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BibleMsg > ルカの福音書 > 12Luke2バプテスマを受けられたイエス様

12Luke2バプテスマを受けられたイエス様

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2012/6/9 (1374 回閲覧)
2012年ルカの福音書第2講

バプテスマを受けられたイエス様

御言葉:ルカの福音書3:1-38
要 節:ルカの福音書3:21「さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け」

日本には、人生の節目を祝う慣わしというものが非常に大切にされているように思えます。毎年の誕生日、7・5・3、成人式、結婚式、銀婚式、還暦などがあります。人生の節目を祝ってもらうことは本当に素晴らしいと思います。皆さんは、ご自分が人生の節目のお祝いをしてもらったことを覚えていますか。私は18歳の時に、UBF教会に来ました。そして、牧者宣誓式、洗礼式、宣教師派遣式、結婚式、牧師按手式などで多くの方たちから祝ってもらい、祝福していただきました。このように人生の節目に祝福していただいたことは私の人生において良い思い出であり、大きな励ましと力になっています。
ユダヤでも人生の節目を祝う慣わしがあります。先週学んだように、イエス様は生まれて八日目にある割礼式で家族や親族から祝ってもらいました。律法によるきよめの期間が満ちた時はエルサレムの神殿で祝福を受けました。12歳の時もエルサレムに上って過越の祭りに参加し、神様と人とに祝福されました。それからイエス様がおよそ30歳になってバプテスマをお受けになった時、天が開け、聖霊が下られました。天から父なる神様の声が聞こえました、父なる神様と聖霊様からの祝福をあったのです。
今日は、その時の出来事について学びます。時代的な背景、主の道を用意したバプテスマヨハネ、ヨハネからバプテスマをお受けになったイエス様についてです。その中で三つの事を学びたいと思います。

一つ目は神の言葉が荒野でヨハネに下ったくことです。
1節をご覧ください。「皇帝テベリオの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの国主、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主、ルサニヤがアビレネの国主であり、」とあります。テベリオとはローマ帝国の第2代目の皇帝ティベリウスのことです。彼は後で撤回したもののユダヤ人をローマから追放するように勅令を出した皇帝です。ボンテオ・ピラトはよく知っているとおり、イエス様に十字架刑を宣告した張本人です。ヘロデとはヘロデ大王の第四の妻から生まれたヘロデ・アンテパスです。その兄弟ピリポとはヘロデ大王の第3の妻から生まれた息子です。彼はバプテスマのヨハネを捕え、牢に入れました。このように当時の政治的状況は堕落し、腐敗していました。
宗教的には「アンナスとカヤパが大祭司であったころ」です。アンナスが大祭司でしたが、ある時ローマを怒らせたのでローマは政治的にそれの息子の一人であるカヤパを任命しました。ユダヤにおいて最も尊敬されるべき大祭司でさえ、政治的な道具にすぎない存在になっていました。政治だけでなく宗教も腐敗していたのです。その時、どんなことがありましたか。
2bをご一緒に読んでみましょう。「神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。」とあります。神様のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下りました。荒野とはどんな所でしょうしょうか。荒野には何もありません。誰もいません。お隣の人も居ません。コンピュータもありません。今ならiPhoneでも持っていたと思われますが、当時は携帯電話もありません。ただ静かな所です。そのようなところに行くと、皆さんならどうなさいますか。預言者イザヤによると、ヨハネは荒野で叫ぶ者です。恐らく、ヨハネの叫ぶ祈りをしていたでしょう。誰もいない、静かな所で主に叫び、祈っているヨハネに神の言葉が下りました。
