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BibleMsg > ルカの福音書 > 04-33 一番偉い者

04-33 一番偉い者

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/24 (4022 回閲覧)
2004年ルカの福音書第33講
まことに偉い人
御言葉:ルカの福音書9:46-62
要 節:ルカの福音書9:48「彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」」

皆さんは、もし小学校の子どもから「偉い人ってどんな人」と聞かれた、どう説明するでしょうか。新明解国語辞典では「?人物・行動などが他にすぐれていて、りっぱだ。?地位・身分などが高い。」となっています。地位・身分などが高い人と言えば、政治家や官僚も立派な「偉い人」でしょう。しかし、時々私たちは政治家や官僚のスキャンダルのニュースを聞いています。「地位が高い人」イコール「偉い人」では説得力を欠けてしまうのです。ですから、私は「偉い人ってどんな人」と聞かれたら、逆に子どもにこんな質問をして見たいと思います。例えば、ウソをつく人と、正直な人、人のことを地位や身分で判断する人と、平等に判断する人、弱い者をいじめる人と助ける人、おごり高ぶっている人と謙虚な人、という具合に聞いてみるのです。すると、子どもは辞書を開いて見なくても分かることでしょう。
 今日の御言葉は、「だれが一番偉いか」と議論している弟子たちに与えられたイエス様の御言葉です。イエス様は弟子たちに「あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」と言われました。まことに偉い人について教えてくださったのです。でも、弟子たちはまだ、おごり高ぶっていました。彼らは他のグループを受け入れず排斥しました。他の民族を受け入れることもできませんでした。そこで、イエス様は彼らを戒め、弟子の道を教えてくださいました。
今日の御言葉を通してまことに偉い人の生き方、弟子の生き方を学ぶことができるように祈ります。そうして、私たち一人一人が偉そうな人ではなく、まことに偉い人として成長することができるように祈ります。弟子の道をまっすぐに歩んでいくことができるように祈ります。

