行く町や村は、決して霊的な状況が良い所ではありませんでした。イエス様の表現によると、不信仰な、曲がった世でした。狼の世界でした。本当に絶望的な時代でした。それにかかわらず、イエス様は、『実りは多い』と語っています。イエス様は絶望的な時代であっても実りは多いと言われました。イエス様は狼たちの世界になっているからこそ、その中で苦しみ、霊的に渇いている人々を一刻も早く収穫しなければならないと思われたでしょう。競争社会、利己的であり、自己中心的な人々の中で傷ついたたましいたちが多いですが、彼らを助ける働き手が少ないことにイエス様は心を痛められました。そこで、イエス様は70人を遣わしました。そしてまず第一に祈るように言われました。「収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」命じられました。
実りが多い収穫の時は、多くの働き手がいなければなりません。また、少ない人数であっても、まず一生懸命に働かなければなりません。私は農村で生まれ育ちましたが、小学生の時、「農繁期の休み」が一週間ぐらいありました。子どもたちも収穫のために働かなければならなかったからです。本当に収穫が多ければ多いほど働き手が多くいなければなりません。でも、働き手が働き手を雇うのではありません。主人が人を雇って遣います。霊的な収穫もそうです。主なる神様が働き手を雇って用いられます。ですから、私たちは『収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈らなければ』なりません。働き手を動かし、持ちられる方、収穫の主は神様です。そこで、イエス様は「収穫の主に祈りなさい」と命じられたのです。
ここで、私たちは収穫の秘訣を学ぶことができます。それは収穫のために働き手を送ってくださるように神様に切に祈ることです。自分が収穫のために出て行くことも主に送られて行きますが、収穫のために働き手を送ってもらうことも大切です。特にたましいの収穫は人間の力や知恵によってできるものではありません。また、お金で働き手を雇うこともできません。根本的に神様が働き手を送ってくださらなければできないのです。ですから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈ることはとても大切です。神様のみわざは権力によらず、能力によらず、主の霊によってできます。私たちは人の心を動かす前に神様の御心を動かさなければなりません。神様の御心を動かすためには神様に祈らなければなりません。私たちが祈る時、神様が多くの働き手を送ってくださいます。これはUBFの活動を通しても知ることができます。
韓国UBFは1980,90年代に急成長しました。私はUBF創立20年目の1981年からUBFで聖書勉強を始めましたが、当時、UBF宣教師が派遣されている国は西ドイツ、アメリカ、ガテマラだけでした。ところが、それから20年後、約90カ国に約1500名の宣教師が派遣されるようになりました。その秘訣はどこにあったのでしょうか。先週、東京に来られた李パウロ牧者はそれに対して神様の働きであり、祈りの実であると言いました。60年代、70年代のUBF先輩たちは一度祈りを始めると少なくて1時間は祈っていたそうです。私がUBFに通い始めた80年代もよく祈っていました。私もその勢いに乗ってよく祈りました。キャンパス生活は5時から始まる夜明けの祈り会に参加し、8時にキャンパスに行って朝の祈りをしました。放課後はセンターの屋上に上って祈る時が多くありました。このように私たちが祈る時、神様が驚くべきほどに働いてくださいます。数多い働き手を送ってくださり、キャンパスミッション・世界宣教のみわざを成し遂げてくださいます。ですから、私たちは祈りから始めなければなりません。早稲田大学から、東京大学から働き手を送ってくださるように。川村女子大学から、一橋大学から働き手を送ってくださるように祈りましょう。日本が祭司の王国・聖なる国民となるために働く働き手を送ってくださるように祈りましょう。さらに日本から世界に働き手を送ることができるように祈りましょう。祈ってからは現場に行くことです。イエス様は弟子たちに祈りを命じてから現場に送り出しました。
 3節をご覧ください。「さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。」イエス様は70人を収穫の場に遣わしましたが、それは狼の中に小羊を送り出すようなものでした。狼はどのような動物でしょうか。やさしい動物ではありません。凶暴な動物です。何でも飲み込んでしまうような強さを持っています。反面、小羊はとても弱々しい動物です。羊飼いによく従う従順な動物であり、純粋な動物です。また、草原で草を食べたり、休んでいる羊の姿は平和そのものです。ですから常識的に考えると、狼の中に小羊を送り出すようなことはしません。それは危険です。行くにしても完全武装していかなければなりません。しかし、イエス様は「財布も旅行袋も持たず、靴もはかずに行きなさい。」と言われました。それは、何を意味するでしょうか。それは神様だけに依存して行くことでしょう。神様がここに共にいまして、小羊のような私を守り支えてくださっている、その信仰によって行くのです。そしてそこで「平安」を語ります。神様のシャロ?ムを語ります。「この家に平和があるように」と祈るのです。そして神の国を伝えます。
