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BibleMsg > ルカの福音書 > 04-15 新しい人生

04-15 新しい人生

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/24 (1926 回閲覧)
2003年ルカの福音書第15講                          
新しい人生
御言葉:ルカ5:27-32
要 節:ルカ5:27「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。」

私たち人間には新しいもの、新しいことに対してあこがれる心があると思います。何か新しいものはないか、何か新しいことは起らないか、という期待を持っています。人生そのものが新しくなること、今より優れた新しい人生を生きることを願うのです。
今年、私たちは新しいことに挑戦しました。今まで韓国UBFで作った問題を使ってきましたが、今年のルカの福音書からは日本で新しい問題を作っています。毎週新しい問題を作ることはなかなか難しくて議論が大変激しくなる時もありますが新しい恵みを受けています。その時、メッセージのタイトルも新しく付けていますが、先週は「罪の赦しによる新しい人生」、今週は「新しい人生」になりました。ところが、私は、いざとメッセージを書こうとしたら、先週に続いてまた「新しい人生」というタイトルをつけることに抵抗感を感じました。新しい人生といいながら、先週も今週も同じタイトルでは全然新しくなってないのではないかと思われてからです。それで、何とか新しいタイトルはないかなあと思い、深く考えましたが、なかなか良いタイトルが思い浮かびませんでした。でも私は一つ新しいことを発見しました。それは、私たちが二回続けて「新しい人生」というタイトルを付けるほど、今より新しくなることを切実に願っているということです。無意識の中でももっともっと新しくなりたいという強い願いがあるのだということです。そして、神様も私たちがもっと新しい人生を生きることを願っておられるということに気づかされました。では私たちはどうしたら新しい人生を生きることができるでしょうか。
今日の御言葉には罪のためにつまらない人生、惨めな人生を生きていたレビに目を留められ、彼を新しい人生に導かれたイエス様の働きが記されています。ここには一人のたましいに対するイエス様の深い理解と愛、大いなる望みがよく表れています。また、イエス様に出会った時、その人生がどのように変わっていくのかを学ぶことができます。この時間、本文の御言葉を通してイエス様を学び、私たちも新しい人生へと変えられていくことができるように祈ります。

?。イエス様について行く新しい人生(27-30)
27節をご一緒に読んでみましょう。「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。」この御言葉は私たちの耳になれていてあたりまえの事が起ったかのように思うかも知れません。しかし、当時のユダヤ人の立場から見ると、大変驚くべきことでした。収税人を自分の弟子として召されることは、考えられないことだったからです。"取税人"というのは、当時"罪人""強盗""盗人"と同じ様な意味があったと言われています。なぜなら、当時イスラエルはローマの植民地でしたが、ローマ人が直接イスラエル国民から税金を取りたてる事はしませんでした。ユダヤ人にユダヤ人の税金を取りたてさせたのです。ところが、そのユダヤ人を選ぶ時は、彼らに「自分がどれくらい税金を徴収できるか。」その金額を書いて出すようにしました。当然なことに一番高い金額を書いた人が収税人として選ばれたし、選ばれた収税人はそれだけ積極的に税金を徴収しました。自分が書き出した金額を満たさなければ自分が払わなければならないから、どうしてもより多額の税金を取り立てなければなりませんでした。それにローマは取税人達がごまかしやインチキをするのには目をつぶりました。そうしたら、収税人が定まった税金の2倍3倍を徴収するというのは、珍しくなかった訳です。それで、バプテスマのヨハネは収税人たちに「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません(ルカ3:12)。」と言いました。それほど、収税人たちは決められたもの以上に税金を取り立てて自分の同族イスラエルの民を苦しめていたのです。ですから収税人はユダヤにとって怒りの対象であり、彼に近づいてはいけない存在になっていました。実際に収税人は地域社会で活動することができず、法廷で証言することも、お葬式に参加することもできませんでした。人々は彼らを「盗人、強盗」、「遊女、罪人」と同じくみなし、売国奴、裏切り者として遠ざけていたのです。
