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99年14講 赦しと感謝

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/23 (2302 回閲覧)
1999年ルカの福音書第14講

 

赦しと感謝

 

御言葉:ルカの福音書17:1?19

要 節:ルカの福音書17:3

「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、

彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。」

 

 今日の御言葉の主題は赦しと感謝です。赦しと感謝は信仰生活において非常に大切なことです。今日の御言葉を通して赦しと感謝について学び、恵みに満ちた信仰生活ができるように祈ります。

 

?.赦し(1-10)

 

 第一に、つまずきを与えないように気をつけていなさい(1,2)。1節をご覧下さい。イエス様は弟子たちにこう言われました。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。」この御言葉は弟子達に与えられた御言葉です。霊的な指導者が犯しやすい罪の中の一つが小さい者につまずきを起こさせることです。つまずきという言葉は本来罠のえさ棒のことで、動物がえさにさそわれてその棒に触れると、罠にかかるしくみになっていました。そこからこれは人を罪に陥れることによって神様から離れさせることです。兄弟は牧者の言葉や行動によって大きな影響を受けます。あまり深く考えず言った言葉がその兄弟の心を傷つける場合があります。また、兄弟の立場を考えず、無理やりに要求したことでつまずきを起こさせることがあります。牧者が約束を守らないことによってつまずきを与えることもあります。

 2節をご覧下さい。「この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです」。石臼は穀物をつくのに使う道具で直径45センチ-メートル、厚さ10センチ-メートルの大きな石です。この石臼を首にゆわえつけられたらいくら水泳が上手な人も生き残ることができません。これは古代ローマの死刑方法の一種でした。この御言葉は小さい者につまずきを与えることがどれほど深刻な罪であるかを言ってくれます。イエス様は小さい者たちのひとりを大切に思われます。イエス様はご自分のいのちを捨てるほど愛してくださいました。ですから、つまずきを与えないように気をつけていなければなりません。

 使徒パウロはイエス様のこの教えを心から受け入れていました。?コリント8章を見ると偶像に捧げられた肉のことが書かれています。当時コリントでは偶像に捧げられた多くの肉が市場に出され売れていました。このような肉は良心が赦すなら食べても何の問題もありません。ところが信仰が強いクリスチャンが偶像に捧げられた肉を食べることを見た信仰の弱い人がつまずくことが起こりました。パウロはこのような彼らに勧めました。「ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい」(8:9)。「あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです」(8:12、13)。

 今日私達にとってはタバコを吸うことやお酒を飲むことが問題になることがあるでしょう。聖書には酒に酔ってはいけないとは書いてありますが、酒を飲んではいけないとは書いてありません。また、タバコを吸ってはいけないという言葉もありません。だからと言って、私が酒を飲んでメッセージを伝えたり、御言葉の勉強をリーダーするとどうなりますか。たぶん私によってつまずく人がいるでしょう。私達は自分の権利や自由が信仰の弱い人々につまずきを与えないように気をつけなければなりません。神の群れの指導者は常に謙遜な心を持たなければなりません。そして、言う言葉にも気をつけなければなりません。パウロはテモテにパウロはテモテに次のように勧めました。「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい」(?テモテ4:12)。

 第二に、兄弟の罪を赦しなさい(3、4)。3節をご覧下さい。「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。」もし兄弟の罪を黙認すればその兄弟は繰り返して罪を犯すようになり、結局つまずくようになります。また、全体に悪い影響を及ぼすようになります。私達の集まりは若者が集まっているので情欲の問題が起こりやすいです。このような情欲の問題に陥るとそれは全体に悪い影響を及ぼすようになります。ですから、兄弟が罪を犯したら戒めなければなりません。戒めは手術することのようで人の霊的ないのちを生かします。戒めは真に愛することであり、いのちを生かすことです。

