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BibleMsg > 特別講義 > m12psalm27.主の御名を賛美します

m12psalm27.主の御名を賛美します

投稿者: Jubf 掲載日: 2013/1/2 (1708 回閲覧)
2012年年越メッセージです。

2012年越しメッセージ(賛美歌415)                              李ヨシュア
いのちの日の限り、主の家に住もう
御言葉:詩篇27:1〜14
要 節:詩篇27:4 「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」

詩篇は、主に対する感謝の言葉や賛美、祈りに満ちています。今日は、年越しメッセージとして詩篇27篇を学びたいと思います。今年一年間、主は、私たち一人ひとりの上に、またみなさまのご家族と教会の上に豊かな御恵みを与えてくださいました。私たちは、季節に合わせた美味しい御言葉の牧草を食べ、たましいを潤す賛美を歌い、心と霊を込めた祈りを主にささげました。また、この教会に新しい兄弟姉妹たちが加えられ、主の宮で一緒に交わる喜びもいただきました。罪と咎で主の御顔をまっすぐ見上げることができない者たちが主に出会い、「主は、私の光、私の救い」と告白する驚きの御業も見ました。全てを主に感謝し、喜び歌います。今日はダビデによるこの詩篇の御言葉を三つに分けて、皆様と共に主の御恵みを分かち合いながら、ダビデのように、「この幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌いたい。主に、ほめ歌を歌おう」と告白するような礼拝になれば真に幸いです。いのちの日の限り、主の家に住み、主の麗しさを仰ぎ見ることができれば、なおさらです。

第一に、「主は、私の光、私の救い」です(1〜3)。

この詩篇の時代的な背景は詳しくは分かりませんが、1節から3節には戦場の様子が描かれています。恐らくダビデは、激しい戦いがあった苦しい時を思い出しながら主を賛美していると思われます。ダビデは、悪を行う者が自分を滅ぼそうと、自分に襲いかかってこようとも、たとい自分に向かって陣営が張られ、戦いが迫ってこようとも、恐れることも動じることもないと告白しています(1〜3)。なぜなら彼は、「主は、私の光、私の救い」(1)という、主に対する信仰と救いの確信があったからです。主は、「すべての人を照らすそのまことの光」(ヨハ1:9)として、この世に来られました。ご自分に従う者を暗黒と死の陰から救い出し、決してやみの中を歩むことなく、いのちの光を持ってしっかりと歩んでいけるように導いてくださる「まことの光、救い主」です(ヨハ8:12)。ダビデはこの主の圧倒的な力を信じて、何回も何十回も立ち直ることが出来たことでしょう。

詩篇30篇5節で、ダビデは、このように歌っています。「まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」(詩30:5)。「夕暮れには涙が宿る」。ここには夕暮れのような彼の苦しい心、やみの中に歩むような心の状況が良く表れているような気がします。苦しい時や辛い時には、誰でも目に涙が宿るでしょうが、ダビデの魂は暗い穴の中に入り込み、体は病によって熱くほてっていました。死ぬかもしれない。ダビデは主の御怒りを感じて死の恐れに包まれました。姦淫の罪や人殺しの罪を犯した後には、彼の心は骨が溶けるように悶え苦しみ、「主よ。私は主に対して罪を犯し」ました、と主の前で悔い改めの涙を流しました(?サム12:13)。すると、主の御怒りで裁かれるべきなのに、いのちは主の恩寵のうちにあることを悟るようになりました。「恩寵」とは、神や主君から受ける恵みや慈しみのことですが、キリスト教では人類に対する神様の救いの愛のことを指してします。彼は主がどれだけ自分を愛していたのか、その救いの愛や憐れみを心の奥底から賛美しているのです。「朝明けには喜びの叫びがある」。朝明けに目を覚ますと、朝日が明るく暖かく差し込んできます。それと同じように、主の光が苦しい心に照らされると、今までの苦しみが一気に消え去っていき、病が癒され、爽やかな朝を迎えることができます。ダビデは身に沁みてその喜びを体験したことでしょう。だからダビデは、主の恩寵と哀れみを体いっぱい受け止め、主の御名を褒めたたえているわけなのです。

