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13Ezra4M 御言葉を調べ、実行し、教える

投稿者: Jubf 掲載日: 2013/2/3 (1648 回閲覧)
2013年エズラ記第4講

御言葉を調べ、実行し、教える

御言葉 : エズラ記7〜8章
要 節 : エズラ記7:10 「エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていたからである。」

 先週、私たちは神の宮が再建し、イスラエルの最大の祭りである過越の祭りが守られたことを学びました。いよいよエズラ記の主人公であるエズラが登場します。エズラはどんな人であり、神様の御前でどのような態度を持っていたでしょうか。また、神様はエズラとイスラエルの民をどのように導かれたでしょうか。本文の御言葉を通してエズラを学び、神様の恵みの御手の働きを学ぶことができるように祈ります。

1aをご覧ください。「これらの出来事の後、ペルシヤの王アルタシャスタの治世に、エズラという人がいた。」とあります。「これらの出来事」というのは、私たちがこれまで学んできた神の宮の再建の出来事のことです。神の宮の再建工事が完成したのは、紀元前515年です。そしてこれからエズラがエルサレムに帰還しますが、その年が紀元前458年です。先週、学んだ神の宮の再建から約60年の歳月が流れました。
この間のイスラエルの霊的状態はどうなっていたでしょうか。人々は王である祭司、聖なる国民として一致を保ち、日々成長して行ったでしょうか。神の宮を再建した時の感動と感激、感謝は続いていたことでしょうか。いいえ。同時代の預言者マラキによると、彼らは堕落してしまいました。その祭司たちは盲目の獣、損傷のあるものをささげながら聖なる祭壇を汚しました。民は外国の神の娘をめとっていました(マラキ2:11)。神殿再建とともに回復された霊的価値観は崩れました。霊的沈滞期に陥っていたのです。そのような時にエズラという人が登場します。では、彼はどんな人でしたか。
1b-5節をご覧ください。エズラは祭司のかしらアロンの16代目の子孫であり、ダビデ時代に優れた祭司だったツァドクの子孫でした。つまり、血統的には正統派家門の祭司でした。彼はアロン家門の祭司としてそれだけでも認められる祭司としての活動ができたのです。しかし、それだけに満足しないで熱心に律法を研究して聖書に通じている学者になっていました。
6節をご一緒に読んでみましょう。「エズラはバビロンから上って来た者であるが、イスラエルの神、主が賜ったモーセの律法に通じている学者であった。彼の神、主の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをみなかなえた。」エズラは祭司である以上にモーセの律法に通じている学者でした。「通じている学者」は、口語訳では「精通した学者」になっています。11節にも、彼は「主のおきてに精通した学者」とあります。原語では「マーヒール」ですが、もともと「敏感な」「速やかな」「巧みな」「熟練した」「じょうずな」という意味であるそうです。つまり、神様の御言葉に敏感に動き、速やかに上手に解き明かすできる聖書の達人でした。また、ことばのとおりに生きる熟練した人物でした。彼は偶像崇拝が盛んなバビロンで生まれ育ちました。今日の日本のようなバビロンの宗教や文化の影響を受けやすい環境に置かれていました。周りの人々は聖書に関する知識もなく、関心さえもない人々に囲まれていたのです。また、彼が王に信頼されていることを見ると、この世の勉強や仕事のために忙しかったと思われます。世界中を回るエズラ宣教師のようにとても忙しい生活をしていたと思われます。それにかかわらず彼は聖書に通じていました。聖書の達人になっていたのです。すると、彼の神、主の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをみなかなえました。
ここで、私たちは御言葉に精通した者になると、神様が人を通して助けてくださることが分かります。神様は御言葉の人に知恵と力を与えてくださいます。時には御言葉の人のために世の王の心さえも動かして助けてくださいます。私たちがエズラのように御言葉に通じている者になりますように祈ります。聖書の達人になって神様の助けを受け、この世でも勝利する生活をしますように祈ります。
 7節をご覧ください。「アルタシャスタ王の第七年にも、イスラエル人のある者たち、および、祭司、レビ人、歌うたい、門衛、宮に仕えるしもべたちのある者たちが、エルサレムに上って来た。」とあります。BC536年にゼルバベルたちがエルサレムに帰還しました。その後、エズラたちが帰還したのです。彼らは第一の月の一日にバビロンを出発して、第五の月の一日にエルサレムに着きました。ちょうど四か月間の旅をして帰還しました。
今ならイラク地方からエルサレムまでは飛行機で四時間もかからないでしょう。しかし、当時は四か月間かかってもとても速い旅でした。ユーフラテス川を越えてエルサレムまで歩いて行ったからです。しかも、エズラの一行は8章を通してみると多くのいけにえのための家畜や金や銀などの貴重品も携えていました。それなのにたった4か月でエルサレムに着いたのです。
