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BibleMsg > マタイの福音書 > 14Matthew16M あなたのみこころのように

14Matthew16M あなたのみこころのように

投稿者: Jubf 掲載日: 2014/11/30 (983 回閲覧)
2014年マタイの福音書第16講

あなたのみこころのように

御言葉:マタイの福音書26:31−56
要 節:マタイの福音書26:39「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」」

先週、神様が収穫感謝祭の礼拝を大きく祝福してくださったことを心から感謝します。私たちクリスチャンにとってすべての事について感謝することは、キリスト・イエスにあって神様が私たちに望んでおられることです。(?テサロニケ5:18)。ところが、私たちの日々の生活はどうでしょうか。いつも喜んで感謝することができているでしょうか。なかなかできない場合もあると思います。むしろ、苦しくて悲しくて辛い時もあるでしょう。目の前にある重い十字架のゆえに、苦しみ悶える時もあるはずです。実は、イエス様もそのようなことを経験なさいました。イエス様は十字架の死を目の前にして、どうしてよいか分からない悲しみを経験なさいました。悲しみのあまり死ぬほどでした。では、イエス様はどうやってそういう悲しみを乗り越えて神様の御心を行なうことができたでしょうか。それは祈りによってです。イエス様は私たち全人類を救うために汗を血のしずくのように大地にしたたらせながら祈られました。そのイエス様の祈りは「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と言うことでした。この時間、このゲツセマネの祈りを通して本当に成熟した祈りを学ぶことができるように祈ります。

