日本UBF案内 祈りの課題 日ごとの糧 メッセージ・説教一覧 問題集一覧 m

ユーザメニュー
日毎の糧
ログイン
ログイン
パスワード

  新規登録 |  
BibleMsg > ルカの福音書 > 04-5 民全体のためのすばらしい喜びの知らせ

04-5 民全体のためのすばらしい喜びの知らせ

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/24 (2152 回閲覧)
2003年ルカの福音書第5講

民全体のためのすばらしい喜びの知らせ

御言葉:ルカの福音書2:1?20
要 節:ルカの福音書2:10,11「御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」

今日の御言葉は野宿で夜番をしながら羊の群れを守っていた羊飼いたちに臨まれた御使いのメッセージです。御使いは彼らに言いました。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」すべての聖書のお話は実に基づいて事実的に描写しています。決して大げさに言うことはありません。ところが、御使いは喜びだけではなく、素晴らしい喜びを知らせに来た。」と言っています。どうして素晴らしい喜びの知らせなのでしょうか。また、この知らせを聞いた羊飼いたちの反応はどうだったでしょうか。この時間、聖霊が私たちの心に素晴らしい喜びを知らせてくださるように祈ります。私たちが羊飼いたちのように素直な心からこの知らせを伝える生活ができるように祈ります。

