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BibleMsg > 特別講義 > テモテ第?2 キリスト・イエスの立派な兵士

テモテ第?2 キリスト・イエスの立派な兵士

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/25 (3018 回閲覧)
1999年度年越しメッセージ

 

キリスト・イエスの立派な兵士

 

御言葉:テモテへの手紙第?2:1ー13

要 節:テモテへの手紙第?2:3、4

「キリスト・イエスの立派な兵士として、私と苦しみをともにしてください。兵役についていながら、

日常生活のことに掛かり合っている者は誰もありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。」

 

 先週はイエス様の誕生をお祝うクリスマス礼拝を捧げました。去年は88名が参加しましたが、今年はそれをはるかに上回る140名が参加しました。主に感謝します。今年もわずかしか残っていません。今日は年越しのメッセージとしてキリスト・イエスのりっぱな兵士という御言葉を学びたいと思います。今日の御言葉でパウロは福音の働き人の姿を説きながらテモテを励ましています。彼は福音の働き人を「兵士」、「競技する者」、「労苦した農夫」にたとえています。御言葉を通して福音の働き人が持つべき姿勢について学びたいと思います。特に「キリスト・イエスの立派な兵士」となるためにはどんな姿勢を持つべきかについて学ぶことができるように祈ります。

 

?。忠実な聖書先生を養いなさい(2:1,2)

 

 1節をご覧ください。「我が子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」パウロはテモテがキリスト・イエスにある恵みによって強くなるように勧めています。テモテは柔和で、真実で、忠実な人でした。ところが彼は心が弱くて恐れが多い人でした。体も弱くて性格も小心な人でした。それで涙が多い人でした。当時テモテはエペソ教会の責任者でした。ところがエペソ教会の中にはさまざまな問題があってテモテは大変苦労していました。教会内では律法主義者と戦わなければならず、外からはエペソの堕落した文化と戦わなければなりませんでした。そんな中で牧者パウロはネロ皇帝の迫害によって牢に入れられいつ殉教するか知らない切迫した状況でした。それゆえ、アジヤにいる人々はみな、迫害に対する恐れのためにパウロから離れて行きました(1:15)。このような知らせを聞いたテモテは弱くなりがちでした。パウロは落胆している子供を励ますように「わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」と手紙を始めています。福音のしもべは内面が強くならなければなりません。内面が弱い人は問題にぶつかるとすぐ落胆し、横になります。また周りの環境によく影響を受けます。人の言葉によく傷つけられます。主のしもべはどんな患難さえも乗り越えるほど強くならなければなりません。

 それでは私達がどのようにしたら強くなることが出来るのでしょうか。パウロは「キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」と言っています。ここで「恵み」とは第一に、罪の赦しの恵みであり、第二に、召されの恵みです。人は罪を犯すと中風の人のように無気力になります。罪の力に捕らわれると霊的な力が奪われてしまいます。しかし、主の御前に真実に悔い改め罪の赦しの恵みをいただくと力が与えられます。内面が強くなります。また、私達が強くなるためには召されの恵みがなければなりません。パウロは体も弱く話も上手ではありませんでした。しかし召されの恵みを考えると鷲のように空を飛ぶ力が生じました。パウロは現在ローマの地下牢に入れられていましたが福音に敵対していた自分を救い出し、牧者や宣教師として召してくださった恵みを考えると感謝する心で満ち溢れました。

 パウロは弱いテモテを励ましてからどんな使命を与えましたか。2節をご覧ください。「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人達にゆだねなさい。」パウロはテモテに忠実な聖書先生を養う使命を与えました。本文には三代目までの弟子養成が出ています。使徒パウロはテモテを忠実な聖書先生として育てました。そしてテモテに他の人にも教える力のある忠実な人達に福音をゆだねるように言いました。その忠実な人達はまた他の人々を教えることができます。信仰教育は理論や知識を伝えることで終わるのではありません。1:1の人格的な愛と関係性を通して成し遂げられます。1:1で助ける時、羊の信仰の問題を深く助けることも忠実なイエス様の弟子として育てることもできます。一人を福音信仰の上に堅く立たせ、また他の人々にも教えることができる忠実な働き人を育てることこそ福音のみわざにおいて一番大切なことです。

