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BibleMsg > マルコの福音書 > 13Mark 05M 実を結ぶ人たち

13Mark 05M 実を結ぶ人たち

投稿者: Jubf 掲載日: 2013/8/8 (1232 回閲覧)
2013年マルコの福音書第5講

実を結ぶ人たち

御言葉:マルコの福音書4:1-20
要 節:マルコの福音書4:20「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」

  私は農村で生まれ育ちました。小学生の時、学校が終わると、牛の餌のために草取りをしたり、牛を草原に連れて行ったりすることでした。牛を草原に解いておくと、牛は自分でお腹いっぱいになるまで食べたり休んだりしていて暗くなると、私のところに戻って来ました。すると牛と一緒に家に戻ることは私の仕事でした。でも、中学生になると、私も畑仕事をさせられました。それが大変で嫌だったので高校は都会に出て行こうと思って熱心に勉強したほどです。特に夏には水田雑草を取り除く仕事をしますが、イネとノビエを見分けることは困難なものでした。私はよく雑草だけではなく、イネも取り除いたためにおじいさんからよく叱られました。それでも喜びがないわけではありません。収穫する喜びは、素晴らしいものでした。特にうちのおじいさんは自分が耕した良い田んぼから美味しいお米が収穫できたとよく自慢していました。実際に干拓地でまだ塩気が残っている田んぼからは収穫量も少なく、お米の味も期待できませんでした。それで父は冬になると、干拓地の田んぼには山の土を入れて土壌を変えようとしていました。
 私がここまでに自分の話をしたのは、今日学ぶ種まきのたとえは、私が生まれ育った農村の生活に密着しているからです。つまり、イエス様は農耕社会だった当時の人々がよく知っている具体的な例を使って神の国の奥義を教えられたのです。ここで私たちは豊かな実を結ぶ人生の秘訣を学ことができます。特に来月には夏修養会がありますが今までの修養会を通してみると同じ御言葉を聞いても実を結ぶ人がいるし、そうでない人もいます。どうか、今年は心を良い地にしておいて30倍、60倍、100倍の実を結ぶ人たちになりますように祈ります。

1,2節をご覧ください。「イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。」とあります。先週までの御言葉では主にイエス様の祈り、癒し、12弟子の任命などの活動を学びました。今日から学ぶ4章ではイエス様の教えを学びます。イエス様はたとえによって多くのことを教えられました。その中で今日は「種まきのたとえ」を通して実を結ぶ人たちを学びます。このたとえは、他のたとえを理解する基礎になります。なぜなら、イエス様の解説がついているからです。普通、たとえには解説がつけられていませんが、このたとえには解説を付けることに他のたとえに対しても霊的な意味があることを教えておられるのです。
では、今日はイエス様が教え始められた種まきのたとえと、イエス様の解説を一緒にして学びましょう。
イエス様はたとえで御言葉の種と四種類の土壌について教えられました。

一つ目は道ばたに落ちた種です
道ばたは多くの人がそこを通ったのでアスファルトの道路のように固くなっています。種が落ちてもそのままです。それで種を鳥が来て食べてしまいました。鳥は解説によるとサタンです。食べてしまったのは、サタンが御言葉である種を持ち去ってしまったことです。
14、15節をご覧ください。「 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。「御言葉が道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです・・御言葉を聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を持ち去ってしまうのです。」とあります。ここで道ばたとは、御言葉を受け入れない心であることが分かります。偏見とか、高ぶりとか、御言葉に従うことへの恐れとかの理由で心を閉ざしている状態です。あるいは御言葉を聞く前に何かがあって心を閉ざしている状態です。たとえば、人兼関係で傷つけられたとか、土曜日の夜とか主日の朝に夫婦喧嘩があった場合は心の状態が道ばたになっています。私がメッセージを伝えながら見ると、顔も、目つきも堅くなっています。御言葉をはねつけるような表情なので私もその人をまっすぐに見ることができません。すると、御言葉が働けません。礼拝が終わっても心には何も残っていません。サタンが御言葉を持ち去ってしまったからです。
ですから、人間関係の中で傷つけられたことがあっても礼拝の前に赦してから礼拝に参加しなければなりません。また、土曜日の夜とか、主日の朝には夫婦喧嘩もしないように気をつけなければなりません。もし、言い争いがあったとしても赦し合って最高のコンディション、良い気持ちで礼拝に来なければなりません。私も土曜日は人間関係においてぶつからないように気をつけます。同労者も私が良いコンディションを維持して主日礼拝に臨むように気配りをしてくれます。
私たちの心は生活の中でいろいろな人が通られ、さまざまなことによって踏まれて道ばたのようになってしまいがちです。ですから、私たちはかたくなな心、偏見、赦せない心を取り除いてくださるように神様に祈らなければなりません。エゼキエル36:26をみると「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」とあります。神様に祈ると、神様は私たちに新しい心を与え、新しい霊を授けてくださいます。すると、私たちの心も柔らかになります。サタンが持ち去る前に御言葉が心に吸収されて行きます。