 ?。イエス様がお生まれになった時(1-7)。

歴史家であった著者ルカはイエス様がお生まれになった時の歴史的な背景を記しています。1節をご覧下さい。「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。」とあります。紀元前後にしてローマ皇帝アウグストは全世界の住民登録をせよという勅令を出しました。当時、ローマは「ローマの平和」(Peace of Rome)というスローガンをあげていましたが、この住民登録は貧しい植民地の民たちをますます苦しめものでした。人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行かなければなりませんでした。お正月とかお盆の時、故郷に帰ることは楽しい事かも知れません。自分の町を離れている人には故郷が懐かしくなる時があります。しかし、植民地の民が住民登録のために自分の町に帰ることはいやなことでした。しかも、この住民登録は自分たちに重い税金がかけられるため、またやっかいな仕事を押しつけられるためのものでした。ヨセフもマリヤと一緒にこの嫌な旅をしなければなりませんでした。特に彼は身重になっているいいなずけのマリヤと一緒にガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行かなければなりませんでした。彼はダビデの子孫であり、血筋でもあったからです。ヨセフにとって自分がダビデの子孫であることが名誉であっても、身重になっているマリヤと一緒にベツレヘムまで行くことはとても嫌なことだったでしょう。特に、どうして今行かなければならないのかという思う時、ローマ皇帝に対する不満がますます大きくなりました。
ところが、ちょうどその時に住民登録の勅令があったため、ナザレでお生まれになるはずのイエス様は預言のとおりにユダヤの町ベツレヘムでお生まれになりました。皇帝アウグストは聖書のことは何も知らずに勅令を下したはずですが、その勅令によって聖書の御言葉は成就されて行ったのです。
ここで私たちは、神様が天地、国々、歴史をも支配しておられることを学ぶことはできます。というのは、イエス・キリスト誕生の地は、旧約聖書創世記の時代から何度も、何度も預言されていたからです。ミカ書5章2節に「ベツレヘム・エフラテよ。 あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのためにイスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」とあります。
 何百年前から、神様は"わたしはベツレヘムに救い主を生まれさせる”と、預言してあったのです。この時期の住民登録がなければ、本当はイエス・キリストは"ナザレ"で生まれていたはずです。しかし、彼らは住民登録の為に、ベツレヘムに向かい、これによってキリストはベツレヘムで生まれることとなりました。
 この事から、私たちの神様は、信仰の人たちだけではなく、大国ローマ帝国の皇帝アウグストを支配し、導かれる王の王、主の主であられるということが分かります。私たちの神様は、歴史も、時代も、国も超えてすべてのすべてを支配しておられるお方なのです。 
私たちはクリスチャンライフに対してよく"信仰生活"と言っています。そして多くの人々は"信仰"と"生活"と分けて考える傾向があるのではないかと思います。つまり、心の中の事は"信仰"で安らぎを得たり、平安を得ると思っています。精神世界のために信仰が必要だと思うのです。しかし"生活"の方は、自分で頑張なければないんだと、二つを分けて考えてしまうのです。しかし、私たちの神様は、この自然も、歴史も、国も超える、王の王、主の主であられるのです。同時に細かいところまで支配し、導いておられます。すべての出来事が神様の御手の中にあるのです。
この間、私たちは李リベカ宣教師が今年も韓国学校で勤めることができるように祈りました。韓国学校では他にも何人かの先生が再契約を望んで積極的にロビー活動をしていたようです。しかし、リベカ宣教師は、同労者たちに祈りを頼み、ただ祈りました。結局、人に頼らなくても、人々の心をも支配しておられる神様が祈りに答えてくださいました。ほんとうに、私たちの神様は私達の全てのものを支配して下さるお方です。神様は私達の生活の只中に来てくださり、その中に御業を表してくださるのです。私たちが全ての出来事が神様の御手の中にあるという確信を持って具体的に神様を体験する信仰生活に励むことができるように祈ります。 
 6,7節を読んでみましょう。「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」ナザレからベツレヘムまでは徒歩で五日の道程です。マリヤはいつ生まれるか分からない身重の身体で、五日の道程を歩いていかなければなりませんでした。しかもそれは平坦な道ではなく、けわしい山道が多くありました。山を越え、川を渡ってやっとベツレヘムにたどり着いた時、二人はどれほど安心したことでしょうか。また、ヨセフはどれほど熱心に宿を捜し廻ったのではないでしょうか。ところが、宿屋には彼らのいる場所がありませんでした。「宿屋には彼らのいる場所がなかった」のです。子供が生まれそうだからと、どんなに拝んで頼んでも、彼らの入る余地はありませんでした。二人はどんなに心を痛めたことでしょうか。ふたりは、長い旅のために、何も無いことではなくてせめても静かで清潔な所で、安らかに寝かせてあげたかったでしょう。しかし不自由な旅先で、我が子を寝かせた床は草を入れる飼い葉桶でした。牛や馬の唾液が染み込み、そこここに糞尿が散乱する、不衛生で汚い家畜小屋でした。
しかしこれが、私たちの救い主の王座となりました。イエス様は最も低い所より、更にもっと低い所に降られることによって、私たちの救い主となってくださったのです。これに対してパウロは言いました。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(?コリント8章9節)。と。そうです。イエス様は私たちを富む者とするためにご自分を低くされました。
人は、より高い地位、豊かな生活、名誉や学歴、有利な職業を求めて、上へ上へと昇ろうとします。それに対して、私たちの主キリストは神の御子としてのすべての栄光を捨てられました。神のあり方を捨て、見栄えも輝きも捨てて、下へ下へとへりくだってきて下さいました。それは、すべて、疲れた人、重荷を負っている人を迎え入れるためでした。マタイ11:28,29には「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」この世で、疲れた人、重荷を負っている人たちは安らぎを求めます。しかし、高慢な人のところでは安らぎを得ることができません。私たちはへりくだっている謙虚な人との交わりを通して心に平安と憩いを得ることができます。イエス様はすべて、疲れた人、重荷を負っている人たちに安らぎを与えるためにこの世のだれよりもご自分を低くされました。私たちを汚れた罪から救って安らぎを与えるために、汚い家畜小屋の飼い葉桶にお生まれくださったのです。何よりも罪人を招くためにご自分を低くされました。イエス様は「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」と言われましたが、そのとおりです。イエス様は、まさしく罪と汚れにまみれた、この私たちの心を王座とするために、飼葉おけにお生まれくださったのです。なぜならこの汚れた罪の心こそ、汚れない神の御子を必要とするからです。
私たちのゴミ箱のような罪の心にまで低くなられたイエス様の謙遜と愛を心から感謝します。主は今、信じる者の心を宮として、そこに住まわれます。心を閉じて上へ上へと上がろうとして人の心ではなく、飼葉おけのような卑しい者の心、へりくだっている心の真中に、来て住んでくださるのです。私たち一人一人が心を遜らせて幼子イエス様を受け入れて私たちのうちに住まわれるイエス様とともに歩む生活ができるように祈ります。また、飼葉おけにお生まれになったイエス様の謙遜を見習い、実践する者として生きるように祈ります。

