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2014年度、日本UBF新年修養会 第2講 そこの水は良くなる

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2014/1/3 (977 回閲覧)
そこの水は良くなる


御言葉:エゼキエル47:1−12
要 節:エゼキエル47:8

2014年度、日本UBF新年修養会 第2講

そこの水は良くなる

御言葉:エゼキエル47:1−12
要 節:エゼキエル47:8

彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海にはいる。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。

エゼキエルはBC623年に生まれました。この時期はイスラエルがバビロンの属国として、バビロンの支配を受けていた時代です。イスラエルという国は周囲の大国に囲まれ、なかなか思いのままに暮らすことが許されませんでした。むしろ、イスラエルの人々は大きくなったバビロンに侵略され、優秀な若者たちは捕虜となりました。しかも、このように若者の侮辱的な捕虜生活は三回も続きました。その一回目は王族や貴族たちが捕虜とされ、バビロンの文化を身におぼえさせらたことでした。聖書の「ダニエル」がその時代の一人でした。

今日の本文に登場する若い青年、エゼキエルは第二回目の捕虜作戦に捕虜となりました。エゼキエルは約20年間の間、暮らしていた故郷エルサレムを離れ、カルデヤの地のケバル川付近で暮らさざるを得ませんでした。人間的に見れば、彼らは先進国の言葉や最新文物を学ぶ特別な立場でしたが、霊的に見れば若々しい青年たちを「干からびた骨」のように、「干上がった川」のようにさせました。信仰心は薄まり、神は必要な存在から離れました。彼らに必要なのは神の存在より、適応能力と、コミュニケーション能力でした。

エゼキエルはこのような捕虜たちに対する牧者心情がありました。エゼキエルを読んでみると、彼がどれだけ苦労し、心を痛め、危惧な人生を送っていたのかがよくわかります。しかしながら、彼はこのような暗闇の人生の中、二つの独特なビジョンを見ます。37章に現れる「干からびた骨」がその一つです。37章4節〜6節「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る」と。そして、二つ目が今日の本文の47章に現れる「河の水」のビジョンです。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海にはいる。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。」と。

祭司を父とし、霊的には誇りを持っていたエゼキエルでしたが、エルサレムの神殿がある祖国イスラエルを離れ、神を忘れ、礼拝を忘れてしまった捕虜たちや自分自身に、臨んだこのビジョンは独特なものでした。エゼキエルが見たビジョンはどんな意味があるのでしょうか。また、荒野のような日本で暮らす私たちには、どんなメッセージが込められているのでしょうか。今日の御言葉を通して恵みがありますよう、祈ります。

47章の1-2節をご覧ください。エゼキエルは幻の中、神殿から水が流れるビジョンを見ました。水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていました。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていました。神殿から水が流れ出るというのは何を意味しますか。新約聖書を見ると、何と、イエス様がこの言葉を解説している部分があります。ヨハネの福音書、7章38ー39節です。イエスはエゼキエル書を思い出しながら、次のように言われたのです。「わたしを信じる者は、聖書(エゼキエル)が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と。使徒ヨハネは「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」と、補足しています。

神殿から水が流れ出るとは、神様を認め信頼する人々が受ける霊的な祝福のことを指します。エゼキエルの時代は、霊的に見れば真冬の時代でした。神を信頼し、神のために神殿を築き上げ、季節を守り、安息日を守ってきた人々はいなくなりました。彼らはみんなバビロンの捕虜となりました。さらに、イスラエルという国は北と南に分裂され、お互いに深い不信が高まりました。ついに、北のイスラエルが滅ぼされ、南のユダさえも風前の灯のようでした。ダニエルのように、王族や貴族たちにはバビロンの文化を注入し、イスラエルの誇りは薄まりました。エゼキエルのような祭司の子孫たちには神様の信仰を薄め、バビロンの宗教的儀式を教え込みました。このバビロンという国の力は衰える様子がなく、ますます強くなって行きました。誰もその勢いを止めることができませんでした。それだけではありませんでした。バビロンの文化は魅力的で、その生活習慣は合理的なものでした。それに比べると、神に頼って生きるイスラエルの民たちは貧乏で軟弱でした。