二つ目は岩地に落ちた種です
この岩地とは、「土の薄い」土が深くなかったので、すぐに芽を出しました。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまいました。この岩地に対するイエス様は解説を見てみましょう。
 16,17節をご覧ください。「同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです・・みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」とあります。こういう人は御言葉を聞くと「すぐに喜んで受ける」のです。その人は、御言葉にうなずきながらニコニコと笑顔を見せてくれます。しかし、それはしばらく続くだけです。困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。それで、困難や迫害が起こると、すぐに以前の生き方で生きようとします。
本来、太陽の光は、植物の成長には不可欠のものです。植物は根を張っているなら太陽の光によって成長します。同様に、私たちクリスチャンは御言葉の根を張っているなら困難や迫害によって霊的に成長し、実を結びます。
自分のことで恐縮ですが、最近の私の心に「神を信じなさい」という御言葉が私のうちに根を張っています。先週、月曜日に学校に行くと、いきなり校長から韓国の日本大使が8月1日に本校を訪問すると言いました。それに伴い、次期の教頭になる鄭先生が責任を持って準備してくださいとも言いました。私は困ってしまいました。その日に私はアメリカにいなければならなかったからです。でもその場では文句を言えず、黙々と校長の話を聞いていました。それから、夜家庭礼拝の時に家族に非常に困難な私の立場を説明し、祈りを頼み、心を合わせて祈りました。ところが、次の日の夜明けに教会に来て祈る時「「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」という御言葉が思い浮かびました。そこで、私は「山を造られ、その山を動かす神様が大使と大使館の関係者たちを動かしてください。」と祈ります。朝ご飯の時、家族にも祈りを頼みました。それから学校に行ったのですが、金ヨハネ宣教師から連絡がありました。大使は8月1日の訪問予定が2学期に移されたのです。このことは初等部の先生に伝えると、彼もクリスチャンですが「ハレルヤ!ですね」と言ってくれました。困難を通して私は神様の御言葉を体験し、信仰が成長するようになりました。昨日は、娘たちのピアノ発表会がありましたが、私は自転車に乗って行きました。ところが1部と2部の間にホールの外を見て来た二人のマリヤ宣教師たちが大雨だと言いながら自転車帰りの私を心配しました。でも、私は「私が帰る時は雨が止む。神様が止ませてくださる。」と答えました。その後、自分の信仰を威張ったことに対する不安もありましたが雨を降らせる神様を信じて心から祈りました。すると、本当に発表会が終わって私が家に帰る時は、傘が要らない小雨になっていました。私が家の玄関に着いた時に大粒の雨になりました。神様は私の心の祈りを聞いてくださったのです。
このような困難なことや、大雨も、植物に必要な太陽の光や雨のように、私たちの信仰生活を成長させてくれるのです。しかし、心の中に自分のなりの生き方や信念が岩になっていると、なかなか信仰の体験できません。御言葉の種が蒔かれても芽生え、成長して実を結ぶことができないのです。したがって、私たちは私の考え、私の意志、私の欲よりも御言葉を優先にして御言葉の根を張らなければなりません。年を取ればとるほど自分の考え、先入見、価値観よりも御言葉を優先にすることが難しくなります。それはまるで堅い岩を砕くようなことです。その岩が砕かれる時は痛いでしょう。でも、今まで築いてきた自分の考えを捨てて御言葉の根が張るようにして行くなら、神様が成長させてくださいます。小さな事でも大きな事でも神様を体験しながら実を結ぶ人生を生きるようになります。