?。だれが一番偉いか(46-56)
第一に、一番小さい者が一番偉いのです(46?48)
46節をご覧ください。「さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。」とあります。弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がりました。彼らは誰がもっとイエス様に認められているか、イエス様がメシヤとして新内閣の大臣を立てる時、総理大臣になるのはだれか、ということに関心がありました。マルコの福音書10章35節によると、ヨハネとヤコブはイエス様に特別な「頼み事」を持ってきました。その頼み事は、主が栄光の御座に着かされるとき、ひとりはその右に、ひとりのその左に座を占めることができるようにと言うことでした。彼らは神の国での特別な地位を要求したのです。もちろん、自分たちこそ、それにふさわしいと自負していたからです。このような思いは二人だけではありませんでした。弟子たちの間に、「誰が一番偉いか」という議論が持ち上がったほどですから、全員がヤコブとヨハネと同じ思いを持っていたのです。彼らは意地やプライドを賭けて、実に熱っぽくなっていました。「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」「それは俺だ」「いや違う俺だ」「僕が先に弟子になったのだ。」と議論していたのです。
「だれが一番偉いか」という問題は弟子たちだけの問題ではありません。人はだれでも認められたい、尊敬されたい、一番偉い人になりたい、という願いを持っているでしょう。イエス様もその願いを無視したのではありません。パウロも賞を受けるのはただひとりであることを述べたあとで、「あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。」(?コリント9:24)。と勧めているほどです。問題は「どのような方法、どのような心構えで偉くなるか」ということです。偉くなりたいと言う願いのために、優越感やエリート意識を持って人を無視したり、言い争ったりしてはいけません。ところが、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がったのです。そして、イエス様が彼らの心の中の考えを知っておられて、彼らに言われたことを見ると、彼らの議論が決して望ましいものではなく、人間的であり、政治的であったことが分かります。偉い人に対する認識、概念が間違っていました。長い間、弟子生活をして来たにもかかわらず、彼らの価値観は変わっていませんでした。「こんな長く弟子生活したのだ。」というプライドだけが成長していました。彼らは世俗主義的な野望を互いに増幅させていたのです。仲間さえ受け入れることができず、競争していました。12人の中でも序列を決めて自分の地位を確認したいと思っていました。このように序列だけを意識していると、心の中に平安がなく、安らぎもありません。醜い競争心と嫉妬心のために苦しみ、落ち着きがない生活を続けます。イエス様は彼らを哀れんでくださり、まことに偉い人について教えてくださいました。
47、48節をご一緒に読んでみましょう。「しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」ここで、イエス様はどんな人がまことに偉い人かについて教えてくださいました。イエス様は子どもをご自分のそばに立たせ、「だれでもこのような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。」とおっしゃいました。ここでイエス様の御言葉を理解するために子どものことを考えてみたいと思いますが、今の日本では子供と言えば「可愛い」と思うでしょう。「素直」「汚れがない」と言うイメージがあるでしょう。特に日本は少子化が続けられ、出生率が50年前と比べれば50%に減ったそうですから、子どもをとても大切にしなければならないと言われています。児童手当も上がります。しかし、この当時のユダヤ人たちはそうではありませんでした。彼らにとって子供は「一人前ではない者」「役に立たない者」「数える必要もない存在」でした。従って「相手にするに価しない小さい者」にすぎませんでした。
ですから、弟子たちがこのような子どもを受け入れるためには心を低くして謙遜にならなければなりませんでした。根本的にイエス様の心を抱かなければできないことだったのです。それで、イエス様は「子どもをわたしの名のゆえに、受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。」と言われたのです。イエス様の名によって小さい子どもを受け入れることは、イエス様を受け入れることです。小さい者にすぎに子どもを大切にすることがイエス様を受け入れることなのです。
それほど謙遜になることが大切であるということです。本当に偉い人は謙遜な人であり、最も謙遜な人こそ、皆から尊敬される最も偉い人なのです。ですから、本当に偉いということは身分や地位が高いとか、議論で勝つか、ということではなく、人格のことであって、内面性、小さい者の謙虚な人柄です。ここで、小さい者子どもの内面性について触れてみたいと思います。
 私には三人の子どもがいますが、一番下の子よく言う言葉があります。何かできないこと、やりたくないことがあると「私はまだ子どもだからできない」と言うのです。小さな子どもであるということは、少しも偉くないこと、だから自分では何もできないことを本能的に自覚しているということです。もともと偉くないのですから、偉ぶることもないし、だから低くなる必要もありません。謙遜になることもないし、へりくだる必要がありません。なぜなら始めから低いからです。本能的に謙遜だからです。そもそも彼らは謙遜です。へりくだる必要などない、初めから低いからです。そのありのままの自分、小さく無力な自分を認め、受け入れている姿、何ほどの者でもないことを十分承知していることです。だから彼らは大人のように、弟子たちのように誰が一番偉いか、と考えることがありません。自分には力も魅力も才能もあるのに、それが認められなくてくやしいとか、仲間から軽んじられている、ばかにされているといってくやしがることもありません。
多くの人は謙遜に主に仕え、謙遜に人々に仕えながら、その姿を認めてくれることを望みます。隠れたところで施した善の働きも、隠れているところでささげている祈りの生活も正しく評価されてほしいと願うのです。特に教会のリーダーなら、隠れているところで働いている人を見出して認めてあげる霊的な分別力を持たなければならないと思い、それを期待します。しかし、子どもは自分が正しく評価されていないことでくやしがることがありません。認められていないことで悩んだり、苦しんだり、嫉妬することがありません。評価されるほどの者だなどと自分で思っていないからです。しかも、もし無視されても少しも自虐することなく、当たり前のようにして親に信頼を寄せます。全面的に頼っていきます。それが小さな子どもの内面ではないでしょうか。
ですから、一番小さい者とは自分がこのような子どもであることを自覚することです。小さい者のようなものではありません。すべての中で一番小さい者が一番偉いのです。自分の小ささを一番よく発見できる人です。弟子たちの問題はイエス様を通して偉大になろうとしていることでした。よく学んでいたのですが、自分が偉くなるためでした。イエス様の教えをよく学んだのですが、自分のためであったのです。しかし、イエス様は自分の小ささを悟った人こそが偉い人になるのだと教えてくださいました。本当に人は自分が無力な子どもにすぎないことを自覚した時、どんな人でも受け入れることができます。使徒パウロは言いました。「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。(?コリント15:9)。パウロは自分が小さい者のようになったと言ったのではなく、最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。」と告白しています。そもそも自分は小さい者であるという自覚、このような謙遜のゆえに、彼はどんな人でも受け入れることができました。そして、今なお最も偉大な使徒として認められ、尊敬されています。
 何よりもイエス様はこの世で最も謙遜な方として、謙遜の手本となれます。イエス様は最も小さな人間を受け入れるために最も小さい人間となってくださいました。聖書は言います。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」「ことばは人となって・・・」これは本当に驚くべきことです。神様が人となってくださったのです。このイエス様こそ、天の輝く栄光から降られた方、最もへりくだり、謙遜になられた方、最も小さい者となってくださった方です。神様が最も小さい者に、子供になってくださった、それも幼子として、人間として最も無力な姿で、最も小さな姿でおいでくださったのです。そのへりくだりの極みが十字架でした。それで、使徒パウロは言いました。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2:6-8)。イエス様の生涯は最も小さい者たちの友となり、彼らを受け入れて仕える一生でした。世の人々はだれも受け入れない収税人、罪人、遊女、悪霊につかれている人々を受け入れ、彼らに仕えてくださいました。そして彼らのために十字架につけられて死んでくださいました。本当は無力な、無に等しい存在でありながらも、それに気づかず、おごり高ぶっている私たちのために十字架の上で尊い御血を流されました。高慢なこの私のために、本来最も偉い方が、最も小さき者となり、無力な者、価値無き者となって十字架につけられたのです。それゆえ、イエス様はまことに偉い方、最も偉い方となられました。パウロは「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」と告白しています。私たちがこのイエス様を学ぶとき、たましいに安らぎが来ます。嫉み、競争心、憎しみの中でストレスがたまる生活ではなく、安らぎの中でまことに偉い人として成長して行く生涯を過すことができます。本当に小さい者であることを自覚しているとき、両手を上げて神様に頼りきって生きることができるし、神様の助けによって成長し、偉い人になるのです。私たちが生活の中で疲れることは労働の結果でもありますが、心の問題が多いと言われます。ストレスがたまるのは、よく考えてみると、イエス様をよく学んでいないからです。イエス様は言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。(マタイ11:28,29)私たちが本当に謙遜なイエス様を学び、自分の小ささを自覚する時、安らぎの中でまことに偉い人として成長するのです。
第二、イエス様の名を唱えている他のグループを受け入れることです(49,50)。
49、50節を読んでみましょう。「ヨハネが答えて言った。「先生。私たちは、先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、やめさせました。私たちの仲間ではないので、やめさせたのです。」しかしイエスは、彼に言われた。「やめさせることはありません。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です。」ここでクローズアップされているのは、他人に対する寛容です。イエス様の弟子としてアイデンティティを持っていることは大切な事です。自分が属している教会、自分のグループに対してアイデンティティを持たずには神様のみわざに忠実になることも無理ではないでしょうか。私は10年前に超教派の神学校で勉強したことがありますが、その時、ある先生は言いました。「教派の色に染まらないで、何かの立場にこだわらないで、純粋にキリストに仕えればいいのになどという人はキリスト教をよく知らないか、責任的な立場に距離を置く人であるということです。」と言うことです。その時は、何で超教派の神学校でそういうことを言うのかと思いましたが、自分が責任的な立場になって見ると、そのことが理解できるような気がします。
しかし、イエス様は自分たちこそ、イエス様に従う正統的な集団であって他は認めないという排他主義に陥っていけないと言われています。排他的で、心の狭いセクト主義者になっていけないのです。私たちに反対しない者は私たちの味方です。ですから、敵をも愛するべきクリスチャンが他のグループに対して排他的になっていけません。私たちは聖なる国民としてアイデンティティを持った上で他の教会とか、グループに対して寛容でなければなりません。異言とか、預言の賜物などを強調するグループも認める必要があります。

