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BibleMsg > ルカの福音書 > 12Luke09りっぱな信仰

12Luke09りっぱな信仰

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2012/7/1 (1408 回閲覧)
2012年ルカの福音書第9講 

りっぱな信仰

御言葉:ルカ7:1〜17
要 節:ルカ7:9「これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」

今日は、父の日です。案外、「母の日」の陰に隠れて忘れがちかもしれません。私も父の一人でもあるから凝縮ですが「母の日」だけでなく、「父の日」も覚えてお祝いしましょう。聖書は「あなたの父と母を敬え。」と記しています。お父さんへのプレゼントは、まだ間に合います。言葉だけでも父親への深い感謝の気持ちを表しましょう
 聖書は私たちの神様が私たちの父であることを教えています。イザヤ64:8節に「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」とあります。そして、イエス・キリストは父なる神様です。イエス様は「わたしと父とは一つです(ヨハネ10:30)」言われました。
そういうわけで今日は肉親の父親だけではなく、父なる神様への深い感謝の気持ちを持ってイエス様のお言葉をいただきたいと思います。一般的にも「言葉には力がある」と言われます。東京都には「言葉の力再生プロジェクト」もあります。この言葉の力をよく理解し、経験していたある百人隊長はイエス様に言いました。「ただ、お言葉をいただかせてください。」と。ここでの「お言葉」とは天皇の言葉ではなく、イエス様のお言葉です。
この時間、本文の御言葉を通して百人隊長の立派な信仰を学び、信仰によってイエス様のお言葉をいただきたいと思います。私たちが心からお言葉をいただくなら、それは思いかけない時にふっと私たちの中でよみがえります。私たちが悲しい時に慰めと励ましなります。死にかけている時に癒しと命となります。どうか、聖霊の助けによってイエス様が驚かれるりっぱな信仰を学び、イエス様のお言葉を深くいただく時間となりますように祈ります。