では、どうしてレビはこんな社会の雰囲気の中でも収税人になったでしょうか。どうしてみんなに嫌われ、みんなにいじめられるこの仕事を選んだでしょうか。その具体的な理由は聖書に書いてありません。しかし、その状況を考えてみると、「お金さえあれば何でもできる」という黄金万能主義の思想からそうなったのではないかと思われます。レビはレビ部族の出身です。レビ人は祭司的な働きのために区別されていました。そして彼らは神殿の奉仕のほかに、民を教える役割も果たしていました。おそらく、本文のレビももともとは、そういう祭司的な働きをしていたでしょう。そして聖なる自分の務めに対するアイデンティティもあったでしょう。ところが、ウィークエンドを楽しむ友達、スポーツ、映画、囲碁などの趣味生活を楽しんでいる友達を見ると自分の生活に葛藤が生じました。それに神殿に来て多額のお金を使う人々を見るとうらやましくなりました。ついに、彼は「『神様、神様』といったって金がなければ何も出来やしない。金が全てだ」と思うようになりました。彼は「Money! Money! Money is everything!」と思うようになったのです。そこで、彼は神様のしもべとしての自尊心も捨て、神様も捨てました。御言葉も礼拝も捨てました。きよく正しく生きようとする望みも捨てました。隣人も、幼い時からの友達も全部捨てました。そうしなければ収税人になることができなかったからです。
そうして、彼は税理士試験に合格し、収税人になりました。収税人になってみると、お金を儲かることができました。彼はお金持ちになりました。金に困らない生活、思いのままお金を使えることは楽しいことでした。彼は「やっぱり、お金はいいなあ。」と思いました。しかし、だれも彼がいい人だと言いませんでした。ひとり、ふたり彼を遠ざけ、だれも彼を相手にしてくれなくなりました。むしろ、「あいつは売国奴だ。強盗だ。遊女と同じやつだ。」と言われるばかりでした。彼は蔑視と嘲りの対象であり、いじめの対象になっていました。それはお金だけを求めながら生きる時、経験する必然的な結果でしたが、いざと人々から捨てられた時は耐えがたい苦しみと寂しさを感じました。すると、取税人生活がいやになって来ました。これが自分の本当の道ではない。何とか本当の道を知りたい。という願いが生じました。イエス・キリストの事を聞いた時には、もしかしたらイエス・キリストに従っていきたいという思いも生じました。でも取税人ですから、とても自分がそこにいくとはできない、それは考えられないという思いがしました。それで、彼はイエス様のうわさを聞いても収税所にすわっていました。
ところが、イエス・キリストご自身が彼に近づき、目を留めてくださいました。そして「わたしについて来なさい。」と言われました。イエス様はレビの心の中にある本当の思いを見抜いておられました。表面的にこの人がどういう立場であるとか、何を考えているのかということではありません。その人の本当に願っている事をイエス・キリストは見抜いておられたのです。普通の人なら「収税所だ」と顔も見ないで通りすぎる所ですが、イエス・キリストはその中にいたマタイに目を留めて『わたしについてきなさい』と言われたのです。このイエス様は私達にも同じ様に目を向けて下さっています。私達の心に目を留めて下さっているのです。私の心の本当の願いにイエス・キリストは目を向けて下さいます。そして私たちに必要な新しい方向も与えてくださいます。イエス様はレビに「わたしについて来なさい。」といわれました。これは「わたしの弟子になりなさい。」という意味です。イエス様はレビをご自分の弟子にしてくださいました。このイエス様はどんな方でしょうか。
第一に、イエス様は収税人レビからも希望を見出される方です。イエス様はいくら絶望的な人であっても、その人から希望を見出されるお方です。人々はレビに対して希望を持つことができませんでした。彼らはレビを見るとき、一日も早く自分たちの町から、この地球から離れてほしいということしか考えませんでした。彼自身も自分に希望を持つことができました。しかし、イエス様は彼がキリストの弟子として新しい人生を生きられる希望を見出されました。それで、イエス様はレビが新しい人生へと旅立つように、「わたしについて来なさい。」と言われました。これからは人々から嫌われる人生ではなく、人々から尊敬され、神様のために、人のために役立つ新しい人生を生きるようにして下さったのです。
