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BibleMsg > 特別講義 > 列王記第一18 神様のために戦ったエリヤ

列王記第一18 神様のために戦ったエリヤ

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/25 (3297 回閲覧)
1998年新年修養会第1講

 

神様のために戦ったエリヤ

 

御言葉:列王記第一18:1?46

要 節:列王記第一18:37「私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」

 

 列王記はサムエル記に続く歴史書として紀元前971ー562年まで約400年にわたるイスラエルとユダ両王国の興亡の歴史を記録しています。本文は預言者エリヤに対する御言葉です。彼は民達をバアルに礼拝させる罪を犯させたアハブと偶像礼拝者達に挑戦して勝利し、神様の栄光を現しました。彼は霊的な危機から国と民を救いました。本文を通してエリヤの信仰とチャレンジ精神を学び、この時代神様の栄光のために戦うキリスト・イエスの立派な兵士となるように祈ります。

 

一、アハブに挑戦したエリヤ(1ー19)

 

 16:29ー34節にはエリヤが、その働きを始めた時代背景を、話しています。イスラエル王国はソロモン王の偶像崇拝の罪のゆえに南ユダと北イスラエルに分裂しました。そして北イスラエルはヤロブアムの時から金の牛の偶像礼拝の罪を犯すようになりました。ところが、アハブ王の時にはこのような偶像礼拝の罪は頂点に達していました。アハブは彼以前のだれよりも主の目の前に悪を行いました。彼はシドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、バアルに仕え、それに拝みました。彼は首都サマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築き、アシェラ像を造りました。また、すべての主の預言者達を殺しました(18:4)。それゆえ民は神様から離れて偶像に仕え、それを拝むようになりました。これらの罪は主の怒りを引き起こし、イスラエルは犯した罪のゆえに滅びるしかない風前の灯火のような霊的な危機に直面しました。このような時代に神様はエリヤを召されました。しかし、彼が神様に用いられるためには訓練が必要でした。17章は神様がエリヤを訓練された内容です。神様は3年間エリヤを隠して訓練されました。エリヤは烏から養われる訓練を受けました。また、やもめから養われる訓練を受けました。彼は御言葉を信じる信仰と従順の訓練を受けました。彼は主が命じるといつでもどこでも行って何でもできる信仰の人であり、従順の人になりました。また、彼はやもめの息子が死んだ時、死の限界にチャレンジして復活の能力を体験する訓練を受けました。彼が祈ったとき、死んだやもめの息子が生き返りました。

 それから、かなりたって、三年目に、次のような主のことばがエリヤにありました。18:1節をご覧下さい。「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。」当時エリヤに対するアハブの敵対心は最高に達していました。アハブはイスラエルにききんがあるのはエリヤのせいだと思っていました。エリヤがアハブに「私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」と言ったからです(17:1)。アハブは水がなくてシャワーもできず、家畜が死んで行く時に「エリヤ、この野郎、必ず捕まって殺してやろう。」と歯ぎしりしていたでしょう。彼はエリヤに対する逮捕手配の命令を全国に出しました。このようなアハブに会いに行くのはいのちがあぶないことでした。しかし、エリヤはアハブに会いに出かけました。エリヤは行く途中アハブの王宮をつかさどるオバデヤに会いました。彼は子供のころから主を恐れている人でした。イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、オバデヤは百人の預言者を救い出し、五十人ずつほら穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養いました。もしこのことがアハブにばれたら彼は殺されたことでしょう。しかし彼は自分のいのちをかけて主の預言者達を守り、仕えました。彼がそのことができたのはアハブやイゼベルより神様を恐れ敬ったからです。彼は神様を恐れていたので人に対する恐れから免れることができました。また、オバデヤは神様を恐れて忠実に働いたので王宮をつかさどる人にまでなることができました。彼は神様を愛し、主のしもべ達に仕える影響力ある平信徒でした。