皆さん、自分の周りに誰もいないと思って2bの御言葉に「ヨハネ」の代わりに自分の名前を入れてもう一度ゆっくりと読んでみましょう。「神のことばが、荒野で◎◎◎に下った。」。私たちも荒野で自分に神様の御言葉が下る恵みを体験することができます。そのためにはヨハネのように荒野に出て行く決断がなければなりません。神様と二人きりになる所に出て行く決断です。それは何もかも捨てて家出をすることではありません。イエス様はまだ暗いうちに起きて寂しいところに出て行かれたこともあります。神様と二人きりになるところに出て行かれたのです。つまり神様と二人きりになる所、そここそ私に御言葉が下る霊的な荒野です。自分の家でもテレビを消し、電話も切って静かな所にするなら聖なる荒野になります。近くの公園でも、電車の中で御言葉を黙想し、祈れる所なら私たちの荒野になります。
李ヨシュア宣教師は通勤電車が荒野であるそうです。この間涙ながらイースター礼拝のメッセージを伝えてくださいましたが、毎日電車の中で御言葉を黙想していたとおっしゃいました。そういう意味で、荒野は私たちの信仰生活の中で大切な所です。
ヨハネは神様からの大切な任務に着く前に、荒野に退いて、まず神様のことばを聞きました。私たちの人生の節目には荒野に行きましょう。私たちには神様と二人きりになって神様に叫び、祈れるところが必要です。モーセやバプテスマのヨハネほどに偉大なことを始める時は40日間ほどの祈りが必要になるかも知れません。でも、日常生活のためにはまずイエス様のようにまだ暗いうちに寂しい所に出て行って祈ることが必要でしょう。
私たちクリスチャンは毎日大切な役割を神様から委ねられています。ですから、一日を始める時、また一日の終わりに聖書を開き、静かに祈るということは大切です。神の御言葉が下る荒野で御言葉を読み、祈ることは私たちにもとても重要なことなのです。では神の言葉が荒野でヨハネに下った時、彼は何をしましたか。
二つ目は悔い改めによって罪が赦される恵みを経験することです。
3-6節をご覧ください。「そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『 主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」とあります。
ヨハネは罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説きました。人々に悔い改めを命じた訳です。赦される恵みは悔い改めがなければ体験できません。深く悔い改めたことがなければ、罪が赦されたことに対する信仰も深くなりません。クリスチャンであっても、悔い改めなければ救いと言うものは非常に軽いものになってしまいます。自分が対して悪くないと思っているならば、赦してもらってもそんなに嬉しくもないでしょう。
私は小学生の時に教会を通い始め、大学一年生の時に洗礼を受けました。しかし、大学3年になった時も赦された恵みがそんなに鮮明ではありませんでした。聖書文学同好会に参加しているようなものでした。しかし、大学3年になった春、バイブルアカデミーの時、自分の醜さ、罪深さを深く悟りました。その時、メッセンジャータイトルマッチで後輩に負けたのですが、それは牧師先生がわざと落としているように思われました。また、バイブルアカデミーに招いておいた友達や後輩たちに顔で出せないと思われました。それで、私は牧師先生や先輩の牧者たちに対して悪口を言い、UBFにサヨナラを告げました。二度と来ないと思い、教会から出て田舎の家に行くバスに乗りました。ところがそのバスの中で自分がいかに高慢な者であるかが示されました。それで自分の罪が分かってきて深く悔い改めました。その時、自分の罪深さのために泣き、こんなに汚い惨めな者のために十字架に付けられて死なれたイエス様の赦しの愛のゆえに泣き続けました。その後、十字架は本当に必要だし、十字架は何と感謝なんだろうと思えるようになりました。それから、私たちの信仰生活が何かすっきりしないときは、悔い改めがきちんとなされていないという事も体験して来ました。さまざまな問題で頭が痛いほど苦しい時も自分の罪を悟り、悔い改めると救いと赦しを確信するようになりました。そのうち、さまざまな問題も解決されることを体験して来ました。
本当に、悔い改めが成されなければ、本当の意味での"救いの恵み"を深く知っていく事は難しいでしょう。私たちは自らの汚れや醜さを見る事なしに、主の赦しの深さ、偉大さを知ることは難しいのです。自らが愚かで、醜ければ醜いほど、その全てを赦す主の愛の深さに驚かされます。ではヨハネが説いている「悔い改め」というのはどうすることでしょうか。

