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Thanksgiving day 感謝する信仰

投稿者: Calebkim 掲載日: 2006/11/23 (3692 回閲覧)
2006年収穫感謝祭の御言葉

感謝する信仰

御言葉:ルカの福音書17:11?19
要 節:ルカの福音書17:19それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

今年も、神様に守られ、生かされていることを感謝します。日ごとの糧、主日礼拝の御言葉を通して私たちのうちに、働いてくださった主の御名を賛美します。
今日は収穫感謝礼拝をささげますが、この礼拝は400年前からささげられていました。四百年ほど前のイギリスの清教徒たち(Pilgrim Fathers)は、国内の宗教的圧迫に抵抗し、自由を求めてオランダに逃れました。さらに、1620年9月16日、メイフラワー号に乗って新天地を求めて出発しました。一行は、 こどもを含めて102人、信仰の自由を求める情熱に燃えていました。彼らは大西洋を渡り、12月にアメリカに上陸しました。しかし、その冬には、飢えと寒さで約半数の人が死にました。やがて春になり、彼らは先住民の人に助けられて、土を耕し、野菜の種をまき、その秋には、豊かな実りが与えられたのです。彼らは助けてもらった先住民の人たちを招いて、神様に感謝の礼拝をしました。これが、最初の〈収穫感謝礼拝〉です。
 このことを記念して、アメリカでは1864年、リンカーン大統領の時に11月の第4木曜日を法定の祝日と定め、収穫感謝祭(Thanksgiving Day)を行っています。今日では、アメリカばかりでなく、全世界の国々がこの感謝祭の習慣を守るようになりました。日本では勤労感謝の日が守られていますが、教会では神様に感謝する礼拝として収穫感謝祭を守っています。今日がまさにその収穫感謝礼拝の日です。ですから、神様の恵みの中で生かされていることに、深く感謝する心でこの感謝礼拝をささげましょう。 
今日の御言葉はイエス様のあわれみによって十人のらい病人が癒された出来事です。癒された十人はイエス様のあわれみと癒しに感動し、感激したことでしょう。しかし、イエス様の足もとに戻って来て感謝した人は、ただひとりでした。私たちもイエス様を信じてイエス様の御言葉に従うならイエス様の力と奇跡を体験して感動し、感激することができます。しかし、イエス様は私たちが感動し、感激することだけではなく、神様に感謝することは望んでおられます。?テサロニケ5章16-18節は言います。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」感謝することは神様が私たちに望んでおられることです。そして、イエス様に感謝する人はイエス様との関係性が深く結ばれて恵みの上に恵みを受けるようになります。そこで、今日は祈りによってイエス様の御力を体験して感動し、感激すること、感謝することによってさらに恵みを受けることについて学ばせていただきます。どうか、聖霊の働きによって御言葉を悟ってイエス様による感動、感激、感謝にあふれる人生を学ぶことができるように祈ります。