人々は狼のような世の中で生き残るために狼のようにならなければならないと思います。狼よりも強くなり、狼より凶暴な者にならなければならないと思います。しかし、神の人は羊のような弱い姿、平和な姿で出て行くのです。弟子たちは小羊のような純粋さ、平和、従順な心、柔和な心を持って行かなければなりません。そして、純粋な心と謙遜によって高慢に勝ち、柔和によって凶暴な狼たちと戦って行くのです。すると、必ず勝利し、平和の輪を広げて行きます。多くの収穫を得ることができます。イエス様は彼らに神様からの権威を与えてくださるからです。悪霊のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けられるのです。ですから、弟子たちは恐れることなく、小羊の心で戦います。純粋さ、真実さ、全く神様に頼らなければならない弱さを持って戦います。イエス様は狼のようなこの世に神の小羊として来られました。そして小羊のように過されました。それでイザヤはこのイエス様の姿について預言して言いました。「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(53:2-5)」イエス様は世の罪を取り除く神様の小羊として死なれるまで従順なしもべでした。それによって私たちに平安をもたらしました。狼たち中で傷ついている私たちを癒されました。ですから、私たちは狼のように凶暴な世の中でも神様の小羊イエス様のように生きなければなりません。純粋に、真実に生きるのです。弱々しい者だからこそ神様だけに頼って生きるのです。それによって多くの実りを収穫し、平和の神の国を広げていくのです。

?.「神の国が、あなたがたに近づいた。」と言いなさい(9-16)
9節をご一緒に読んでみましょう。「そして、その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた。』と言いなさい。」この御言葉は平和の使徒たちが担うべき使命を教えてくれます。使徒たちは町の病人を直し、彼らに『神の国』を伝えなければなりません。この世には持病を持っている方が多くいます。弟子たちは行って彼らを直します。この世には体の病だけではなく罪のために病んでいるたましいたちが数多くいます。たましいの病は病人に行っても直してもらうことができません。人々は不信仰な、曲がった世の中で、曲がった価値観を持ってさまよっています。狼のように乱暴な人々の言葉によって心は傷ついています。虚無と運命主義、嫉みと憎しみなどの病を患っています。弟子たちは彼らにイエス・キリストの福音を伝えて傷ついた心を直さなければなりません。直すだけではなく、直された心に神の国を伝えなければなりません。聖なる神の国の民として生きるように助けるのです。神の国とは神様の統治を意味します。アダムひとりの不従順によってすべての人がパラダイス、神の国を失いました。その結果、この世はサタンが統治するようになりました。サタンが統治する所には恐れと不安、絶望と分裂、争いがあります。呪われた人があります。しかし、イエス・キリストひとりの従順によってパラダイス、神の国を回復するようになりました。神の国とは神様が王として統治されるところです。ここには平和といのちがあります。愛と恵みがあります。自由と喜びがあります。私たちがイエス・キリストを心から受け入れるとき、神の国の民となります。神様は愛と平和によって私たちの心を統治し、神の国の聖なる国民として生きるようにしてくださいます。呪われた人生から祝福された人生を生きるようにしてくださいます。私たちの心は天国になります。ですから、私たちが必ず神の国を宣べ伝えなければなりません。私たちに神の国を伝えなければならない使命が与えられています。
10、11節は福音を受け入れない人々に対してどんな姿勢をとるかについて教えてくれます。福音を伝える時、私たちが恐れるのは人々が自分の事を受け入れてくれないと思うからではないでしょうか。自分が拒否される、嫌われるのではないかとの思いです。その思いの故に福音を伝えるのは苦手という人もいます。自分には伝道の賜物がないと言うのです。しかし、イエス様は何と言われましたか。16節をご覧ください。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むの者です。」とあります。もし私たちが福音を伝えて、否定されたのなら、私が拒否されたというよりも、私を遣わした主が否定されたのだということです。だからあなたは拒否された事を悲しむ必要はないと言われているのです。私たちが熱心に福音を伝えてそれを受け入れないとするならば、それはもうその人の責任なんです。ですから、私たちはそれぞれが自分の力に応じて、ある人は祈る、ある人はトラクトを配る、話しかけて伝道するのです。働きは違っていてもそれぞれが、弟子として召されている事を真剣に受け止める事が大切です。私たちは今までの経験や言葉に動かされず、御言葉だけに目を留めるなら、福音を伝えるために、立ち上がる事が出来ます。神様は私たちを神の国の大使として力と権威を与えて、遣わして下さるからです。私たち一人一人がこの主の使命にしっかりと立っていきたいと思います。