 このオバデヤはエリヤがアハブに会うようにしてくれました(9ー14)。アハブがエリヤを見るや、アハブは彼に言いました。「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの。」(17)。エリヤはこのようなアハブのことばを聞くと気が弱くなりがちでしたが、むしろ彼を咎めました。「私はイスラエルを煩わしません。あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。」イスラエルが煩っているのはエリヤのせいではなくアハブの偶像礼拝の罪のゆえでした。アハブのようにすべての煩いや苦しみの原因を他人や団体や環境のせいにする人はいつもつぶやき、批判します。そのような人は変化も成長もありません。しかし生きておられる神様の御前で自分を顧み、悔い改める生活をする人は内面に喜びと成長があります。エリヤは偶像礼拝のゆえに煩っていることを明らかにするためにアハブに挑戦状をたたきつけました。19節をご覧下さい。「さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。」エリヤがどうやって850:1で戦おうとしたのでしょうか。それは彼に3年間訓練を通して得た霊的な力があったからです。彼には生きておられる神様を信じる信仰がありました。エリヤは彼らに挑戦して偶像崇拝を取り除き、主なる神様こそ真の神様であることを現そうとしました。こうしてエリヤとバアルの預言者達の間にイスラエルの運命がかかった戦いが始まりました。

 

二、バアルの預言者に挑戦するエリヤ(20ー46)

 

 エリヤの挑戦を受けたアハブはイスラエルのすべての人に使いをやり、預言者たちをカルメル山に集めました。バアルとアシェラの預言者達は「バアル、バアル、アシェラ、アシェラ」と叫びながら集まって来ました。その人数は850人でした。それに比べてエリヤはひとりだけでした。民達はこの戦いを非常に緊張して見ていたでしょう。その時、エリヤは民達にどんな決断を求めましたか。21節をご覧下さい。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えませんでした。民達は主とバアルの間にどっちつかずによろめいていました。彼らは神様にも仕え、バアルにも仕えていました。彼らは主は荒野でマナを食べていた時の神様であり、昔の神様だと思ったでしょう。しかし、バアルとアシェラは新しい時代の神だと思っていたでしょう。特に美の女神アフロディテの原型であるアシェラ女神の崇拝儀式には必ず淫乱な行為が伴いました。それでアシェラの祭りはサマリヤの若者達を熱狂させたでしょう。彼らの偶像礼拝はその時代の信仰的、道徳的堕落をもたらしました。民達はこのような時代と妥協して神様とバアルの間にどっちつかずによろめいていました。エリヤはこのような民達が悔い改めて神様に立ち返るように決断を求めました。しかし、民達は決断できませんでした。エリヤは、どっちつかずによろめいている民達の前で、バアルと主のうち、どちらが本当の神であるのかを知らせるために、一つの提案をしました。それはエリヤとバアルの預言者達がそれぞれ一頭の雄牛を選び、それを切り裂き、たきぎの上に載せて自分たちの神の名を呼んだ時に、火をもって答える神が真の神であるということです。エリヤはバアルは石や木で作られた物に過ぎず、主なる神様だけが生きておられる本当の神様であることを信じていました。このような神様に対する信仰がある時、どんな状況の中でも大胆にチャレンジすることができます。

 エリヤはまずバアルの預言者達に機会を与えました。そこで、彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から真昼まで、バアルの名を呼んで言いました。「バアルよ。私たちに答えてください。」しかし、何の声もなく、答える者もいませんでした。そこで彼らは、自分たちの造った祭壇のあたりを、踊り回りました。真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言いました。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかも知れないから、起こしたらよかろう。」それを聞いたバアルの預言者達は腹が立ってますます大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけました。このようにして、昼も過ぎ、ささげ物をささげる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もいませんでした(25ー29)。バアルは呼んでも呼んでも答えない死んだ神でした。それは人が造ったものに過ぎないからです。偶像は私たちを苦難や悩みから救うことができる力がありません(イザヤ46:6、7)。ですから偶像に頼ることはすべて無駄なこと、無益なことです。偶像を礼拝する人は結局それによって滅ぼされます。

