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BibleMsg > ルカの福音書 > 04-14 罪の赦しによる新しい人生

04-14 罪の赦しによる新しい人生

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/24 (2202 回閲覧)
2003年ルカの福音書第14講                        



罪の赦しによる新しい人生



御言葉:ルカの福音書5:17-26

要 節:ルカの福音書5:20「彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。」





 最近、ニュースを見ていると、とっても胸が苦しくなる時が多くあります。少年犯罪、自殺、殺人・・・悲しいニュースばかりです。特に先週、私は長崎の幼児殺害事件の犯人が中学校一年生で12歳の少年だったことを知り、大きなショックを受けました。私も中学校一年生の担任をしているものなので、いろいろな面で考えさせられました。その中で、木曜日の夜、NHKテレビの番組の中で「あすを読む」というプログラムで言われた早川信夫さんの話は私にいのちの重み、いのちの大切さについて教えてくれるものが多くありました。彼は学校教育でいのちの重みを教えることを訴えました。本当に私たち大人は子どもたちにいのちの重みを教えて行かなければならないと思いました。ところが、イエス様は、ひとりのいのちを全世界よりも貴く思われ、いのちを大切にする人を喜ばれます。今日の御言葉には一人のいのちをとても大切にし男たちのことが記されています。彼らは全身中風の人であっても、とても大切にして、彼のために働きました。一軒の家が壊れても人が助かることをもっと大切にしました。それで、彼らは屋根をはがし、中風の人を寝床のままイエス様のところにつり降ろしました。イエス様は彼らの信仰を見て中風の人に罪の赦しを宣言しました。そして、彼の罪が赦された時、彼は新しい人生を生きるようになりました。この時間、この男たちの信仰と、彼らの信仰によってイエス様に出会い、罪の赦しを受けて新しい人生を生きるようになったことを学びたいと思います。



?.友人の信仰(17-19)

 17節をご覧ください。ある日のこと、イエス様は御言葉を教えておられました。すると、パリサイ人と律法の学者たちも、そこに座っていました。彼らはガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていました。彼らは、当時の社会においてリーダー的な働きをしている宗教指導者たちでした。彼らは旧約聖書である律法民に教えていました。ところが、彼らもイエス様が教えておられる所に座っていました。彼らがどのような動機でイエス様の教えを聞いていたのかはよく分かりません。ただ、福音書のどこを見ても、宗教指導者たちがイエス様の教えを素直に聞いていたことは記されてありません。むしろ、11章54節を見ると、「彼らは、イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと、ひそかに計った。」とあります。彼らはイエス様の活動を調べて言いがかりをつけようとしていたのです。イエス様のメッセージを謙虚に聞いて受け入れるより、伝え方や内容について判断することしか考えていなかったのです。何も聞いてくれないような人々に何かを教えることは難しいことです。自分の伝えていることが判断されるところではなおさらのことでしょう。しかし、イエス様はそれでも彼らを哀れまれ、御言葉を教えておられました。イエス様の教えには力と権威がありました。イエス様は御言葉を教えることだけではなく、主の御力をもって、病気を直すこともしておられました。ところが、このとき、驚くべきことが起こりました。

18節をご覧ください。「するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。」とあります。ここに中風の人と彼を運んで来た男たちの信仰が記されています。マルコによると、この男たちは四人です。大人の男性一人を運ぶ、しかも床のままで運ぶというのは、たとえ四人で担いだとしても軽くはないことです。特に蒸し暑いときに床を担いで歩くことは大変なことです。でもこの人たちは、たとえ中風の人であっても、ひとりのいのちをとても大切にしました。少しでも人のために役に立つことなら、助けて上げようと思いました。時間があったら、暇ができたら助けるのではなく、少しでも早く助けて上げようとしました。それで、彼らは中風の人を床のままで運んできました。「イエス・キリストに会わせれば、中風もたちどころに癒される」と信じて一生懸命そこに連れて来ました。ところが、その家には既に人がいっぱいでした。家は戸口のところまですき間もないほどに人がいっぱいでした。でも、彼らはあきらめませんでした。何とかして家の中に入ろうとしました。著者ルカは、この男たちが何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた」と記しています。普通ですと、「何のためにここまで来たのか分からないや」と呟いたり、不平を言ったりするでしょう。「しようがない」と言ってしぶしぶそこから帰ってしまうのではないかと思います。しかし、彼らは諦めませんでした。何とかして病人を運び込む方法を見つけようとしました。すると、創造的な知恵が思い浮かびました。彼らは信仰によって屋上に上りました。そして屋根の瓦をはがし、そこから病人の寝床を、ちょうど人々の真中のイエス様の前に、つり降ろしました。彼らの作戦は大成功でした。彼らが障害物にぶつかっても諦めることなく、何とかして助けようとしとき、病人をイエス様に前に置くことに成功したのです。

