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BibleMsg > ルカの福音書 > 12Luke3人はパンだけで生きるのではない

12Luke3人はパンだけで生きるのではない

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2012/6/9 (2188 回閲覧)
2012年ルカの福音書第3講 

人はパンだけで生きるのではない。

御言葉:ルカの福音書4:1-13
要 節:ルカの福音書 4:4「4:4 イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない。』と書いてある。」

 先週、私たちはイエス様がヨハネからバプテスマをお受けになったことを学びました。それはイエス様の人生の大きな節目となりました。ヨセフの子としての私的生活から神の子として公の生涯を始めたからです。事実、イエス様はおよそ30歳になった時まで人々からヨセフの子として思われていました。ヨセフの系図によると、イエス様は神の子アダムの子孫です。アダムはサンタの誘惑に負けて罪を犯し、堕落してしまいました。しかし、イエス様はどうでしたか。イエス様はアダムとは違って悪魔の誘惑に打ち勝たれました。
4章1、2節をご覧ください。「さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。」とあります。イエス様もが聖霊の導きによって悪魔の試みに会われました。それは悪魔の誘惑が偶然な出来事ではなく神様のご計画によるものであることを明らかにしてくれます。なぜ、聖霊は聖霊に満ちたイエス様が悪魔の試みに会わせたでしょうか。へブル書によると「主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。」とあります。しかも「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれた」とあるようにそれは過酷な戦いでした。ではイエス様はどうやって悪魔の誘惑による過酷な戦いに勝利されたでしょうか。それはご自分の人生の目的にふさわしい価値観をしっかりと持っておられたからだと思います。そこで、「人はパンだけで生きるのではない」という御言葉を中心にイエス様の価値観を学びたいと思います。
私たちは目標にふさわしい自分の価値観をしっかり持っていれば、最後まで目標を達成することはできます。しかし、自分の価値観を押し曲げて、他人の価値観で生きることはつらく苦しいものです。自分の価値観をしっかり持っていなければ人に左右されやすくなります。人の目を気にしすぎて、びくびくしたり自分らしく生きられなかったりします。人によく思われたい、好かれたい、評価されたり、いい人と思われたいために自分がやりたいことや自分が望む生き方ができなかったりします。もちろん、 人に気を使うことや人を意識すること、思いやりは、悪いことではありません。でも、人に左右されすぎてやるべきことができず、達成すべき自分の目標に向かって行くことができないのは問題です。さまざまな誘惑に負けず、人に悪影響を受けないように生きるためには自分の価値観を持っていることはとても大切です。物事に対する自分の価値観がはっきりしていれば、それに従って自分で判断ができます。自分にとって大切なもの、自分が最優先にすべきことに対する価値観をしっかり持っていれば人に影響されてフラフラすることなく、目標に向かって前進することができるのです。そこで、聖霊は聖霊に満ちて公の生涯を始めるイエス様もご自分の価値観をしっかり持っているように導かれました。では神様が求めておられる価値観とはどういうものでしょうか。