?。素晴らしい喜びの知らせ(8-20)
8?12節は天使が羊飼いたちに伝えてくれたすばらしい喜びの知らせです。イエス様がお生まれになるその夜、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていました。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れました。天使は彼らにクリスマスのメッセージを伝えてくれました。
10,11節をご一緒に読んでみましょう。“御使いは彼らに言った。「恐れる事はありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」”御使いが伝えた素晴らしい喜びの知らせは、救い主がお生まれになったことです。この御言葉から私たちは私たちに救い主が必要であることが分かります。ではどうやって飼葉おけに寝かされた赤ん坊が私たちを罪から救うことができるでしょうか。たとえ、イエス様は飼葉おけに寝かされていても、創造主であるからす。ヨハネの福音書1章3節は言います。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」そうです。イエス様はすべてのものを造られた創造主なのです。しかし、イエス様は私たちを罪から救うために創造主としてのすべての栄光を捨ててこの地に降りられました。
多くの人々は自分の人生を運命的に考えています。運が良ければ良くなるだろうし、運が悪ければいくら、がんばってもしようがないと思っているのです。イエス様はこのようにすべてを運命に任せている哀れな人を救うために運命的な姿で来られました。貧しく悲しい人生を生きている人々を慰め、すべての悲しみから救うために悲しい者となられました。まな、彼らを富ませるために最も貧しくなられました。
私たち人間にはさまざまな問題があります。人々はそれらを運命的に考えてあきらめたり、悩みすぎてうつ病にかかったりします。さまざまな問題のために恐れ、悩み、苦しんでいます。多くの哲学者、心理学者、精神科医者たちが人間の不幸の原因、精神病の原因を究明して治療するために励んでいます。しかし、聖書は人間の一番根本的な問題であり、大きな問題は罪であると言っています。聖書はひとりの人アダムを通して罪がこの世に来たと言っています。罪は人間を神様からの栄誉を受けることができない運命的な存在にならせてしまいました。ローマ3:23を見ると「 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」とあります。またローマ6:23節は言います。「罪から来る報酬は死です。」私たちがよく知っているとおり、死は人々を運命主義者にならせます。人々は死のために、死に対する恐れのために、人生を悲観的に、運命的に生きています。彼らは「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか(?コリント15:32)。」ということになっています。しかし、人は死ですべてのことが終わるのでもありません。人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっています(へブル9:27)。罪を犯した人間は神様のさばきを受け、永遠に消えない地獄の火の中に投げ込まれて永遠の苦しみを受けるようになります。これが第二の死です。しかし、神様はこんなに惨めな私たちを救うためにご自分のひとり子イエス様をこの地に送ってくださいました。神様は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛されました。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです(ヨハネ3:16)。イエス様は罪のために、死に、死後にはさばきを受けて滅びるしかない私たちを、罪から救い、永遠のいのちを持たせるために来られたのです。そしてだれでも幼子イエス様を救い主として受け入れ、信じるなら、救われます。また、聖書は、きょう、救い主イエス様はあなたがたのためにお生まれになったと言っています。だれでも、きょうイエス様を受け入れて信じるなら、救われて神様の子どもとして永遠のいのちを所有し、新しい人生を生きるようになります。
