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ペテロの手紙第一2 王である祭司

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/25 (3696 回閲覧)
東京UBF開拓十周年記念礼拝

 

王である祭司

 

御言葉:ペテロの手紙第一2:4?10

要 節:ペテロの手紙第一2:9

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」

 

 東京UBFの開拓も今年で10周年を迎えました。10年間神様が私達とともにおられ、キャンパスの学生達に福音を宣べ伝えるみわざに用いてくださったことを感謝します。顧みるとすべてが神様の恵みと哀れみです。今日東京UBFから開拓された横浜、千葉、東海UBFの同労者達や兄弟姉妹達と一緒に10周年記念礼拝を捧げるようにして下さった主に感謝致します。今日の御言葉はこの世でのクリスチャンの身分と使命が何であるかを教えてくれます。今日の御言葉を通して、神様が私達を王である祭司として立ててくださったことを悟り、私達に委ねられた使命に励むことができるように祈ります。今日の礼拝を通して主が私達を通してなさったみわざを感謝し、21世紀に向けて日本宣教に対する新たなビジョンを持つことができるように祈ります。

 

?.主のもとに来なさい(4-8)

 

使徒ペテロがこの手紙を書いている当時聖徒達はイエス・キリストを信じるという一つの理由で迫害を受けて、散らされていました。彼らはどれほど心が痛く、悲しく、寂しかったのでしょうか。誰かが少し話しかけただけでも涙がこぼれそうになったでしょう。このような彼らにペテロは何と勧めていますか。4節をご覧下さい。「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。」使徒ペテロは彼らに主のもとに来るように勧めています。なぜならイエス様のもとに来ると真の慰めを受け、力づけられ、問題が解決されるからです。

しかし大抵の人々は難しい状況にぶつかるとイエス様のもとに行くより古い友人や親のもとに行きます。信仰によってカウンセリングをしてくれる牧者より自分を同情してくれるような友人や先輩のところに行きます。その結果つまずくことがあります。私達は苦難の時、迫害の時にイエス様のもとに出て行きましょう。心がかたくなになった時、兄弟を許せなくて苦しい時、失敗して絶望している時、子供が病気にかかった時、人々との葛藤が生じた時にイエス様のもとに出て行きましょう。

それでは彼らが行くべきイエス様はどんな方ですか。イエス様の生涯は人々から捨てられた生涯でした。イエス様はお生まれになった時から人々の無関心の中で馬小屋でお生まれになりました。故郷の人々から排斥されました。イエス様は3年間ともにして愛と犠牲によって育てた弟子達からも裏切られました。それだけではなくイエス様は同族と宗教指導者達から捨てられ、十字架につけられました。人々はイエス様が現実的に有益になる時には従いましたが、自分の考えと要求に合わないと捨てました。救い主イエス様がこの世に来られましたが人々は受け入れず、捨てました。

しかし、イエス様の生涯は人々から捨てられたことで終わりませんでした。主は、人には捨てられましたが、神様の目には、選ばれた、尊い、生ける石となられました。神様は人々に捨てられたイエス様を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、すべての人々が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神様がほめたたえられるためです(ピリピ2:9―11)。それではペテロはなぜイエス様を生ける石と言ったでしょうか。 第一に、イエス様のうちにいのちがあるからです。ヨハネ1:4節には「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」とあります。イエス様はこの世のすべてのものを造られた創造主としていのちの源となられます。すべてのいのちはイエス様から出て、イエス様に帰ります。イエス様はいのちの主です。

第二に、イエス様は信じる者にいのちを与える方です。イエス様は私達の罪のために十字架につけられ死なれました。しかし、神様の能力によって死者の中からよみがえられました。そして彼を信じる人々に永遠のいのちを与えてくださいます。よみがえりであり、いのちであるイエス様を信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていて信じる者は、決して死ぬことがありません(ヨハネ11:25,26)。

第三に、イエス様は人生の基礎であり、教会の基礎です。6,7節でイエス様を「尊い礎石」「礎の石」と言っています。神殿の四隅には大きい礎の石があります。この礎の石は建物を支えています。もしこの礎の石が崩れるとその建物がいくら美しくて大きな建物だとしても崩れてしまいます。人々は人生の家を他人よりも大きく美しく建てようとしますが、見えない基礎をおろそかにします。しかし、基礎が大切です。イエス様は人生の根本問題である罪と死の問題を解決されたので唯一の人生の基礎となられる方です。このイエス様を人生の基礎とした人は岩の上に家を建てた賢い人のようで患難の時に決して倒れません。しかし、イエス様以外のお金や名誉、哲学や思想、自分の考えを人生の基礎とした人は砂の上に家を建てる人のようで洪水が押し寄せると倒れてしまいます。