ところが1:1聖書先生を養うことは非能率的であるように見えます。それで1:1弟子養成のために祈りながらも「犠牲することに比べて得るものがあまりにも少ない」と思われる時もあります。しかし1:1弟子養成は一番早い神様の御業の方法です。一年に一人の忠実な聖書先生を養うと一年後には聖書先生が二人になります。この二人が再び一人ずつ弟子を養うと二年後には4名になります。このようにすると10年後には1024名の聖書先生が誕生します。30年後には10億を超えます。33年後には80億を超えます。そうすると地球上のすべての人々はイエス様の弟子となります。ですから、私達が年に一人の弟子を養って行くと私達の世代に日本宣教、世界宣教を成し遂げることができます。

ここで大切なのは聖書先生の質の問題です。弟子養成は他の人にも教える力のある忠実な人達を養わなければなりません。それでパウロは忠実な人たちにゆだねなさいと言いました。忠実な人とはどんな人でしょうか。その人は忠誠な人、信頼出来る人、頼りになる人のことです。聖書先生は何よりも忠実さが必要です。イエス様はぶどう園の農夫のたとえを通して良い忠実なしもべと悪い怠けたしもべに対して言われました。悪い怠けなしもべに福音をゆだねるとどうなるでしょうか。福音を地をほって隠して置いてぶらぶら遊んでしまうでしょう。その人は一年が過ぎ、二年が過ぎ、十年が過ぎても一人の弟子も養うことができないでしょう。ですから忠実な人にゆだねなければなりません。強い使命感と責任感を持って弟子を養う牧者を養わなければなりません。忠実な人が忠実な人を育てることができます。ですから忠実な人を養うためには私達がまずイエス様の忠実な人にならなければなりません。小泉ダビデ牧者は今年一年間レクリエーション部長として忠実に働きました。それでほとんど毎月体育大会を行なうことができました。仕事で忙しい中でもクリスマス演劇での主人公の役を忠実に練習し、すばらしい演劇ができました。小泉ダビデ牧者が新しい年には弟子養成においても忠実な人として成長することができるように祈ります。

 

?。私と苦しみをともにしてください(3-6)

 

パウロはこれからテモテに福音の働き人として持つべき姿勢がどうであるべきかを兵士とスポーツ選手と農夫のたとえをあげて説明してくれました。

第一に、キリスト・イエスの立派な兵士(3,4)

3節をご覧ください。「キリスト・イエスの立派な兵士として、私と苦しみを共にしてください。」パウロはまず、テモテの身分がキリスト・イエスの兵士であることを悟らせてくれました。クリスチャンは世の悪と誘惑、さまざまな異端思想と戦う主の兵士達です。パウロはテモテがキリスト・イエスのりっぱな兵士として、自分と苦しみをともにするように言いました。「苦しみをともにしてください」とは積極的な姿勢を持って苦しみを耐え忍びなさいという意味です。兵士が受ける最初の苦しみは訓練の苦しみです。平凡な人が兵士になるために訓練所に入ると厳しい訓練が待っています。りっぱな兵士になれるかどうかはすべてが訓練にかかっています。厳しい訓練を通してどんな苦しい状況も克服して敵を打ち破ることができる兵士になります。兵士は戦争で勝利する時、価値があり、栄光が与えられます。このようにキリスト・イエスのりっぱな兵士になるためには苦しみを愛する人にならなければなりません。パウロはテモテに「私と苦しみをともにしてください」と言いました。当時パウロは鎖につながれてローマの地下牢に入れられていました。しかしその苦しみがイエス様を喜ばせる苦しみであるという確信があったので喜びながら苦しみを受けました。パウロはテモテが自分のようにキリストの苦しみに積極的に参加することを勧めています。

