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BibleMsg > 創世記 > 14Genesis15M 一人子さえ惜しまずささげたアブラハム

14Genesis15M 一人子さえ惜しまずささげたアブラハム

投稿者: Jubf 掲載日: 2014/4/29 (927 回閲覧)
2014年創世記第15講

一人子さえ惜しまずささげたアブラハム

御言葉:創世記22,23章
要 節:創世記22:12御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

 先週、行われたイースター修養会を大きく祝福してくださった神様に心から感謝します。何よりも私たちの罪を赦し、贖うために十字架にかかって死なれ、葬られましたが死者の中からよみがえられた私たちの主イエス・キリストの御名を賛美いたします。
 今日からは再び創世記に戻ります。先々週までアブラハムの人生を見て来ました。彼は神様から「あなたは祝福となる」という約束をいただきました。でも彼は「祝福の人生」だとは言えないような歳月を過ごしました。決して平坦ではありませんでした。むしろ試練の連続だったとも言えます。75歳にして自分の生まれ故郷を離れて行きました。飢饉に直面する時もありました。愛する人ロトとの別れがあり、ロトのために戦争に巻き込まれることもありました。女奴隷ハガルのことで夫婦の危機に見舞われたこともありました。特に神様から約束された子どもが25年間も生まれませんでした。ほんとうに山あり谷ありの人生の中でさまざまな試練が彼を襲っていたのです。漸く約束の子イサクが生まれたのは、アブラハム100歳の時でした。その後も先に生まれていたイシュマエルの問題がありました。アブラハムの人生に試練が続いていたのです。ところが、またも神様はアブラハムを試練に会わせられました。
この時間、アブラハムが経験した試練を通して神様への愛と信仰を学びたいと思います。また、私たちのために備えてくださる神様を学びたいと思います。

22章1節をご一緒に読んでみましょう。「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。」とあります。「これらの出来事」とは21章に記された出来事です。神様の約束の通りに、イサクが生まれました。それはアブラハム夫婦にとって大きな喜びでした。アブラハム夫婦の不信仰によって女奴隷ハガルから生まれたイシュマエルの問題も神様の助けによって解決されました。それで、アブラハムは長い間ペリシテ人の地に滞在しました(21:34)。その間にイサクはすくすくと成長したことでしょう。6節を見るとアブラハムはイサクに全焼のいけにえのためのたきぎを負わせています。それほど大きくなっていることでしょう。
自分のことを思いだしてみると、父からたきぎ、お米、お魚などの荷物を負わせられたのは中学生の時でした。その頃、私が父と一緒に歩いていると、周りから「もう大きくなったね。お父さん。いいね。」とよく言われました。すると、お父さんは幸せそうに笑っていました。イサクも中学生の年齢になっていてアブラハムはイサクの成長を喜び、幸せを感じていたと思われます。ところが神様はアブラハムを試練に会わせられたのです。
2節をご覧ください。「神は仰せられました。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」とあります。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさい。」と言うのが神様からの命令です。単に「子どもを連れて山に行って祈りなさい」とか、「子どもを厳しくしつけなさい」というような命令ではありません。「子どもを連れて行って殺せ」という命令です。しかも全焼のいけにえとして殺すことです。
「全焼のいけにえ」とは言葉の通りに全部焼いて煙にしてささげるものです。人が牛や羊を全焼のいけにえとしてささげるときは、まず動物の頭の上に手を置いて殺します。その後その血を祭壇の周りに注ぎかけます。そして、その動物の皮をはぎ、各部分に切り分け、内臓と足は水で洗います。それから全体が全部灰と煙になるまで徹底的に焼き尽くすのです。ところが神様はアブラハムにそのようなささげ方でアブラハムを神様にささげるように命じられたのです。親にとってこれほど残酷な、非人間的な行動があるでしょうか。全く常識では考えられないことです。アブラハムにとってもこれほど残酷な試練はないでしょう。まったく理解に苦しむところです。では、なぜ神様はこんな残酷なことをお命じになったのでしょうか。何のためにアブラハムをこんなに酷い試練に会わせられるのでしょうか。私は本文の御言葉を黙想しているうちに二つのことを考えられました。

