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12Luke29M聖餐の意味

投稿者: Jubf 掲載日: 2012/11/25 (1508 回閲覧)
2012年ルカの福音書第29講

聖餐の意味

御言葉:ルカの福音書22:1−23
要 節:ルカの福音書22:20「食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」」

 先週、私たちは収穫感謝祭の礼拝をささげました。私は、寺崎アブラハム牧者と金ユンヒ姉妹に注がれた主のいつくしみと恵みを通して大きな恵みを受けました。これからも主のいつくしみと恵みが追って来るでしょう。私たちの良い牧者であられる主の恵みを心から感謝し、御名をほめたたえます。
今日は聖餐式を通してイエス様ご自身をささげてくださった恵みを思い起こしたいと思います。イエス・キリストの血による救いの恵みを感謝し、その恵みを心に刻んでいきたいです。どうか、聖霊が御言葉を通してイエス・キリストの御血による新しい契約の意味を悟らせてくださるように祈ります。

 1節をご覧ください。時は、過越の祭りといわれる、種なしパンの祝いが近づいていた頃でした。過越の祭りはイスラエルにおいて最も大きな祭りです。今から3,200年ほど前はイスラエルの民が四百年間もエジプトで奴隷生活のために苦しみ嘆いていました。神様はそんなイスラエルをアブラハムとの約束のゆえにモーセを通して出エジプトさせようとされます。ところが、当時のエジプトの支配者パロはなかなかそれを許しませんでした。そこで、神様は最後の手段としてエジプト全地域の初子はみな殺されるさばきを下されました。しかし、イスラエルの家々には二本の門柱とかもいに羊の血をつけるようにしました。そして、そのイスラエル人の家々には死のさばきを下さずに過ぎ越されました。こうしてイスラエル人は死のさばきから救われ、エジプトから解放されました。そこで、彼らは過越の祭りを制定し、毎年行なっているのです。
ところが、祭司長、律法学者たちは、このお祝いの日にイエス様を殺すための良い方法を捜していました。何の罪もないイエス様を簡単に殺すことはできません。それは民衆が許さないことです。民衆を恐れていた彼らは民衆を騙してイエス様を殺す方法を捜していたことでしょう。
さて十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入りました。ユダは出かけて行って祭司長や宮の守衛長たちと、どのようにしてイエス様を彼らに引き渡そうかと相談しました。そこで、ユダはお金を要求したようです。彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をしました。結局、ユダはイエス様の弟子であったにもかかわらず、金のためにイエス様を裏切りました。その後、彼は自殺したのですが、人類歴史において裏切り者の代名詞になってしまいました。聖書に「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました(?テモテ6:10)。」と書いてある通りになりました。
7節をご覧ください。「さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。」とあります。イスラエルでは種なしパンの日になると過越の小羊をほふり、家族単位で過越の食事をします。この時に苦菜と種なしパンを食べますが、苦菜は彼らのエジプトにおけるすべての苦難を思い起こさせます。種なしパンは彼らが急いで出発したことを思い出させます(パンを種(イスト)を入れて膨らませる暇さえなかったほどに慌ただしい脱出)。こうして、彼らは神様が苦しみと災いから救い出してくださった恵みを思い出して感謝しその恵みを心に刻むのです。
イエス様はこのような過越の食事の準備するようにペテロとヨハネを遣わされました。すると彼らはイエス様に「どこに準備しましょうか。」と食事を用意する場所を聞きました。それに対してイエス様は何と答えられましたか。
10-12節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは言われた。「町にはいると、水がめを運んでいる男に会うから、その人がはいる家までついて行きなさい。そして、その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる。』と言いなさい。すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい。」とあります。イエス様は見えないところでも見っているかのように弟子たちに指示しておられることが分かります。実際に弟子たちが出かけて見ると、イエス様の言われたとおりでした。弟子たちはイエス様がすべてのことにおいて主権的に働いておられることを体験しながら過越の食事の準備ができたでしょう。今日もイエス様の御言葉に従う者は生きて働いておられるイエス・キリストに出会うことができます。