 第一に、「人はパンだけで生きるのではない」という価値観です。
3節をご覧下さい。「そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」とあります。イエス様は荒野におられます。荒野は砂とか石ばかりが広がっている所です。悪魔は荒野で空腹を覚えておられるイエス様に石をパンに変えなさいと言いました。私たちの主食はパンではないからパンに対するイメージが軽いかも知れません。私ならパンを食べなくても良いです。しかし、ユダヤ人にとってパンはなくてならない食べ物です。パンと訳されている「レヘム」という言語は、日本語の「ごはん」と同様に、食事を指しても使われます。ところが、イエス様が四十日も断食されたのです。その時、御体の状態はどうだったでしょうか。人間は、断食をして何日かすると、空腹感がなくなるそうです。そしてまたお腹が空くときに、もし何も食べないと死んでしまうので、断食をする人は、そこで断食を止めます。死ぬほど苦しくなるからです。
世界で初めてインスタントラーメンを発明し産業化した人物、日清食品の創立者安藤百福さんは、「空腹は人間の苦しみの中で最高の苦しみだと思う」と書いていました。空腹を経験したことのある人はよく理解できるでしょう。私は軍隊の訓練や断食を通して少しは経験しているつもりですが、空腹の苦しみは耐え難いものです。空腹の時に食欲を抑えることは難しいのです。実際に食欲は人間の3大欲望の1つとも言われます。悪魔は食欲を利用して、肉体を取った神の子を誘惑しようとして言いました。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と試みたのです。なぜ、試みになるかと言いますと、一つ目はイエス様が私たちと同じ体を持っておられたからです。二つ目は石をパンに変える能力をもった神の子であることです。もし、私に向かって「石をパンに変えてみよ」と言ったとすれば、それは誘惑ではありません。単なる冗談にすぎません。私はいくらお腹が空いていても石をパンに変えることなど全くできないからです。
多く場合に人は力がないと誘惑を受けません。むしろ力がある時こそ誘惑を受けます。地位がなければ頼まれることも、賄賂をもらうこともないでしょう。イエス様には石をパンに変える力がありました。だからこそ誘惑になるのです。ではもし、イエス様が石にパンになれと言いつけてそれを食べられたらどんなことが起こりうるでしょうか。悪魔は「ほら、やっぱり人生において大切なのはパン。最も大切な問題ではないか。」というようになったでしょう。そのうちに、イエス様はバプテスマを受けてはめたメシアの使命を失ってしまいます。では悪魔の言葉に対するイエス様のお答えはどうですか。
ご一緒に4節を読んでみましょう。「イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない。』と書いてある。」」異本では「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と訳されてあります。人間は食べないでは生きられません。皆さん、お腹が空いたらどうしますか。何かを食べるでしょう。イエス様もパンの必要性は否定されませんでした。事実イエス様は空腹の群衆を哀れまれ五つのパンと二匹の魚の奇跡を行われました。問題は「パンだけ」を求めることです。パンさえあれば生きられる、パンがなければ死ぬというような考え方が問題なのです。
私たちがお金をもうけること、健康な体、安定的な生活を考えることは自然な事です。しかし、神様との関係性、つまり神様とのつながりがなければ心もたましいも衰えて行きます。私たちは神様の形に造られた存在として神様とつながる御言葉がなければなりません。御言葉だけが主なる神様と交わるようにしてくださるからです。ではどのようにして御言葉を食べることができるでしょうか。私たちの教会では毎週の礼拝、聖書勉強、聖書通読、所感などを通して御言葉をおいしく食べることができます。特に、私たちUBFには所感があります。私たちは所感を通して御言葉をもっと美味しく深く食べることができます。
 私が軍隊にいた時、キムチを食べることができない時がありました。お腹が空いているのに口に合うおかずがありません。それでご飯だけを食べる時期がありました。おかずがないからご飯を何度も何度も噛んで食べましたが、噛めば噛むほどご飯のそこ味が出て来て美味しくなりました。御言葉もそうです。単純に御言葉を口ずさみ、黙想するなら御言葉もおいしく食べることができます。その時に悟ったこと、受けた恵み、悔い改めたことなどを書きながら御言葉を心に刻んで置くと、自分の人生を支える力となります。いざとした時に御言葉が思い出されます。それで、誘惑の多い世の中でも誘惑に負けず勝利の人生を生きることができます。イエス様は少年時代にもエルサレム神殿で学者たちに聞いたり質問したりするほどに御言葉を覚えていたために悪魔の誘惑にも打ち勝ちました。事実、イエス様が「人はパンだけで生きるのではない」とおっしゃったのも、ご自分が言った言葉ではなく、聖書に書いてある御言葉です。イエス様は聖書の御言葉を通して「人はパンだけではなく御言葉によって生きる」という価値観をしっかり持っておられたのです。

第二に神様を拝むことを第一にする価値観です。
 5−7節をご覧ください。また、悪魔はイエス様を連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せてこう言いました。「この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」ここで、いっさいの権力と栄光とは当時世界の国々を支配していたローマ帝国の権力と栄光を指しています。全世界の権力と栄光を手に入れるとは何と魅力的なものでしょうか。権力闘争は昔も今も続いています。ところが、悪魔はその権力と栄光をイエス様に差し上げると言いました。ただ一度が悪魔を拝むなら、悪魔礼拝ができるなら、いっさいの権力と栄光が与えられるのです。イエス様は世の権力と栄光を拒みながら言われました。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』と書いてある。」と
ここでもイエス様の価値観を見ることができます。それは主を拝む、礼拝を第一にしていることです。実は、この生き方は、神様に愛され、祝福される「まことの人間」としてのあり方でもあります。このことについては聖書全体を通しても学ぶことです。私たちは人間に過ぎない者として、神様の前に遜った人間になる必要があります。イエス様はそのことをお示しになるために、天の御座を降り、人間に過ぎない者となられたのでした。そして人間の友となり、自らまことの人間の道をお示しになりました。さらにまた、ご自分の命を生きた供え物としておささげになりました。そうして人々が神様との関係性を回復するために必要な神様の赦しを与えてくださいました。それに対して悪魔は、そんな余計なことをしてくれるなと言って、イエス様を人間の座から天の御座に追い返そうとした。これが荒野の誘惑の真相なのです。そうなると、イエス様のメシアとしての働きができなくなります。その日で終わりです。しかし、「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』と書いてある。」言ってご自分の意見をはっきりと言われました。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。」というのは、祝福をいただくための手段ではなく、それ自体が目的でした。イエス様にとって、神様を礼拝することは手段ではなく、目的だったのです。それ以外のことは考えられなかったのです。 私たちも、この点をよくお気をつけなければならないと思います。より良き人生とか、平和な生活とか、問題の解決とか、神様への信仰を人生の手段だと考えますと、どうなりますか。神様が期待通りに動いてくれないことに失望したり、自分を愛されていないんじゃないかと疑い惑ったりするようになってしまいます。そして、最後には、まったく信仰生活を離れてしまうか、あるいは表面的には信仰生活を続けながらも、それにはまったく喜びが感じられないということになってしまうのです。
 しかし、そうではなく、神様ご自身を本当に喜ばしい方として信じ、何を得ようと何を得まいと神様ご自身を喜び、神様との交わりを目的とする信仰を持つ人は、どんなことがあってもその喜びを失うことはないのです。
 こんな話があります。アイルランドの高い山に一人の隠遁者が生活していました。その地方の領主は彼を尊敬しておりましたので、ある日、高価な器を贈り物として届けさせました。それを渡して帰ってきた家来に聞くと、「ひとこと『感謝』といっておりました」と答えました。領主は、あんな高価なものを贈ったのに「たったそれだけの挨拶とは無礼者!」と怒って、器を取り戻してくるように命じます。そして、器を取り返してきた家来に再び隠遁者の反応を聞くと、やはり「ひとこと『感謝』といっておりました」と答えたのです。領主はびっくりして、素晴らしい贈り物を受け取ったときも感謝、奪われた時も感謝、これぞまさに聖人であると言って、もう一度器を届けさせたという話です。
 もし、私たちが神様ご自身を喜びとして持つことができるならば、与えられても感謝、奪われても感謝、何が起こっても、いつでも感謝と言えるようになるのです。これが私たちの人生の目的であり、神様を信じる者の揺るぎない平安という祝福なのです。

