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BibleMsg > マルコの福音書 > 13Mark04M 十二弟子を任命されたイエス様

13Mark04M 十二弟子を任命されたイエス様

投稿者: Jubf 掲載日: 2013/7/21 (1290 回閲覧)
2013年マルコの福音書第4講

十二弟子を任命されたイエス様

御言葉:マルコの福音書3:1-19
要 節:マルコの福音書3:14,15「そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」

 先週、私たちは罪人を招くために来られたイエス様を学びました。自分は正しいと思っている律法学者やパリサイ人たちはイエス様の愛も、癒しも、救いも、体験することができません。しかし、自分が罪人であると認める心の貧しい人は幸いです。へりくだっている病人、罪人たちはイエス様に招かれてイエス様による癒しも、赦しも、救いも体験し、新しい人生を生きるようになります。私たちもいつもへりくだっていてイエス様の御言葉に反応し、従うことによって力あるわざと愛を体験して行きますように祈ります。
 今日はイエス様が12弟子を任命されたイエス様を学びます。ここで、私たちは善を行ない、いのちを救うために働いておられるイエス様、12弟子を任命してご自分の身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせようとされたイエス様について学ぶことができます。どうか、本文の御言葉を通して私たちひとりひとりに対するイエス様の信頼と望み、深い愛も発見して心から受け入れることができるように祈ります。