ここで、私たちは何とかして病人を助けようとする男たちの信仰を学ぶことができます。諦めない信仰です。私たちが兄弟姉妹たちをイエス様に導こうとすると、必ず障害物にぶつかります。その時、私たちは障害物のために落胆し、絶望しやすいです。「しようがない。」と思って諦めやすいです。しかし、信仰とは障害物を乗り越えることです。私たちが何とかして障害物を乗り越えようとすれば、不可能に見えたことでも可能になります。何とかしてやろうとすれば道は開かれます。私は李ヨシュア宣教師が何とかして沢崎牧者を助けようとする姿を通して恵みを受ける時がよくあります。ヨシュア宣教師は何とかして世代差を乗り越えて彼を助けようとしました。いっしょに歌ったり、温泉に入ったりしました。また韓国までもいっしょに行って旅をしました。それで、沢崎牧者は大牧者として成長しつつあります。金ヨハネ宣教師は何とかして1:1しようとしていますが、いきなり韓国から金インデゥ牧者が来て毎週1:1ができています。石原牧者は音楽に才能がないように見えましたが、彼が何とかしてSing‐a‐loneに仕えようとし時、ギターも弾けるようになりました。歌も上手になって来ました。

このように諦めないで何とかして障害物を乗り越える人々は自分自身が素晴らしいことを体験するだけではなく、新しい歴史を創造することができます。西洋人として最初に北極点に到達したことで知られるロバート・ピアリー(Robert Edwin Peary)は1891年から1897年に掛けて4度にわたるグリーンラド探検をし、1898年に初めて北極に挑戦しました。しかし大失敗で凍傷により足の指を8本も失ってしまいました。もう諦めるしかありませんでした。しかし、ちょうどその時、彼は自分の部屋の壁にこう書きました。「僕は必ず道を見つける。そうでなければ道を作る。」結局、彼は信仰によって挑戦を続け、4度目の挑戦では北極点まで到達しました。使徒パウロは世界宣教のためにローマに行こうとしましたが、なかなかできませんでした。しかし、彼は諦めることなく、何とかしてローマに行こうとしました。すると、ついに彼は鎖につながれている囚人としてローマに行くことができました。そして福音によってローマを征服しました。

人々は福音のみわざを成し遂げようとするとき、霊的な環境が良くないとか、兄弟姉妹たちに霊的な希望がないから難しいと思います。しかし、それは決して環境や人の心の問題ではありません。彼らに仕える牧者の信仰と心が問題です。牧者にイエス様に対する信仰と、何とかして助けようとする心がある時、不可能なことはありません。

男たちが屋根をはがし、そこから病人の寝床をイエス様の前につり降ろした時、イエス様は彼らの行動から何をご覧になりましたか。20aをご覧ください。「彼らの信仰を見て。」とあります。イエス様は彼らの外的な行動を見て叱られませんでした。何で人の家に迷惑をかけているのかと言われませんでした。イエス様は彼らの信仰を見て喜ばれました。イエス様は誰でも信仰によって出てくる人を喜ばれ、その人を祝福されます。ヘブル11章6節は言います。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