その理由は聖書に「彼の神の恵みの御手が確かに彼の上にあった。」と書いてあります。「彼らの神」ではなく、「彼の神の恵みの御手」が確かに彼らの上にあった」とあります。多くの人たちがエズラと同行していたのに、彼らの神ではなく、「彼の神の恵みの御手」になっているのです。それはエズラひとりの信仰でも彼とかかわる人々が神様から助けられることを教えてくれます。エズラという名前は「神様が助ける」という意味ですが、彼は神様が自分だけではなく、自分とかかわる人々も助けてくださる神の恵みの御手の働きを体験していました。ではどうやってエズラは神様の御手の恵みの働き、力の働きを体験することができたでしょうか。どうやって聖書に通じている人になったでしょうか。
 10節をご一緒に読んでみましょう。「エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていたからである。」ここで、私たちはクリスチャンとして、聖書先生としてとても大切な三つの要素を学ぶことができます。一つは、律法を「調べる」ことを心に定めていたことです。辞書で調べてみると「調べる」とは「わからないことや不確かなことを、いろいろな方法で確かめる。調査する。研究する。」とありました。で「分からないことや不確かなことを、いろいろな方法で確かめる。調査する。研究する。」ということは何でしょうか。それを説明することはやさしくないので一つのたとえを紹介します。
ある青年が立派な生物学者なろうという夢を持って当時一番有名な大学の教授のゼミにはいりました。そして、その教授から素晴らしいことを学ぶことができるだろうと期待しました。ところが、教授は彼に一匹の小さな魚が入っているアルコールビンだけを手渡しながら「このビンの中をよく調べてから来週に会いましょう」と言いました。青年はそのビンの中に何か大切なものが入っていると思いました。ところが、そのビンの中には町の中を流れる小さな河でも見かける小魚しかありませんでした。一週間後、教授をに会いに行きました。すると、先生から「何を見たのか」と聞かれました。彼は「小さな魚一匹です。」と答えました。すると、先生は再び二週間後に会いましょうと言われました。青年はその二週間もアルコールビンの中にある魚ばかり見ました。でも、変わりがないので時には腹が立ちました。そして再び教授先生に行きましたが先生は同じ質問をしました。今回は以前よりは少し説明ができました。でも、教授は「一か月後にまた会いましょう」と言われました。一か月後には3か月後に会いましょうと言われました。結局、この青年はまた三か月間も毎日アルコールビンにある魚ばかり見ました。ところが、いくら見ても魚でした。右から見ても左から見ても上から見てもいたから見てもただの小魚でした。それで今度はスケーチしてみたり、部分的に拡大して分析してみたりしました。そのうちに今まで見えなかった魚の目の動きが見えました。魚のヒレも、うろこも詳しく見えてきました。あごの形も見えました。他の魚の形も思い浮かんで違いも見えました。このようにして六か月が過ぎると、その魚に関する厚い報告書を教授に提出することができました。すると、教授は彼に生物学を教え始めました。この青年は後に偉大な生物学者になりました。その後、彼はどこでもいつでも自信を持って教えることができることの一つは小魚だと言いました。
私たちが聖書を調べる時も、最初はあまり見えないでしょう。何も見えなく、何の悟りもないかも知れません。しかし、「継続は力なり」と言われている通りに継続的に調べると見えて来ます。蜂蜜よりも味を味わうようになります。
 私たちUBF教会は聖書勉強において多くの資料を持っています。福音書の場合は何種類もあります。毎週聖書勉強をしています。また、教えています。それで、私たちは聖書の御言葉になれています。毎日ご飯を食べていることのように、メッセージを聞いても新鮮味がありません。特にすでに知っているという知識があるので新しく調べようと心を定めるようなこともしません。
毎週、メッセージを準備している私からもなかなか新しいものが出て来ません。では、私たちはみな聖書に通じている聖書の達人になっているでしょうか。「彼は聖書に通じているので彼の神、主の御手が彼の上にあった。天皇は彼の願いをみなかなえた」と言われるほどになっているでしょう。
私は1990年から主日メッセージを伝えて来ました。始めは三人で交代しながら伝えました、2人交代になり、2002年からほぼ毎週メッセージを伝えています。だから、福音書は何度も伝えたし、クリスマスメッセージは同じ御言葉を10回も超えています。それで、新しく掘って御言葉を伝えることが難しいです。ただ、感謝することは私の記憶力が良くないことです。何でもよく忘れてしまうからいつも新しいと思って大胆に伝えることができるということです。ところが、同労者からまた同じことを言っていたと言われました。すると、その場では同労者に弁解しますが、自分の限界も感じました。
ところが、数年前から御言葉を繰り返して読みながら調べるうちに共感して心に響く感動、感激を経験するようになりました。それで、主日メッセージに関する祈りの課題に「共感、霊的感動」という言葉を入れました。私たちが十分に御言葉を調べると、私自身が深く恵みを受け、新しくされる経験をします。いつも、このように、できればどんなに素晴らしいことでしょうか。ところが、そうではありません。いつの間にかマンネリ化されている自分を発見する時も多いです。私はこのメッセージを準備しながらマンネリ化されている心を悔い改めました。そして今年はもっと深く御言葉を読み、調べようと心を定めました。どうか、私の決心が守られるように祈ります。