マタイの福音書26章にはイエス様が十字架にかかって死なれる直前の出来事が記されてあります。その時にユダヤの地では過越の祭りを迎えて、小羊をほふる準備も整えました。何千、何万頭もの小羊をほふろうとしていました。あちこちから「メーメー」鳴き声が聞こえていました。その翌日、イエス様は、世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネ1: 29)として十字架にかかって死なれます。神様が計画し、準備された通りにイエス様は私たち人間の罪を背負って十字架につけられ、贖いの血を流されるのです。そこで、イエス様は、地上での最後の晩餐会の時に、ご自分が流される血の意味について教えてくださいます。それは、私たちの罪を赦すために多くの人のために流される契約の血です。
26章26〜29節をご覧ください。「また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これはわたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。ただ言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどう酒の実で造った物を飲むことはありません。」とあります。ルカの福音書22章19節を見ると、イエス様はパンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」と言われました。イエス様は最後の晩餐の時に聖餐式を制定し、それを行なうように命じられたのです。それで、今日も私たちはイエス様を覚えて聖餐式を行ないます。
最後の晩餐を終えたイエス様は弟子たちと共にオリーブ山のゲツセマネという所へ出かけて行きました。「ゲツセマネ」には「油絞り」という意味があってそこはオリーブの実を砕いて油を絞る場所でした。イエス様はここで「血の汗」(ルカ22:44)を流して祈ります。その姿は、ひきうすにかけられたオリーブの実のようであったでしょう。イエス様はそのゲツセマネの祈りを前にして弟子たちにどんなことを言われましたか。
31、32節をご覧ください。「その時、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」とあります。ここで「わたし」とは父なる神様であり、「羊飼い」はイエス様です。そして散り散りになる「羊の群れ」は弟子たちのことです。イエス様は弟子たちがイエス様のゆえにつまずき、散り散りになることを預言されました。しかも、明日か一週間の後でもなく、今夜、弟子たちが散り散りになると言われたのです。すると、ペテロがイエス様に答えて言いました。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」と。ペテロは何があっても自分は決してつまずかないと言い張りました。そんな彼にイエス様は何と言われましたか。
34節をご覧ください。イエス様はペテロに言われました。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」イエス様はペテロがいかに弱い存在かを示してくださいました。自分が言い張った誓いでも守れない、一日も経たないうちに破ってしまう存在だということです。ペテロは自分の弱さが指摘されると「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」ともっと強く自分の意志をアピールしました。実際に彼は何もかも捨ててイエス様に従って来た人です。それほどイエス様に対する忠誠心が燃えていたのです。でも、彼は自分の弱さに気づいていませんでした。また、自分の背後に働いているサタンの力も知りませんでした。
このように、人間は自分の弱さを知らなければ神様に頼ろうとしません。たいてい、ペテロのようにプライドのある人は神様に祈ろうとしません。自分を信じて頑張るけれども祈りません。自分の弱さを認めたくない本性的な高慢があるからだと思います。だから、人は本当に絶望的な自分の弱さが示されることがなければ神様に頼って祈ろうとはしません。しかし、イエス様はどうなさいましたか。
36節をご一緒に読んでみましょう。「それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」イエス様は「祈ろう」となさいました。しかも「祈っている間」と言っておられるのは、祈るのに時間がかかると言うことです。そこで、イエス様は弟子たちに「ここにすわっていなさい。」と頼まれました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」とも言われました。ここで、イエス様は悲しみのあまり死ぬほどであると言っておられます。たいてい、人は自分の子どもや弟子のような人には弱音を吐けません。しかし、イエス様は弟子たちに「悲しみのあまり死ぬほどです。」と言われました。それはイエス様が人類のすべての罪を背負って神様の呪いを受ける十字架の死を目の前にして限りなく弱い自分を知って祈ろうとしたからです。ではそのような時、イエス様はどんな姿勢で祈られましたか。
39節をご一緒に読んでみましょう。「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』」イエス様は最初に「わが父よ」と祈られました。それほど親しみと信頼があるということです。事実、神様とイエス様、聖霊は三位一体です。一つなのです。ところが、「この杯を飲む」とは神様とイエス様が断絶を味わうことです。イエス様は神様から見捨てられるのです。自分の関係のない人との断絶は悲しくありません。しかし、親しければ親しいほど、一体感が強ければ強いほど見捨てられた時の悲しみは大きいものです。ところが、イエス様は永遠の昔からひとつになっていた神様との交わりを切り離され、見捨てられる経験をなさるのです。ですから、イエス様は、文字通り死ぬほどに悲しむ中で「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られました。しかし、自分の気持ちを表わすことだけに留まりませんでした。イエス様は、「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈られています。イエス様は、父のみこころが成し遂げられることを、ご自分の願いよりも優先されました。
ここで、私たちクリスチャンが求めるべき究極的な祈りの姿勢、成熟したクリスチャンの祈りを学ぶことができます。私たちが何でも自分のほしいままに祈ることも悪くありません。私たちは自分のありのままを神様に告げて祈る必要があります。自分が苦しみの中にいるなら、苦しいと言うのです。悲しみの中にいるなら、悲しいと告白するのです。ただ、いつまでもそれだけなら、信仰の成長は止まってしまうでしょう。祈りを通して神様を経験することができなくなって行きます。
