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収穫感謝祭

投稿者: Jubf 掲載日: 2012/11/23 (2306 回閲覧)
2012年収穫感謝祭

私の杯はあふれています

御言葉:詩篇23:1−6
要 節:詩篇23:5
「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」

 突然ですが、皆さんは今、心が満たされているでしょうか。

「心のストレッチルーム」(http://www.kokoro-str.jp/)というサイトには、「どうしても『心が満たされない人』の特徴」(ローリー・アシュナ ミッチ・マイヤーソン著)というチェックリストが載っていました。そこには、11のチェック項目がありますが、その中の三つ以上に該当する人は、「心に恐れや不安、悩みを抱えている人たち」だそうです。
たとえば、?「手に入れたいと思ったものを手に入れても、喜びを感じない。次はうまくいくだろうか?と不安になるだけ。」?「『他人に頼るな』と教えられてきたために、人間関係や仕事、あるいは家族のなかで、もめごとがあったとき、必要以上に自分を責める傾向にある。」?「過去に味わった失望を、無意識のうちに繰り返している。両親や友人とのもめごとが、現在の人間関係にも尾を引いている。」などです。いかがでしょうか。

 さて、今日学ぶ、詩篇23篇の著者ダビデは、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」と告白しています(1)。では、なぜダビデはこのように告白することができたのでしょうか。この時間、ダビデの羊飼いである神様について深く黙想する中で、神様が私の羊飼いであることを告白できるよう、祈ります。そしてダビデのように、「私の杯は、あふれています。」(5)と告白できるように祈ります。

 1節をご覧ください。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」
ダビデは、神様と自分の関係を、「羊飼いと羊」の関係にたとえています。イエス様もご自分と人間との関係を、「牧者と羊」の関係にたとえておられます(ヨハネ10章)。では、なぜ牛や馬ではなく、羊なのでしょうか。皆さんも知っている通り、ダビデは統一イスラエルの王でした。百戦練磨の勇士であり、優れた詩人でした。立琴の名手でした。周りから見ると、非の打ちどころのない完璧な人に映ったことでしょう。サウルも嫉妬するほど、民たちの関心はダビデにありました。一方、羊は家畜の中で最も弱く、どの家畜よりも飼い主の深い関心と愛情が必要です。あまり目が良くありません。足が短く、自分一人では立ち上がることができません。ほかの動物のように、自分で自分の身の安全を守ることができません。羊飼いは、必要な時に羊を養うのではなく、いつも羊の様子を顧みなければなりません。この羊とダビデの姿を見ると、あまりにも対照的でした。
しかしダビデはもともとベツレヘムに住むエッサイの子で、八人兄弟の末っ子でした。家では父親の羊の面倒を見ていました。誰もダビデには、関心を示しませんでした。むしろ無視されていました。ところが、神様はダビデに深い関心を示されました。ある日、神様はサムエルを通して、ダビデに油を注ぎ、イスラエルの君主とされました。ダビデは、この神様の豊かな恵みと大きな愛を、いつも覚え感謝する生活をしていたようです。そしてこの神様を、羊飼いとしてお迎えした時、ダビデの心は満たされていました。「私は、決して、乏しいことがありません。」と告白することができました。では、羊飼いである神様は、ダビデをどのように導いてくださったのでしょうか。
また、私たちをどのように導いてくださるのでしょうか。
 2,3節をご覧ください。「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」羊飼いは、どこに羊たちを導けば良いのか、をよく知っています。ユダヤでは主に羊たちを放牧させますが、羊飼いは緑の牧場に羊たちを導いて行きます。そこは、新鮮で、若く、やわらかな草が豊富に生えている所です。羊たちは思う存分、「うめー」と言いながら、お腹いっぱいに食べることができます。食べて満腹になるとそこで横になって、お昼寝をします。ところが、時には、羊たちが草を食べているのに、羊飼いが別の場所に羊たちを移動させてしまうこともあります。その時、羊たちは「なぜ食事中に自分たちを歩かせようとするのか、自分の牧者がいじわるをしているのではないか」と疑ってしまうこともあります。しかし羊飼いを信頼してついて行った羊たちは、また別の場所でお腹いっぱい新鮮な草を食べることができます。それだけではありません。羊飼いは、「いこいの水のほとり」に、羊たちを連れて行きます。そこは新鮮で澄んだ水がわき上がる泉です。羊たちはそこの水を飲んで、疲れと渇きを潤します。そして自然のマイナスイオンによって、心も体もリフレッシュします。このように羊飼いは羊たちに必要なものをすべて満たしてくれます。神様はダビデの羊飼いとして、ダビデに必要な全てのものを満たしてくださいました。それだけではありません。聖書の御言葉を通して、ダビデのたましいを生き返らせてくださいました。今日、物が満ち溢れても、心が満たされない人々が多くいます。それは、人は肉体とたましいを持った存在であるからです。動物のように本能のまま生きても本当の満足を得ることができません。預言者アモスは今の時代を指して次のように預言しています。「見よ。その日が来る。――神である主の御告げ。――その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。」(アモ8:11-13)。人は、神様の御言葉によって、たましいの満足を得ることができます。イエス様は言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハ7:37,38)。私たちは、日ごとの糧を通して、主日礼拝の御言葉を通して、聖書勉強を通して、神様の御言葉にふれ、たましいの満足を得ることができます。誰でも、神様を羊飼いとして受け入れるなら、心も体もたましいも満たされるようになります。