?.祈り、従順による感動・感激(11-14)
11節をご覧ください。「そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。」とあります。イスラエルの北部のガリラヤからその西南部のサマリヤとの間にはヨルダン川に向かって下りていく谷間の道が続いています(PPT)。恐らく、イエス様の一行はエルサレムに向かってこの道を歩いておられたでしょう。そのうち、ある村に近づいて来られました。そこで、どんなことがありましたか。
12?13節をご一緒に読んでみましょう。「ある村にはいると、十人のらい病人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。」
イエス様の一行がある村にはいると、十人のらい病人がイエス様に出会いました。「らい病人」とはハンセン氏病として知られてきましたが、最近の研究ではそれと違う病として知らされました。ハンセン氏病のことではなく、何か重い皮膚病であったと思われているのです。ですから、最近の翻訳では誤解を避けるために、原語の発音で訳したり(ツァラアト)、「重い皮膚病」と訳したりしています。
この重い皮膚病は旧約聖書のレビ記が書かれて紀元前1400年ころから始まっています。レビ記13章にはらい病人に関して記されてあります。患部のあるらい病人は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱さなければなりませんでした。そしてその口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ばなければなりませんでした。また、その患部が彼にある間中、彼は汚れています。汚れているのでひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければなりませんでした。
私はこのらい病人のことをもっと理解するためにハンセン氏病をインターネットで調べましたが、ハンセン病の患者さんたちが歩んで来られた歴史はほんとうに過酷なものでした。日本ではらい病人を明治末期から隔離させていますが、彼らは貨物列車に連結した車両に乗せられ療養所へ送られました。その車両には「らい患者護送中」と書いた紙が張られていました。らい病人は貨物扱い、しかも危険な貨物扱いを受けていたのです。ですから自ら命を絶った人たちも少なくなかったそうです。イエス様の時代もらい病人の苦しみは私たちの想像を超えて過酷なものだったに違いありません。
第一に、彼らは肉体の病気が絶望的だったことです。皮膚が腐って行くような重い病なのでまゆ毛がなくなり、指も切り離されて行きます。いきなり手足の指が無くなり、鼻も耳も無くなっていく時にどんなに絶望的だったでしょうか。
第二、らい病人の心は寂しく、愛に飢えていたでしょう。らい病人であると宣告されたら、感染を避けるために彼は家族から隔離されました。愛する妻、愛しい子供からも離れて行きました。愛する者と別れて暮らす、それは身を裂かれるほどにつらく、寂しいことです。治らない限り、生涯、一緒に暮らすことはできないのです。 イエス様のもとに来たらい病人も、この孤独を味わっていました。彼の心は愛に飢えて死にかけていたのです。彼は、精神的にも孤独からいやされる必要がありました。
第三に、らい病人は、社会的にも孤立し、差別の目にさらされていました。たまに町に出ることがあると、自分のことを「けがれた者、けがれた者」と叫びながら、歩かねばなりませんでした。当時の人たちは、彼らのはく息でさえ汚れており、その息がかかるだけで自分たちも汚れる、と考えられていたからです。
 最近、自殺問題が大きくあげられていますが、ある中学生は「チビ」と言われたことで自殺しました。この間、岐阜県にある中学2年の少女は「・・・これでお荷物が減るからね。・・・」という遺書の手紙を残して自殺しました。お荷物として無視されることがどんなにつらかったでしょうか。私は大学受験に失敗したと思った、世間の目がこわくて一ヶ月間山の奥にある小寺に閉じこもったことがあります。世間に顔向けが出来ないと感じ、馬鹿にされると思い込み、その視線を恐れたからです。
イエス様のもとに来たらい病人は思い込みではなく、実際に、長い間、馬鹿にされていました。社会的に差別され、隔離されて孤立していました。彼らは世間の冷たい視線にさらされて生きていたのです。彼らにとってつらいことは人々に出会うことだったでしょう。しかし、イエス様に出会うことは違いました。イエス様に出会った時、彼らには感動と感激があったでしょう。
