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BibleMsg > 特別講義 > ヘブル11:23-29 プリンスモーセ

ヘブル11:23-29 プリンスモーセ

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/25 (2569 回閲覧)
1999年弟子修養会 主題講義 第2講


プリンスモーセ


御言葉:ヘブル人への手紙11:23-29

要 節:ヘブル人への手紙11:24,25

「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、

むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。」


私たちはモーセが偉大な牧者であり、偉大な指導者であることを心から認めています。また、彼を慕ってモーセという名前も付けます。それでは人々が尊敬し学ぼうとするモーセの偉大さはなんでしょうか。ヘブル人への手紙の著者は信仰であると言っています。具体的に決断する信仰だと証しています。今日の御言葉はモーセが生れた時代の背景とそこに現われるモーセの両親の信仰、モーセの信仰の決断に関して記録しています。本文の御言葉を通して神様に用いられる牧者になるためにはどのような条件を満たさなければならないのかを考えてみたいと思います。特に、モーセの信仰の決断を学び、神様の救いの御業に用いられることができるように祈ります。


一番目、王子モーセの誕生と両親の信仰(23)

ヘブル人への手紙の著者はモーセの信仰を証しながらモーセが生れた時代の背景とモーセの両親の信仰について語っています。それでは先ずモーセが生れた時代の背景について考えてみましょう。イスラエルの12部族の族長達は、パレスチナに激しい飢饉が起こったとき、食糧を求めてエジプトに移駐しました。その時彼らの総数は70人でした。彼らは兄弟ヨセフがエジプトの総理大臣であったため、エジプト人に歓迎されました。ところが、モーセが生れた当時のエジプトは政治的な変換期を迎えていました。ヨセフを知らない新しい王が権力を握りました。この人があの有名なパロです。彼は増え広がるイスラエル人を恐れ、特段の招致を取りました。粘土やれんがなどの過酷な労働で彼らの生活を苦しめました。また、王は助産婦達に命じてヘブル人の女に分娩させるとき男の子なら殺し、女の子なら生かしておくように命じました。しかし、助産婦達は神様を恐れたので王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておきました。そこで、王は生れた男の子はみなナイル川に投げ込むように命じました。このような悲劇的な時代にモーセは生まれたのです。歴史をみると多くの偉大な人物は悲劇的で、絶望的な時代に生れました。それで、ある人は「時代が英雄を生み出す。」と言います。しかし、モーセの場合は時代が彼を偉大な人にならせたのではありません。

23節をご覧ください。「信仰によって、モーセは生れてから、両親によって三か月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。」とあります。モーセは生れたとたん死ぬべき運命を背負っていました。しかし、信仰によってモーセの両親は三か月の間モーセを隠しました。それではモーセの両親の信仰はどんな信仰ですか。「彼らはその子の美しいのを見た。」とあります。もちろん誰でも自分の赤ん坊はとても美しく見えます。特別な存在に思われます。私も娘ハンナチャンが二歳にもなってないのに英語のアルファベットを覚えるのを見て、この子は普通の子ではない天才だと勝手に思ったときがあります。人々は自分を中心として子供を見ます。しかし、モーセの両親は神様の観点からモーセを見ました。信仰の目で見ると、神様の御手が彼とともにおられるのが見えました。モーセの両親の信仰が私たちに教えてくれることは何でしょうか。死ぬべき運命を持って生れた人でも信仰によって育てば、運命を乗り越え霊的に偉大な指導者として神様の救いの御業に用いられることが分かります。もしモーセの両親に信仰がなかったのなら、生れたとたん死ぬしかない運命をもった子供のために悲しみ、王の命じた通りに子どもをナイルに投げ捨てたことしょう。しかし、彼らは信仰を持っていたので運命を乗り越え、子供の命を救うことができました。信仰を持っている親が多くいれば霊的な指導者が多く生れるようになります。そして、彼らを通して時代の歴史が変り、滅びるべき民族が救われるようになります。私たちみんなは霊的に母であり父であります。なぜなら、キャンパスの兄弟姉妹達が私たちの霊的な子供であるからです。私たちは霊的な親として兄弟姉妹達一人一人に置かれた神様の摂理と御旨を見ることができなければなりません。神様が一人一人をイエス様の弟子であり、牧者として育ててくださることを信じる信仰を持たなければなりません。私たちが立派な信仰の親となり、霊的な指導者を産む器として神様の救いの御業に尊く用いられるように祈ります。