「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私は怖がろう」(1)。このダビデの確信溢れる言葉に胸が熱くなります。私たちもどんなに辛くて苦しくて涙が宿ることがあっても、怖がることなく確信を持って生きていけることを願いましょう。

人はだれでも目に涙が宿るほど苦しくて辛い時があるでしょう。今年私の目にはよく涙が宿りました。ある時には自分の弱さで泣き、ある時には主の十字架の山を登りながら泣きました。勿論、主の宮で主の御言葉を聞き、賛美し祈る喜びは蜂蜜より甘く、主のいのちの恩寵にあったことは紛れもない事実です。しかし、今年は精神的にも肉体的にも非常に疲れました。右肩に大怪我をし、お尻の痛みは酷くなり、顔面が麻痺する不自由な生活を余儀なくされました。それでも会社は休むことが出来ませんでした。それは、私の代わりに仕事をやってくれる社員がいないからです。何よりも、アクの強い社長のことでストレスを受けて精神的な疲れがピークに達したのか、うつ病にかかったような感じで寝つきも悪くなりつつありました。さらに、12月半ばには、全社員を解雇して契約社員に切り替える知らせを聞きました。社長は、私に対しては、私がへそを曲げてしまうと、会社がストップになるから、例外的に私だけは正社員として残したそうです。私は呆れてしまって「何だこりゃ〜」という気持ちでした。このように私の心は乱れ、暗黒と死の陰に住んでいる者のようでした。本当に主の恩寵がなかったなら、私はつまずき、倒れてしまっただろうと思います。しかし、「主は、私の光、私の救い」です。この主を信じているからこそ、今私は喜び叫んでいるのです。先週聖誕礼拝後の夜は、久々に安らかに「枕を高くして寝る」 ことができました。そして翌朝、すがすがしく目が覚めると、喜びの叫びが出ました。「偉大なる主、死の力をやぶり/よみがえられ、天にのぼられた/偉大なる主/その御名のちからは/あらし静め、やめるものをいやす・・・」(偉大なる主:小坂 忠 作詞・作曲)。ハレルヤ!

第二に、私のいのちの日の限り、主の家に住むことを願います(4〜7)。

年末年始になりますと、お寺や神社は人々で賑わいます。「初詣」といえば、お正月にすることであり、元旦から一週間ほどの期間のうちに神社や寺院にお参りする、というのが日本の常識です。ですが、来年を開運の年にさせたいと願う人は「年末詣」をするのだそうです。このように人は誰でも、願うことがあるでしょう。自分の切なる願いを絵馬などに書いて奉納し、その願いが叶うように参詣することでしょう。

さて、ダビデ王は何を願ったのでしょうか。王国の繁栄や強力な軍隊、領土の拡張、権力の増大、きらびやかな王宮、健やかな長寿などでしょうか。それらは当時の王なら、誰でも求めたものでした。日本の政治家たちも同じように強い日本を願っているようです。

しかし、驚くことにダビデ王の願いは違いました。4節をご覧ください。「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」ここで「一つのこと」とは、唯一もしくは第一という意味で、ダビデの最も大切な願いのことでした。イエス様は衣食住のことで、不安げな弟子たちにこう言われました。「神の国とその義をまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものは全て与えられます」と。

もう一度、4節をご覧下さい。ダビデにとって第一の願いは、主の家に住み、主の宮で主を礼拝することでした。「主の家」とは、神様が臨在される宮のことです。神の御言葉に満ち、賛美の歌声に満ち、祈りの声に満ちるべきところが主の家なのです。こういう主の家には、安らぎがあり、喜びの叫びがあります。そういう主の家に住むことは、祭司に許された特権ですが、彼は勝利を感謝して、主の宮で、祭司のように、「主の麗しさを仰ぎ見、・・・思いにふける」ことを望んでいたのです。[主の麗しさ]とは、主との交わりによって得られる、主の恵みの深さを指しています。また、「その宮で、思いにふける」ことは、「主の宮を訪問する」という意味で、常に感謝をもって主の御前に近づくことを表しています。ダビデは、救いの確信から、「その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、主に歌いたい」、そして「私を哀れみ、私に答えてください」と祈ることを第一に望んでいたのです。