 それではキリスト・イエスのりっぱな兵士になるためにはどんな姿勢を持たなければなりませんか。4節をご覧下さい。「兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っているものは誰もありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。」ここで「兵役についていながら」とは現在、軍服務中で戦争の状態に置かれていることを意味し、「日常生活」とは全く兵士としての生活とは関係がない私生活を意味します。「掛かり合う」とは「引っ掛かる」の意味で、まるで蜂がくもの巣に引っ掛かっている状態を意味します。いくら強い蜂でもくもの巣に引っ掛かってしまうと力を失い、結局死ぬようになります。ですから日常生活に掛かり合っている兵士は何の役にも立ちません。立派な兵士は徴募した国家のためにいのちをかけて勇敢に戦う人です。そうして国民の財産といのちを守ります。立派な兵士は日常生活のことに心を奪われる者ではなく、むしろ「懲募した者を喜ばせる」者です。「懲募した者」とは、司令官であるキリストご自身です。福音の働き人は自分を喜ばせるのではなく、司令官なるキリストを喜ばせるために戦わなければなりません。これは兵士の目的であり、私達人間の存在の目的です。私達はきリスト・イエスの兵士として召されました。ですから司令官である主の御言葉に絶対的に聞き従い、どんな苦しみも喜んで受ける者とならなければなりません。自己中心の生活から離れて主と福音中心の生活をしなければなりません。自分の考え、自分の感情、自分の夢や計画に縛られてはなりません。イエス様以外にどんなものにも縛られてはなりません。主と福音のためならいつでも聞き従う姿勢がなければなりません。そのような姿勢がある時、私達はキリストを喜ばせる立派な兵士になることができます。

 第二に、福音の働き人は規定に従って競技をしなければなりません。5節をご覧ください。「また競技をする時も、規定を従って競技をしなければ栄冠を得ることは出来ません。」競技をする者がどんなにいい記録を出しても規則に違反した場合には栄冠を得ることが出来ません。信仰生活も同じです。規定に従って信仰生活をしなければ栄冠を得ることができません。ここで「規定に従う」とは御言葉に従うことです。聖書の御言葉は私達が走るべき道を教えてくれます。私達がそれに従って競技をすると神様は栄冠を得ることができます。オリンピックの競技は、栄冠を得る人は一人ですが、信仰の競技では規定に従って走り終えたすべての者に栄冠が与えられます。クリスチャンには多くの栄冠が用意されています。主と福音のために勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通した人のためには、義の栄冠が用意されています(テモテ?4:8)。神様の羊の群れを忠実に養った牧者のためには栄光の冠が用意されています(ペテロ?5:4)。任されたことに死に至るまで忠実であった人のためにはいのちの冠が用意されています(黙2:10)。それでパウロはコリントのクリスチャン達に次のように言いました。「また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(コリント?9:25-27)。私達が勝利の信仰生活をするためには自制が必要です。実際に信仰の競争で一番つらいことは自分自身との戦いで勝つことです。プロレスラー、アントニオ猪木は、「闘魂とは己に打ち勝つこと」だと言いました。戦いというと、相手との戦いというイメージしがちですが、自分と戦って勝つことが大切であることを言う言葉だと思います。羊を養うこと、勉強をすること、職場の生活をすること、他人と心を合わせることなどすべてが自分自身との戦いです。この戦いで勝つとき、実際生活でも勝つことができます。このような戦いで勝利するためには絶えず時間を自制し、感情を自制し、食べ物を自制し、テレビを見ることを自制しなければなりません。そして御言葉と祈りに専念する時、勝利の冠を得ることができます。

 第三に、まず第一に収穫の分け前にあずかる農夫(6)