二番目、王子モーセの生い立ちと信仰の決断(24-27)

信仰によってモーセの両親は三か月間モーセを隠しておきましたが、泣き声が大きくなったのでそれ以上隠し切れなくなりました。それでパピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを塗って、モーセをその中に入れナイルの岸の葦の茂みの中に置きました。ちょうどその時水浴びをするためにナイルに来ていたパロの娘にそのかごが見つかりました。それを開けてみると赤ん坊が泣いていました。彼女はこの子がヘブル人の子供であるのを知っていながらも哀れむ心が生じて自分の子供にしました。パロの娘をナイルに導かれたのも、彼女に哀れむ心を与えたのも神様でした。また神様はモーセの姉の知恵を用いてモーセが本当の母親の元で信仰の教育を受けながら成長するようにされました。モーセは大きくなって宮殿に連れて来られ、先進国エジプトの王子としての特権を享受するようになりました。王子としてのモーセの姿を考えてみましょう。彼は華麗な宮殿に住み、毎日最高級の料理を食べました。モーセが黒い愛馬に乗って道を行くとエジプトの娘達はより近いところでモーセを一目見ようと押し迫ったり、「モーセ様、モーセ様」と叫びながら手を振って歓迎しました。またモーセは王子として哲学、歴史、天文学、修辞学、軍事学など当時の最高の学問を学びました。王子モーセにとって足りないものは何一つありませんでした。モーセは普通の人々が享受することのできない富と栄華と特権を得ました。そして、エジプトの全土を支配するパロの後継者として選ばれることも夢ではありませんでした。

ところが、ヘブル人への手紙の著者は何と証していますか。24-27節をご一緒に読んでみましょう。「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民と苦しむことを選び取りました。彼はキリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。信仰によって彼は王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍びとおしたからです。」モーセは大人になったとき自分の身分と生涯について真剣に考えるようになりました。ある日彼は同胞のところへ出て行って、その苦役を見ました。そこでモーセはあるエジプト人がヘブル人の奴隷を打つのを目のあたりにしました。彼はその瞬間、正義感と怒りが心の奥底から湧いてくるのを感じました。彼はエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠しました。モーセのヘブル人としての民族意識が目覚めました。モーセは悩み始めました。エジプトの王子として生きるか、それども神様の民として生きるか選ばなければなりませんでした。誰でも選択の前では悩むようになります。なぜなら、人間なら誰でも苦難を避けて、楽に暮らしたい本姓があるからです。特に多くの特権と栄華を享受している人であればあるほどそれを捨てることが難しいです。王子モーセにとっても、これは難しい決断でした。ナイル川で自分を拾い子供として育ててくれたパロの娘の恵みに背くような気がして心を痛めたことでしょう。自分に向けて手を振りながら歓迎する女性達の姿が頭に浮かんだでしょう。王子としての特権と富と栄華を捨てることもやさしくありませんでした。王子としての道を選ぶのがもっと賢い選択のようにも思われます。王子としてパロの王位を継承すれば、民たちに神様を信じさせることもできるはずです。しかし、モーセはどうしましたか。彼は王子として享受できる特権と栄華を捨て、神の民とともに受ける苦しみを選び取りました。この選択によりモーセが受ける苦しみは何ですか。王子の身分から奴隷の身分に転落し、政治犯であり、殺人者として取り扱われます。荒野での厳しい訓練を受け、羊飼いとしての生活をしなければなりません。それでもモーセは神の民とともに苦しむことを選び取りました。しかたがなくて苦しみを受ける人々は多くいても、自分に与えられた富と栄華を捨てて、苦難の道を選ぶ人は多くありません。モーセの選択は人々には愚かに見えるでしょう。人々はできるだけ苦労せずに楽で安定的に暮らすことを願います。それでは、モーセはどうやって王子としての特権より、神の民とともに受ける苦しみを選び取ることができたのでしょうか。ヘブル人への手紙の著者は「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民と苦しむことを選び取りました。」と証しています。モーセは信仰によって決断しました。私たちはそれぞれの人生において決断しなければならない場面に直面するときが数多くあります。ところが、多くの人々は決断に伴う一時的な痛みと苦しみのために、信仰の決断ができず小市民的に生きています。しかし、私たちが歴史の主人公であり、神様に用いられる指導者になるためには苦難の道、十字架の道を行こうとする決断をしなければなりません。しかし、このような決断は信仰なしにはできません。モーセは目先のことより、巨視的な眼目で自分の人生を考えました。そして、神の民とともに受ける苦しみを選んだのです。モーセの決断の中に現われる信仰は具体的にどんな信仰ですか。26節の御言葉をもう一度ご覧ください。「彼はキリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」モーセは霊的な価値観を持っていました。モーセはキリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。またモーセは神様からの報いを望む信仰を持っていました。目先の楽しみや栄光ではなく、将来神様から受ける神の御国の栄光と永遠の救いといのちの冠を望みました。モーセには神様からの報いがすべてでした。モーセが王子としての道を選んだのならそれほど多くの苦しみを受けることもなく楽な暮らしができたでしょう。しかし、エジプトの王子としての楽しみと栄光は一時的なものであり、はかないものに過ぎません。しかし、神様の栄光は永遠です。モーセだけではなく、多くの人々が神様からの報いを望み、苦難の道を歩み、信仰を守り通すために殉教の血を流しました。私たちの集りにも喜んで苦難の道を歩む信仰の人々がいます。仕事や勉強で疲れても、休みたい肉の欲を克服し、夜センタに来て神様の前に跪く人、朝寝坊したい心を否定して、夜明けの祈りに専念する人もいます。自分が願うならいくらでも楽に暮らせることができるはずなのに自ら進んで二つ、三つの十字架を担う人もいます。彼らは神様からの報いを望んでいる人々です。モーセが信仰の決断をしたとき、彼の心は喜びと生命力に満たされました。神の民とともにどんな苦難も担える力と勇気が湧き出ました。モーセの決断は信仰の決断であり、偉大な決断でした。神様はモーセの信仰の決断を喜ばれ、神の民イスラエルの救いの御業に尊く用いてくださいました。モーセは信仰の決断のゆえ、信仰の人々が慕う美しい人生を過ごしました。私達がキリストのゆえに受けるそしりを宝と思う霊的な価値観と神様からの報いを望む信仰によって十字架の道、苦難の道、信仰の道を選び取り、神様の救いの御業に尊く用いられますように祈ります。