?.イエス様のお言葉に対する百人隊長のりっぱな信仰(1−10)
1,2節をご覧ください。イエス様は先週私たちが学んだ平地の説教が終わると、カペナウムに入られました。カペナウムはイエス様の宣教のうちもっとも重要なガリラヤ伝道の本拠地になっていました。そこで熱病で寝ていたペテロのしゅうとめ、中風の人が癒されました。また、マタイの福音書を記した元収税人マタイがイエス様の弟子として召されました。その町に、ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていました。百人隊長は百人ほどの軍人を指揮する人です。当時の階級からすれば上級職でした。ユダヤ人の長老たちでも使いに送るほどに権力を持っていました。一方、しもべは当時の世界で「物を言う道具」に過ぎない存在でした。使い捨てのもののように扱われていたのです。多くのローマ軍人たちは現地で採用されたしもべが働けなくなると捨ててしまいました。ところが、本文の百人隊長はどうしましたか。
 3-5節をご覧ください。百人隊長は、イエス様のことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いしました。ひとりのしもべのために長老たちを使いに送るほどに部下を愛していました。しもべが働いてくれる時だけではなく、死にかけている時も愛し続けていました。自分のしもべだけではありません。彼は町の人々も愛していました。それはユダヤ人の長老たちの言葉から分かります。
4、5節をご覧ください。「イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」とあります。百人隊長は敵対関係であったユダヤ人を愛していました。ルカはイエス様の平地説教に続いてイエス様の教えをそのまま実践しているような異邦人のことを記しています。彼は異邦人でありながらもユダヤ人を愛し、彼らのために善を行なっていました。ぱりさい人や律法学者たちは豊富な知識を持って人々をさばいていましたが、彼は人をさばくのではなく、町の人々と交わり、彼らのために会堂を建てるほどに愛を行なっていました。すると、彼自身も愛され、尊敬されるようになりました。ユダヤ人の長老たちが彼もが彼のためにイエス様に熱心にお願いするほどに重んじられていました。しもべでも重んじる彼は自然に人々から評価され、愛され、尊敬されていたでしょう。本当に素晴らしい人です。彼は地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人のように賢い人生を生きていたと言えるでしょう。私たちもこの百人隊長のように愛を実行する生活ができるように祈ります。また、自分が属している組織やコミュニティーの中で重んじられる人として生きるように祈ります。
 イエス様は長老たちのお願いを聞いてから彼らと一緒に行かれました。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られました。その時です。百人隊長は友人たちを使いに出して、イエス様に伝えました。
6bをご覧ください。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。」とあります。彼はイエス様が自分の家の近くに来ておられることを聞いたでしょうか。彼はイエス様が異邦人である自分の家に入らなくてもいいように使いを出しています。「あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。」と言っています。本当に謙虚な姿です。この謙遜さは、どこから来たでしょうか。それはイエス様に対する正しい知識から来たと思われます。
7、8節をご一緒に読んでみましょう。「ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」≪ただ、お言葉をいただかせてください。≫百人隊長はイエス様のお言葉の力を正しく知り、信じていました。彼は自分の生活の中で言葉の力を経験し、それをイエス様のお言葉に適用しています。百人隊長だとしても彼の上には千人隊長もいるし、軍団長も、司令官もいたはずです。当時の世界を支配するローマ皇帝もいます。彼らの権威に従わなければなりませんでした。また、自分の部下たちを見ると、誰も逆らうことなく自分の命令に従っていました。カペナウムで目撃し、人々から聞いたイエス様は間違いなく天においても、地においても一切の権威を持っておられる方でした。イエス様は海の中にある魚たちを動かし、病人を癒し、悪霊を追い出しておられたからです。こういうことを通して彼はイエス様のお言葉には時間空間を超えて働く力があることを信じました。そこで彼はイエス様に「ただ、お言葉をいただかせてください。」と言ったのです。では、イエス様のお言葉に対する百人隊長の信仰を聞かれたイエス様は何と言われましたか。
 9-10節を読んでみましょう。「これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。」イエス様は驚かれました。イエス様は百人隊長の人々への愛、イエス様への尊敬と謙遜を聞かれた時に感動されたでしょう。確かに彼に対する長老たちの話を聞かれた時に「彼は素晴らしい!本当に偉い!」と感激されたと思います。でも驚かれるほどではありませんでした。しかし、イエス様のおことばに対する深い信頼、その信仰を聞かれた時は驚かれました。イエス様は彼のお言葉に対する信仰に驚いて「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」と賞賛されたのです。結局、その信仰のとおりに彼のしもべはよくなっていました。離れていても遠隔治療ができたのです。
 ここで、私たちはイエス様が驚かれる立派な信仰とはお言葉に対する信仰であることが分かります。本当に神様のお言葉には力があります。創世記1章3節を見ると、「神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。」とあります。9節では「神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。」とあります。このようにして神様は天地万物を、その御言葉によって創造されました。このように神様の御言葉には力があり、権威があります。しかし、不信仰の人には何の意味もありません。律法学者たちのように知識的に知っていても意味がありません。神様のお言葉は信じる者のうちに働きます。「求めなさい、そうすれば与えられます。」という御言葉を信じる者はその通りに、神様に求めて与えられることを体験します。約束の御言葉を信じる者はその通りに成就されることも体験できます。
信仰の先祖アブラハムは神様から「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」と言われた時、それを信じて従いました。ただ、神様からいただいた御言葉を信じたからこそ、行く先を知らないで出かけて行ったのです。すると、彼は大いなる国民の父のなり、祝福の源となりました。モーセも神様の御言葉を信じて従いました。すると約束の通りに、偉大な指導者としてエジプトでの奴隷として苦しんでいたイスラエルを導き出すことができました。イザヤ、エレミヤ、アモスなどの預言者たちも御言葉を聞き、それに従うことを通して御言葉の力と権威を体験し、祝福された人生、偉大な人生を生きることができました。 
最近、私たちがルカの福音書を通して学んできたペテロも、ヨハネ、ヤコブ、マタイたちも御言葉に従うことによって御言葉には力があること、人を癒し、人にいのちを与えることを体験する人生を生きるようになりました。本当にお言葉をいただくと人生が変わるのです。この世で偉人たちもいい言葉を残し、その言葉によって癒される人々もいます。いい言葉はいい人生をつくってくれるでしょう。ところが、変な人の言葉に惹かれていくと変な人生になってしまいます。
先週、高橋容疑者逮捕によってオウム真理教のすべての逃亡犯が逮捕されました。オウム真理教元代表・松本智津夫死刑囚の言葉に騙された人々の被害はどんなに大きいものでしょうか。また彼らの地下鉄サリン事件によって犠牲になった人々がどれだけ多いことでしょうか。だからいい言葉のように聞こえても人間の言葉には気を付けなければなりません。しかし、聖書にあるイエス様のお言葉は真理です。人類の歴史がそれを証明しています。新約時代だけでも2、000年以上、数えきれない人々が御言葉を信じて救われました。御言葉の力と権威を体験して来ました。