三つ目は悔い改めにふさわしい実である謙遜です。
7-9節をご覧ください。「それでヨハネは彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆に言った。「まむしのすえたち。だれが必ずくる御怒りをのがれるように教えたのか。それならそれで悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。斧もすでに木の根元に置かれています。だから良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」 とあります。
ユダヤ人は自分達が悔い改めなければならない民だとはあまり考えていなかったようです。なぜなら、彼らは「アブラハムの子孫であり、異邦人の様に汚れた者ではない」というプライドを持っていたからです。彼らは敬虔な宗教家の姿をしても心の中は高慢になっていたのです。外見上の姿は謙遜ですが、心の中で他人のことを認めず、無視していました。そんな彼らにヨハネは「まむしのすえたち。」と言いました。では私たちには関係ない言葉でしょうか。聖書に「善を行う人はいない。ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその下で欺く。彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦さで満ちている(ローマ3:12b-14)。」とあります。これはユダヤ人だけではなく私たちにも言っているメッセージです。ユダヤ人が三大祭りを守り、神殿でいけにえをささげていたように、私たちも毎週礼拝をささげ、献金もしています。信仰生活が長ければ長いほど当たり前のように主日礼拝を守り、献金をささげます。そしてそのうちに、私たちも「私はアブラハムの子孫だ」というプライドを持つようになります。心の中で「私は聖なるクリスチャンだ牧者だ、私は宣教師だ。」という自負心を持つようになるのです。それはそれとして悪くありません。もちろん、神様に選ばれて救われた者としてアイデンティティを持つことは大切です。しかし、心の中にある高慢を悔い改めなければマムシになってしまいます。心が高慢になっている人の口から人を無視することが出てきます。それが人を傷つけ、絶望させます。毒が出て来るのです。
ですから、外見上の罪だけではなく、心の高慢を真実に悔い改める生活をしなければなりません。それから、悔い改めにふさわしい実を結ぶ生活のために励まなければなりません。一つでも悔い改めにふさわしい実を結ぶために闘争し、実を結ぶことを通して私たちの信仰もますます強くなります。たとえば、イチロ選手がここに来て野球についていろいろ説明してくれると野球がよく分かるようになるでしょう。しかし、その教えにふさわしい努力、訓練がなければイチロ選手のようになることは無理でしょう。しかし、教えに従って何度も何度も練習するなら打率が上がるでしょう。完ぺきではなくても練習して行くうちにいろんなことを悟り、経験します。そのように悔い改めに関するメッセージを聞いて心が動かされることだけでは霊的な深い世界に入ることができません。神様の救いも助けもなかなか体験できません。悔い改めにふさわしい実を結ぶ生活を通して神様の救いを体験し、ますます信仰が強くなるのです。しかし、そういう霊的闘争がなければ信仰がますます弱くなって行きます。ついに信仰から離れて行ってしまう場合も生じます。するとどうなります。ヨハネは「良い実を結ばない木は、みな切り倒される」、と告げています。ですから、口先だけの言葉には何の意味もないのです。実際に何をしているかが問題です。ではヨハネはどのような生活をしましたか。
15、16節をご覧ください。「民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではないか、と考えていたので、ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値打ちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」 とあります。
ここに高慢なユダヤ人とは対照的に本当に謙遜なヨハネの姿を見ることができます。民衆は『この方(ヨハネ)こそキリストではないか』と思っていた訳です。ヨハネはそれほど高く評価されていたのです。しかしヨハネはそうではなく、『私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません』と語りました。これは「その人の奴隷となる値打ちもない」ということです。
私たちは自分のことをヨハネのように思っているでしょうか。特に皆から褒められる時にも、ヨハネのように自分をわきまえた謙遜な姿勢をとっているでしょうか。あるいはそれとは反対に自分を高めて自分が皆から誉められる道をとっているでしょうか。詩篇115編1節を見ると「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」とあります。栄光は主のものです。神様にのみ栄光を帰することです。ヨハネの姿勢は私たちが学ぶべき姿勢ではないかと思います。
私たちは主の前にきよく正しく生きているでしょうか。あるいは醜い事、汚れた事、自分勝手な事、酷い事をしているでしょうか。正直になって自分を顧みると、自分の罪深さを認めざるをえないのではないでしょうか。そして惨めな自分を受け入れ、赦されるキリストの赦しを受け入れる時に、私たちは本当の意味で神様の恵みを経験するようになります。本当に赦されることの素晴らしさを味わう事が出来ます。私たちの主は私たちをどこまでも赦して下さるお方です。自分に下る神様の御言葉を素直に受け入れ、悔い改めるならすべての罪が赦されます。そこから新しい人生が始まります。そこから悔い改めにふさわしい実を結ぶ人生へ変えられて行きます。ヨハネは悔い改めにふさわしい実を結ぶ生活をしていました。つまり、本当に謙遜になってイエス・キリストを高め、自分を低くして生きていたのです。イエス様も私たちのために謙遜になって仕える生涯を過ごされました。
 21節をご一緒に読んでみましょう。「さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け」
イエス様は罪のない方ですから罪が赦されるためのバプテスマを受ける必要がありませんでした。しかし、民たちと同じくなるためにバプテスマをお受けになりました。イエス様ご自身が神様ですから祈らなくてもなんでもお出来になります。しかし、イエス様は謙遜に祈られました。私たちも本当に謙遜になると祈らざるを得ません。イエス様は神の御子ですが、徹底にご自分を低くされ、民のひとりになられました。それは人間の弱さを理解し、それを担うためでした。また、メシヤとして公の活動を始めることの宣布としてバプテスマをお受けになりました。
イエス様がバプテスマをお受けになり、祈っておられると、どんな事が起こりましたか。天が開け、聖霊が鳩のような形をして下られました。今まで人間の罪のために天が閉ざされました。神様と人間との関係が断絶されていました。しかし、イエス様が人類の救いのみわざを始められることによって天が開けられるようになりました。そして天から「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」という神様の御声が聞こえてきました。これは三位一体の神様が同時に働かれる驚くべきみわざでした。イエス様はメシヤの活動を始められる人生の節目に神様からの祝福があったのです。

 結論的に、私たちは神の言葉が荒野でヨハネに下ったことを学びました。私たちは何かを始める人生の節目には荒野に行って自分に下って来る御言葉を受ける生活ができるように祈ります。毎日神様から委ねられた自分の役割を果たす前にも、自分の霊的な荒野で祈り、御言葉をいただいて悔い改め、悔い改めにふさわしい実を結ぶ生活ができるように祈ります。何よりも、実際の生活の中でイエス様をよく学び、謙遜に御言葉を教え、福音を宣べ伝える使命を果たすことができるように祈ります。

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