 4節をご覧ください。「たとえ、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」
時には、毒蛇が潜んでいる草むら、獰猛な獣が住んでいる野を歩くこともあります。その時、羊たちはいのちの危険にさらされてしまいます。しかし羊飼いは、そのような環境の中でも、羊たちの命を守ります。毒蛇に遭遇すると、むちで一撃します。また、羊を奪いに獣が襲いかかってくると、杖で応戦します。この羊飼いに守られた羊たちは、死の陰の谷を歩くことがあっても、決して恐れません。実際に、著者ダビデも、羊たちにとって良い牧者でした。サムエル記第一17章には、巨人ゴリアテに立ち向かうダビデの勇敢な姿が現れています。ところがサウルを始め、イスラエルの民たちはみな、戦争にも行けないほど幼いダビデを見て、到底勝目がないと思いました。しかしダビデはサウルに言いました。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」(?サム17:34-37)
神様は勇敢に戦うダビデを保護してくださいました。そしてダビデに勝利をお与えになりました。ダビデは命をかけて羊たちを守っただけではなく、巨人ゴリアテを倒して、イスラエルの民を危機から救い出しました。また、イエス様は私たちにとって、良い牧者となられます。イエス様は言われました。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハ10:11)私たちはもともと罪と死の勢力に支配されていました。サタンの支配を受けていました。そのため絶えず罪の誘惑を受け、死に対する恐怖に恐れおののいていました。ところがイエス様は、私たちを罪と死の勢力から救い出すために、十字架の上で尊い血を流されました。そして死んで三日目に死者の中からよみがえられました。このイエス様を信じることによって、私たちは全ての罪と咎が赦されました。さらに進んで、よみがえられたイエス様を信じる信仰によって、死に対する恐れは、もはや消え去りました。永遠のいのち、天の御国に対する望みが与えられました。このイエス様によって、力強く、大胆に歩むようになりました。それだけではありません。

 5節の御言葉を、皆さんと一緒に読んで見たいと思います。「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油を注いでくださいます。私の杯は、あふれています。」神様は私たちに完全な勝利を与えてくださいました。それで敵の目の前で、私たちは勝利の喜びを味わい、恐れることなく、自由に飲み食いすることができます。また、神様は私たちの全ての傷を癒し、病を治してくださいます。全ての涙をぬぐい取ってくださいます。
羊飼いは、羊から虫を追い払うために頭に油を注ぎます。その油はけがを癒す役割も果たします。さらに進んで、羊同士が、頭からぶつかりあっても、注がれた油によって激しく頭をぶつけることはありません。多少、傷を受けるとは思いますが、少しは痛みも残ります。
イザヤは次のように預言しました。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。・・・彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:4,5)
イエス様の十字架は私たちの罪と咎を赦すだけではなく、私たちの心の病、心に受けた傷、体の病をすべて癒してくださいます。さらに進んで、神様との関係を回復させ、壊れた人間関係を回復させる役割を果たしています。私たちは信仰によって救いを受けました。ところが、昔の悪い習慣、古い自分から抜け出すことができず、なかなか変わることのできない自分に絶望することがあります。実際に信仰によって生きようとしても、神様の愛に対する疑い、将来に対する恐れと不安、目の前の誘惑に落ちたことによる罪意識のために、自虐することもあります。また、家庭や職場、学校での人間関係によって悩み、心に深い傷を負ってしまうこともあります。そのような時、なかなか羊飼いであるイエス様の御姿が見えなくなることもあるでしょう。
しかしイエス様の私に向けられた愛によって、もう一度、罪、悪い習慣に立ち向かって勝利する力を得るようになります。自分のことしか考えなかった人が、イエス様の十字架の愛と恵みによって、ほかの人をも顧みる牧者として生きるようになります。自分のような者でも愛し、受け入れてくださったイエス様のことを考える時、私たちは慰めを受け、傷がいやされます。そしてイエス様のように、どんな人をも愛し、受け入れ、担える力を得るようになります。人から愛情を受けようとする人は、むしろ愛に飢え渇くしかありません。しかしイエス様から受けた愛に基づいて、積極的にその愛を施そうとする人は、むしろ心に喜びが満ち溢れるようになります。後から後から喜びがあふれ出て、その喜びを分かち合わずにはいられなくなります。するとその愛情を受けた人も、恵みを受け、同じように今度は、ほかの人に対して、その愛情を与える生活をするようになります。すると、この世の全ての問題が解決されるようになります。なぜならこの世の問題のほとんどは、愛の欠如から生じるものだからです。