6節をご覧ください。「労苦した農夫こそ、まず第一に収獲の分け前に預かるべきです。」農夫の例えは聖徒達が苦労しながら御言葉の種を蒔く姿勢について教えてくれます。農夫は冬の間に準備して春になると畑を耕し、肥料を与えます。それから種を蒔かなければなりません。夏の間にも汗を流しながら時に従って水をやり、雑草も除きます。また穀物が熟するとスズメの攻撃を防がなければなりません。スズメを防がなければせっかく苦労して得た穀物が奪われてしまいます。品質の良い米を収獲するまでは一安心も出来ません。このように労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前に預かるのです。農夫の仕事は単純です。しかし汗を流しながら勤勉に働かなければなりません。怠けた農夫は働かなければならないことを知っていながらも働きません。夏は暑いからと言って休み、冬は寒いからと言って眠り、天気が良い時には天気が言いからと言って遊びます。このような農夫は収穫の時に後悔の涙を流すしかありません。涙とともに種を蒔く者が喜びながら刈り取ることができます。福音の働き人も同じです。時に従って福音の種を蒔かなければなりません。時に従って羊達にふさわしい御言葉を教えなければなりません。使徒パウロはエペソを開拓する時、三年の間、夜も昼も、涙とともに彼らひとりひとりを訓戒し続けました(使20:31)。そのようにした時、大きな御業が起こりました。

 7節をご覧ください。「私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに必ず与えてくださいます。」パウロが言った兵士のたとえ、スポーツ選手のたとえ、農夫のたとえはすべて苦難を通して栄光を受けるという共通的な真理があります。兵士は苦難を受けて徴募した者を喜ばせることができます。運動選手は訓練を受ける苦しみを通して競技で勝利することができます。農夫は汗を流しながら働くとき、収穫の喜びにあずかることができます。この真理を深く受け入れるとき、私達は福音のために喜びながら苦難を受けることができます。

私達がキリスト・イエスの兵士として生きようとすると受ける苦しみがあります。それは私達の家族や友達や会社の人などが理解してくれないことです。私達がキリスト・イエスのりっぱな兵士になることを喜ぶ親はなかなかいないと思います。私達がキリスト・イエスの兵士になりたいと言うと「わかった。これから頑張ってね」と言う親がいるでしょうか。友達や会社の人から馬鹿にされたり、変な人として見られたりするかも知れません。テモテ第二3:12でパウロは次のように言いました。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」ですから私達が迫害を受けることは当たり前です。神様は迫害を通してすべての不純物を取り除き、私達の信仰を金のように精錬されます。ですからキリストのために受ける苦難を大きな栄光と思い、苦難さえも喜ぶべきです。

また私達が喜びながら受けるべき苦難は羊を養うことです。見知らぬ人に伝道することはやさしいことではありません。やっと勇気を出して話をかけたのに無視されたり反発されたりすると力がなくなります。二度三度それが繰り返されると段々最初に持っていた勇気や力がなくなってしまい、傷ついた心で帰る足は重くなります。再び伝道したくない考えが生じます。この苦難がいやで初めから伝道するのをやめている人もいるでしょう。また神様の恵みによって羊が与えられ仕えるようになってもその羊が救われ、聖書先生として成長するまで産みの苦しみが伴います。多くの犠牲が伴います。多くの涙を流さなければなりません。多くの絶望の瞬間を耐え忍ばなければなりません。それでも羊が成長して行くならすべての苦しみは耐え忍ぶことができます。ところが羊が逃げてしまうと本当につらいことです。しかしこのような苦しみなしには一人のいのちも生かすことができません。苦しみを耐え忍びながら続けてチャレンジするとき、いのちが生かされ、弟子達が育つのです。

その以外にも私達には心が合わない同労者とともに働く苦しみもあります。特に同労者には要求する心があるのでなかなか謙遜に仕えることができません。また、相手の長所を生かすより短所を指摘する場合が多くあります。それで同労者の集まりをすると雰囲気は冷たくなり、集まりが終わる時には疲れてしまう時があります。自分はよくやっているのに同労者達がよくやってないと思い、判断する心が生じます。職場生活をしている兄弟は自分は忙しいから羊を養うことなどは奥さんがよくやってくれることを願います。ところがその奥さんは自分も子育てや家事などで忙しいのに全然理解してくれず、要求ばかりしていると思います。それで一番愛するべき同労者達の間にトラブルが発生し、羊を養う力を得ることができません。新年には同労者達の問題で苦しむことを少なくし、互いに励まし、互いに愛し合い、力を合わせて主と福音のために働くことができるように祈りましょう。心を合わせて働くと一人がするよりも何倍の力を出すことができます。