 今度はエリヤの順番になりました。エリヤが民全体に、「私のそばに近寄りなさい。」と言ったので、民はみな彼に近寄りました。それから、彼はこわれていた主の祭壇を建て直しました。エリヤは、ヤコブの子らの部族の数に従って十二の石を取り、その石で彼は主の名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の回りに、二セアの種を入れるほどのみぞを掘りました。ついで彼は、たきぎを並べ、一頭の雄牛を切り裂き、それをたきぎの上に載せ、「四つのかめに水を満たし、この全焼のいけにえと、このたきぎの上に注げ。」と三度命じました。水は祭壇の回りに流れ出しました。彼はみぞにも水を満たしました。エリヤはそれを通して神様の能力を現そうとしました。それからエリヤは神様に頼り、祈りました。36、37節をご覧下さい。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行ったということが、きょう、明らかになりますように。私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」エリヤはアブラハム、イサク、イスラエルの神様、今も生きて働いておられる神様に頼って祈りました。彼の祈りから何を学ぶことができますか。

 第一に、エリヤはイスラエルにおいて神様が神様ととしてあがめられるように祈っています。現在イスラエルの霊的な状態は神様の御名が地に落ちてバアルが高くなり、仕えられていました。神様ー人間ー万物の創造秩序が崩れて価値観が転倒されていました。それを見ているエリヤの心には耐えられない怒りがありました。それでエリヤは神様だけが真の神様であることを明らかにしてくださるように祈りました。神様の名誉が回復され霊的な秩序が立てられるように祈りました。彼の心は神様に対する純粋な熱情で燃えていました。彼は実に神様の栄光のために戦った立派な兵士でした。エリヤだけではありません。神様に用いられた偉大な主のしもべたちはみな神様の栄光のために戦いました。使徒パウロも御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらす人生を送りました。彼は生きるにしても、死ぬにしても、自分の身によって、キリストのすばらしさが現されることを切に求めました(ピリピ1:20)。偉大な宗教改革者であったカルビンも神様の栄光のために腐敗したローマカトリックの勢力に挑戦して戦いました。私たちの信仰生活の目的は自己満足や自分の栄光を現すことではありません。私たちを通して主の御名があがめられ、神様の栄光が現されることにあります。神様はこのようにご自分の栄光を現すために戦う人々を尊く用いられます。

 第二に、民達に対する牧者の心がありました。彼は民の心を翻してくださるように祈りました。イスラエルは神様に選ばれた民、聖なる祭司の国でした。彼らは神様から大きな特権と祝福が与えられました。しかし、彼らは神様から離れてバアルの奴隷となって滅びの道、死の道に向かっていました。エリヤはこのように続けて神様の恵みを裏切るイスラエル人に対して失望しやすいでした。しかしエリヤは彼らをあわれみ、彼らが悔い改めて神様に立ち返るように祈りました。彼らに対する牧者の心はエリヤにどんな状況の中でも諦めず、挑戦するようにしました。牧者の心はその時代を生かす偉大な力があります。

 第三に、エリヤの挑戦精神です。彼はバアルが人々の心を支配する時代に使命を受けました。人々はこのような状況を見ると環境が悪いといって諦めてしまいます。そして時代がこうだから仕方がないと思います。しかし、難しい時代や環境が問題ではなく私たちの信仰が問題です。エリヤはその時代の影響を受けたり、その時代と妥協したりしませんでした。彼は神様を信じて巨大なバアルの勢力に挑戦し、その時代に影響を及ぼす人でした。彼にはファイティングスピリットが満ちていました。神様はこのように信仰によって挑戦する人を喜ばれ、そのような人を用いられます。人々は十字架をいやがり、安逸を愛しているので戦うことを好みません。しかし信仰生活は霊的な戦いです。私たちの戦いは血肉に対するものではなく、サタンに対する霊的な戦いです。罪との戦いです。この戦いは避けられないものです。自分は戦うのがいやだからといって後ろに退くこともできません。後ろに退くと負けてしまい、サタンの奴隷になります。イエス様は私たちを霊的な戦いをするキリスト・イエスの兵士として召されました。立派な兵士はファイティングスピリットがある兵士です。神様は私たちの味方です。神様は私たちがエリヤのように挑戦精神を持って神様の栄光のために戦う時に勝利を与えて下さいます。ですからこの戦いは勝利が保証された戦いです。