?.片手のなえた人を癒されたイエス様
2章の後半部を見ると、ある安息日のことが記されてあります。イエス様の一行が麦畑の中を通ったとき、弟子たちが穂を摘んで食べ始めました。それを見たパリサイ人はイエス様に「弟子たちが安息日にしてはならないことをしたのだ」と非難しました。それに対してイエス様は彼らがよく知っている旧約聖書から「安息日は人間のために設けられた」ことを教えました。それに加えてイエス様は「人の子は安息日にも主です。」とも言われました。その後、どんなことが起こりましたか。
1節をご覧ください。イエス様はまた会堂に入られました。そこに片手のなえた人がいました。片手のなえた人とは病んでいる人です。癒しが必要です。どちらかと言うと健常者ではなく障害者であり、弱者です。健常者なら、こういう人たちをかわいそうに思い、助けるべきでしょう。特に指導者なら立場の弱い人を大切に思い、気配りをしなければならないと思います。ところが、当時の宗教指導者であるパリサイ人は立場の弱い人に対して気配りもありませんでした。むしろ、片手のなえた人でさえイエス様を訴える道具にしていました。
2節をご覧ください。「彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。」とあります。彼らはイエス様を訴えるためにイエス様が安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていたのです。指導者として助けるべき片手のなえた人の苦しみ、痛みには何の関心も示しませんでした。彼らの関心と目的はイエス様を訴える口実を見つけることにありました。彼らは、イエス様が片手のなえた人を癒されるなら、安息日を守らなかったということで訴えようとしたのです。それに対してイエス様はどうなさいましたか。
3節をご覧ください。「 イエスは手のなえたその人に「立って真ん中に出なさい」と言われた。」とあります。イエス様は会堂の中に人たちの中でも立場の弱い人である片手のなえた人に気配りをして助けようとなさいました。そのために、ご自分を訴えようとしているパリサイ人に挑戦し、片手のなえた人を会堂の真ん中に出させました。安息日に片手のなえた人を癒すことによって善を行ない、安息日は人間のために設けられたことを明らかにしようとされたのです。さらに、ご自身が安息日の主であることも明白にしようとなさいました。
4節をご覧ください。「それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われた。彼らは黙っていた。」とあります。イエス様の質問に対する答えは明白のものでした。これに答えられない人はいないでしょう。言うまでもなく、安息日にしてよいのは、善を行ない、いのちを救うことです。それなのに彼らは黙っていました。それは彼らが答えられないからではなく、答えると都合が悪いからです。(たいてい都合が悪いと黙っていますね)。イエス様の質問によって彼らが安息日に、悪を行ない、人を殺そうとしていることが暴露されました。彼らは健常者として宗教指導者として片手のなえた人の立場を考え、理解して助けるべきなのに悪を行ない、人を殺そうとしていたからです。
イエス様はパリサイ人のその心のかたくななのを嘆きました。でも彼らと戦いはしませんでした。目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論に走るようなことをなさらなかったのです(?テモテ1:6)。イエス様はひたすら片手のなえた人を救うことに関心を持ち続けました。それで片手のなえた人に「手を伸ばしなさい」と言われました。長い間なえていた手を伸ばすことはやさしくなかったでしょう。私は小学校2年生の時に片足が一か月間も動けなくなったことを経験しました。それで鍼灸師が私を治療してから直ったから立ちなさいと言っても立ちませんでした。家族が立たせてくれたので立つことができました。ところが、その人は手を伸ばしました。彼はイエス様のお言葉に従ったのです。するとその手が元どおりになりました。
彼は今まで手を伸ばすことに対して「できない。ダメだ」と思っていたでしょう。ダメだと思えばダメです。多く人々は過去にできなかったことは今もできないと思っています。新しくチャレンジしようとしません。ところが、イエス様のお言葉を聞いて信じるなら、過去にできなかったことでもできると思えるようになります。片手のなえた人はイエス様のお言葉を聞いて信じたでしょう。すると、萎えた手を伸ばせると思うようになりました。そこで、手を伸ばしました。すると元通りになりました。動けなかった筋肉が動き出しました。いのちのみわざが起こりました。何と素晴らしいことでしょう。こうしてイエス様は安息日に善を行なって片手のなえた人を癒し、いのちを救ってくださったのです。では、この素晴らしい光景を目撃したパリサイ人たちの反応はどうでしたか。
一般的に考えると、彼らはイエス様の働きに感動し、自分たちも善を行ない、いのちを救うために働く決断をしなければならなかったでしょう。それは宗教指導者たちに与えられた使命でもありました。宗教指導者として片手のなえた人を始め、障害のある人、病んでいる人たち、立場の弱い人たちに深い関心を持って助けなければならなかったのです。ところが、パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエス様をどのようにして葬り去ろうかと相談を始めました。
彼らは片手のなえた人が癒されたことには少しも関心を示しませんでした。ただ、イエス様を殺すことばかり考えました。そこで、普段は仲の悪いヘロデ党の者たちと一緒にイエス様をどのように葬り去ろうかと相談し始めました。本当に悲しいことです。イエス様はご覧になると、善を行ない、いのちを救うために働く指導者たちが見えませんでした。むしろ、指導者たちは片手のなえた人も利用するし、仲の悪い人、主義主張が違う人たちとも結託して悪を行なっていました。本当に希望のない世界になっていました。このような時にイエス様は何をなさいましたか。ここでもイエス様はそんな彼らを非難し、戦うことなく、ご自分が優先的に考えておられることをなさいます。それは12弟子を任命されることです。

