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13Mark11M そうまで言うのですか

投稿者: Jubf 掲載日: 2013/9/22 (1214 回閲覧)
2013年マルコの福音書第11講

そうまで言うのですか

御言葉:マルコ7:24-37
要 節:マルコ7:29 そこでイエスは言われた。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」


 先週、私たちは口にはいるものが人を汚すのではなく、心から出て来る言葉が人を汚すことを学びました。神様は私たちの心をご覧になり、心から出て来る言葉を聞いてくださいます。
今日はイエス様がひとりの女性のことばを聞いて感動し、彼女の娘から悪霊を追い出してくださったことを学びます。イエス様が「そうまで言うのですか。」と言われたほどに感動されたあの女性の言葉に込められていることは何でしょうか。イエス様を感動させる彼女の信仰の態度、信仰の言葉を学びたいと思います。
それから、耳が聞こえず、口のきけない人を助けてくださったイエス様を学びます。ここでは私たちの所まで訪ねて来て私たちの霊的な目と耳が開けることを願われるイエス様の切なる心を感じ、学ぶことができます。

?.その通りです
24節をご覧ください。「イエスは、そこを出てツロの地方へ行かれた。家にはいられたとき、だれにも知られたくないと思われたが、隠れていることはできなかった。」とあります。イエス様はパリサイ人たちとの激しい論争があったところを出てツロ地方へ行かれました。このツロの地方は、ガリラヤ湖から50キロほど離れた地中海沿岸の港町です。イエス様は、町の一軒の家にはいられました。そこなら誰にも知られないと思われたイエス様は、しばらく休もうとされたようです。ところが、そこでもイエス様は隠れていることはできませんでした。
25、26節をご覧ください。「汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。」とあります。ひとりの女がイエス様を訪ねてやって来ました。彼女はギリシャ人で、スロ・フェニキヤでした。マタイの福音書によると、彼女は「その地方のカナン人の女」(15:22)であったことが分かります。カナン人は、イスラエル民族がエジプトを脱出して、パレスチナに移り住む以前の先住民族です。いわばイスラエルとは宿敵の関係にありました。その関係は今なお続いているほどです。それにしてもマルコはこの女をギリシャ人であると記しています。それはアレキサンドロス大王の征服後、地中海沿岸の各地は、ギリシャ文化の下で生活するようになっていたからです。特にユダヤ人の目からは、そうした異邦人はすべてギリシャ人であったのです。つまり、彼女は異邦人であり、イスラエルとは宿敵関係であるカナン人であったのです。
彼女には汚れた霊につかれた小さい娘がいました。彼女はその娘のためにイエス様の足もとにひれ伏しました。イエス様なら「自分の娘から悪霊を追い出してくださる」と信じていたからです。そこで彼女はイエス様に願い続けました。それだけ願い続けたでしょうか。それは粘り強い祈りでした。
親にとって小さい子どもの苦しみは見ていられないようなものです。夜中でも病院に連れて行きます。汚れた霊につかれた小さい娘の母親の心はどうだったでしょうか。本当に切実な心から願い続けたと思われます。ところが、イエス様は何と答えられましたか。
27節をご一緒に読んでみましょう。「するとイエスは言われた。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」この女の切実な願いに対してイエス様は、実に以外なほどの冷淡な態度を示しておられます。彼女が切実に願い続けても、イエス様は彼女を無視しておられました。その上、イエス様は彼女を人間ではなく、小犬として扱われました。ここで「子どもたち」はユダヤ人であり、「小犬」は異邦人であります。彼女がイエス様のことを聞きつけてすぐにやって来たことを考えてみると異邦人い対するユダヤ人の見解も知っていたはずです。当時のユダヤでは犬のことを不浄なもの、汚れたもののたとえとして使っていました。