三つ目はいばらの中に落ちた種です
いばらの中に落ちた種は、芽生え、育ちます。しかし、同じ土壌にあったいばらのほうがよく育ち、ついに「ふさいで」しまったのです。いばらとは私が冒頭で話したイネ農作でノビエ、ヒエのようなものです。ヒエは放っておくと大変な事になります。ヒエの成長は非常に早く、草刈り機などで刈り取ったあとでも一ヶ月もすれば種をつけてしまいます。放置しておくと稲の刈り取りの頃には背丈が稲より も大きくなって、稲よりも早く種を落としてしまいます。いばらがそのようなものなのです。それに対するイエス様の解説はどうですか。
18、19節をご覧ください。「もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。・・みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。」とあります。いばらの中に落ちた種は、芽生え、育ちます。道ばたや岩地に落ちた種とは大きく異なります。土地には問題がありません。問題はいばらの中に落ちた種よりもいばらのほうがよく育ち、ついに「ふさいで」しまうことです。ここでイエス様は「いばら」を「世の心づかいや、富の惑わし、その他のいろいろな欲望」のことであると解説されています。
この種のものは、私たちにとって最も注意を要するものだと思います。聖書勉強を通して恵みを受け、牧者として生きようと決断した人でも将来に対する心配が生じると、その時まで受けた恵みも、愛も忘れてしまいます。聖書勉強をすることも、日ごとの糧を食べることも、祈ることさえも負担になり、損害意識に縛られてしまいます。霊的闘争をよくしていた人でも、インターネットゲームや淫乱な漫画などの誘惑に倒れると、霊的な力を失い、無気力になってしまいます。つやつやし、輝いているはずの顔がやつれているように見えるし、暗くなってしまいます。
事実、私たちが生きている世の中はいばらの中のようになっています。絶えず、私たちの心の中に世の心づかいや、富の惑わし、その他のいろいろな欲望が入り込んできます。サタンはできるだけ多くの心づかいや富の惑わし、欲望を植え付けてそれらが御言葉の種と一緒に芽生え、育つようにします。しかも、それがヒエとイネの区別が困難な時もあります。世の心づかいなのか、気配りなのか、老後対策なのか、富の惑わしに陥っているのかが区別できない時もあるでしょう。だからこそ、私たちは霊的価値観をしっかりしなければなりません。
使徒パウロは?テモテ6:10-12節でこう言いました。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。」また、?テモテ2:22節ではこう言いました。「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」とあります。私たちが金銭を愛することや若い時の情欲に気づかずに、無感覚であるなら、いつの間にか、ノンクリスチャンと同じ生き方で生きるようになってしまいます。ノンクリスチャンだから悪いとは言えません。クリスチャンになっても価値観が変わらずに世の心づかいでいろいろなことを心配し、世の快楽も楽しみながら霊的にも祝福されたいと思うなら自分の心に蒔かれた御言葉の種が実を結ぶことができません。
私たちがイエス様を信じて180度変わりました。なのに、また180度変わってしまうなら、元通りになってしまいます。どうか、いばらの中に生きているけれども、聖書勉強、日ごとの糧の御言葉、主日礼拝の御言葉を通してしっかりした霊的価値観を持って生きるように祈ります。そうして真の実を結ぶ生涯を送ることができるように祈ります。ではどんな地に落ちた種が実を結ぶでしょうか。
 
四つ目は良い地に落ちた種です
20節を読んでみましょう。「良い地に蒔かれるとは、御言葉を聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」良い地には、種と比べて何十倍の実が結ばれます。では「良い地」とはどんな地でしょうか。ここで考えてみると「良い地」についての解説はほとんどありません。良い地の特徴とは「御言葉を聞いて受け入れ」ることになっています。ここで「受け入れる」のギリシャ語は、「積極的に受け入れる、歓迎する、懇切に慕い求める。」という意味を持ちます。「しょうがないから受け入れよう。」ではなくて、渇いたのどを水で潤すように、自ら進んで受け入れることなのです。すると神様は聖霊の力によって、私たちを変えてくださいます。私たちを罪の束縛、サタンの支配から解放して、私たちの必要を満たし、私たちの弱さを担ってくださいます。すると、私たちは受け入れた御言葉によって2倍や3倍どころではなく、何十倍、何百倍にまでも実をむすぶ人生に変えられて行きます。その実とは内的に聖霊の実を結びます。ガラテヤ人への手紙5:22、23にあります。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」御言葉を聞いて受け入れる人にはそのような実が約束されています。外的には伝道の実を結びます。ヨハネ15:16を見ると「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」とあります。「あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり」とありますが、それは伝道と、弟子養成の実です。
事実、聖書を読んでみると、御言葉を聞いて受け入れた人は数多くの実を結び、あらゆる面で祝福された生涯を送りました。

今度の夏修養会の時、進藤姉妹、全ダビデ、鄭サムエル、金サラが信仰の先祖アブラハムを始め、彼の奥さんサラの人生、サムエルとダビデの人生に対して調べ、彼らが信じた神様を紹介してくれます。その時に皆さんももっと深く知るようになるでしょうが、彼らは神様の御言葉を受け入れて本当に豊かな実を結んだ人生になりました。先週学んだ12弟子たちもイエス様の御言葉を聞いて受け入れたので、彼ら自身が宝石のように輝く人生、多くの実を結ぶ生涯を送りました。使徒の働きに彼らによって結ばれた実がどんなに多かったのかが記されてありますが、それだけではありません。その実は今の私たちにまで続けられています。
 どうか、私たちも御言葉を聞いて受け入れる者でありますように祈ります。聞き流すのではなく、御言葉を聞いて受け入れるのです。そうすると、私たちも必ず30倍60倍、100倍の実を結ぶ生涯を送るようになることを信じます。聖霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制のある人に変えられていくのです。伝道の実も多く結び、その実によって日本の47都道府県、アジア47か国にも多くの実が結ばれますように祈ります。どうか、私たちひとりひとりが昨日よりは今日、今日よりは明日、もっと多くの実を結ぶ生涯を送ることができるように祈ります。

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