苦難がなければ栄光もありません。十字架の死なしには復活の栄光もありません。私達の苦難はイエス・キリストの苦難に参加する苦難であり、栄光ある苦難です。ですから積極的にこのような苦難を通して私達の信仰が成長し、私達を召された主を喜ばせ、義の栄冠を得ることができるように祈ります。

 

?.イエス・キリストを、いつも思っていなさい(8-13)

 

8節をご覧下さい。「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」パウロの福音はダビデの子孫イエス・キリストが私達の罪のために死なれ、死者の中からよみがえられたことによって私達を罪と死から救ってくださったということです。パウロはテモテにこのイエス様をいつも思っていなさいと言いました。イエス様は苦難を受けられ、復活の栄光に入られた手本となられました。苦難の後には必ず勝利と復活の栄光があります。イエス様はそれを証明してくださいました。ですからテモテが復活され、今も生きておられるイエス・キリストをいつも思っている時、どんな迫害や苦難も耐え忍ぶことができます。私達も恐れにおののく時、疑いが生じる時、自分の無能さが心をふさぐ時、死者の中からよみがえったイエス・キリストを思い起こしましょう。

 9-10節でパウロは自分の証しを通して福音の働き人が受ける栄光について言っています。そしてパウロが苦しみを耐え忍ぶ理由が何かについて言っています。9節をご覧ください。「私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。」パウロは福音のために、苦しみを受け、犯罪者のように地下牢に入れられています。これから死刑執行が行なわれることも知っていました。しかし、自分が伝えた福音はつながれることなく全世界に伝えられることを信じていました。また、パウロは自分が受ける苦しみによって羊達が救いを得ることを確信していました。10節をご覧下さい。「ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。」パウロは羊達の救いのため自分を犠牲にする良い牧者でした。このようにパウロは自分が苦難を受け、殉教することによって福音が宣べ伝えられ、羊達が救われる確信があったので喜びながら苦難を受けることができました。パウロは福音の力と神様の摂理を信じました。使徒パウロは主とともに苦しみを受ける人々に与えられる栄光を考えながら主を賛美しました。11ー13節をご覧ください。「もし私達が、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私達を否まれる。私達は真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」この御言葉は初代教会の賛美です。この賛美は私達クリスチャンの受けるすべての苦労や苦しみが無駄ではないことを歌っています。また、クリスチャン達に最後の勝利が与えられることを確信しています。主とともに死んでも復活の主とともに生きるようになることを確信しました。すべての苦難を耐え忍ぶなら主とともに治めるようになることを確信しました。苦難による栄光、これこそ信仰生活の法則であり、命の法則です。私達が現在受ける苦しみは将来私達に啓示されようとする栄光と比べれば取るの足りないものです(ローマ8:18)。ですから今の苦しみを悲しまないで主が与えてくださる栄光を考えながら喜ぶことができるように祈ります。私達が最後の勝利に対する確信と望みを持って最後まで苦難を耐え忍び、偉大な勝利を体験することができるように祈ります。

 結論、主はこの時代、私達をキリスト・イエスの兵士として召されました。神様は今年一年間も私達を訓練し、神様の御業に用いてくださいました。主に感謝します。これからもキリスト・イエスのりっぱな兵士として主と苦しみを共にすることができるように祈ります。兵士として日常生活のことに縛られず、徴募したイエス・キリストを喜ばせる生活ができるように祈ります。一人の弟子を養うために多くの苦しみを受け、涙とともに福音の種を蒔くことができるように祈ります。それで新しい年には喜びながら刈り取る農夫の喜びにあずかることができるように祈ります。また、信仰の競争で全力を尽くして走り終え、義の冠、いのちの冠、栄光の冠を得ることができるように祈ります

 

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