 「史上最大の作戦」という映画を見ると、ノルマンディ作戦の時、連合軍がいくら攻撃しても占領することができない要塞がありました。この要塞を突破しないと連合軍はドイツ軍に負けてしまいます。ノルマンディはドイツ軍の指揮官が軍事的に見ると連合軍が攻撃して来るはずがないと言っていた難攻不落の要塞でした。予想通りに段々連合軍の犠牲者が多くなり、武器もなくなりました。すると一人の指揮官が後退したほうがいいと言いました。ところがもう一人の指揮官は「戦わず死ぬより戦って死ぬことがましだ。」と言い、もう一度攻撃しました。その時に、ドイツ軍の難攻不落の要塞を占領し、連合軍は勝利することができました。私たちはキャンパスの兄弟姉妹達にチャレンジし何とかして彼らを弟子として立てようとして来ました。しかし、なかなかうまくできず、一年を過ごした人もいるかも知れません。しかし、神様はもう一度挑戦することを願っておられます。実際にキャンパスの兄弟姉妹達に続けて挑戦する人が羊を得て弟子養成をすることを見ます。永正リベカ牧者はある日祈ってキャンパスに行ってFishingしようとしました。ところが、外を見ると激しい雨が降っていました。瞬間あまりキャンパスに行きたくない心が生じました。しかし、彼女はそれを克服して一人でキャンパスに行きました。そして最初に会ったのが萩原姉妹でした。萩原姉妹はその時、教会を捜しているところでした。神様は永正リベカ牧者のチャレンジ精神を祝福してくださり、純粋で、かわいい萩原姉妹を羊として与えてくださいました。私たちが新年にはエリヤの挑戦精神と信仰を学び、キャンパスの兄弟姉妹達の中に働く罪の勢力と戦い、彼らを主に立ち返らせ、弟子養成ができるように祈ります。神様が私たちにエリヤのような挑戦精神と信仰を与えてくださるように祈ります。

 エリヤが挑戦精神を持って戦った時にどうなりましたか。38節をご覧下さい。「すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。」神様はエリヤの祈りを聞かれ、神様の栄光を現してくださいました。民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言いました。そこでエリヤはバアルの預言者たちを捕らえ彼らをキション川に連れて下り、そこで彼らを殺しました。そしてカルメル山の頂上に登って七度祈ったときに、3年間のききんが終わって大雨が降りました。

 結論的に、神様はエリヤの牧者の心と挑戦精神、そして彼の信仰と祈りを祝福し、ご自分が生きておられることを現し、すべてのバアルの勢力を滅ぼし、神様の御名を現されました。イスラエルを偶像崇拝から救ってくださいました。この神様は今も生きて働いておられます。この国の霊的な状態はまさにエリヤの時代のようです。人々はシャーマニズム、自然崇拝、祖先崇拝などの偶像崇拝をしています。仏教、神道、新興宗教が人々の心を支配しています。お金や快楽が偶像になっている人もいます。サタンはお金や快楽を利用して人々の関心を神様に向けさせないようにします。彼らは真の神様を知らず、神様に逆らって滅びの道、死の道に向かっています。神様はこのような時代に私たちを召されました。私たちがエリヤのように神様のために戦う時に神様は私たちを通してその栄光を現してくださいます。新年には私たちがエリヤのように神様のために戦うキリスト・イエスの立派な兵士達になるように祈ります。また、エリヤのような人を養うことができる年となるように祈ります。

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