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BibleMsg > ルカの福音書 > 99年15講 呼び求める祈り

99年15講 呼び求める祈り

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/23 (2635 回閲覧)
1999年ルカの福音書第15講

 

呼び求める祈り

 

御言葉:ルカの福音書18:1?14

要 節:ルカの福音書18:7

「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、

いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」

 

 ルカの福音書は、特に祈りの福音書と言われています。今日はイエス様が教えてくださった祈りに関する二つのたとえについて学びたいと思います。一つは失望せずにいつも祈るべきであることを教えてくれます。もう一つはへりくだって祈るべきであることを教えてくれます。本文の御言葉を通して呼び求める祈りについて学び、主に聞かれる祈りを捧げることができるように祈ります。

 

?.やもめのしつこい祈り(1-8)

 

 1節をご覧下さい。「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」この御言葉はイエス様がこのたとえを話された目的について言っています。また、私たちの祈りの生活で、克服すべき二つの問題は何であるかを言っています。

 第一に、いつも祈るべきです。イエス様はいつも祈るように言われました。「いつも」祈るとは健やかな時にも病んでいる時にも、祝福の時にも、悩んでいる時にも、絶えず祈ることです。なぜそのように祈らなければなりませんか。祈りはクリスチャンにとって呼吸のようなものだからです。空気は目に見えないものですが、それがないと人はすぐ苦しくなってついに死んでしまいます。同様に祈りがないクリスチャンは霊的に苦しくなり、ついに死んでしまいます。また、祈りは父なる神様との生きた交わりであり、神様からいのちと祝福を受ける通路です。クリスチャンは祈りを通して神様から霊的な生命を受けます。祈りによって誘惑に打ち勝つ力が与えられます。祈りを通して困難を乗り越える知恵と霊的な方向を得ることができます。イエス様もいつも祈られました。ルカ5:16節を見ると、「イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた」と書いてあります。これはイエス様がいつも習慣的に祈っておられたことを教えてくれます。ある時には祈りながら夜を明かされました(ルカ6:12)。ある時には朝早くまだ暗いうちに起きて祈られました(マルコ1:35)。イエス様は祈りによって神様と交わり、神様のみわざを成し遂げられる力と知恵と方向を得られました。イエス様は十字架の上で息苦しくなっていた時にも「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈られました。神の御子イエス様もこのようにいつも祈られたのです。だからこそ私達はなおさら祈らなければなりません。祈らないと私達は霊的な無気力に陥り、いつも疲れを感じるようになります。口からは「ああ!疲れた」とため息をつくします。そのような状態が続くと信仰から離れ、霊的に死んでしまいます。ですから、私達が生き生きとした信仰生活をするためにはいつも祈らなければなりません。

 それでは私達がいつも祈るためにはどうすればいいでしょうか。私達が自分の力や経験や知恵に頼るとなかなか祈りません。非常に困っている時には神様に頼り祈りますが、状況が改選されると祈るのをやめてしまいます。人は自分の弱さを感じ、遜った時、神様に頼り始めます。ですから、いつも祈るためには自分の弱さを認めなければなりません。いつ誘惑に陥るか分からない自分の弱さを認めて「私を試みに会わせず、悪よりお救いください」と祈らなければなりません。私達が本気で神様の助けがなければ一時間も生きることができず、主と交わらなければ苦しいと言う気持ちがある時、いつも神様に頼り、祈ることができます。