また、教会の基礎は十字架に死なれ、よみがえられたイエス・キリストです。教会の基礎は人間や神学理論や教理ではありません。また、建物や制度でもありません。教会の基礎は死の力を打ち破り、よみがえられたイエス様です。ですから私達は人々から捨てられ、悲しみ、絶望の時に生ける石であるイエス様のもとに出て行かなければなりません。イエス様のもとに行くと真の慰めと力を受けて再び立ち上がることができます。

それだけではありません。5節をご覧下さい。「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」私達が主のもとに出て行くと私達も生ける石であるイエス様のようになり、霊の家に築き上げられます。クリスチャンが「生ける石」であるのは、彼が生けるキリストにつながっているからです。人はイエス様をメシヤとして受け入れる時、生ける石とされ霊の家である教会の交わりに入れられるのです。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神様に霊のいけにえを捧げるようになります。ユダヤ教においては祭司職はある特定の人々に与えられる特権でしたが、今はすべてのキリスト者が祭司となりました。6b節をご覧下さい。「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」誰でもイエス様に信頼する者は、決して失望させられることがありません。イエス様は救いと裁きの主として来られる時に主を信じる者を受け入れ、裁きから救ってくださいます。しかし、イエス様以外のお金や自分の力や能力、社会での地位などに頼っている人は失望させられるようになります。

 7,8節をご覧下さい。イエス様はより頼んでいる人々には尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、つまずきの石、妨げの岩となります。イエス様は救いと裁きの基準となられます。イエス様を信じても信じなくてもよいのではありません。必ず信じなければなりません。

 

?。王である祭司(9,10)

 

使徒ペテロは今まで私達がイエス様のもとに出て行く時、生ける石として、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司として霊のいけにえを捧げるようになることを証しました。ペテロはさらにイエス様を信じることによって私達の身分が驚くほど変わることを言っています。9節をご覧下さい。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」この御言葉は出エジプト記19:5,6節にある御言葉として元々神様の選ばれた民イスラエルに与えられた御言葉です。神様はイスラエル人が、神様の声に聞き従い、神様の契約を守るなら、彼らを祭司の王国、聖なる国民とすると約束されました。しかし、イスラエル人は神様の御言葉に従いませんでした。それによってすべての祝福がキリストによって救われた新しいイスラエルであるクリスチャンに移されました。それではクリスチャンが持つようになった身分は何ですか。

第一に、選ばれた種族です。神様に選ばれたことは大きな祝福です。子供の時には先生に選ばれて仕事が与えられるだけでも喜びました。学部で一人しか選ばない文部省奨学生として選ばれた李ジェヨン宣教師には喜びがあります。このように子供も大人も誰かに特別に選ばれるととてもうれしくなります。ところが私達は文部省からでもなく先生からでもなく天地万物をお造りになった神様から選ばれたのです。神様は選ばれた人にご自身を現れ、いのちの御言葉を与えて下さいます。選ばれた人には神様の恵みと特権があります。彼らは神様を知り、礼拝し、仕えることができます。神様のみわざに用いられる神様の協力者となります。神様の特別な関心と保護と愛の対象となります。ですから私達が神様に選ばれたことは大きな恵みであり、喜びです。

第二に、王である祭司です。祭司は神様と人との間の仲介者です。私達はイエス様の尊い血によって神様と和解するようになりました。神様は、キリストによって、私達をご自分と和解させ、また和解の務めを私達に与えてくださいました(コリント第二5:18)。それは神様に背いている人々に福音を伝えて神様と和解させる務めです。それが今日クリスチャンである私達に与えられた王である祭司としての務めです。

祭司でもただの祭司ではなく王である祭司です。王である祭司ですから王としての権威と高尚な品位を持たなければなりません。これを王道と言います。私達は過去淫乱な不信仰の時代に従って罪人の道を歩んでいましたが、イエス様の尊い血によって救われ、神様の子供となりました。それだけではなく王であるイエス様とともに治める王族、Royal Familyとなりました。ですからクリスチャンは王道を持たなければなりません。私達は王らしく考えるスケールも大きく、また、ことばにおいても、行いにおいても品位がなければなりません。また、どんな人々も理解し、受け入れ、愛する人でなければなりません。私達は王である祭司らしくこの時代の流れを見る目と歴史意識を持たなければなりません。王である祭司として立てられた私達が狭い心のゆえ一人も受け入れ仕えることができなければ本当に惨めなことです。また、王である祭司が不品行な肉的なこの世と調子を合わせて生活するとどんなに惨めなことでしょうか。もし、私達が他人はどうなってもいいやと思うことも王である祭司らしくありません。主の教えを喜びとするよりゲームセンターで遊んでいることも王である祭司らしくありません。私達がこの時間神様が私達をこの時代王である祭司として立ててくださったことを深く認識することができるように祈ります。これは罪人であった私達に臨まれた大きな祝福であり、特権です。この身分はこの世のどんな身分とも変えられないものです。ですから学校でも職場でも王である祭司らしく胸を張って広い心を持って仕える生活をしなければなりません。私達が王である祭司としてのアイデンティティと誇りを持って王である祭司らしく生きることができるように祈ります。