三番目、神様の訓練と召命

神様を信じて信仰によって決断したモーセはどのような報いを受けたのでしょうか。それは神様による訓練という報いでした。エジプトを脱出したモーセは荒野で羊を飼っていたミデヤン人の祭司、イテロの娘達を助けたことからイテロの羊の世話をするしもべになりました。荒野で羊の世話をすることは楽ではありません。モーセは荒野の隅から隅まで長い距離を移動し続けなければなりませんでした。これが何年も続き、ついに彼が荒野に来て40年が経っていました。荒野での訓練を通して彼は自我が砕かれ、謙遜な人になりました。長い間口のきけない動物と生活したので口下手な人になりました。自己義も血気もなくなりました。荒野でモーセの受けた謙遜訓練は非常に過酷なものでした。神様がモーセに謙遜訓練を与えらたのは、彼をご自分の民の牧者として立てるためでした。ここで、私たちは神様が愛され、救いの御業に用いられようとする人には信仰の訓練を与えてくださるのが分かります。神様は人の杖、人の子の鞭を持って訓練されます(?サムエル7:14)。神様は信仰の訓練を通して私達のうちにある不純物を取り除き、純粋な信仰を持たせてくださいます。また、謙遜な内面性を持った成熟した牧者として成長させてくださいます。信仰の訓練は私達に有益なものです。

ある日モーセはイテロの羊を飼っていました。彼は遠く神の山ホレブまでやって来ました。すると主の使いが彼に現われました。柴のなかの火の炎の中でした。よくみると、火で燃えていたのに、柴は焼け付きませんでした。モーセがこの不思議な光景を見ようと横切って近づくと、柴の中から「モーセ、モーセ」と呼ぶ声がしました。するとモーセは「はい。ここにおります。」と答えました。モーセは長い間荒野で羊飼いとして生活しながら信仰による決断が消えかかっていました。彼は肉体的にも霊的にも衰えていました。その時神様の御声が聞こえてきました「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」こうして、神様はご自分が永遠の神、創造主あること、また、モーセに対する明確な目的を持っておられることを教えられました。モーセは長い間ほとんど消えかかっているような弱々しい信仰によって生きて来ました。しかし、神様にであったとき神様を恐れる心が生じました。そこでモーセは神様を仰ぎ見ることを恐れて顔を隠しました。