?.12弟子を任命されたイエス様
7a節をご覧ください。「それから、イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれた。」とあります。イエス様はパリサイ人たちとヘロデ党の者たちと結束してご自分を殺そうとしていることに何も言及しませんでした。イエス様は彼らと無益な議論、無益な争いをすることよりも弟子たちとともに湖に退かれる道を選んだのです。すると、ガリラヤから出て来た大ぜいの人々がついて行きました。またユダヤから、エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々が、イエス様の行なっておられることを聞いて、みもとにやって来ました。どれほどに多くの人々がやって来ましたか。
 9節をご覧ください。「イエスは、大ぜいの人なので、押し寄せて来ないよう、ご自分のために小舟を用意しておくように弟子たちに言いつけられた。」とあります。イエス様が弟子たちに「押し寄せて来ないよう、ご自分のために小舟を用意しておくように」言いつけられたほどに大勢の人が集まったのです。それは、多くの人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来たからです(10節)。また、汚れた霊どもが、イエス様を見ると、みもとにひれ伏し、「あなたこそ神の子です。」と叫びました。ここで、イエス様のみもとに集まって来た人々は二種類あることが分かります。
一つ目は癒しを求める群衆です。病気に悩む人たちはイエス様が多くの人を癒されたので自分たちも癒してもらうために集まって来たのです。それがどんなに、熱狂的ですさまじいものであったかは、先ほどに言った通りです。イエス様が弟子たちに「押し寄せて来ないよう、ご自分のために小舟を用意する」ように命じられたほどです。ほんとうに押しつぶされる危険を感じさせるほどのものでした。と言うのは病気に悩む人たちを癒し、助ける人も数多く必要であることを示唆してくれます。
二つ目は汚れた霊どもです。彼らはイエス様が「神の子」であることを知っていました。パリサイ人たちはイエス様が誰であるかを知らなかったのに、彼らは知っていました。しかし、彼らはイエス様を愛したり従ったりはしませんでした。収税人レビのようにイエス様に従い、宴会を設けて愛を実践するようなこともしなかったのです。ですから、イエス様は「ご自身のことを知らせないように」と、きびしく彼らを戒められました。なぜなら、イエス様が神の子であるという事実を知っていることだけでは人を助けることができません。むしろ、知識的に知っている人たちによって鳩のように素直な人々が騙されてしまいます。結局、知識的には知っていてもイエス様を愛することも、従うこともしない者たちによってはイエス様の恵が伝えられて行きません。イエス・キリストの恵みの福音を知らせることはできないのです。ここで、イエス様のことを知っている知識だけなら「イエス様のことを知らせないように」と、戒められることが分かります。では、イエス様のみもとに集まって来る大勢の人々をどのように助ければ良いでしょうか。大きく分けて二種類の人々、つまり病気に悩む人、汚れた霊どもによって苦しまれている人々をどのように助けるべきでしょうか。そこに、イエス様の悩みがあったようです。イエス様は最善を尽くしてさまざまな病気、さまざまな問題のために苦しんでいる人々を助けておられました。でも、押し迫る群衆を目の前に、福音を知らせることの難しさを痛感なさったことでしょう。また、増大する反対勢力を感じられたでしょう。時間の短さも痛感なさったことでしょう。では、このような時に悩み事、重大な決断が必要な時にどうなさいましたか。
 13-15節をご一緒に読んでみましょう。「さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」イエス様は山に登られました。何のために山に登られたでしょうか。この箇所と並行しているルカの福音書6:12節を見ると「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」とあります。イエス様は祈るために山に行かれました。そして、神様に祈りながら夜を明かされました。徹夜祈りをなさったのです。おそらく、イエス様は、その時代の人々のために、さまざまな病気のために苦しんでいる人々、汚れた霊につかれた人を助けることのために祈られたでしょう。その時代、その地域だけではなく、後の世代の人々、全世界の人々を助ける方法を求めて祈られたではないでしょうか。その祈りの中で神様からイスラエル12部族の代表のような12弟子を任命して立てることが示されたことでしょう。イエス様の側近として、新しいイスラエルの代表として12名を身近に置いて人間をとる漁師として育て上げて福音を宣べさせ、悪霊を追い出すようにと示されたでしょう。やがてイエス様の12弟子も、イエス様のように弟子たちを任命して弟子養成をし、それ通して次の時代も、全世界の人々も助ける望み、ビジョンを見ることができたでしょう。そこで、イエス様はさらに祈りながら夜を明かれました。お望みになる12弟子のために、また切に祈られたのです。結局、その祈りは12弟子が任命されるための準備でありました。