私たちの人生において最も大切なことは何でしょうか。一番大切にしていることが、その人自身を決定づけます。私たちは人生の優先順位を第一に神様と位置づけるべきです。なぜなら、この優先順位こそが祝福される人生の秘訣なのだからです。ダビデの思いは主にくぎづけされたかのようです。彼は、信仰の創始者であり完成者である主から目を離すことがなかったのです。そのために、彼は主の家に住みたかったのです。確かに、どこででも主を見上げることができます。彼は宮殿に豪華な礼拝所を設けて、礼拝をささげることも出来たはずです。しかしダビデは、主が住まわれる主の家で、いのちの日の限り、主の宮に住みながら、主のみおしえを口ずさみ、感謝と喜びを持って賛美し、切に祈ることを願っていたのです。私たちも主の家に住み、「主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける」ことが出来ますように祈ります。

第三に、主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます(8〜14)。

8節をご覧下さい。「あなたに代わって、私の心は申します。わたしの顔を、慕い求めよと。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。」

人は恋心を抱くと美しくなると言われます。その熱情、その喜び、その痛み、その不安などで、心はいつも活発な状態になります。興奮と切なさが交錯します。何もかもが新鮮になり、生まれ変わって新しい人になったようにさえ感じます。

 さて、ダビデはその恋心を主に対して抱きました。恋人の顔を求めるように、主の御顔を求めました。恋人を麗しく思うように、彼は、「主の麗しさを仰ぎ見」ようと、慕い求めたのです。彼は恋愛体験を求めたのではありません。主を知り、その麗しさに心を奪われ、より深い関係を築き上げたかったのです。ダビデにとって、主は現実のお方でした。目の前にいる人間を感じるように、ダビデは主を感じました。そのイキイキ・ワクワク感には、目を見張るものがありました。だからダビデは、主の御顔を慕い求めたわけなのです。

私たちも、主に対してイキイキとした感情を持ちたいものです。ダビデはこのようにも言いました。13節です。「ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら―」。これは、もし、彼が主に出会わなかったなら、自分の人生はどうなっていたことだろうという意味です。私も同感です。もし、私が主に出会わなかったなら、もし、救いを受けなかったなら、もし、教会での礼拝がなかったなら、もし、あの良き牧者に出会わなかったなら、もし、良き伴侶に恵まれなかったなら、今ごろ私は、どこでどうしていたのだろうと思うと、背筋に冷たいものが走ります。恐らく愛と哀れみ豊かな救い主を未だに知らずに、罪のまま死の陰に座ってさ迷っていたことでしょう。罪と弱さで変になってしまっているこの世の中でまともに生きていくのは、本当に不可能に思えます。ジョエル・オスティーン牧師は、人々はただ「生き延びる」だけの人生を生きていますが、クリスチャンは「生き生きとした」人生を送るものだと言っていたといいます。私たちの力では生き延びるのも大変ですが、神様のご恩寵の元に生きている私たちは、生き生きとした希望ある人生が歩めるようになっていること、本当に感謝します。

年末年始、人々の多くは幸福を慕い求めて、有名な神社や寺院を参詣するでしょう。今年は本当に「多事多難」だった。もう過ぎ去った過去は忘れようと叫ぶ人もいるはずです。私は三日坊主のように、年末になってふと今年を振り替えて見ると、今年の要節も祈りの課題も忘れていました。世のものばかりを慕い求めたわけではありませんが、だからといって主の御顔を切に慕い求めたのでもない生活をしてきたなあと思います。新年は主の家で、主の御顔を慕い求める生活をしっかりとやっていきたいと思います。来年は皆様と共に、いのちの日の限り、主の家に住むことを願います。そして主の麗しさを仰ぎ見、思いにふける、その日を楽しみにしましょう。

最後に、皆様と一つの曲を歌いたいと思います。「命の日の限り」という讃美歌です。「あなたのみかおを/したいもとめます/いのちのとりで/わたしのひかり/なやむときには/わたしのたすけ/わたしはうたう/主へのさんびを/いのちの日のかぎり/主のいえにすもう/主のうるわしさを/あおぎみるために」(小坂 忠 作詞・作曲)



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