6節をご覧ください。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」ダビデの人生を振り返って見ると、いつも平穏であったわけではありません。サウルのねたみによって、いのちからがら荒野に逃げ込み、いつもいのちの危険にさらされた時もあります。サウルの死後、イスラエルの王になりましたが、国が二つに分裂して戦争になったこともあります。また、最愛の子アブシャロムが謀反を起こし、再びいのちが狙われました。ところが、そのようなでも、ダビデは神様の大きな愛と豊かな恵みを仰ぎ見る生活をしていました。それで、ダビデは、生涯の中で「いつくしみと恵みが私を追って来る」と告白しました。「いつくしみと恵みを求めて歩む」のではなく、いつくしみと恵みがダビデに向かって来ることを信じ確信しました。ダビデが逃げても、いつくしみと恵みが追いかけて来るのです。それでダビデは、いつまでも変わることなく、主の家に住むことを決断しています。私たちも、ダビデのように、生涯の中で、いつくしみと恵みとが追って来ることを信じ、どんなことがあっても最後までキリストを信じて歩んで行くことができるように、祈ります。

今日は、収穫感謝祭として、主に礼拝をささげるようになりました。皆さんにとって、今年はどんな時だったのでしょうか。どのような面で、神様から恵みを受けたのでしょうか。皆さんの中には、「今年はあまり神様から恵みを受けることができなかった」とつぶやく人もいるかも知れません。しかし本の些細なことであっても、神様に感謝できる方は幸いだと思います。

 私は、この御言葉を準備する中で、勝利をくださった神様について、深く考えるようになりました。「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。」今年を出発する時、「正社員になることができるよう」と祈りの課題をかかげました。が、正直、心のどこかには「無理だ」というあきらめの心もありました。
ところが、神様は、もう一度信仰によってチャレンジするように助けてくださいました。その時、私は失敗を挽回させてくださる神様を仰ぎ見ました。それで、「正社員になる」という望みの中で、介護福祉士試験にチャレンジしました。会社生活で忙しい中でも、神様は私と共におられ、試験勉強ができるように助け導いてくださいました。3月には、念願の合格通知を手に入れることができました。4月には、「サービス提供責任者が介護福祉士であること」という法の改正によって、「正社員になる」という望みがさらに具体的に現れるようにしてくださいました。そして6月には、ついにその望みが現実のものとなりました。ところが、その喜びも長くは続きませんでした。社員にはなったものの、具体的な仕事の内容すら教えてもらえず、慣れない仕事のためにストレスを受けました。また、そのことによって、ほかの社員から無視されるようになりました。その時、私はダビデと共におられる神様のことを考えるようになりました。どこにいても、ダビデを守り、導いてくださる神様のことを信頼するようになりました。私がこの神様を期待した時、神様は、私が謙遜に学ぶように導いてくださいました。多くの研修を通して、実際の仕事で活用できるように助けられました。そしてありのまま受け入れ、その人を支えようと決断した時、神様はその人の心を動かされました。するとその人の態度も少しづつ態度が変わるようになりました。顔を見るたびに文句を言っていた人が、週1回になり、月1回と、次第に文句を言う頻度が減るようになりました。同時に、私の心に平安も与えてくださいました。今月に入り、人事異動によって、今まで一緒に仕事をしていた人が別の営業所に移り、新しく入った人だけが残ることになりました。その中で、神様は私が信仰によって職場生活において勝利できる環境を備えてくださいました。いつのまにか、介護福祉士が4人になり、会社の基盤を固めてくださいました。また、知恵と信仰によって、的確に指示できる力をくださいました。続けて、私が職場生活において、実を結び、主の栄光を現わすことができるように祈ります。
神様は、ここにいる一人一人と共にいてくださいます。イエス様の十字架の血潮によって、私たちのすべての罪を赦してくださいました。日ごとの糧の御言葉を通して、義の道に導いてくださいました。私たちの祈りを聞いてくださいました。私たちに必要なすべてのものを満たしてくださいました。日々、健康と知恵を施してくださる中で、実生活において勝利をくださいました。事故や災害から守ってくださいました。どんな時にも、私たちと共におられ、心に平安をくださいました。このように神様から受けた恵みを考える時、私たちは神様に感謝せずにはいられません。
 今年、私たちと共におられ、祝福してくださった神様が、これからも共にいてくださいますように祈ります。この神様のことを覚えながら、この時間、もう一度、恵みを覚え、共に分かち合うことができるように、祈ります。そして、私たちが、自分の回りにいる人々に主の愛を施す牧者として日々、成長して行けるように、祈ります。

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