「人生は出会いで決まる」とよく言われます。私たちが最初に出会うのは両親です。生涯中、多くの人と出会います。兄弟、友人、友人、先輩、恋人など出会いの度合いによって感化、影響されるのが違います。しかし、その人の人生を変えるほどの感化、影響を与える方はイエス・キリストです。このイエス・キリストとの出会いには感動があります。からだを震わせるような感激があります。十人のらい病人たちもイエス様に出会うと力が生じました。彼らはらい病のためにイエス様の近くに行くことはできず、遠く離れて立ちましたが声を張り上げています。らい病にかかってから声を張り上げるようなことがなかったでしょう。しかし、彼らがイエス様に出会うと感動したあまり声を張り上げています。 
イエス様に出会ったらい病人たちの心を想像しながら13節の御言葉を読んでみましょう。「声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。」イエス様に出会ったらい病人たちの人生に変化が起こっています。らい病人になってから彼らは声を張り上げて人を呼ぶようなことはしませんでした。むしろ、人々に自分たちの姿が気づかされないように小さな声で話していたでしょう。なんか恥ずかしいと思って心細く生活していたのです。しかし、イエス様に出会うと、彼らは大胆になってイエス様のあわれみを求めました。彼ら「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言っています。彼らはイエス様に出会ったその時を逃すまいと思ったでしょう。私たちも一度教会に来たら、この時を逃すまいという心を持ってイエス様のあわれみを求める必要があります。皆さんにも、今日がチャンスです。この時を逃さずにイエス様のあわれみを求めてください。自分がこれだけはイエス様に求めたいことがあるならそれを求めてよいですが、ただあわれみを求めても神様は私たちの必要を満たしてくださいます。ではイエス様に出会ってあわれみを求めたらい病人たちにどんな変化がありましたか。
14節をご覧ください。「イエスはこれを見て、言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中でいやされた。」とあります。
イエス様は彼らがあわれみを求める態度を見て「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」と言われました。「祭司に見せなさい」と言われたことは体が癒されたことに対する宣言です。当時、らい病が癒されたと判定することは、祭司と呼ばれる聖職者によって行なわれていました。祭司が医者のトップのような役割で判断を下したのです。ですから、イエス様は彼らがすでに癒されていることを示し、祭司の所に行って、らい病が癒されたことを判断してもらい、社会復帰を認めてもらうように命じたのです。この時に、イエス様が彼らのためにどんな医療行為をしたのかは分かりません。何か薬とか薬草を与えられたのか、ということも全く分かりません。何も記してないからです。ただ、言えるのは十人の患者たちは、ボロボロの服のまま、それぞれの祭司のもとに急いで行ったことです。つまり、彼らはイエス様の御言葉に従ったのです。彼らは長い間、ろくな食事もせずに、村はずれに捨てておられたので、体力も弱っていたことでしょう。彼らはほとんどふらふらの状態ではなかったでしょうか。でも彼らがイエス様に出会った時、声を張り上げるほどの力が生じました。そして、彼らはイエス様が言われたとおりに従っていく途中で癒されたのです。イエス様との出会い、イエス様への祈りと従順によって彼らは癒しを経験しました。しかも、当時では癒すことの出来ないと言われていたらい病が癒される奇跡を体験することができました。特に御言葉への従順は奇跡をもたらします。彼らがイエス様の奇跡的な癒しを体験した時、どんなに感動し、感激したことでしょうか。彼らはイエス様のあわれみを求めて張り上げた声をよりも大きい声で「ハレルヤ!ハレルヤ!」と賛美したでしょう。らい病の痛みから、社会的な孤独感から、人々の冷たい視線から解放された喜びは感動・感激であったに違いありません。彼らは感動し、感激したあまり涙ながら祭司の所に向かって行ったでしょう。
私たちもイエス・キリストに出会ってイエス様に祈り、イエス様の御言葉に従うなら感動・感激がある生活ができます。クリスチャンライフと言うのは感動・感激がある生活です。日々、新しくイエス・キリストに出会ってキリストのあわれみを求めて祈り、御言葉に従うなら、主の癒しを経験して感動し、感激することができるのです。そして、イエス様は私たちの感動と感激が一時的なものにとどまらず、常に経験するものとなるように願っておられます。恵みの上に恵みを受けていつも喜ぶ生活、感動と感激がある生活が出来るように望んでおられるのです。では私たちがいつも主の御力、主の救いと恵みを体験するためにはどうするべきでしょうか。結論から言いますと、感謝することです。イエス様は私たちに感謝する信仰を求めておられます。