一つ目はアブラハムに神様を第一に愛することを確かめ、その愛を持たせるためです。神様を第一に愛しているかどうかを試してその愛を持つように訓練するのです。だから試練です。神様は、イサクという子が「あなたの愛している子」であることをご承知でした。イサクはアブラハムが100歳にしてやっと神様からいただいた子どもでした。しかも、彼の正妻サラとの間に生まれた唯一の子どもです。目の中に入れても痛くないほど愛していたのは言うまでもありません。さらに加えて、イサクの誕生は神様の約束の成就であったし、奇跡的な出来事でした。アブラハムはイサク誕生を通して特別な経験をしたのでいつでもどこでもイサクは神様からの素晴らしい贈り物だと証することができたでしょう。そのイサクをささげよ、というのが神様の命令なのです。ここで、神様はアブラハムに神様が与えてくださったイサクを第一に愛するか。それともイサクを下さった神様を第一に愛するかを確かめておられるのです。つまり、「アブラハムよ。おまえはわたしからの贈り物にいつまでも執着するのか。それとも贈り物の贈り主なるわたしにとどまるのか」という問いかけです。
神様は私たちに対しても、「あなたは何を第一に愛しているか」と問いかける時があるでしょう。私たちにも神様から与えていただいたものがあります。それはそれで大変尊いものです。家族も、財産も、素晴らしい信仰的な経験も、一つ一つが神様からの贈り物です。それらを尊く思って感謝し、愛するべきでしょう。しかし、そのような賜物や信仰の体験は私たちが第一に愛する対象ではありません。私たちが第一に愛するべき対象は創造主であられる神様です。私たちは心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神様を第一に愛しなければなりません。神様は聖書全体を通して神様がご自身が私たち人間をどんなに愛しておられるかを教え、私たちが神様を第一に愛することを求めておられます。ですから、この時間も神様は私たちに仰せられます。「アブラハムよ。ダニエルよ。マリアよ。あなたは何を第一に愛しているのですか。」