イエス様はこの地におられた一生の間、この救いのみわざのために働かれました。多くの誤解と迫害を受けながらも人の救いのために重労働をなさいました。ついに、イエス様は神様の小羊として十字架に付けられて死なれました。そしてご自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました(?ペテロ2:24a)。預言者イザヤはイエス様が十字架の上で私たちの罪を贖った事実を次のように表現しました。「しかし、彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼のうち傷によって私たちは癒された。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」と。実にイエス様は私たちのすべての罪と咎を負われました。そして私たちのすべての罪を赦してくださいました。イエス様は十字架の死によって私たちのすべての罪を贖い、三日目に死者の中からよみがえられてご自分が救い主キリストであることを明らかにされました。イエス様は十字架と復活によってご自分が救い主である事を明らかにされたのです。このイエス様の誕生こそ、民全体のための素晴らしい喜びの知らせです。私たちを罪と死から救われた私たちの救い主イエス様の御名をほめたたえます。イエス様の誕生を天使たちも喜びたたえました。
13,14節をご一緒に読んでみましょう。“すると、たちまち、その御使いといっしょに多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」” 大勢の御使いが現れ、神様の恵みをほめたたえました。軍勢の天使たちの大合唱が野原に響きわたったのです。なんと感動的な光景だったことでしょう。
 ではこの素晴らしい光景を目撃した羊飼いたちは何をしましたか。
15、16節をご覧ください。「御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。」とあります。彼らは、キリストがベツレヘムでお生まれになったと聞くやいなや、時をおかずにキリストにお会いしに行ったに違いません。「急いで行って」とあります。彼らは、自分たちがいない間、だれが狼から羊を守るだろうと論じ合いませんでした。言い争いもしませんでした。ただ命ぜられた通りに行ないました。自分たちの羊のことは、自分たちが今そのみこころに従おうとしているお方にゆだねたのです。
それは、「御使いが確かにおられる」ということを信じたからでしょう。神様は御使いを通して自分たちのことを助けて下さると信じたから、すべてを主に委ねました。
私たちは時々、「あれができない、これができない、あれも心配、これも心配だ。わたしはこういう者だ。」と思います。しかし、そういう心配は要りません。もし私たちが本当に神様に従おうとしているなら、神様は私ののすぐそばに来て下さいます。また私を助け、私に伴って下さるのです。私たちを救ってくださった神様は、すべてが最善になるようにしてくださいます。神様は夫を助けてくださいます。妻を慰めてくださいます。子どもたちを導いてくださいます。家を守ってくださいます。持ち物を保ってくださいます。ですから、すべてを主に委ねて主の御言葉に従う人は幸いです。
ルカ11章27?28節を開いて見ましょう。
「イエスが、これらのことを話しておられると、群衆の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。『あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。 』しかし、イエスは言われた。 『いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。 』」
 イエス様は本当に幸いなのはことばをきいて、それを守る、実践するひとだと言われました。羊飼い達も、天使の知らせを聞いて行動した、それを神様は喜ばれたのです。今日、人々はインターネットを通してありあふれるメッセージを聞くことができます。多くの信仰書籍を読むことができます。そして「あぁ良かったなぁ」と思います。しかし皆さんどうですか。 95パーセントはそれに留まってしまうのではないでしょうか。本気になって神のみことばに従う、そのところに神様は働いて下さるのです。羊飼いたちは神様の良き知らせを告げるために急ぎました。私たちも、この喜びを急いで周りの人に伝えていく、そのような働きをしていきましょう。

 結論的に、神様は今も世のすべてを支配し、ご自分の計画とおりに導いておられます。ご計画の中で幼子イエス様を私たちの救い主としてこの地に送ってくださいました。この救い主の誕生こそ、最も素晴らしい喜びの知らせです。イエス様は私たちを罪と死から救われる救い主です。イエス様を救い主として信じる者とは神様と和解して平和を持ち、永遠のいのちを所有するようになります。この時間、心を低くして幼子イエス様を受けいれ、素晴らしい喜びに満たされるように祈ります。この喜びのゆえに、この素晴らしい知らせをこの時代の若者たちに伝えつづけることができるように祈ります。

ページ移動
良く読まれた記事 04-6 御救いは万民に 04-4 救い主イエス様 次の記事
投稿された内容の著作権はコメントの投稿者に帰属します。
個人情報保護について HPのリンクについて データの引用(著作権) 聖書のデータについて お問い合わせ
Copyright ⓒ 1997- Japan UBF. All rights reserved.
日本UBF 公式サイト    HP管理者への問い合わせ