では、福音の働き人たちはどうするべきでしょうか。福音を受け入れないことは受け入れなかった人に責任があることを教えるために足についたちりも、ぬぐい捨てて行かなければなりません。そして、『神の国が近づいたことは承知していなさい。』と伝えなければなりません。この時のメッセージは受け入れない人たちにとって審判のメッセージになります。

?。あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい(17-24)
17節をご覧下さい。七十人が喜んで帰って来て、こう言いました。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」弟子たちが行って福音を伝えた時に悪霊が追い出されるという事があちらこちらで起きたのです。今まで縛られていた人が自由になり、今まで暗くなっていた人が明るくなり、神様の御業が次々と起こりました。嬉しくて、嬉しくて仕方がなかったでしょう。弟子達は喜んで帰って来たのです。『あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します』と報告した。自分の力ではなく、イエス様の力に関係があるのだという事は彼等もよく知っていたと思います。このような事が次々に起きたなら誰でも喜んでしまいます。しかしイエス様はその事を喜んではならないというのです。そうではなく、『あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』つまり命の書に名が書き記されている事を喜びなさいと言われました。皆さんが祈って奇跡が起きたなら、「すごい!素晴らしい!」と喜ぶのではないでしょうか? しかし、私たちは一時的なものに目を捕らわれるのではなく、本当の祝福、喜びを求めていく必要があります。私達が永遠の命の書に名前が書き記されている価値は、地上でのどんな奇跡や素晴らしい業より、もっと価値のある事です。私達は目に見える奇跡や地上での成功、出世に、大きな喜びを見出します。しかし、天の御国に名前が記されている事をもっともっと喜び、その価値の深さを知らされていくべきだと教えているのです。
 21、22節はイエス様の感謝祈祷です。イエス様は、聖霊によって喜びにあふれて言われました。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。」イエス様は神様が福音の奥義を高慢な者には隠して、羊のように弱く、純粋な幼子たちに現わしてくださったことを感謝しました。神様は弱々しく足りなくても謙遜な者に福音の奥義を知らせ、宣教のことばの愚かさを通して信じる者を救われます。
 23、24節をご覧ください。イエス様は、弟子たちのほうに向いて、ひそかに言われました。「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。」世の人々から見ると、弟子たちは小羊のように弱々しく、みすぼらしく見えました。事実、彼らには権力もなく、地位もなく、学位もありませんでした。お金もなく、貧しい生活をしていました。しかし、イエス様がご覧になると、彼らこそ幸いな人たちです。なぜなら、彼らはイエス様を所有しているからです。多くの預言者や王たちがイエス様を見たいと願ったのに、見られませんでした。イエス様の御声を聞きたいと願ったのに、聞けませんでした。しかし、弟子達はすぐそばでメシヤを見、メシヤの御声を聞くことができました。ですから、彼らこそ一番幸いな者たちです。

結論的に、この世は、イエス様の目で見ると、実りは多いですが、働き手が救いない状況です。神様が私たちを働き手として送ってくださり、用いてくださるように祈ります。羊のように弱い私たちが狼のような世の中で働き手として福音を宣べ伝えることは決してやさしいことではありません。私たちには実りある人生、いつも喜べる人生を生きたいと言う心もありますが、適当にただ安定的に生きる小市民的な生活を求める心もあります。しかし、小市民的な生活だけでは、収穫の喜び、永遠の喜びを体験することができません。収穫のために働き手として生きる時こそ、自分の人生において本当の価値と意味を見出し、永遠の喜びを得ることができます。日々イエス・キリストに出会い、キリストを体験する幸いな者として生きることができます。神様はその者に素晴らしい祝福と知識を与えて下さいます。どうか、神様が私たちをこの時代、滅び行くたましいを救う収穫の働き手として用いてくださるように祈ります。また、この国の霊的な収穫、世界宣教のために多く働き手を立ててくださるように祈ります。

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