 ところが、私達が罪を戒めると言ったなら大声を出して責めることを考えやすいです。そのため感情的に戒めることによって傷つけることがあります。私達は人格的に御言葉に基づいて戒めなければなりません。私達が人の罪の問題を助けることは難しいことです。それゆえ罪の問題にはタッチしないで放っておきやすいです。そうすれば、その兄弟は霊的に成長できず、結局自分勝手な道に行ってしまいます。罪の問題は取り扱いにくい問題ですが、それを取り扱わなければ弟子を養うことはできません。

 それでは兄弟が罪を悔い改めた時、どのようにすることがその人を生かすことですか。イエス様は「悔い改めれば、赦しなさい」と言われます。悔い改めたのに、赦さなければ彼は不信に陥り、つまずくようになります。しかし、赦すことはやさしいことではありません。人々の間には赦せないことから多くの悲劇が起こっています。赦せば、すべての問題が解決されるのに、赦せないので悲劇をもたらします。

 それでは兄弟の罪をどれほど赦さなければなりませんか。4節をご覧下さい。「かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」私達は一度も赦してあげることが難しいことです。ラビの諺には、三回赦す者は完全な人間である、とあります。しかし、イエス様は一日に七度罪を犯しても、悔い改めれば、赦すように言われました。イエス様はラビの教えより二倍以上赦すように教えました。しかし、これは単なる数を問題にしているわけではりません。それでは私達はなぜこのように兄弟の罪を無限に赦さなければなりませんか。それは神様が私達の罪をそのように赦してくださったからです。神様は私達のすべての罪を背負われ、私達の代わりに十字架につけられました。私たちは神様から一方的な恵みによって罪が赦されました。ですから私達が兄弟の罪を赦すことは当然なことです。イエス様はマタイ18:23-35節で私達の神様に対する借金は一万タラントだとすれば、兄弟が私達に持っている借金は百デナリに過ぎないことをたとえで言われました。一タラントは六千デナリです。当時ユダ全国からローマに収めた税金は年間800タラントだったのを見ると、一万タラントは人間の力によって返すことができない巨大な金額であることがわかります。反面百デナリは一万タラントの六十万の一に過ぎません。私達は神様から一万タラントを免除してもらったのにもかかわらず、自分に対して罪を犯した人をなかなか赦すことができず、自分自身も苦しむ時があります。私達が兄弟の罪を赦すことができず、恨みを抱いていたり、復讐しようとしたりすると、神様も私達の罪をお赦しになりません(マタイ6:14、15)。「悔い改めれば、赦しなさい」。これは主の命令です。私達がイエス様に赦されたことを思えば、人がどんなことをしてもそれは取るに足りないものです。私達が主の命令に従って兄弟の罪を赦すことができるように祈ります。

 第三に、からし種ほどの信仰(5、6)。弟子たちは、一日に七度罪を犯しても、赦すように言われたイエス様の言葉を聞いてあきれた顔をしていたでしょう。イエス様が要求する水準がとても高くて自分達の信仰によってはそのように行なうことが無理だと思いました。それで彼らは主に言いました。「私たちの信仰を増してください。」彼らはイエス様が言われた通りに兄弟を赦すためには山のような大きな信仰が必要だと思ったでしょう。私達もこのような弟子達のことがよく理解できます。メッセージを聞いてこれから兄弟を赦そうと決心します。ところが、その兄弟を見た瞬間その決心は崩れてしまいます。すると自分の信仰が足りないことに失望し、「私の信仰を増してください」と主に祈るようになります。ところが、「私達の信仰を増してください」という言葉の中には今はそのような大きな信仰を持ってないので不可能だという否定的な考えがあります。 

 しかし主は言われました。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです」(6)。イエス様は彼らに山のような信仰が必要であるのではなく、からし種ほどの信仰さえあれば兄弟を赦すことができると言われます。不可能に見えることも信仰を持って当たれば可能になります。イエス様は信仰の量より質について言われました。からし種ほどの信仰は小さいですが、純粋な信仰であり、幼子のように単純に信じて従う本当の信仰です。無限に成長することができる信仰です。弟子達はこのような信仰を持っています。ですから彼らは大きな信仰を持ってないと言うことで失望したり、否定的な考えをしてはいけません。むしろからし種ほどの信仰を持って不可能に挑戦して信仰の体験をすることが必要です。すると、もっと大きな信仰に成長することができます。