そこから転じて異邦人のことを指すようになりました。したがってイエス様は、まずユダヤ人のために働くのであって異邦人でないとおっしゃったのです。これは旧約聖書からの原則でした。神様のご計画はまずイスラエルを選び、神の国の受け継ぐものとされるということです。イエス様はその原則に従いました。はじめに福音を語ったのはユダヤの地だったし、最初の弟子たちもユダヤ人でした。だからイエス様は「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われたのです。それにしてもイエス様のお言葉は、彼女にとって軽蔑の言葉です。ところが、スロ・フェニキヤの女は何と答えましたか。
28節をご一緒に読んで見ましょう。「しかし、女は答えて言った。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」ここにスロ・フェニキヤの女のイエス様に対する信仰がよく表わされています。イエス様がどんな言葉を言われても「主よ。そのとおりです。」「主よ。アーメン」と答える人は幸いです。その人はイエス様のお助けをいただくことができます。
29節をご覧ください。そこでイエス様は言われました。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」イエス様は彼女の信仰のことばに非常に感動されました。「そうまで言うのですか。」この言葉にイエス様の感動と感激が表われています。イエス様は「ここまで来たのですか」と言われませんでした。「そんなに賢い人だったのですか」とも言われませんでした。「そうまで言うのですか。」と言われたのです。つまり、彼女の言う言葉、彼女の口から出る言葉を聞いて感動されたのです。「主よ。その通りです。」と言う言葉の中に彼女の信仰が表れていたからです。イエス様は彼女の信仰の言葉に感動して「そうまで言うのですか。」と言われたのです。「それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」と言われました。イエス様は何かしるしを見せたのではなく、ただお言葉で悪霊は娘から出て行ったことを知らせてくださったことが分かります。すると彼女はどうしましたか。
30節をご覧ください。「女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。」とあります。ここにも、スロ・フェニキヤの女の信仰がよく表れています。彼女はイエス様からお言葉をいただいただけで目に見えるものは何もありませんでした。でも、イエス様のお言葉を信じて家に帰ってみました。すると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていました。やはりイエス様のお言葉通りになっていたのです。
以上で私たちはスロ・フェニキヤの女から多くのことを学ことができると思います。ひれ伏して願い続ける謙遜と祈りの態度、イエス様から無視されても聞き続ける傾聴の姿勢、イエス様から何と言われても全幅的に信頼する信仰、イエス様のお言葉に対して賢く答える知恵、娘に対する愛などを学ぶことができます。三つにまとめてみます。
第一にスロ・フェニキヤの女の謙虚な態度です。日本では「謙遜」が美徳とされているように思います。謙虚な態度で好感を持てるし、謙虚な人が素晴らしいとされることが多いでしょう。少なくとも、偉そうな態度をとらず、謙虚な態度をとるようになれば嫌な印象を与えることはありません。スロ・フェニキヤの女は謙虚な態度を終わりまで貫いて崩しませんでした。彼女はイエス様のことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏しました。小犬扱いをされましたがそれでも反発しませんでした。「その通りです」と認めています。その上、子どもたちのパンくずでもいただこうとしました。イエス様から「悪霊はあなたの娘から出て行きました。」と言われただけでしたが、それでも文句を言いませんでした。素直に受け止めています。一言も偉そうなことを言わず、へりくだって素直に受け入れていることが分かります。この謙虚な態度は「世渡り上手な人」が生き残れるためにも必要です。しかし、私たちクリスチャンは人々に好かれるためにだけではなく、限りなくへりくだっておられたイエス様に見倣う生活のためです。ピリピ2:6,7節を見ると「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」とあります。私たちが建て前だけではなく、心から謙虚な態度を身につけて生きることができるように祈ります。