二つ目の要素は、「実行する」ことを心に定めたことです。調べて知っただけではそれは単なる知識にすぎません。教師や教授は知識を伝えるだけでも意味があるかも知りません。しかし、私たちクリスチャンはそうであってはなりません。イエス様を信じて救われているクリスチャンが御言葉を調べていると、そのうちに、神様が御霊によって心に語りかけてくださることがあります。「神様は大切な事ほど小さな声でささやく」(ビル・ハイベルズ著)という本もありますが、本当に神様は小さな声でささやいてくださいます。私たちはそれを実行する必要があります。ことばや口先ではなく行ないが伴わなければならないのです。それから三つ目は、「おきてと定めを教える」という働きを心に定めたことです。心の中で受け入れているだけでは足りません。伝えるのも大切な仕事です。
ここで、最も大切なことは心を定めたことです。どんなことが周りで起こっても、私は必ずこれを行なうという決意です。行なおうとする気持ちや勢いではなく、静かに心の奥底で行なう意思決定です。もう一度9、10節を読んでみましょう。「すなわち、彼は第一の月の一日にバビロンを出発して、第五の月の一日にエルサレムに着いた。彼の神の恵みの御手が確かに彼の上にあった。エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていたからである。」とあります。エズラが心を定めていたからこそ彼の上に神の恵みの御手が確かに彼の上にありました。神様の恵みの御手が確かに彼の上にあったからこそ、無事にバビロンからエルサレムに着くことができました。結局、エズラは主の律法を調べ、実行し、教えようとして、心を定めたことによって神様の恵みの御手の力を体験することができました。世の人々は実績によって評価します。また、外見上の姿を見て評価して助けます。神様は私たちが心を定めることを助けてくださいます。神様は私たちの決心を喜ばれ、実績を出し、外見上の姿が変わるように導いてくださいます。特に、神様は私たちが神様の御言葉を調べ、実行し、教えようと心を定めるなら、王の心さえも動かして助け、目的地まだに導いてくださいます。
ダニエル書を見るとダニエルはネブカデネザル王が食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定めました。すると神様は宦官の長に、ダニエルを愛しいつくしむ心を与えられました(ダニエル1:8,9)。それで心に定めたことを守れるようにしてくださいました。その上、ダニエルには知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられました。国中のどんな呪法師、呪文師よりも十倍もまさっているようにしてくださいました。このように、神様は神様の御前で心を定める人々を助け、彼らを中心に世の歴史も動かしてくださいます。
去年、年の初めに金ヨハネ宣教師は何個かのグラフ活動をやめて聖書を教えようと心を定めました。すると3人の方に聖書を教えるようになりました。十代から七十代までの兄弟様たちに聖書を教えています。同労者の金サラ宣教師はおしゃべりが楽しかったそうです。ヨハネ宣教師にもよくしゃべってくださいました。でも、今はあまりしゃべらないそうです。聖書通読を心に定めたからです。それで聖書を読み、御言葉を黙想していますが、おしゃべりより楽しくなっているそうです。御言葉の味が分かるようになってきました。蜂蜜よりも甘いその味を味わっているそうです。どうか、私たちが心に新たにしてエズラのように心を定めましょう。すると、神様は私たちが御言葉を調べ、実行し、教えることもできるように助けてくださいます。て行きましょう。神様はその態度を祝福してくださいます。
エズラの上に恵みの御手が特別にあったもう1つの理由はエズラの祈りと信仰です。8章を見ると、バビロンからエルサレムまでの4ヶ月の長旅は当時非常に危険でした。盗賊や略奪隊が多く待ち伏せする荒野がありました。そのためエズラたち一行は途中断食をして、子どもたちと、すべての持ち物のために、道中の無事を祈りました。(8:21)普通なら道中の敵から自分たちを助ける部隊と騎兵たちを願うでしょう。しかし、エズラは王に求めるのを恥ずかしく思いました。(22)なぜでしょうか。彼らは、かつて王に『私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いをくだし、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る。』と言っていたからです。」(22)。エズラは目に見えない神に信頼したのです。その信仰のとおりに、「神の恵みの御手は彼の上にあった」のです。
自由学園の創立者の羽仁もと子さんは、「どんな人でも生きている限り、知らず、知らず信仰によって生きている」と言ったそうです。そしてすべての母親は何らかの信念(信仰)を持っているから子育てができるし、お金儲けのために働く人も信念を持って生きている、反対に懐疑の心の方が強い人は、前に進むこともできなくなる」と説明しています。つまり、誰であっても、前に向かって進んでいる人は、ある種の信仰によって生きているということでしょう。そして、エズラが伝えていたように、信仰の対象が、自分の力か、お金の力か、また組織の力や権力者の力である者は、神を捨てるすべての者の上に下るさばきを受けます。しかし、エズラのように、神様が王の心を動かして軍事的な保護を与えてくださるという信仰によって生きる人は神様の恵みの御手の力を体験し、神様の報いを受けます。目に見える権力者の背後に、神様の御手が働いているからです。
どうか、私たちひとりひとりが御言葉を調べ、実行し、教えようと心を定めることができますように祈ります。私たちの信仰と祈りも新たにして行きますように祈ります。

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