?.慰めといのちのお言葉をいただいた親子(11‐17)
 11-13節をご覧ください。イエス様がナインという町に行かれました。その時、どんな行列に出会いましたか。イエス様が町の門に近づかれると、死の行列に出会いました意。やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところでありました。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていました。彼らはひとり息子を亡くしたやもめをどのように慰めていたことでしょうか。
もし、年寄りの母親を亡くした息子なら、慰めることができます。「もうこれ以上、 泣かなくてもいいの。これからはもっとしっかりしなくちゃ。」と言うことができるでしょう。あるいは「「泣きなさい。もっと泣きなさい。泣けるときに泣きなさい。」と言えるかもしれません。しかし、子どもを亡くした母親にはそのように言えません。早くも夫をなくし、続いて今ひとり息子を失ったやもめに言えることばがあるでしょうか。
どんな言葉を聞いても彼女にとって、それは心引き裂かれるものになったのではないでしょうか。できるものなら、息子と一緒に葬られたいと切実に願っている母親に言える言葉はありません。私たちはこのような悲惨な現実の中で語る言葉を失います。ただただ心を痛めながら、共に涙を流す以外にはないのです。しかし、イエス様は違いました。私たちの悲しみの深い淵の底に降りて来られるだけでなく、その現実を造り替えてくださるのです。
13節をご覧ください。「主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。」とあります。ここで「かわいそうに思い」という言葉の元々の意味は「はらわたが揺り動かされる」という意味です。これがこの時にイエス様が感じられた思いです。やもめの悲しみと絶望にはらわたが揺り動かされる痛みを感じられたのです。そして、その心、悲しみにはらわたが揺り動かされる母親の悲しみに共感して「泣かなくてもよい」と言われたのです。このイエス様のお言葉を聞いたやもめの心はどうなったのでしょうか。
恐らく、今までは感じることができなかった深い同情のお言葉に慰められたことでしょう。自分の悲しみに共感してくださるイエス様のお言葉に本当の慰めを受けたと思います。イエス様は私たちのことをよく知っておられるからです。詩篇56篇8節をみると「あなたは、わたしのさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にくわえてください。」とあります。新共同訳では「あなたは私の嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか。あなたの皮袋に私の涙を蓄えてください。(56:9)」とあります。神様は私のさすらい、私の嘆き、私の波を数えられました。親友が分かってくれない苦しみ、親も、夫が分かってくれない苦しみも、神様は知っておられます。それだけではなく、その涙までも数えておられます。このようにイエス様は私たちをよく知っておられるからこそ私たちを哀れんでくださいます。そして、私たちの問題を解決してくださいます。イエス様はひとり息子を亡くした母親の悲しみに同情し、かわいそうに思われることだけではなく、根本的に助けてくださいます。母親の問題を解決してくださるのです。ですから、「泣かなくてもよい」と言われるイエス様のお言葉は彼女にとって本当の慰めになります。では、イエス様はどのようにして彼女の悲しみの問題を解決してくださいましたか。
14節をご一緒に読んでみましょう。「そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われた。」イエス様は「青年よ。あなたに言う。起きなさい。」と言われました。イエス様は若い人に言われます。「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」ここで「起きなさい」とは新約聖書に144回出る言葉です。ギリシャ語では「エゲイロー」ですが、それは「目を覚ます、起きる、立ち上がる、よみがえる」という意味だそうです。イエス様はヤイロの娘にも言われました。「子どもよ。起きなさい。(ルカ8:54)」このことばに力があります。この声に死の力を打ち砕く愛の力があります。イエス様の声は死んでいる者の耳に届くのです。ただこのような権威ある声に私たちは従うしかないでしょう。どうか「青年よ。あなたに言う。起きなさい。」という主の声を聞くことが出来るように祈ります。その権威ある言葉に圧倒されて目を覚まし、起きて立ち上がることが出来るように祈ります。「愛は死より強い。」とありますがそのとおりです。主の愛の力、御言葉の力が死んだ青年に届きました。
15−17節をご覧ください。イエス様のお言葉を聴いた青年は起き上がって、ものを言い始めました。彼は何と言ったでしょうか。おそらく「ほめたたえよ。イエスの御名を(Praise Jesus!)。イエス様!ありがとうございます。そして、お母さん!もう泣かなくても良いよ。」と言ったでしょう。その光景を見た人々は恐れを抱き、「大預言者が私たちのうちに現れた」とか、「神がその民を顧みてくださった」などと言って、神様をほめたたえました。イエス様についてこの話がユダヤ全土と回りの地方一帯に広まりました。

以上で見ると百人隊長は隣人を愛する人、言葉や口先だけではなく、隣人のために会堂を建ててあげるほどに愛を人選する人でした。何よりも彼はイエス様のお言葉に対する深い信頼、信仰がありました。イエス様も驚かれるほどの信仰がありました。その信仰によって死にかけていたしもべを生かしていただきました。ところがナインのやもめはどのような生活をしていたのかが記されてありません。ただ、町の外でイエス様に出会ったことで意外な恵みを受けました。ただ、共通していることはイエス様のお言葉をいただいたことです。御言葉をいただいた時に、しもべが治りました。本当の慰めを得ました。死んだ者が生き返りました。どうか、私たちが毎日の生活の中で朝一番にお言葉をくださいと祈りましょう。「今日も大切な営みをしていきたいです。お言葉をいただかせてください。」と祈る者に神様の祝福があります。今週も、ただ、お言葉を信じるりっぱな信仰によってイエス様の慰めを、生かされて青年らしく生きることが出来るように祈ります。

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