中風の人を運んで来た男たちが何とかしてイエス様に近づくことができたのは信仰があったからでした。どうして諦めなかったか、それは彼らに信仰があったからです。「神様には出来る。イエス・キリストには出来る」と堅く信じたからこそ、彼らは障害物から逃げなかったのです。本当に堅く信仰があるならば、私たちも簡単に諦めてしまう事がないでしょう。信仰があれば、挑戦しつづけることができます。
 私達が"出来ない"と諦めてしまうと、物事の先が進まなくなります。しかし、"神様には出来ない事はない、信じる者にはどんなことでもできる"という信仰があるならば、どんな状況の中でも私たちは様々な希望、可能性を見出していく事ができます。神様にとって不可能なことはありません。人にはできないことでも神様にはできるのです。私たちクリスチャンはこの神様に求めていく事が出来るという恵みをいただいております。
この男たちの、"イエス・キリストには出来る"という信仰は、遂に一人の人を寝かしたまま屋根からつり降ろすという行動をとらせました。イエス様は彼らのその信仰を見て非常に喜ばれ、ご自分のところに来た人に対して『友よ』と呼んでくださいました。イエス様は私たちが信仰によって兄弟姉妹たちイエス様の所に連れて来るなら、彼らに「友よ、愛する兄弟よ、姉妹よ」と語って下さいます。イエス様は私たちをご自分の友として下さるのです。



?。罪の赦しによる新しい人生(20?39)

20節をご一緒に読んでみましょう。「彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。」とあります。イエス様は『友よ』と優しく語りかけた後、『あなたの罪は赦されました』と言われました。彼も、彼の友達も病が癒される事を求めて来た筈です。しかし、イエス・キリストは『あなたの罪は赦されました』と罪の赦しを宣言されました。

ここで、私たちは、私たちに本当に必要な事は何かという事を学ぶことができます。病が癒されるのも大切な事です。イエス様ご自身が病気を直しておられました。イエス様は私たちがすべての病から癒されて健やかに生きることを望んでおられます。しかし、人は一度癒されても、また病気にかかるかも知れません。ですからこの人にとって本当に必要なことは、まず、"罪が赦される"という事でした。
 私達は「あれが欲しい、これが欲しい。あーなったら、こうなったら」と思います。しかし、イエス・キリストはもっと本当に本質的に必要なもの、罪の赦しを受けることを願っておられます。なぜでしょうか。罪の赦しは私たちの救いと関わる最も大切なことだからです。多くの人々は中風だけが癒されれば、すべての人生問題が解決されて幸せに生きられると思います。しかし、内面の問題が解決されなければ、体の中風が直っても、彼の心は病んでいて不平不満の人生を生きるようになります。人間は自立的であり、創造的に、生命力にあふれた人生を生きるように造られました。たとえば、人間の脳は40ヶ国語の言語を自由に話せる無限な力を所有しています。しかし、神様に罪を犯したために、人間は無能な者になり、無気力になりました。人々は自立的な人生、生命力にあふれた人生を生きることを願いますが,実際は中風の人のように依存的であり、無気力な生活をしています。両親と環境のせいにしたり、上司や部下のせいにしたりしながら無気力な日々を過ごしているのです。しかし、内面の罪の問題が解決されると、どんな状況の中でも感謝し、自立的であり、生命力にあふれた人生を生きるようになります。人が無能な者、無気力な人生になるのは罪の問題です。この罪の問題が解決されるなら、どんな状況の中でも力ある人生を生きることができます。ところが、この罪の問題をどのようにして解決することができるでしょうか。人々は罪を犯してから苦しいから、その苦痛を忘れるためにまた罪を犯します。罪責感を軽くするためにお酒を飲んだり、麻薬を飲んだりします。麻薬問題はほとんど暴力団と関わっています。罪と快楽は比例しているのです。罪ある所に快楽あり、快楽ある所に罪もあります。しかし、快楽によって罪意識がなくなることはありません。むしろ、罪責感に抑圧されて心はますます苦しみ破滅の道に走っていきます。罪は必ず代価を要求しますが、その最後は死です。人間は罪のために裁きを受け、永遠の滅亡に処せられました。この罪の問題は人間の努力や意志によって解決できません。善行や苦行、律法を守る宗教的な生活によって解決できるものでもありません。罪の赦しがなければ新しい人生を生きることもできません。この罪の問題は、ただ、神様から遣わされたイエス・キリストによってのみできます。