その時、神様はイスラエルの民の牧者としての御自分の切ない心をモーセに明かされました。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは、彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と密の流れる地に彼らを上らせるためだ。」イスラエルは最初70人でエジプトに下って来ましたが、今は増え広がって大いなる民となっていました。同時に彼らの苦しみはあまりに大きなものでした。これは、イスラエルが祭司の王国、聖なる国民となるための訓練でした。神様はイスラエルをご自分のしもべとして用いることを願っておられました。しかし、彼らはエジプトのパロから逃げ出せなくなりました。彼らには牧者が必要でした。神様はご自分の民イスラエルをパロの手から救い出す牧者としてモーセを召されました。「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」神様の選択と命令はなんと驚くべきことでしょうか。イテロの羊飼いに過ぎずもはや精神力も尽きかけているようなモーセが、エジプト帝国の王に自分の民を行かせるように告げることをどうしてできるでしょうか。モーセは「私はいったい何者でしょう。」と言って神様の召されに強く反対しました。モーセがこのように神様の召されに反対したのは、神様に従いたくないからではなく、自分があまりに力不足であったからです。すると神様は「わたしはあなたとともにいる。」と仰せられました。神様の御言葉を聞いたとき聖霊の火がモーセの心の中で燃えるようになりました。モーセは神様の召命を心から受け入れ、エジプトに向かって出発しました。モーセは80歳を越えていましたがその足取りには力が満ちていました。彼の手には神の杖がありました。

モーセはパロの前に立ちイスラエルの民を行かせて、荒野で神様に仕えさせるように告げました。するとパロは彼を嘲笑いました。モーセは手に持っていた杖で不思議を行ないましたが、パロに仕える呪法師たちも同じことをしてみせました。パロは頑なな心のためになかなかイスラエルの民を行かせようとしませんでした。モーセとパロの戦いは10ラウンドにも及びました。続く戦いの中でパロの雄弁は次第に消えて行き、モーセは日々ますます力を増して行きました。そしていよいよ最後の戦いでパロはモーセに両手をあげ、イスラエルの民を行かせるようになります。それはエジプトの国の初子は王座に着くパロの初子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の初子、それに家畜の初子に至るまでみな死ぬ厳しい神様の裁きでした(出11:5)。神様がともにおられる信仰の戦いは勝利が報償されている戦いです。ですから、諦めず最後まで信仰によって挑戦するとき必ず勝利するようになります。私達はそれぞれのキャンパスで兄弟姉妹達を罪の奴隷から救い出すための戦いをしています。サタンと罪の勢力はパロのように強く見ます。それに比べ私達はとても弱く見えます。2年3年過ぎても実らないと絶望したり、私は使命人として向いてないと思いがちです。しかし、決して諦めてはいけません。私たちとともにおられる神様を信じて勝利を勝ち取るまで挑戦しなければなりません。神様が必ず私達を通してそれぞれのキャンパスで救いの御業を成し遂げてくださることを信じます。


四番目:モーセの牧者生活

こうして、神様は恵みによってイスラエルの民をエジプトから導き出されました。出エジプトしたイスラエルの民の数は女子供を入れず60万人にものぼりました。神様は彼らを荒野の道に導かれ、昼は雲の柱で、夜は火の柱の中で民たちの前を進まれました。神様はご自分の民、イスラエルの中におられ、彼らを守ってくださいました。エジプトの中の初子を葬った災いの夜が明けるとパロはイスラエルの民を行かしたことを後悔し、大軍を率いて追跡を始めました。イスラエル人が目を上げてみると、何とエジプト人が彼らのあとに追っているではありませんか。イスラエル人は非常に恐れて主に向かって叫びました。そしてモーセに向かって言いました。「エジプトには墓がないので、あなたは私達を連れて来て、この荒野で死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのですか。私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』(出14:11,12)」もっと奴隷であったイスラエルの民は困難を克服する心構えができていませんでした。前方は紅海によってふさがれており、後ろからはパロの軍隊が近づいていました。イスラエルの民は恐れおののくしかありませんでした。そこで、主の御言葉がモーセに与えられました。「あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真中のかわいた地を進み行くようにせよ。」モーセが神様の御言葉に従って手を海の上に差し伸ばすと神様は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされたので、民たちは信仰によってかわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。しかし、エジプト人は同じようにしようとしましたが、のみこまれて魚の餌になりました。イスラエルは神様の大いなる力を体験し、恵みによる大勝利を目撃しました。エジプトの追跡から救われました。彼らはこの大勝利を祝って勝利の歌を歌いました。しかし、これは長く続きませんでした。彼らは三日間荒野を歩きましたが、飲む水が見つからないとモーセに向かってつぶやきました。また、食べ物のことでモーセにつぶやきエジプトでの奴隷生活がましだと言いました。彼らは身についている奴隷根性のために絶えずモーセにつぶやきました。モーセは60万人がつぶやくのを黙って聞きました。口答えする代わりに、神様の前に出て行き、叫ぶ祈りを捧げ恵みを求めました。その時ことに神様はモーセの祈りを聞かれ岩から水を出させ、天からマナを降らせてくださいました。イスラエルの民は神様の恵みを目の前にしながら、牧者モーセにつぶやき、罪を犯す生活を繰り返しました。イスラエルの民は反抗的で、不実で、乱暴で未来に対するビジョンがありませんでした。しかし、モーセは彼らの弱さ、反抗心、裏切り行為をすべて我慢し、ただ彼らに神様の恵みがあるように祈りました。モーセは羊たちのためにいのちを捨てる良い牧者でした。民数記12:3節はモーセの牧者としての高潔さをこのように記しています。「さて、モーセという人は地上の誰にもまさって非常に謙遜であった。」