14節をご覧ください。「さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。」とあります。過越の食事は日没の時間になってから始めますが、その時間になってイエス様の一行は食卓に着かれました。苦菜と種なしパンを食べながらイスラエルが羊の血によって死のさばきから救われたことや苦くて苦い奴隷の苦しみから解放されたことを思い出して感謝し、その恵みを心に刻む時になりました。ところがイエス様は弟子たちに何と言われましたか。
15,16節をご覧ください。「イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」とあります。「この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。」と言われるイエス様の御言葉から切実な思いが伝わってきます。今までもイエス様は弟子たちとともに過越の食事をしておられたことでしょう。一年前も、二年前も過越の食事を弟子たち一緒にしておられたと思います。ところが、今回の食事は最後の晩餐になるのです。なぜなら、過越が神の国において成就するまでは二度と過越の食事をすることはないからです。
そこで、イエス様は十字架の苦しみを受ける前に、弟子たちとこの過越の食事をすることを切に望んでおられました。もし、過越の食事もする前に逮捕されて十字架の苦しみを受けるようになったら、ご自分の血による新しい契約について弟子たちに教える機会を失ってしまいます。弟子たちが知り、行うべき聖餐式、弟子たちだけではなく、その子孫たちも行い、今日の私たちも、行うべき聖餐式を教える機会を持たなくなってしまうのです。そういうわけではイエス様は「「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。」とおっしゃいました。では、イエス様はそれほど望んでおられた過越の食事をするときに教えられたことは何でしょうか。地上での最後の過越の食事となった最後の晩餐会で語られたイエス様の教えは何でしょうか。
 17、18節をご覧ください。「そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」とあります。ここで「神の国が来る」とは、イエス様がよみがえられ、天に上られ、将来栄光の姿で再び来られることを意味します。従って弟子たちがこの地上でイエス様からぶどうの実で造った物を飲むことはこれで最後です。本当に厳粛な時です。
19節をご覧ください。「それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われました。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」とあります。この地上で、弟子たちがイエス様から受け取るパンもこれで最後です。そして、このパンは毎年イスラエル人が過越の食事の時に裂いて食べていた大きなパンとは違います。もちろん、それにもイスラエル人にとって深い意味がありました。先ほど話したように、彼らをエジプトの奴隷から救い、解放させてくださった神様の大きなことを思い出して感謝し、その恵みを心に刻む意味があったのです。ところが、イエス様から与えられるパンはイエス様ご自身を意味しています。イエス様が十字架につけられ、御体が裂かれることを意味しているのです。ここで、「わたしを覚えてこれを行ないなさい。」と言われました。この言葉は、「聖餐の記念」ということを意味しています。今日、私たちが聖餐式を行なうのも、イエス様が「わたしを覚えてこれを行ないなさい。」言われたらからです。
私たちは日常の生活において忙しかったり、慌ただしかったりすると忘れがちになります。そうでなくても、時間が流れると、何もかも忘れて行きます。細かいことはいちいちメモをしていないと、記憶することができなかったりします。年寄りの方は、もう年取ったからしようがないと言いますが、若者にも忘れ物があります。それが、私たち人間です。しかしここで忘れてはならないのは、イエス様が言われた言葉です。
「わたしを覚えてこれを行ないなさい。」という言葉の中には、いつでも覚え、決して忘れてならないよう、心と体に刻みつけ、信仰をもって行いなさい、という意味が含まれています。従って聖餐における記念とは、神様の救いの恵みを思い起こし、忘れないようにすることです。子どもの時の思い出として思い出すものではありません。十字架に掛かって御体が裂かれたイエス・キリストの犠牲を思い出して感謝し、心に刻みつけることです。イスラエルの民が過越の祭りの時に種なしパンを裂いて食べながら自分たちに注がれた神様の恵み、思い起こしたように、私たちも聖餐式のパンを頂くことによって、キリストの受難を心に刻みつけるのです。
イエス様は杯についても次のように述べられました。
20節をご一緒に読んでみましょう。「食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」」とあります。この杯というのは葡萄酒のことです。この葡萄酒は、イエス様が十字架にかけられ、そこで流される私たちのための贖いの血である、ということです。すなわち、イエス様は最後の晩餐において前もってご自身が贖いの死と復活を暗示されていたということなのです。それは、この後も、ずっとそのことを覚え、行うことによって、贖いの死をいつでも心に思い起こし、主イエス・キリストが共にいて下さることを感謝することができるためです。こうしてイエス様は、パンと葡萄酒をとり、祝福と感謝をしました。パンを裂いて与え、ぶどう酒も同じようにされました。それが礼拝のなかで聖餐式の形式となって今に伝えられているものです。これは私たちにとって記念であり、しるしです。