しかし、その時、エゼキエルは神殿から水が流れるビジョンを見ました。錆ってゆく神殿の方から街を潤す水が発し、町全体を潤すビジョンを見ました。今のままだと間違いなく、そろそろその終わり近づいている、神殿から水が流れる幻のビジョンを見ました。しかも、その水の流れはどんどん大きくなり、一千キュビトを測り、その水を渡らせると、それは足首まで、さらに一千キュビトを測り、その水を渡らせると、水はひざに、さらに一千キュビトを測り、その水を渡らせると、水は腰に、さらには一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となりました。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となりました。その川の水はもはや、人間が測りきれないほどの分量にまで増え続けました。

ヨハネの福音書、1:16節を見ると、ヨハネはイエスキリストの中にいる人々のことを次のように説明しています。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」と。イエスキリストの中の恵みは、エゼキエルが見た、あの幻のビジョンの実現でした。初めは足首ほどの恵みですが、その恵みはもう測りきれない喜びと感動に包まれ、満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みに満たされるのです。エゼキエルはまさに、この恵みの証人だったのです。体は異国の地に送り込まれた捕虜でしたが、その魂は、神様の中にある幻のビジョンに満たされていたのです。

1985年、GRSB夏の集会に参加していた私は「主はキリスト」とするメッセージに感動を覚えていました。所感を書いて発表していた私の魂は、全速で走り出し始めた新幹線のように猛烈な勢いで動き出しました。私は軍を除隊し、年老いた学生でしたが、大学に入学した新入生に見られる幻のビジョンに包まれました。週一回の聖書勉強が終わると、わたしのこころは走る新幹線のようでした。そのワクワク感、ドキドキ感は一体どこから飛んでくるものなのか分かりませんでした。聖霊の風が吹くと、私は五年後、宣教師として長崎に派遣されました。私への神様の恵みは足首にまで、膝にまで達し、メッセージ訓練、センターの御業訓練、同労、学問からの聖霊の体験は主の恵みを益々、増やし続けました。七人子持ちの親として、ゆっくりする暇は得られていないものの、日毎の糧や主の恵みを覚えさせる多くの訓練から、恵みは泳げるほどになり、私の人生は満ち満ちた恵みに包まれる毎日です。

この私には幻のビジョンがあります。長崎が神への信仰により祝福された街になることです。神の神殿から恵みの川が流れ、聖霊の喜びが満ち溢れるビジョンです。神を賛美する恵みの歌声が東の国へ流れてゆくビジョンです。その川のほとりには農夫がすみ、漁師たちが魚を取るビジョンです。私の幻のビジョンは夢のように、私の心のすみこに定着し始めています。このビジョンは今もなお着実に進んでいます。神様の計画の中に組まれたスケジュールは目的地に向かって動き始めています。

エゼキエルのこのような幻のビジョンは一体、どこから来たものでしょうか。そのビジョンは間違いなく、厳しい現実から来たものではありませんでした。エゼキエル、3章1節を見ると神は「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」と言っています。これを見ると、エゼキエルのビジョンは巻物から来たものでした。巻物とは神様の御言葉のことを指します。神様はエゼキエルが、欠かさず食事を食べているように、巻物の糧を食べる生活を教えていました。エゼキエルの捕虜としての現実は厳しいものでした。そこからはビジョンがありませんでした。しかし、巻物からは神様のビジョンが示されていました。巻物には神様の計画が啓示されていました。エゼキエルが見たビジョンは巻物からのものでした。

また、33章7節を見ると「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。」とあります。神様はエゼキエルがいる場所を「イスラエルの家」であると、教えています。エゼキエルが足で踏むその場所が、たまたまイスラエルの捕虜として強制移住させられて住む、悲しく運命的な異邦の地ではなく、そこがイスラエルの家であると教えたのです。エゼキエルの幻のビジョンは、彼が住む場所が、静岡が、東京が、大阪が、長崎が「イスラエルの家」であると教えました。

神様を信じて生きる人々の人生に「たまたま」存在しません。神様を認めて、神に頼りながら生きている人々に「運命」はありません。神を認め、神に頼り始めるその瞬間から、その人生は「必然」と「摂理」が働き始めるのです。私たちの人生に働く神を認めるその瞬間から、私たちの人生は神様が責任を持ち、神様が関与する全く別の人に変わってしまうのです。巻物から学んだエゼキエルのこのような信仰は、現実を乗り越え、幻のビジョンを見る秘訣だったのです。

エゼキエルが見たビジョンは非常に具体的なものでした。川の両岸に非常に多くの木が見え、あの水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入りました。海に注ぎ込むとそこの水は良くなりました。この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになりました。この水がはいると、そこの水が良くなるからでした。この川がはいる所では、すべてのものが生きるようになりました。漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となりました。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなりました。