 第三に、他の民族を受け入れなければなりません(52?56)
51節をご覧ください。「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ」とあります。天に上げられる日が近づいてきた頃とは、十字架につけられる日が近づいてきたことを意味しています。イエス様は、その使命である十字架への「道」を進んで行かれます。イエス様は、ガリラヤからユダヤに南下するに当たり、サマリヤ地方を通って行こうとしてご自分の前に使いを出されました。弟子たちはサマリヤ人の町に入って行ってイエス様のために準備をしました。恐らく、弟子たちは宿の準備や食事の手はずを整えたでしょう。しかし、イエス様は単にサマリヤを通過するだけで、彼らのところに留まるつもりではありませんでした。サマリヤの人々はそれを知ったので、イエス様たちを快く迎えようとしませんでした。そうした人々の態度に憤ったのがヤコブとヨハネです。54節をご覧ください。「弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」とあります。「どうか神さま、あなたが天から火を降らせて、この愚かな村を焼き払って下さい、と彼らは祈っているに等しい。神さまが火を降らせないなら、俺たちの手で焼き払ってやると言わんばかりです。 こうして、宗教戦争が起こる、と言ってもいいのかもしれません。彼らは宗教の名による大虐殺もやりかねない、そんな剣幕でした。何故彼らはそんなことを言ったか。彼らが民族主義者で、好戦的な性格だったからかも知れません。でも弟子たちにはイエス様を愛する熱心があったに違いないと思います。熱心さでは誰にも負けなかったのです。
しかしその熱心さが人を殺す恐ろしい罪をはらんでいることに気づきませんでした。熱心さだけでは人を救うことができません。あらゆる国の人々に福音を宣べ伝えるためには民族感情を乗り越えなければなりません。私は日本の宣教師になって韓国の友だちからは親日派と言われますが、キリストの弟子は隣人を自分のように愛する心を持たなければなりません。ヨハネとヤコブはサマリヤ人に対する民族感情ために恐ろしい罪を犯していました。イエス様は彼らの偏狭な心を戒められました。イエス様はエルサレムに行こうとして御顔をまっすぐに迎えられたのは十字架につけられるためであって、ユダヤ人だけではなく、サマリヤ人の救いのために、あらゆる民族の救いのためでした。
イエス様は振り向いて彼らを戒められました。エルサレムを見つめていたイエス様は振り向いて、二人の弟子たちを叱られたのです。その時イエスはどんな顔をしていたでしょうか。イエス様は十字架の待ち受けるエルサレムを見ていた目で、十字架でしか救われない愚かな弟子たちをご覧になったでしょう。十字架だけが救いです。十字架のイエスのみが平和を作り出します。イエス様は彼らを戒めつつ、エルサレムへ向かいました。そしてついに十字架につき、神様の本当の平和を築こうとされておられたのです。