 第三に、常に謙遜に生きるという価値観です。
悪魔は、イエス様をエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせました。そしてこう言いました。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。」そして、詩篇91篇11,12節を引用して」『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる。』とも、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる。』とも書いてあるからです。」と言いました。世界一のタワースカイツリー頂から飛び降りるなら、それを見ている人々はどう思うでしょうか。人々は熱狂するでしょう。そして、飛び降りた人は偉そうな顔してマスコミのインタビューに応じるでしょう。もし、イエス様が神殿の頂上から飛び降りたなら、その時も、人々は「わあ!Jesus!Jesus!」と叫びながら熱狂したことでしょう。しかし、これに対するイエス様の反応はどうでしたか。
12節をご一緒に読んで見ましょう。「するとイエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』と言われている。」」神様はどんな場合でも人間が高ぶって試みてなりません。神様を試みるようにさせるのは人間を高ぶらせる悪魔の戦略です。悪魔はいつも人間が神のようになると騙し、高ぶらせます。アダムを誘惑する時もそうでした。善悪の知識の木から実をとって食べると神のようになると誘惑したのです。アダムはそれに騙されてしまいました。しかし、イエス様は騙されませんでした。常に神様の御前に謙遜に生きるという価値観があったからです。
 悪魔は時々、私たちの神殿の頂に立たせてそこから飛び降りてみるように誘惑します。心が高ぶり、これだけ上がって来たのだから何があっても神様が守り、支えてくれると威張るようにするのです。しかし、神様の愛をささえを信じることは言いですが、高ぶって神様を試みてはいけません。ある人は、救われて、多くの恵みを受けていたのにもかかわらず、高慢になって現実生活がちょっと難しくなると、それを主のしもべや神様のせいにします。今まで神様によくしてもらったことは何もなかったと言って離れていきます。しかし、それこそ悪魔の狙いではないでしょうか。私たちは神様の御前に謙遜に生きなければなりません。あれこれ自分なりの基準を決めておいて神様の愛を試して見ようとすることは高慢です。私たちはどんな場合にも信仰によって謙遜に生きようと心に定めなければなりません。神様は試みの対象ではなく信仰の対象です。イエス様は「『あなたの神である主を試みてはならない。』と言われている。」と言って悪魔の第三の誘惑にも打ち勝たれました。すると、悪魔はしばらくの間イエス様から離れました。
 
以上で見ると、イエス様は「人はパンだけで生きるのではない」という価値観をしっかり持っておられました。また「あなたの神である主を拝み、ただあなたの主に仕えよ」とも言われ、神様を礼拝することを第一にしておられることを教えてくださいました。さらに「主なる神を試みてはならない」とも言ってご自分の謙遜を現わしてくださいました。それでイエス様は誘惑に勝ち、ご自分に与えられた道をまっすぐに歩んで行くことができました。
私たちもイエス様のような価値観を持って生きるように祈ります。そうすると私たちはイエス様のように、自分に与えられた使命の道をまっすぐに歩み、勝利することができます。神様の御言葉によって、神様を礼拝し、常に謙遜に生きることができるように祈ります。そうするときに、私たちは、常に勝利する人生を生きるようになります。どうか、私たち一人一人が「パンだけではなく神様の御言葉によって生きる」という価値観に基づいた人生を生きるように祈ります。

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