イエス・キリストは十字架にかかって、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と、私たちのために祈ってくださいました。イエス・キリストは私たちの身代わりになって死んでくださいました。イエス・キリストがすべてのことをしてくださったのです。私たちが何か良いことをしたり、たくさんの献金をしたり、立派な教養人になって救われるのではありません。今のありのままで、イエス・キリストを信じるだけでいいです。イエス・キリストは私たちに罪の赦しを与えるために、私に永遠のいのちを与えるために、私に神様の子どもとしての身分を与えるために十字架にかかって死んでくださいました。

ですから、イエス様は罪の赦しを宣言することができます。イエス様はそのためにこの地に来られました。そして、信仰によって出て来る人に罪の赦しを宣言してくださいます。イエス様は中風の人に「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われました。これは死刑宣告を受けている人に無罪を宣布したことと同じです。この罪の赦しを受ける時、私たちは自分を縛り付けていた罪の力から解放されて自由になります。イエス・キリストによって罪が赦されると、不思議なことが起こります。罪の赦しを受けると、私たちは暗闇から素晴らしい光と自由の世界に移されます。いのちの世界に移されて新しい人生を生きるようになります。寝床に寝かされていた人が起き上がって歩く人生になるのです。イエス様は私たちに罪の赦しを与えて新しい人生を生きるようにして下さるいのちの主・キリストです。

21節をご覧ください。「ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。『神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。』」 とあります。素晴らしい御業や赦しを見ても、律法学者、パリサイ人はそれを非難する、裁く材料にしてしまいました。彼らは高慢と妬みのために霊的な目が遠くなっていました。イエス様はそんな彼らに人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを悟らせるために中風の人に言われました。「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と。すると、彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神様をあがめながら自分の家に帰りました。この人物に、真に素晴らしい変化が起こりました。罪の許しが彼を自立的であり、生命力にあふれた人生、新しい人生に変えたのです。このように罪の赦しは人を根本的に変化させます。不思議なことに人は罪が赦されると、心が癒され、体が癒される、素晴らしい癒しが起こるのです。私はそのことを信じています。そして、罪が赦されると、素晴らしい癒しによる新しい人生が始まります。イエス・キリストは心と体の癒し主です。

この素晴らしい光景を見た人々はみな、ひどく驚き、神様をあがめ、恐れに満たされました。そして、『私たちは、きょう、驚くべきことを見た。』と言いました。罪が赦されて新しい人生を出発することは驚くべきことです。今日もこのような驚くべきことが起こっています。ヨハネI 1章9節は言います。「もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しいお方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」 
私達がその罪を言い表すなら、すぐに神様はそれを赦してくださいます。私たちが日々新しく罪の赦しを受けて新しくされる人生を生きることができるように祈ります。

結論的に、神様を求めているのに、それを妨げられる様な出来事が起きると、諦めてしまったり、ひねくれてしまったりする事もあると思います。しかし、神様を信じて何とかしてチャレンジし続けると、神様は道なきどころに道を開いてくださいます。神様は私たちが何をしても諦めないで「神様には出来る。神様にはその力がある」と信じて求め続けることを願っておられます。そして諦めない信仰によって生きることこそ、神様の祝福に与かる秘訣です。

また、イエス様は中風の人に罪の赦しを宣言されることによって人の子に罪を赦す権威があることを見せられました。そして、中風の人は罪の赦しを受けた時、心も、体も癒されて新しい人生を生きるようになりました。私たちはイエス・キリストによって赦されて新しい人生を生きていますが、それでも、この世の中に生きている限り、情欲や安逸、高慢などの罪を陥って無気力に生きている時があります。また、イエス様の御言葉を素直に受け入れるどころか、判断するばかりのパリサイ人たちのようになりがちです。ですから、私達は自分の中に出てくる様々な悪しき思いに気をつけるべきです。これが肉に属する思いだという事を知って、一つ一つ赦してもらう必要があります。私たちが、日々、「私の中に、妬む心、憎む心、高慢な心がある。主よ、今この心をきよめて下さい。赦して下さい」と祈りましょう。正直に言うならそれを赦し、きよめて下さって日々新しくされて新しい人生を生きるようにしてくださいます。

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