神様は私達を日本のキャンパスだけではなく世界187カ国のキャンパスに仕える王である祭司としての身分を与えてくださいました。私達の中には韓国に帰れば、良い職場も家も用意されていて安定的な生活ができるのにも関わらず、どうしてもこの国に残ってキャンパスの若者達に福音を宣べ伝えようとする方もいます。職場や学校の勉強や子供の面倒を見ることなどで忙しい生活をしながらも何とかして福音を宣べ伝えようと励んでいます。それは神様が私達を王である祭司として立ててくださったからです。

第三に、聖なる国民です。これはこの世の民と区別され神様に仕える国民です。神の民に要求されるのは聖なる生活です。私達は世の人々が持っている価値観と流行に従わず、聖なる生活をしなければなりません。この世の塩と光として影響を及ぼさなければなりません。

第四に、神の所有とされた民です。神様はイエス様の尊い血によって私達を買い取られました。一般的に自分の所有は大切にします。神様はご自分の所有とされた私達を大切にし、愛してくださいます。先週札幌の宋イェジュン宣教師から米山奨学金をもらうようになったと電話がありました。彼は文部省の奨学金も米山奨学金も申請しましたが、両方ともだめだったそうです。ところが、米山奨学金をもらうようになっていた他の人がもらえなくなったので代わりに宋イェジュン宣教師がもらうようになったそうです。今日礼拝に参加している横浜UBFの張アブラハム宣教師は筑波大学の寮に入るために申し込みましたが、韓国人の留学生に割当たったのは一人だけだったそうです。それでくじ引きをするようになり、他の二人の留学生が先にくじを引きましたが、二人とも外れたので残った張アブラハム宣教師が入るようになったそうです。安藤マリア牧者は先週就職の面接に合格しました。面接官が学校の先輩だったし、安藤牧者が障害者を教える経験もあったので3人の中から彼女が選ばれました。神様はご自分の所有とされた彼らを守り、ベストの道に導いて下さいました。

以上の四つの身分は別々のものではなく私達がイエス様を信じて新しく生まれた時に同時に与えられる身分です。この身分は神様が私達に値なしに与えられたものです。

それでは神様が、このすべての身分を下さった目的は、何でしょうか。9b節をご覧下さい。「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」私達は過去好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、偶像礼拝などにふけった者でした(ペテロ第一4:3)。私達は罪によって死んだ人々でした。神様はこのような私達をあわれみ、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださいました。この光によって死んだたましいが生き返りました。

これから私達はやみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いて下さった方のすばらしいみわざを、宣べ伝えなければなりません。私のような者がこのように変えられた、このように神様に愛されているということを、人に語らなければなりません。そのように語るほうがよいというものではなくて、しなければならないことです。人々は聖書やイエス様についてよく知りません。ある牧師先生が「私は牧師です。」と紹介すると相手の人が「ああ、牧場で働いているんですか。」と言ったほどです。人々はイエス様の中にある恵みと真理、愛と赦しをよく知りません。どこからこの世に来たかわからないし、またどこへ行くかを知りません。ほんとうの生きる目標を知りません。虚無と恐れと罪意識によってさいなまれながらもサタンの偽りの宣伝に騙されてイエス様に対して偏見や誤解を持っています。それでイエス様のことを伝えるとかなり警戒してこころを開こうとしません。このような彼らにイエス様を宣べ伝えることは大切なことです。テレビのコマシャルーを見ているとそのものをほしがるようになります。私の3歳の娘サラちゃんさえテレビのコマシャルーをよく覚えているほどです。「札幌一番みそラーメン。カップもよろしく。」と歌います。それで人々はラーメンを買うときには札幌一番みそラーメンを選びます。私達もこのようにイエス様を宣伝しなければなりません。なぜなら札幌一番みそラーメンは食べなくても大丈夫ですが、イエス様を信じるか信じないかは生死がかかっている大切な問題だからです。私達が力を尽くしてイエス様を宣べ伝える時にいのちが救われるみわざが起こります。私達が福音を宣べ伝える時にこの国が祭司の国として変わります。

結論、私達はいろいろな身分を持っています。会社員、教師、学生、父、母、子供などの身分を持っています。しかし、何よりも大切な身分は私達が王である祭司であることです。私達がどんな状況の中でも王である祭司としてのアイデンティティを持って私達をやみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、宣べ伝えることができるように祈ります。21世紀にはこの国、日本が祭司の国となり、世界に出て行き、福音を宣べ伝える国となるように祈ります。

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