私たちは今年の夏修養会のための祈り会を始めました。毎週土曜日の夜明けの祈り会に加えて金曜日も祈り会を開いています。8月になると毎日祈り会があります。このような祈りに基づいてイエス様はご自身のお望みになる者たちを呼び寄せてくださると信じます。
 ここで「ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられた」というのは「イエス様がこれと思ってくださるくらい優れた者たちが選ばれた。」と言うことはありません。選ばれた者たちの資質や力量のことは全く語られていません。ただイエス様のご意志、御心によって12弟子が選ばれたと語っているのです。ある人の実力を認め、評価して任命するのではなく、イエス様がご自身の意志においてある人を選び、その人を12弟子として任命し、その使命を果たす力や権威を授けてくださったのです。
では、彼らを任命された目的は何ですか。
 第一に、彼らを身近におくためでした。イエス様とともにいることの素晴らしさを体験してほしいと願っておられたのです。イエス様は私たちにも、イエス様の身近にいてイエス様に見習い、イエス様のようになることを願っておられます。新約聖書を見ると、最初に福音書があり、次に使徒の働きがあります。つまり、まずイエス様の生涯が書かれた福音書を通してイエス様を学びます。その次に使徒の働きに書かれている力あるわざと不思議としるしと行なって行くのです。
したがって、私たちはまず第一にイエス様の身近にいる者としてイエス様を学ばなければなりません。まだ、暗いうちに起きて祈られたイエス様、無益な議論よりも立場の弱い人を助けられたイエス様、祈りながら夜を明かされたイエス様を学ぶのです。仕えられるためにではなく仕えるために来られたイエス様の犠牲と献身も学ぶのです。ところが、私たちの意志と努力だけではなかなか難しいです。しかし、イエス様はご自身のお望みになる者として私たちひとりひとりを呼び寄せてくださいました。したがって心からイエス様のようになることを願うなら、イエス様が助けてくださいます。イエス様が人間をとる漁師として育て上げてくださいます。そのうちに私たちもイエス様のようになって行くのです。新聖歌382番がありますが、「心から願うのは主のようになることです〜〜」(一緒に歌ってみましょう)。どうか、私たち一人一人がいつもイエス様の身近にいてイエス様に見習い、イエス様のようになりますように祈ります。
第二に、彼らを遣わし、福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためでした。イエス様は弟子たちが身近にいてイエス様を学び、イエス様を体験してからは福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるために彼らを任命されました。そうして、押しつぶされるほどに押し迫って来る群衆を助けようとなさいました。弟子たちを通して病気に悩む人々を癒し、悪霊を追い出す働きをなさるのです。そのときだけではなく、次の時代も、次の時代も続けられるように12弟子を任命されました。
 事実、イエス様は3年間12弟子を身近に置いて育て上げました。彼らがイエス様の十字架の死と復活を経験すると、彼らに「あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と命じて遣わされました。そして、このマルコの福音書の最後である16章20節を見ると「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、御言葉に伴うしるしを持って、御言葉を確かなものとされた。」とあります。結局、イエス様が12弟子を任命された目的のとおりに弟子たちはイエス様の身近にいてイエス様を学び、イエス様の昇天の後には福音を宣べ伝える人生を生きるようになったのです。それで、12弟子の宣教を受け継いだ弟子たちによって弟子たちが任命され、今日私たちもイエス・キリストの弟子に任命されています。私たちもこの弟子たちのようにイエス様のようになってその信仰、愛、望みを持って福音を宣べ伝えることが出来るように祈ります。
 16〜19節には12弟子の名前が記されてありますが、彼らのことを考えてみると、別に偉い人たちではありません。力も弱さも持ち合わせた普通の人間でした。彼らは、動揺しやすく、激情的で、懐疑的で、人を出し抜こうとするずるささえ持っていました。社会的地位もさまざまで、漁師もいれば、収税人もおり、収税人のような売国奴を殺すべきだと思っている熱心党員もいました。シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネのように兄弟関係での人もいました。このイエス様の弟子達の選び方を見るときに、パウロの言葉を思い出します。?コリント1:26-28です。「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」
 そんな人々がイエス様の身近にいたとき、偉大な神様のしもべになりました。栄光から栄光へ変えられて行きました。どうか、私たちもイエス様の身近にいて、イエス様と交わり、イエス様によって新しく造られますように祈ります。

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