 第二に、失望してはなりません。祈る時、気をつけなければならない一つは失望する問題です。祈ったのに聞いてくださらないと思うと失望しやすいです。失望するのは神様の主権を信じない不信仰から来ます。実際に祈りの答えは神様の時に、神様の主権的な方法によって与えられます。私達は一週間後、一年後に何が起こるかわかりません。だから長い目で見て、何が私達のためになるかを知っているのは神様だけです。アブラハムは25年間信仰生活をしましたが、子供がいませんでした。神様は彼の子孫を夜空の星のように、海辺の砂のように与えると約束してくださいましたが、アブラハムが百歳になっても一人の子供も与えられませんでした。アブラハムは「今まで信仰生活をして来た結果がこれか」と失望しやすいでした。それではアブラハムはどうでしたか。ローマ4:19-21には次のように書いてあります。「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」神様は時になると、アブラハムに子供を与えて下さいました。そして、彼の子孫を夜空の星のように、海辺の砂ように数多く与えてくださいました。神様の主権は善であり、真実です。神様を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神様がすべてのことを働かせて益としてくださいます。私達がこの神様を信じる時、失望しないで祈ることができます。神様は時になると、最も良いものを持って答えてくださいます。ですから、私達はいつも祈るべきであり、失望してはなりません。イエス様はそれを教えるために一つのたとえを話されました。

 2-3節をご覧下さい。ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいました。その町に、ひとりのやもめがいましたが、彼のところにやって来ては、「私の相手をさばいて、私を守ってください。」と言っていました。ユダヤの法律に従えば裁判官は三人です。ところが、ここに出ている裁判官は一人であるのを見ると、裁判を開くことも、判決を下すこともできる立場にあるのでローマ帝国から派遣されている裁判官であることがわかります。ローマの裁判官はユダヤ人を牛や馬とも同じ奴隷の民族だと思っていました。6節でイエス様が「不正な裁判官」と言われたように彼はわいろだけを取る人でした。やもめはすべての貧しい者、弱い者の象徴でした。この人にはこれといったお金もなかったで、そのような裁判官から有利な判決を引き出すことは、どう考えても無理なことでした。4節をみると、やはり裁判官は、しばらくはやもめと取り合わないでいました。ところが、なぜそのやもめの訴えを聞き入れざるを得なくなったのでしょうか。彼女には一つの武器がありました。それはしつこさという武器でした。裁判官は、しばらくは取り合わないでいましたが、後には心ひそかに「私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。」と言いました。やもめがあまりにもしつこく願うので、裁判官は楽に眠れることもできないほどでした。彼女は裁判官が出勤する時も、家に帰る時も、夜も昼も、毎日のようにやって来て「裁判官。私の相手を裁いて、私を守ってください」とお願いしました。血も涙もない裁判官であっても、やもめのしつこさにはもうお手上げでした。裁判官は世の中で恐れることはありませんでしたが、やもめのしつこさは恐れました。結局、やもめの諦めないしつこさが不正な裁判官を屈服させました。

 このたとえでイエス様は私達にしつこく祈るべきであることを教えてくださいます。事実、何をしても成功するためには失望しないしつこさが必要です。世の中で簡単にできることはあまり多くありません。一度,二度チャレンジしてすぐできることは多くないのです。弟子養成もそうです。失敗する時もあれば、挫折する時もあります。何度も繰り返して失敗する時もあります。そういう時、失望して諦めてしまうと永遠に失敗します。失望しないで粘り強くやって行く者は最後に勝利します。

 6-8節をご覧下さい。イエス様はたとえを話されてから言われました。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」裁判官は神を恐れず、人を人とも思わない傲慢な人です。やもめは裁判官と人格的な関係がありません。お願いをするたびに恐れなければなりません。そして、聞いてくれるという約束もありません。しかし、神様はそのような裁判官とは全く対照的な方です。選民は神様が選ばれた民、神様の子供として神様とは親子関係です。いつでも、どんな問題でもお願いすることができます。何よりも祈りを聞いてくださるという約束の御言葉があります。それなのに、神様ご自身が選ばれた選民の祈りに答えて下さらないわけがあるでしょうか。パウロは私達すべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして御子といっしょにすべてのものを、私達に恵んで下さらないことがありましょう(ローマ8:32)と言いました。但し、問題は信仰がないことです。イエス様は「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」と言われました。イエス様は再び来られます。私達はその時まで、信仰を持って祈り続けなければなりません。信仰とは何でしょうか。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)。神様は生きておられます。神様を求める者には報いてくださいます。これを信じることが信仰です。私達には神様から解決していただきたい問題があります。私達は4月からサマー・バイブル・キャンプのために毎日夜明けの祈りを捧げて来ました。ところが、最近暑くなったせいか、参加者が減りました。また、32名の兄弟姉妹達の登録のために祈っていますが、なかなか登録する人は少ない状態です。このような状況を見て失望しやすいです。しかし、主は私達に「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」と教えてくださいます。ですから、私達の祈りを聞いてくださる主を信じて祈りつづけましょう。諦めないで兄弟姉妹達の参加のために祈り、粘り強く勧めましょう。すると、主は必ず私達の祈りのとおりに全体150名の参加を成し遂げてくださると信じます。神様はいつも私達とともにおられ、必ず報いてくださいます。信仰の祈りは働くと力があります。信仰の祈りは新しいみわざを創造します。ですから、私達は失望しないでいつも祈らなければなりません。諦めないでしつこく祈らなければなりません。イエス様は言われます。「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」