第二に願い続ける祈りです。スロ・フェニキヤの女はイエス様のことを聞いて駆け付けた時にイエス様は人の家に隠れておられました。イエス様は誰にも知られたくないと思われたので彼女の願いに対してすぐに答えませんでした。でも、彼女は願い続けました。自分の願いを聞いてくれるところか、人としての価値さえ踏みにじられても失望しませんでした。イエス様を信頼し続け、願い続けたのです。私たちは他人に対しては自尊心を踏みにじらない言い方・気配りを心がけなければなりません。しかし、自分自身の自尊心が踏みにじられるような思いをさせられる時はそれを心に留めておく必要がありません。「自分はダメな人だ」と自分自身を卑しめ、責める必要もありません。失望しないでイエス様に祈るべきです。人生には良いことだけではなく、嫌なことも経験せざるを得ませんが、失望しないで祈り続けると神様が私たちの尊厳と自尊心を取り戻すようにしてくださいます。イエス様がスロ・フェニキヤの女の小さい娘から悪霊を追い出し、彼女の尊厳と自尊心を取り戻いてくださったように私たちも助けてくださるのです。
今、祈りがなかなか答えられないことはないでしょうか。自尊心を踏みにじられ、無視され続けた結果、ボロボロに傷ついた心のままでいる方はいないでしょうか。それでも、あきらめないで、自分を責めないで神様に祈り続けましょう。きっと神様が御手を伸ばし、助けてくださいます。イエス様は私たちが願い続けること、失望しないで祈り続けることを願っておられます。
第三に主の主権を信じる主権信仰です。スロ・フェニキヤの女の謙遜も、願い続ける祈りも神様の主権を信じる信仰からできたことでしょう。彼女は人としての価値が無視され、子犬扱いをされたイエス様の御言葉を聞いても「主よ(Yes, Lord)。」と答えました。「おい!無視しないでくれ!こう見えても人間ですよ。知恵を誇るギリシャ人だよ。バカにしないでよ。」と言い返しませんでした。「その通りです。」と答えたのです。たいてい、イエス様の身元に出て来る時は何かを求めて来るから謙遜です。へりくだって「神様!イエス様!」と言います。牧者にも「牧者様!」と呼ぶ場合もあります。しかし、勝利を勝ち取ろうとすればするほど、さまざまな形の困難や試練が襲いかかって来ます。このような時、私たちはひるんでしまい、当初抱いていた信仰さえ曲げてしまう妥協をしがちです。代表的な人がヨブの妻です。ヨブ記2:9によると、彼女はヨブに「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」と言いました。スロ・フェニキヤの女も、ヨブの妻も女性ですし、ふたりとも辱められていましたが彼女たちが言う言葉は違いました。それは神様の主権に対する信仰が違っていたからです。
私たちも神様の主権、主権的な働きを信じるか信じないかによって心から出て来る言葉が違ってきます。夫婦であってもそれぞれの信仰によって言葉が違ってきます。ヨブの妻とは違っていました。ヨブ1:2節で「「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と言っています。彼は試練の中でも信仰の言葉で神様を賛美していたのです。
 どうか、私たちが神様の主権を堅く信じてどんな場合でも信仰の言葉を言い続けるように祈ります。私たちの自尊心が傷つけられ、無視されて生きる意欲さえ失ってしまうような状況の中でもイエス様の働きを信じてり続け、信仰の言葉を言うならイエス様も感動されるでしょう。「「そうまで言うのですか。もうあなたの祈りはかなえられています。」とおっしゃってくださるでしょう。どうか、私たちひとりひとりが、イエス様から「そうまで言うのですか。」と言われるほどの信仰の人になりますように祈ります。