?.感謝する信仰を祝福されるイエス様(15-19)
15、16節をご覧ください。「そのうちのひとりは、自分の癒されたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来てイエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。」とあります。十人が癒されましたが、そのうちのひとり、つまりサマリヤ人は、他の九人とは違いました。彼は、まず病気の癒された自分のすることは祭司の所に行くことではなく、癒して下さったイエスのもとに行って報告し、お礼を申し上げることにしました。自分の社会生活のために祭司の所に行くのはその後だと思ったのです。こうして彼はイエス様のもとに引き返してくると、ひれ伏して感謝を表わしました。他の九人も癒されたのでイエス様への感謝の心があったと思います。しかし、聖書に彼らがイエス様に感謝を表したことは記されていません。彼らは口先では「ありがとうございます」と何度も言ったかも知れません。後でイエス様の所に行くつもりで行ったかも知れません。サマリヤ人のひとりだけがイエス様のもとひれ伏して感謝を表したのです。では、他の十人に対するイエス様のお気持ちはどうだったでしょうか。
 17,18節をご一緒に読んでみましょう。「そこでイエスは言われた。「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」とあります。引き返して来なかった九人に対するイエス様の寂しい思いがうかがえます。イエス様は「十人いやされたのではないか。」と言われました。イエス様がほんとうにがっかりしておられる様子が目に見えるようです。そして、イエス様は「九人はどこにいるのか」と言われました。イエス様は九人を探されたのです。なぜなら、彼らも神様をあがめるために戻って来てほしかったからです。イエス様は彼らが癒されることだけではなく、これからもずっとイエス様と関係性を結んでいくことを望んでおられました。イエス様との交わりが続くことを願われたのです。イエス様との関係性を結び、イエス様と交わり続けるとき、さらに深い霊的な世界を体験することができます。イエス様と交わる人は恵みの上に恵みを受けます。さらに優れた祝福を受けるようになります。
ところが、九人の人はイエス様に出会い、イエス様のあわれみを求めて癒されると、まず自分の生活を優先にしました。一旦奇跡が起こって癒されてしまうと、イエス様のことは彼らの眼中になくなりました。イエス様に感謝することを忘れてしまいました。もちろん、彼らに悪意があってそのような行動をしたとは思いません。それにしても彼らは恩知らずの人間です。「ほんとうに自己中心的な人間だなあ」と思われます。では私たちはどうでしょうか。私たちにあの九人を非難する資格があるでしょうか。
私にはありません。自分自身も、問題が生じた時には、声を張り上げて神様のあわれみを求めます。必死に祈ると、神様は助けてくださいました。ところが、そういう問題が解決され、苦しい状況を超えてしまうと、神様が助けてくださることは当たり前で、当然であったかのように思ってしまいます。また、神様のあわれみによって得られた祝福と恵みを自分の祈りや行ないによって得られたかのように思ってしまうことさえあります。だまに、私は子どもたちから「またパパの自慢話か。」と言われました。考えて見ると神様に感謝することより自分の行ないを強調していたからだと思います。しかし、すべての恵みと祝福は神様のあわれみによるものです。今年も神様は私をあわれんでくださいました。イエス・キリストの十字架の血潮によって私の罪と咎を赦し、御言葉の道具として用いてくださいました。時々、自分の祈りの足りなさ、メッセージ準備の足りなさのために主を恐れました。でも、ひざまずいてイエス様が十字架上で流された血潮を覚えながら主のあわれみを求めると、主は私の罪と咎を赦し、きよめてくださったのです。そして、主は哀れみによって私の家族も、東京UBF教会も、守ってくださいました。職場生活の中で苦しくなるときもありましたが、イエス様は御言葉をつかんでさまざまな問題を解決し、苦しい状況を超えていくようにしてくださいました。大いなる主のあわれみと私たちに良くして下さったすべての恵みを心から感謝します。
「喉もと過ぎれば、熱さ忘れる」と言われますが、私たちは物事がうまくいくようになると、「当たり前」と思って、感謝することを忘れてしまいがちです。特に、クリスチャン生活を長くしている方は神様の祝福を当たり前と思っているユダヤ人のようになりがちです。まさに、不治の病らい病が癒されてもイエス様に感謝を表すことより自分の道に歩んでいた九人の人たちのようになるのです。あの九人のことを考えてみると、祭司の所に行って癒された証明書をもらってからイエス様の所に戻ったかも知れません。しかし、イエス様はまずイエス様に感謝する信仰、後回ししないで今感謝するその信仰を祝福してくださいました。
 19節をご一緒に読んでみましょう。それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」彼はイエス様の所に戻って来る前に癒されていました。らい病は直っていたのです。でも、イエス様は「あなたの信仰が、あなたを直したのです。」と言われました。新共同訳によると「あなたの信仰があなたを救った。」とあります。ここで、私たちは大切なことを学ぶことができます。イエス様に感謝しに来た人はあの九人は聞くことが出来なかった信仰による救いを学ぶことができました。あの九人も信仰があったからイエス様のあわれみを求め、らい病が癒される体験をしたはずです。しかし、彼らはイエス様との関係性が結ばれず、一度癒しを経験したことに留まったでしょう。しかし、イエス様の所に戻って来た感謝したサマリヤ人は感謝する信仰によってイエス様との関係性を結ぶことが出来たし、イエス様から自分の信仰が自分の直したことも教えられました。つまり、彼はこれからイエス様との良い関係性の中で信仰による癒し、信仰による救いを体験していくことが出来るようになったのです。これはほんとうに大きな恵みです。イエス様は感謝する人に信仰の奥義を教えてくださいます。私たちがすべてのことにおいて感謝するなら、すべてのことを働かせて益としてくださる神様を体験するでしょう。ですから、聖書は「感謝の心を持つ人になりなさい(コロサイ3:15b)。と言っています。
私にはあまり誇れるものがありませんが、一つ言うならよく感謝することです。家内のマリヤ宣教師は私に「あなたはよく感謝しますね。」と言います。彼女がつまらないと思っていることも感謝しているからです。でも、私も不平不満だらけの人間でした。(PPT怒り>不満>満足>感動>感激>感謝⇒怒り<不満<満足<感動<感激<感謝)しかし、イエス様のあわれみによって癒しと救いを経験しながら感謝する人に変えられて来ました。感謝しようと思えば感謝することは数え切れないほどあります。皆さんも感謝しようと思えば、感謝題目がどんどん増えていくと思います。初めは一つ、次に二つと、皆さんの中にも感謝の思いが少しずつ増えていくことでしょう。そのようにして一日の初めに5コ、あるいは10コと感謝を見つけて一日を始めるならば、きっとその日の生活がいよいよ豊かなものへと変わっていくはずです。感謝によって心の病も癒されていきます。感謝によって祝福された人生へ変えられて行くのです。
 
以上をまとめますと、私たちには毎日新しくイエス・キリストに出会い、イエス様のあわれみを求める祈りが求められています。そして、祈る人はイエス様の御力を体験し、感動と感激がある人生を送るようになります。さらに感謝する信仰によって生きるなら、イエス・キリストとの交わりができて恵みの上に恵みを受けるようになります。どうか、感謝する信仰によってさらに豊かな人生へと変えられていきますように祈ります。

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