 

?.取税人の謙遜な祈り(9-14)

 9節をご覧下さい。イエス様は自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対してたとえを話されました。大抵、まじめで、勤勉な人、律法的な人達の中には自分を義人だと自任する人々がいます。こういう人々の特徴は人の話を聞き入れないということです。また、自分が熱心に、まじめに生きているので他人をよく裁きます。自分を誇り、他人を裁くのに口がいつも忙しい人達です。イエス様はそのような人々に自己義が神様の御前でどれほど無価値なものであるかを言われました。

 10-12節をご覧下さい。ふたりの人が、祈るために宮に上りました。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人でした。パレスチナでは、敬虔な人は、定められた時間、すなわち、朝の九時、正午、午後三時に、日に三度の祈りを守っていました。神殿で捧げる祈りは特に効果があると考えられていて、その時間になると、多くの人々が、祈るために神殿の庭に出かけて行きました。パリサイ人は律法を厳格に守る敬虔な人であり、取税人は悪名高い罪人でした。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをしました。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」彼は本当に変な祈りを捧げました。祈りには基本的に四つのことが含まれていなければなりません。第一に、神様を賛美し、神様が施された恵みに感謝することです。第二に、罪を真実に悔い改める罪の告白がなければなりません。第三に、神様に助けを求めることです。最後に神様を賛美することです。しかし、彼の祈りは、自分の義を言い触らし、隣にいる取税人を裁くものです。助けを求めるのでもなく、恵みを感謝するのでもありません。祈りの名の下に自分を弁護したり、他人を攻撃したりすることほど不敬虔なことはありません。彼は実際には、神様を前にして自己推薦をしていたに過ぎません。こんな祈りは神様の前で無価値なものです。彼は道徳的にまじめな人でしたが、霊的には傲慢な人でした。神様はこういう高慢な祈りには答えてくださいません。

 一方、取税人はどういうふうに祈りましたか。彼は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」彼は自分の罪を認めてへりくだって祈りました。目を天に向けようともせず、自分の胸をたたきながら悔い改めの祈りを捧げました。彼は神様の御前で謙遜な人でした。彼には自己義がありませんでした。

 それでは二人のうち、どんな人が義として認められましたか。14節をご覧下さい。「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」パリサイ人は人々の前では正しく、敬虔な人々でした。しかし、神様の御前では高慢だったので神様に義と認められませんでした。しかし、取税人は人々には悪名高い罪人として見られていましたが、神様の御前では自分を低くし、悔い改めたので神様に義と認められました。神様は高慢な者の祈りを退け、謙遜な者の祈りに答えてくださいます。神様は私達が自分を低くして謙遜な祈りを捧げることを願っておられます。それでパウロは「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(?コリント10:12)と言いました。神様は謙遜な人を祝福し、ご自分のみわざに尊く用いられます。

 結論、本文を通して私達は切なる祈りの姿勢と謙遜な祈りを学びました。私達も現在直面している問題に対して謙遜な心を持って神様に祈り続けましょう。何よりも今年のサマー・バイブル・キャンプのために最後まで粘り強く祈りましょう。そうすると、主が必ず答えて下さることを信じます。

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