二つ目は神様を恐れる信仰を確かめ、その信仰を持たせるためです。神様を恐れる信仰を試してその信仰を持つように訓練されたのです。神様はイサクがひとり子であることをも承知の上でアブラハムに命じられました。「ひとり子」とはどういう意味でしょうか。言うまでもなく「一人しかいない子」という意味です。アブラハムの場合、それ以上の意味があります。アブラハムには二人の子がおりました。イサクとイシュマエルです。そのイシュマエルは「奴隷の子があなたの相続人となってはならない」ということで追い出されました。約束の子イサク一人だけが残されたわけです。神様は「そのイサクをささげなさい」と命じられたのです。すなわち「あなたの子孫は海辺の砂のように、空の星のように数多くなるであろう。あなたから出る子孫が多くの国民となる」という約束を担うたったひとりの子、そのイサクをささげなさいというのが神様の命令だったのです。これは神様を恐れる信仰がなければ従えません。神様を恐れることができず、少しでも疑いがあれば「これこそ残酷だ、裏切りだ、非人間的だ」と騒ぎ立てるでしょう。神様はアブラハムがほんとうに神様を恐れているかを確かめ、その信仰を確実に持たせようとされたのです。それでは神様の命令に対するアブラハムの反応はどうでしたか。
3節をご覧ください。「翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクといっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。」とあります。アブラハムは信じられないほど淡々と行動しています。何も大騒ぎしていません。黙々と、すべきことをしている姿が浮かびます。翌朝早くから行動するアブラハムから「さすがにアブラハムだなあ」とも思われます。羊や牛などを全部焼いて煙にするほどのたきぎだからかなりの量だったでしょう。それを割ったことを考えると、額から流れる汗をあごからポタポタ落としていたことでしょう。それでも何もしゃべらず、神様から言われた場所に着くまで三日も歩き続きました。
三日目にアブラハムが目を上げると、神様がお告げになったその場所がはるかかなたに見えました。それでアブラハムは若い者たちにろばといっしょに残るようにしました。そして全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをイサクに負わせました。息子自身にたきぎを背負わせるときのアブラハムの心はどうだったでしょうか。それも痛々しい限りです。アブラハムは火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行きました。この姿を見ると、アブラハムは「イサクを全焼のいけにえとしてささげなさい。」という命令を、残酷だ、非人間的だという感情的なレベルでとらえていません。アブラハムはそれを「神様への礼拝」として受け止めていました。だから、彼は若い者たちに「私と子どもはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところの戻って来る」と言ったのです。
モリヤの地に向かう途中で、イサクは父アブラハムに話しかけて言いました。「お父さん。火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」この時、父親のアブラハムは何と答えたらいいでしょうか。なかなか悲しみを押さえることができなかったでしょう。泣き出しそうになったのではないでしょう。しかし、彼はイサクの質問に対して「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」と答えました。何と素晴らしい信仰の答えでしょうか。神様が備えてくださると信じ切っています。それに対してイサクもイサクです。「それはどういう意味ですか。どうしてそれが分かるんですか。」とも言える場面です。しかし彼は何も言っていません。父親を信頼し切っています。親子が互いに信頼し切っています。素晴らしい親子関係です。
9節をご覧ください。神様が告げられた場所に着いた時、アブラハムはその所に祭壇を築きました。その上にたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置きました。その時、イサクは反発して逃げることもできました。たきぎを負わせられるほどの力もあったからこそ反抗もできたのです。しかし、イサクは反発せず、親の指示、神様の御心に従いました。イサクの信仰と従順を見ることができます。それは父なる神様に対するイエス様の姿勢を思い浮かばせてくれます。イサクの従順はやがて神の御子イエス・キリストが神様の小羊として黙々と神様の御心に従われたことを象徴しているのです。
10節をご覧ください。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとしました。ここですでにアブラハムはイサクを殺していると思います。いや、全焼のいけにえとして神様に捧げ切ったのです。彼はイサクを捧げることによって、自分自身を神様に全く捧げ切ったのです。アブラハムがまさにイサクをほふろうとしたその時、主は主の使いを通してアブラハムに呼びかけました。「アブラハム。アブラハム。」。刀を振り上げ、今にも振り下ろそうとしているアブラハムに対して神様は、「ストップ!」とは言われませんでした。「アブラハム、アブラハム」と二度名前を呼ばれました。ここで神様はアブラハムの名を2回呼んでいます。今までも神様がアブラハムの名を呼ばれることは何度もありました。でも2回も呼んだことはありませんでした。今回は「アブラハム、アブラハム」と二回も呼んでいます。それほど事態が緊迫していたことでしょう。その緊迫感が伝わって来ます。主は彼がイサクを主にささげたと認められるまでは黙っておられました。しかし、神様を第一に愛し、神様を恐れるアブラハムの信仰を確認した時には二度も彼の名前を呼びました。
12節をご一緒に読んでみましょう。「御使いは仰せられました。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」神様は神様を恐れるアブラハムの信仰を受け入れてくださいました。神様はアブラハムがまさしくひとり子イサクをささげたと見なしてくださったのです。
 13節をご覧ください。アブラハムが目を上げて見ると、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいました。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげました。アブラハムはその場所を名付けて「アドナイ・イルエ」、つまり「主が備えてくださる」と呼びました。これはアブラハムの信仰告白です。アブラハムの信仰に対してヘブル人への手紙の著者はこう言います。「信仰によって、アブラハムは、試みられた時イサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」アブラハムの行為は、神様がご自身のひとり子、イエス・キリストを死に渡し、三日目によみがえらせたことを指し示す「型」であると言われています。神様は信仰によって生きる人々の「アドナイ・イルエ」の神様です。神様は信仰によって生きる人々の必要なものを備えてくださる方です。アブラハムは今回のことを通して「主は常に私たちを見守り、最善のものを備えていてくださる」ということを経験し、確信したでしょう。ほんとうに、アブラハムのように神様を第一に愛し、神様を恐れる人には必ず神様が最善のものを備えていてくださいます。神様はアブラハムが「アドナイ・イルエ」という真理を体験し、それがもととなって「主の山に備えあり」という言葉が人々に覚えられるようになるために、この試練を与えられたということにもなるわけです。「主の山に備えあり」という真理はそれほど大事なのでしょうか。私自身も経験して来た真理です。皆さんもご存知のように私の長男は中学校まで韓国学校で勉強をしたので都立の戸山高校は遠く感じられました。ところが、私は説明会の時に神様から「主の山に備えあり、戸山にも備えあり」と言うことが示されて確信し、挑戦することができました。その結果長男が卒業することだけではなく次男も戸山高に通っています。「アドナイ・イルエ」は今の真理なのです。
 16-18節をご覧ください。神様はアブラハムに対する祝福を確証されました。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」 ここで、私たちは神様の約束がアブラハムの従順を通して成就して行ったことを学ぶことができます。アブラハムが神様を愛し、恐れて神様の御声に聞き従った時に主は彼に祝福を注いでくださいました。神様はアブラハムとの約束にアブラハムの神様への愛と信仰による従順も求めておられたのです。神様はアブラハムの愛と神様を恐れる信仰を見てアブラハムの子孫を、空の星、海辺の砂のように増し加えると言われました。また、将来キリストを通して与える敵に対する勝利と救いの祝福も啓示してくださいました。神様はアブラハムの子孫であるイエス・キリストの十字架と復活によって罪と死の力を打ち破り、地のすべての人々が祝福を受けるようにしてくださいました。アダム一人の不住順によって人々は罪と死に支配されるようになりました。しかしアブラハムひとりの従順によって救いのみわざは始まり、さらにイエス・キリストの従順によって救いのみわざは完成されました。

 23章にはサラの死に関する記事です。そこにも神様の備えがありました。それでアブラハムは自分の妻サラをカナンの地にある、マクペラの畑地のほら穴に葬ることができたのです。

以上を通して私たちは神様への愛と信仰、神様の備えを学びました。どうか、日々の生活の中で神様を第一に愛し、神様を恐れる生活ができるように祈ります。神様は私たちのためにベストを備えておられることを信じて今週も力強く信仰によって生きるように祈ります。

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