?.エパタ。開け!
31節をご覧ください。「それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られました。」とあります。ここで「もう一度デカポリス地方を訪問されたことは二度目であるということを教えてくれます。この間学んだように一度目の時は汚れた霊につかれたゲラサ人から悪霊を追い出してくださいました。その結果、その人についていた悪霊が豚に乗り移り、二千匹ほどの豚が湖で溺れ死んでしまいました。そこで、人々はイエス様に「この地方から離れてくださるよう願った」のでした。ところが二度目の訪問の時は住民が変わっています。
32節をご覧ください。「人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるよう、願った。」とあります。ここで、人々とはイエス様を追い出していたその町の人々です。彼らはひとりの救いよりも自分たちの豚の方を大切に思っていました。豚の損失のためイエス様を自分たちの町から追い出していたのです。しかし、今は障害のある人を癒してもらうために協力しています。耳が聞こえず、口のきけない人の苦しみを理解し、イエス様を通して癒してもらおうとしてるいのです。どうやってこんなに変わったでしょうか。それはイエス様に出会って救われたあのケラサ人ひとりの影響力によるものだと思います。彼がイエス様から言われた通りに「主がどんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったか」を知らせた結果なのです。そういう彼の伝道によってあの冷淡な人々でも変えられました。町の人々がイエス様がなさることに期待し、あわれみを信じる人になったのです。この光景をご覧になったイエス様はどんなに嬉しかったでしょうか。でも、イエス様はご自分の業績を誇らず、ひとりの救いに集中しました。
33、34節をご覧ください。「そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ」すなわち、「開け」と言われた。」とあります。イエス様は、この耳が聞こえず、口のきけない人の両耳に指を差し入れて、「エパタ」すなわち「開け」と言われました。イエス様は、耳が聞こえない人に向かって「聞こえるようになれ!」と言われませんでした。そうではなくて「開け」と言われました。なぜでしょうか。そのことを考えてみたいと思います。
今、ここにお集まりの皆さんの耳は、聞こえているでしょう。でも、耳が開かれている時もあるし、閉ざされている時もあると思います。特に外の雑音にはずっと閉ざされていることでしょう。私たちが音楽を聴く時も耳が開かれている時もあるし、閉ざされている時もあります。つまり、好きな音楽には、耳を開きますが嫌いなジャンルの音楽が流れと耳をふさぎます。「ああ、うるさい」と思うことでしょう。耳を開くどころか、耳を閉じてしまうのです。
音楽だけではありません。人の話す言葉に対しても同じでしょう。自分が好きな人、自分が尊敬している人の話には耳を開きますが、そうではない時は閉ざしてしまう時があります。そういう意味では牧師も聖徒たちに好かれる人、尊敬される人にならなければならないと思います。ただ、教会では、この説教というものを、神様の言葉だと教えています。それは、牧師が神様だということではありません。その牧師を通して、その説教者を通して、神様が教会堂に集っている皆さんに語りかけておられるということです。したがって牧師が尊敬できないような人物であっても、聖書の御言葉は信仰によって神様から語られる言葉として受け入れなければなりません。信仰によって受け取らなければ、このメッセージもどこかの講演会と同じです。私たちが信仰をもって聞く時に主日礼拝の時に語られる説教も神様の声として聞こえます。聖書の御言葉を読む時も、聖霊によって書かれた書物であることを信じて読むと、御言葉が私たちのうちに働きます。そのような信仰を与えられるためには、主によって、信仰の耳を開いてもらわないといけません。「主よ、わたしの耳を開いてください」とお祈りしましょう。聖霊によって耳が開かれると、礼拝のメッセージを聞く時も聖書を読む時も神様の御声が聞こえて来るのです。ではイエス様が「エパタ」と言われた時、どんなことが起こりましたか。
35-37節をご覧ください。「すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられたが、彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらした。人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない者を聞こえるようにし、口のきけない者を話せるようにされた。」」とあります。ここで見ると、耳が聞こえず、口のきけない人は、自分からは何もしませんでした。まったくの受け身です。イエス様の方から、歩み寄り、彼を見つめ、彼と向かい合われました。そして、「エパタ」と叫ばれました。このイエス様の働きに恵みを受けます。

私たちには、イエス様に近づきたくも、なかなか祈る元気もない時があります。あのケラサの人々のように、自分をイエス様に連れて行ってくれる人も見当たらない時があります。ところが、そういうとき、イエス様は来てくださいます。私たちの耳が開かれて神様の御声が聞こえるようにしてくださいます。どうか、私たちが信仰の耳で聞き、信仰の言葉で答えて行きますように祈ります。

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