イスラエルの民の良い牧者であったモーセは謙遜の限りを尽くして民に仕えただけではありません。彼は何よりも神様から授けられた御言葉を民に教え、神の御言葉を守り行うように助けました。牧者生活において一番大切なことは、御業を行う上で、神様からの方向を持つことです。出エジプト記19:3-6節にはこうあります。「モーセは神のみもとに上って行った。主は山から彼を呼んで仰せられた。「あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」私たちはこの御言葉を通して神様がご自分の民を出エジプトさせた目的が何かはっきり知ることができます。神様はイスラエルを祭司の王国、聖なる国民として立てようとされたのです。エジプトで430年間奴隷であった民が、どうすれば祭司の王国、聖なる国民になることができるでしょうか。それは神様の御言葉によってのみできます。私たちはモーセが奴隷の民イスラエルに神様からの御言葉を教えたように、この国の人々に神様の御言葉を教え、聞き従うように助けなければなりません。神様はこの国に「祭司の王国、聖なる国民」としての望みを置かれ、私たちを通してその御心がなされることを願っておられます。私たちがモーセのように謙遜の限りを尽くして兄弟姉妹達に仕えることができるように祈ります。何よりも聖なる国民、祭司の王国の望みを持って御言葉を宣べ伝えることができるように祈ります。


五番目、モーセの報い(申命記32:48-34:12)

モーセの後を引き継いでヨシュアが指導者として立てられました。モーセは年老いて神様に召される日が近づいていました。しかし、モーセには一つの個人的な願いがありました。それは約束の地を自分の足で踏むことでした。しかし、神様はモーセが約束の地を踏むことをお許しになりませんでした。モーセにはモアブの草原からネボの頂に登って約束の地を見ることだけが許されました。これが、神様からモーセに与えられた報いでした。モーセが神様から頂いた報いについて考えてみれば、モーセがかわいそうに思われます。しかし、神様の御心はモーセを、ご自分の民をエジプトから約束の地の入り口まで導くために用いられることでした。そして、神様の御心はご計画通りになされました。


六番目、モーセの祈り(民数記27:15-17)

人が死ぬときほど悲しいことはありません。モーセは生身の人間でした。ですから、自分のことをかわいそうに思ってもおかしくありません。しかし、モーセはそうではありませんでした。むしろ、彼は多くの涙を流しながら、イスラエルの民が牧者のいない羊のようにならないよう、彼らを導く牧者が与えられるように祈りました。モーセの祈りは「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか、自分で分からないのです。(ルカ23:34)」と祈られたイエス様の祈りを思い出させます。またモーセの生涯はヨハネの福音書10:11節の御言葉を思い出させます。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます。」


結論的に、私たちは今日の御言葉を通してモーセの信仰の決断とモーセをイスラエルの牧者として立てられた神様について学びました。私たちがキリストのゆえに受けるそしりを宝のように思う霊的な価値観と神様の報いを望む信仰によって、十字架の道、苦難の道、信仰の道を選び取る信仰の決断ができるように祈ります。また、神様の訓練を通して謙遜な主のしもべであり、御言葉のしもべとして成長できるように祈ります。神様がモーセを通してイスラエルの民を牧者の民として育てたように、私たちを通してこの国を牧者の国にならせてくださるように祈ります。

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