第二に、イエス様はご自分の希望のとおりに育ててくださる方です。レビは人々から嫌われ、無視されていました。だれも彼に近づきませんでした。そこで、彼自身も自分の生活に絶望するようになっていました。しかし、イエス様は彼に近づき、目を留めて新しい方向を与えることだけではなく、彼と共に生活をしてくださいました。人々から嫌われている人の友達になることは難しいことです。利己的で自己中心的な人と一緒に暮らすことはますます難しいことです。でもイエス様はレビと侵食を共にしながらイエス様について行く道からそれないように助けてくださいました。人は初心を守りつづけることがなかなか難しいです。新しい人生を生きようと決心しても三日坊主になってしまう場合が数多くあるでしょう。イエス様はそんな人間の弱さを知っておられてレビとともに生活しながら彼を育ててくださいました。イエス様の弟子としてイエス様を学び、イエス様の御姿にまで変えられていく希望を持って彼を育てられました。
ですから、現在、レビの姿にはイエス様に似ているようなことが何も見えなくても、彼に何の品格も、人格も見えず、ただ人をごまかし、インチキをするようなことしか見えなくても、彼がイエス様について行くなら、高潔な人格を持つイエス様の弟子になります。実際に彼はセイントマタイに成長するようになりました。山上垂訓が書かれたマタイの福音書の著者として人類の大先生になりました。ある聖書学者は聖書の中で最も重要な部分が山上垂訓であると言っています。山上垂訓には神様が私たちに言われるすべての教訓が入っています。その中に驚くべき真理と愛が書かれてあって読む人々に深い感動と悟りを与えています。このことは収税人だったレビがイエス・キリストにあってどんな成長したのかを私たちに示してくれます。事実、彼が持つようになった霊的な価値観と希望は人々に感動を与え続けています。
このようにイエス様について行くとき、すなわち、イエス様を学び、イエス様の生活に見習うとき、その人は意味ある新しい人生を生きるようになります。また、誰でも人類の大先生になることができます。
ではイエス様の方向に対するレビの反応はどうでしたか。28節をご一緒に読んでみましょう。「するとレビは何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」大変な決断です。彼には今まで持っていた、有意義な生活や豊かな家や様々な物があったでしょう。それを全部断ち切って、全部捨てて、イエス・キリストに従うという決断をしたのです。彼はお金で楽しめる世の楽しみを捨てました。「収税人がキリストの弟子になれるか。こんな者が弟子になれる。」というような自己卑下、劣等感も捨てました。イエス様が召してくださる時も待っていたかのように全てを捨てて立ち上がりました。どうしてそれができたでしょうか。それは彼の心の中にあった葛藤の中で「金が全てではない」という結論がはっきりとついていたからでしょう。イエス様こそが自分の生涯をかけて歩むべき道だと明確な思いがあったからではないでしょうか。Only Jesus! 彼は明確な心構えの中で、イエス・キリストに従う決意をしていったのではないかと思います。するとレビはそこにいい知れない満足感や充実感があったのでしょう。彼ははっきりした決断によって新しい人生、満たされた人生へと旅立ちました。
29節をご覧ください。「そこでレビは、自分の家でイエスのために大ふるまいをしたが、取税人たちや、ほかの大ぜいの人たちが食卓に着いていた。」とあります。彼は自分の家でイエス様のために大振る舞いをしました。ところが、そこには収税人たちや、ほかの大ぜいの人たちが食卓に着いていました。イエス様のために大振る舞いをしたのに、他の人たちでいっぱいになっていました。おそらく、彼は自分が出会ったこのイエス・キリストを自分の友達にも知らせたいと思ったでしょう。また、より多くの人々にイエス様を知らせ、彼らに仕えることがイエス様の喜びであるということが分かったでしょう。特に彼は収税人として同業者の取税人達は、神様から遠いと思われていても本音は皆求めているんだということをよく分かっていたでしょう。それで、レビは自分の同業者から始め、色々な人にイエス・キリストを知るチャンスを与えるために彼らを招いたのです。招かれた彼らは「本当に、あのけちな男が自分たちを招いたのか。」と耳を疑いました。「本当に、あいつが招いたのか」と思ったのです。しかし、それは事実でした。行って見るとレビの家の宴会は食べ放題、飲み放題になっていました。彼らは非常に喜びました。ところが、その時にパリサイ人や律法学者が何と言いましたか。