 第四に、役に立たないしもべの姿勢(7-10)。7-10節まではからし種ほどの信仰によって大きなみわざを成し遂げた後、どんな姿勢を持つべきかを教えてくれる御言葉です。私達が熱心に働くことも大切なことですが、働いた後どんな姿勢を持つかも大切です。ある人にしもべがいました。そのしもべは一日中働きました。そして夜になると疲れた体で野らから帰って来ました。彼は疲れていたし、お腹もすいていました。反面、主人は家で一日中音楽を聞きながら本を読んでいました。主人は野から帰って来たしもべに、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』としもべに言うでしょうか。かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。』と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。これが当時のしもべの位置でした。イエス様はこのたとえを言われた後、結論的に言われます。10節をご覧下さい。「あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい」。事実このしもべは役に立たないしもべではありません。主人にとっていなければならない非常に役に立つしもべです。しかし、しもべは自ら役に立つしもべだと思いません。彼は自分がよくしたことによって高慢になりません。大抵忠実に働いたり、成功すると自分の義が生じやすいです。自分の義がある人は高慢になり、霊的に成長できず、役に立たない人になってしまいます。私達が主のために働くのは、私たちを罪から救ってくださった救いの恵みに感謝してすることです。また、私達が主のために働くこと自体が大きな恵みです。

 役に立たないしもべの姿勢は私達が霊的な居眠りをしないで続けて成長するようにします。使徒パウロは心と力を尽くして多くの教会を開拓しました。彼が残した業績は驚くほどでした。しかし、彼は少しも高慢にならず、いつも救いの恵みを覚えて謙遜に主のみわざのために働きました。「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」(?コリント15:10)。パウロは役に立たないしもべの姿勢を持って勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました(?テモ4:7)。

 

?.感謝(11-19)

 

 イエス様は人類の罪を贖うためにエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られました。ある村にはいると、十人のらい病人がイエスに出会いました。彼らは醜い姿だったでしょう。手足と鼻は崩れ落ちてしまったでしょう。彼らはイエス様が自分達のところを通られるという知らせを聞いて希望を持ちました。彼らは一度しかないこの絶好のチャンスを見逃さないために遠く離れた所に立って、声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言いました。彼らはイエス様に必死に懇願しました。イエス様はこれを見て、言われました。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らが単純に御言葉に従って行く途中驚くべきことが起こりました。彼らは行く途中でいやされたのです。イエス様は彼らをあわれんでくださり、いやしてくださいました。

 彼らはいやされた時、どれほど嬉しかったのでしょう。どれほど感激したでしょう。一生忘れない恵みを受けました。そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエス様の足もとにひれ伏して感謝しました。彼はサマリヤ人でした。そこでイエス様は言われました。「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。

神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」人間は一度自分の欲しいものを手に入れるとなかなか戻って来ないものです。イエス様は恵みを受けても感謝しない9人のことで心を痛められました。

 ここで私達は恵みを受けた後、どんな姿勢を持たなければならないかを学ぶことができます。感謝しない人は霊的ならい病人です。私達は積極的に感謝する生活をしなければなりません。感謝する生活をしなければ喜びもない信仰生活をするだけではなく、他の人々にも悪い影響を及ぼします。イエス様は感謝するサマリヤ人を祝福してくださいました。19節をご覧下さい。イエス様は彼に言われました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」彼は体のらい病だけではなく、霊的ならい病もいやされました。私達は、しばしば神様に対して感謝を忘れます。何かの苦しみに会っている時には必死になって祈るくせに、その時が過ぎ去ると神様のことなど忘れてしまうのです。神様に捧げる最上の感謝とは、少しでもその恵みとあわれみに値する人間になろうとすることです。「詩103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」

 主は私達にからし種ほどの信仰を与えてくださいました。からし種ほどの信仰を持って積極的に兄弟を赦し、救いの恵みに感謝する生活ができるように祈ります。

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