今日、礼拝において聖餐式を受けることが許されている私たちは、キリストのからだにあずかるものである、と言えます。私たちの過去はイエス・キリストの十字架の死とともに死にました。どんなに酷い罪人であったとしても、罪人のかしらであったとしても、そのすべての罪の代価はイエス・キリストの犠牲によって払われたのです。
今年一年間を振り替えてみると、どうでしょう。主の前で本当に恥ずかしい自分が見えるかも知れません。汚れている自分の姿に絶望するかも知れません。しかし、私たちが私たちのすべての罪のために十字架に掛かって血を流されたことを信じるなら、その信仰によって私たちは赦されます。出エジプトの時、イスラエルの民に罪がなくてさばかれなかったのではなく、彼らが神様の御言葉に従って家の門柱やかもいにつけたから、神様はその血を見て過ぎ越されました。同様に、私たちが私たちの贖いのために流されたイエス・キリストの血を信じるなら、神様はその信仰を見て過ぎ越されます。「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される(詩103:12)」のです。そして、よみがえられた主は私たちの間において、救いのためにふたたび存在し、生きておられます。弟子たちと最後の晩餐において述べられた言葉とともに、イエス・キリストが永遠に、私たちと共にいて下さいます。それは新しい契約、弟子たちと私たちに与えられた新しい約束です。
古い契約は神様が選ばれた民イスラエル人と結んだ契約です。神様はイスラエル人を選ばれ、神様の民として守るべき律法を与えられました。そしてそれを守るなら、祭司の王国、聖なる国民とすると約束されました。イスラエル人はそのとおりにすると言いました。それによって神様とイスラエル人の間には契約が結ばれました。しかし、彼らは神様の律法を守り切れませんでした。彼らは罪を贖うためにさまざまないけにえをささげなければなりませんでした。羊や牛などをほふって天幕の祭壇に注ぎださなければなりませんでした。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」からです(ヘブル9:22)。どうしても犠牲の血が流される必要があるのです。それでイスラエルの民に自分たちが犯した罪の身代わりとして獣の血を流すようにされました(出24:6-8)。しかし、古い契約は獣の血によるもので不完全なものでした。獣の血は根本的に人間の罪を贖う力がありませんでした。
それで神様は御子イエス・キリストをこの世に遣わし、キリストの血による新しい契約を結んで下さいました。この新しい契約は神様が新しいイスラエル、つまりイエス様を信じる人と結ばれる契約です。ですからこの契約は、限定された一民族ではなく、全世界のすべての民族や人種に拡大された契約です。また、古い契約は石の板に書かれた律法によるものですが、新しい契約は心の板に、すなわち聖霊が豊かに注がれることによって確かめられる契約です(エレ31:33)。古い契約は動物の血によるものですが、新しい契約はイエス様の血によるものです。イエス様の血は何の罪もない純潔な神様の御子の血として完全なものです。従って、私たちがイエス・キリストによる新しい契約を心から信じるなら、完全な罪の赦しを受けるのです。これは本当に大きな恵みです。ただ信仰によって救われ、大いなる神様の恵みをいただけるのです。イエス・キリストの血の力によって純粋な神様の人として新しく生まれ変わるようになります。
イエス様が十字架につけられる時、一人の犯罪人がいました。彼はイエス様が自分の罪のために十字架につけられて血を流していることを信じました。すると、彼はその瞬間、救われてイエス様と一緒にパラダイスに入ることができました。これは聖書に記された事実です。神様の契約を信じる者には実際に起こることなのです。だれでも、キリストの血による贖いを信じるなら罪のエジプトから解放され、救われて聖なる神の国民となります。これがキリストの血による新しい契約です。
 もう一度19、20節を読んでみましょう。「それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」

 以上で私たちはイエス様が最後の晩餐の時に弟子たちに教えられた新しい契約を学びました。イエス様は私たちの罪と咎を贖うために多くの苦しみを受け、十字架に掛かられて尊い血を流されました。御体が裂かれました。そして、その十字架の血を信じる信仰によって私たちは救われました。聖なる神様の子どもとして生きるようになりました。また、よみがえられたイエス・キリスト共に生きるようになりました。今も、イエス様はここにおられます。そして、私たちがこの事実、十字架の恵みを覚えて記念することを願っておられます。どうか、私たちがキリストの貴い御血による救いの恵みを覚えて感謝し、心に刻みつけることができますように祈ります。そして、罪のエジプトに戻るような生活を捨てて、聖なる国民として生きることができるように祈ります。

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