 ?。弟子としての道(57-62)
57-62節は弟子としての道とはどのようなものかを教えてくださった内容です。ある人がイエス様に言いました。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」するとイエス様は彼に言われました。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」恐らく、ある人はイエス様に多くの弟子たちがついていることも見て自分も偉い人になりたいと思っていたようです。しかし、イエス様に従って行くには、将来の可能性や、今までの快適な生活を投げ打ってもかまわないという覚悟が必要です。
二人目の人はイエス様ご自分の方から別の人に「わたしについて来なさい」と言われました。しかし、その人は「まず行って、私の父を葬ることを赦してください。」と言いました。するとイエス様は彼に言われました。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」と言われました。このやり取りを読んで、キリスト教はとんでもないことを教えていると憤慨する人がいるかも知れません。自分の父を葬る親孝行ほど大切なことはないではないか、と腹を立てる人もいるでしょう。しかし、聖書は親不孝を教えてはいないのです。十戒は「あなたの父と母を敬え」(出20:12)と教えているし、ほかにも死者の葬りを丁重に行なった記事もあります。ここで言われていることはイエス様に従うことは何ものにも優先するべきであるということです。またイエス様に従うことの価値は非常に高いものであるということです。また、三番目の人はイエス様に従いますが、ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてくださいと言いました。するとイエス様は彼に言われました。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」ここでは、弟子になる人に方向性を求められました。以上で、弟子としての道は犠牲を覚悟し、優先順位をはっきりしなければならないことを学ぶことができます。また、キリストを見つめていく方向性を持っていなければなりません。
私達は最初から「弟子になろう」とイエス様を信じた人は少ないと思います。「助けてもらいたい。励ましてもらいたい。慰めてもらいたい」そんな気持ちでイエス様を信じたのです。しかしここで、イエス様は、本当に祝福された者となる為には、「弟子」となっていく事が必要であります。それには覚悟が必要である事を語っているのです。

 結論的に、一番小さい者が一番偉いのです。私たちが神様の御前で自分の小ささを悟って、自覚して本当に小さい者として仲間を受け入れ、他のグループも受け入れ、どの民族も受け入れて愛する人として成長して行くように祈ります。謙虚で心の広い弟子としての内面性を持って弟子の道をまっすぐに歩んで行くことができるように祈ります。カナダに宣教師としていくカレブ君は謙虚な人ですが、さらに謙虚な人となり、まことに偉い人として成長して神様に用いられるように祈ります。

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