30節をご覧ください。「するとパリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向って、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いをするのですか。」とあります。当時イスラエル人は「異邦人は汚れた者、取税人も汚れた者。彼らとは交際をしない」と思っていました。だから「イエスはレビだけではない、その仲間と一緒になって食事をする。何という事だ」と言う訳です。そこで、イエス様はなんと言われましたか。

?。新しい人生は悔い改めから(31,32)
 31、32節をご一緒に読んでみましょう。「そこでイエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるためにきたのです。」イエス様はここで福音の重大な原則を語ってくださいました。イエス様は、元気な人、良い人を招くために来られたのではありません。弱って、疲れて、重荷を負っている人を招くために来られました。自分は罪人だ、自分は汚れている、相応しくないと感じる人、そういう人こそがイエス様のところに来るべきなのだとイエス・キリストは言われたのです。『医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です。』
とあります。イエス・キリストはその為に来られたのです。ですから私に必要なのは、自分は病人なんだという理解です。自分は正しい人ではなくて罪人なのだ。救われなくてはならない存在なのだ。清めて頂かなくてはならない存在なのだと感じ、それを認めるかどうか、それが大切です。
私はそんなに自分が"酷い罪人"とは感じていませんでした。自分が完全に正しい人だと主張することもできませんが、そんなにひどいとは思わない、「まぁまぁ」と思っていました。ですから、イエス・キリストの十字架が『罪人を赦すためにある』と言われてもあまりピンと来ませんでした。しかし、聖書勉強するうちに、少しずつ、自分の姿を発見するようになりました。神様は御言葉を通して、時には牧者を通して自分がいかに"汚れた者"、"罪人"であるかを教えてくれました。最初は何か責められているような気がして段々重くなってきました。しかし、聖霊が助けてくださり、自分が"病人"であったこと、自分が"罪人"であることが分かるようになりました。そして、そんな自分の醜さが見えて来る時ごとに罪人を招くために来られたイエス様、この罪深い者のために十字架に掛かられて死なれたイエス・キリストの恵みを大きく体験するようになりました。イエス様は正しい人、丈夫な人を招くためではなく、『罪人を招いて悔い改めさせるために来たのです。』
私たちは自分の本当の姿が分かるようになると、こんなに弱い私だから、こんなに惨めな私だから十字架が必要であったんだ。だからイエス・キリストが来てくださったんだ。感謝します。」と告白するようになります。自分の過ち、自分の罪を認め、告白して悔い改める時こそ、こんな罪人のために来られたイエス様に出会って新しい人生をいきることができます。新しい人生は悔い改めから始まるのです。日々私たちの生活が新しくされることも悔い改めからできます。いつまでも人のせいにしたり、状況のせいにしては新しくなることができません。謙遜に主の前に静まり、自分の弱さと罪を認めて悔い改める時、新しい主の恵みを体験し、内面から変わる新しい生活ができます。さらに、そうすることによって私たちは神様への喜びと感謝、賛美に満ちた新しい人生へと変えられていくのです。『罪人を招いて悔い改めさせるために来たのです。』この事をしっかりと覚えさせて頂きましょう。
結論的に、イエス様は罪深いレビからも希望を見出されました。私たちは利己的であり、自己中心的な人、何事もお金で判断するような人から霊的な希望を見出すことが難しいかも知りません。しかし、イエス様はレビからも希望を見出されました。イエス様は過去、情欲と、利己主義、物質主義の奴隷となっていた私たちからも世界的な牧者、世界的な宣教師として希望を見出してご自分の弟子として召してくださいました。そして、今なお大きい希望の中で私たち一人一人を育てておられます。また、この国の若者たちも大きな希望を持って召しておられます。「わたしについて来なさい。」と。私たちをありのまま受け入れ、新しい人生へ導いてくださる主の恵みを心から賛美します。

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