私たちがもっと成長して行くことを願うなら、祈っている間に神様を経験する必要があります。まず自分の苦しみも、悲しみもありのままで主の御前に告げます。そこから自分の願いを求めて祈ります。五分でも十分でも祈ってみるのです。イエス様のようにひれ伏して祈ることもいいでしょう。そのようにして祈っている間に神様の臨在を経験します。そして、祈っている間に神様の御心が示されると、自分の願いではなく、神様の願いを受け入れることが信仰です。イエス様は、私たちに模範を残されました。自分の願うことではなく、神様のみこころがなされることを願う祈りです。これこそ私たちのあるべき祈りです。
実は、イエス様が悲しみのあまり死ぬほどの苦しみを経験しながらも神様の御心を求めたからこそ人類の救いのみわざが成し遂げられました。私たちは自分の願いより神様の御心を求めることによってこの日本と人類の救いのみわざに用いられるようになります。ではイエス様が祈っている間に弟子たちは何をしていましたか。
40節をご覧ください。イエス様は祈り終えてから弟子達のところに戻って来られました。ところが、弟子達は眠っていました。そこで、イエス様は「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。」と叱られました。多くの人は「一時間も祈るんですか。」と言います。一時間も祈ることは長いと思っているからでしょう。ところがイエス様は「一時間でも…」と言われました。ここで、イエス様が弟子たちに、最小限一時間でも祈れる人になってほしいと願っておられたことが分かります。時には一時間でもイエス様と一緒に祈ることを願っておられるのです。私たちが一時間でもイエス様と一緒に祈ることができるように祈ります。ではなぜ弟子たちは目を覚まして祈らなければなりませんか。
第一に、サタンの誘惑があるからです。41節をご覧ください。「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。」私たちが祈り続けるのは、誘惑に陥らないためです。今日もさまざまなことを通して私たちを誘惑しています。眠り、食欲、SNS,インターネットなどが私たちを誘惑します。特にサタンは私たちに「忙しいからしようがない」と思わせて祈らないように誘惑していると思います。私たちに「忙しい、忙しい」と思わせて祈らない人生を送るように誘惑しているのです。ですから、私たちはそういう誘惑に陥らないように祈らなければなりません。実は忙しいからこそ祈らなければなりません。宗教改革者マルティン・ルターは、友人へ手紙にこう語っています。「今日、私は2時間の祈りを必要とするほど忙しかった」。私たちはこうした感覚からはずいぶん遠いところに生きています。忙しければまず削ってしまうのが祈りの時間、あるいは礼拝かもしれません。しかし ルターは今日なすべき一日の務めの重さを思えば思うほど神様の助けと導きなくして務めを果たすことができない自分であることを知っていました。それゆえ「2時間の祈りを必要とするほど忙しかった」のです。つまり、忙しければ忙しいほどもっともっと祈っていたのです。私たちも忙しければ忙しいほど祈る生活ができるように祈ります。
第二に、肉体が弱いからです。イエス様は「心は燃えていても、肉体は弱いのです。」と言われました。その時に、ペテロ達の心は燃えていたかも知れません。しかし、肉体は弱くて眠ってしまいました。ではイエス様の肉体は特別に強かったのでしょうか。いいえ。人となられたイエス様の肉体も私たちと同じく弱かったのです。イエス様がお疲れになっていた時は、突風が吹いてきても船の中で眠っておられました。それほどイエス様の肉体も弱かったのです。だからこそ、イエス様は祈られました。ご自分の弱さを認めたからこそ神様に頼らざるを得なかったのです。本当に自分の肉体の弱さが分かるなら謙遜になって祈るはずです。どうか、自分の弱さを認めていつも祈り続ける者になることができるように祈ります。
42節をご覧ください。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」この祈りは最初の祈りと内容が少し違います。最初の祈りでイエス様はできるならその杯を過ぎ去らせてくださるように祈りました。しかし今度は「どうぞみこころのとおりをなさってください。」と祈られました。イエス様が二度目の祈りをして戻って来て、ご覧になると、弟子達はまたも眠っていました。目をあけていることが出来なかったのです。イエス様は、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じ事を繰り返して三度目の祈りをされました。イエス様は孤独な祈りの戦いをなさいました。ではこのように祈りを続けられた後、イエス様の姿はどのように変わりましたか。
45、46節をご覧ください。それから、イエス様は弟子達のところに来て言われました。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」イエス様が祈っている間に何が起こったでしょうか。悲しみのあまり死ぬほどだった姿ではありません。勝利の確信に満ちた姿が思い浮かばれます。イエス様は祈っている間に神様を経験しておられたことが分かります。祈りを通して悲しみの十字架を担える力をいただきました。イエス様は祈りによってすでに十字架への道を邪魔するサタンに打ち勝たれたのです。ですから、イエス様は力強く「見なさい。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。」と言っておられます。イエス様は祈りによって確信と力を得られたことが分かります。神様は祈っておられるイエス様の味方になって勝利を与えてくださいました。
神様は祈る人の味方です。私は収穫感謝祭を通して今年を顧みてみると詩編118章5〜9節が思い浮かびました。開いてみてください。「苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。主は、私に答えて、私を広い所に置かれた。主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。主は、私を助けてくださる私の味方。私は、私を憎む者をものともしない。主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよい。」とあります。私たちが苦しみのうちにいても、主を呼び求めるなら、主は私たちを助けてくださいます。主は私たちの味方だからです。私たちが祈りによって霊的な戦いで勝利し、自分の十字架を負うことができるように祈ります。何よりも祈りによって神様のみこころに従うことができるように祈ります。

結論的に、イエス様は押し迫って来る苦しみと試練を前にして祈られました。神様の御前でひれ伏して切実に祈られました。 『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』イエス様はこの祈りによって激しい葛藤と悲しみを乗り越え、積極的に十字架を負って行かれる力を得られました。そしてその祈りがあったからこそ、人類の救いのみわざを成し遂げることができました。私たちもイエス様のように祈ることによって神様のみこころに従い、人類の救いのみわざに用いられますように祈ります。

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