それだけではありません。12節は次のように記録しています。「川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」詩篇の御言葉を覚えていることでしょう。詩篇1:1-3は次のように歌っています。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」

普通、果物は食物となり、葉は不要なもので、腐葉土として使われるのは一般的です。あるいは火を燃やすための焚き付けになったりします。しかし、神殿から流れる川のほとりにいる人間は、その葉も薬として使われます。私たちがどのような環境の中でも神を信頼し、その中にとどまり、主の約束の言葉を覚え、神様が関与する場所で居続けるのなら、私たちの人生がもし、実を結ばず、葉の茂った状態になったとしても、その葉は薬として用いられるはずです。私たちに求められるのは、巻物が教え続けているように、生きておられる神を確かに認めることです。今の私たちのいる場所にご一緒される神様を信じることです。状況が良くても、悪くても、御言葉を宣べ伝えることです。まず第一に神の栄光を求めることです。その国と、その義を求めることです。そうすれば、私たちの人生は主に捧げられた生贄となり、私達の人生の栄光をも、イエスキリストのように、大胆に神様に求めることができます。イエスキリストが私たちの代わりに十字架につけられたからです。私たちの全てのとがと、重荷を持ち去ってくださったイエスの御名を、私たちは確信しているからです。

今日の本文の中には「水が流れる」という意味の言葉が9回も繰り返されています。流れるとはとどまらないことを意味します。神様の言葉がとどまらないことを意味します。祈り会続けることを意味します。羊たちのための労苦を担うことを意味します。神殿からの水をせき止めないことを意味します。水の流れが止まってしまうと、沢や沼になり、その水が良くならないのです。水が不要な塩のまま残るからです。

長崎はこの一年間、みことばの御業が沢や沼になって、水の流れがやや止まっていたような気がします。A兄弟も職場を変え、忙しくなるとなかなか礼拝に来なくなりました。ほとんどの礼拝は家族団欒で行いましたので、メッセージもUBF式からだいぶ離れ、JBFの礼拝になりました。夏の集会も都合に合わせ、クリスマス礼拝も、都合を優先しサッサと終わらせました。手続きは簡便化され、流れはスムーズになりました。やや厳格だった礼拝の雰囲気も、柔らかくなり、子どもたちには楽しい礼拝となりました。これでいいのだろうかと、いつも、心をそわそわしているところでした。

しかし、今日の御言葉を準備しながら、私に求められる神様への姿勢は、エゼキエルの幻のビジョンが実現するための日毎の糧を食べることです。そして「イエスキリストの十字架の事件」を思い起こし、感謝し、聖霊の働きを切に求める姿勢が必要であることをさとりました。そのためにはキリストの中にある確実な救いに根を深く貼ることが必要です。形にとらわれず、形式に引っ張られず、聖霊の喜びと、信仰の胸当てを確固たるものにすることが必要です。

日本で御業に仕えている私たちはまるで、エゼキエルが生きていた時代と同じ状況にあります。神の御業は止まっているかのように、いやむしろ、後退しているかのように、停滞しています。霊的なところには全く関心のない若い人たちを見ると、絶望感さえ覚えます。神を信じる人であると、紹介すると、どこか相当問題があるかのように見つめる雰囲気にいや気が差します。あらゆる手を持って誘っても、年越しのれいはいのときには手ぶらである事実が寂しさを増したりします。しかし、エゼキエルはどうしましたか。神様のすすめに従って巻物を食べました。神様の言葉を欠かさずに読み、心から信仰の告白をしました。神様の働きを確信し、今いる場所が「イスラエルの家」であると信じ、見張り人となる決心をしました。真実に神様の証人になる決心をしました。環境や状況は悪いでしたが、聖霊によるビジョンと喜びに包まれました。幻のビジョンに満たされました。救い主、イエスキリストの聖霊の働きを預言しました。

私たちは二日間、聖書勉強と講義を通して、時が悪くても御言葉を宣べ伝えることが神の願いであることがわかりました。神様の前で一人たち、真実に生きる重要性を学びました。私が不信仰な世界に負けることなく、長崎に「イスラエルの家」を立てられた神を掴み続け、賛美し続けることを改めまして決心します。長崎がキリストにより祝福されていますことを、感謝賛美いたします。これからも、さらなる祝福がキリストによりますます大きくなることを信じます。日本が、キリストにより祝福の国になることを信じます。

新らしい年、私たちがエゼキエルのビジョンを実現する年となりますよう祈ります。

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