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BibleMsg > 特別講義 > コリント第一15:1―11 イエス・キリストの復活

コリント第一15:1―11 イエス・キリストの復活

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/25 (2904 回閲覧)
1999年イースター修養会復活シンポジウム?

 

イエス・キリストの復活

 

御言葉:コリント人への手紙第一15:1―11

要 節:コリント人への手紙第一15:3、4

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、

次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」

 

 イースターの時期は日本社会においては、「新年度」にはいる時期でもあります。この四月から進学、就職などで新しい道に進む人も多くいるでしょう。新しい学校や職場に逝く時、人それぞれに「私はこれを大事に頑張っていこう」という決意、初心のようなものがあると思います。そしてその決意、初心をいつも忘れず活躍している人もいます。しかしあわただしい日々の中で最初の決意を忘れてしまいやすいのも事実です。ですから一般社会における生活でも信仰生活でも、「初心に帰る」ことは本当に意義あることだと思います。パウロはコリントの聖徒たちが初心に帰り、かつてパウロが伝えた福音のことば、すなわち十字架と復活の福音をしっかりと保っているように勧めています。

私たちが今回の修養会を通して初心に帰り、すでに受けている復活の福音をしっかりと保っているように祈ります。さらに私たちもパウロのように復活の信仰の上に立ってますます主のわざに励むことができるように祈ります。


1、2節をご覧ください。「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」とあります。元々コリントにはギリシャ神話の愛と美の女神アフロディトの神殿が建てられ、数千と言われる神殿娼婦たちが活躍していました。この当然の結果として、コリントの町は道徳的、風俗的に堕落していました。当時「コリント」という町のイメージは新宿の「歌舞伎町」のようなものでした。しかし、使徒パウロがこの町に福音を伝えた時、彼らは福音を喜びと感激をもって受け入れ、バプテスマを受けました。彼らの生き方は変り、互いに愛し合いながらノンクリスチャンに信仰の影響力を及ぼしました。歌舞伎町で活動していたヤクザたちは生まれ変わり、イエス・キリストの特攻隊になりました。ところが、牧者であるパウロが彼らから離れて行き、年月が流れて行くと初めの喜びと感激は消え去りました。今年はフールタイム牧者のようになろう、毎日センターで祈ろう、キャンパス征服のために毎日キャンパスに行こうと決断したことも忘れてしまいました。信仰生活はマンネリ化され、霊的な分別力を失いました。すると教会にさまざまな問題が発生しましたが最も深刻な問題は復活の信仰が弱くなったために、教会に力がなく、スピリットがなくなっていたことでした。そこで、パウロは彼らが福音を受け入れた時の初心に帰り、福音のことばをしっかりと保っているように、復活の福音の上に堅く立つように勧めています。そうすればこの福音によって救われるからです。ではパウロが伝えた福音の内容は何ですか。

3,4節を一緒に読んでみましょう。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」とあります。キリストは私たちの罪のために死なれました。罪の問題は人間が直面している問題の中で最も根本的な問題です。人々は罪のために罪意識だけではなく,不安と恐れの中で苦しんでいます。死の恐怖にさいなまれています。人殺しや詐欺のような罪でなくても、友達に傷つけたことや情欲の罪のために、一生涯苦しんでいる人もいます。そうでなくてもアダムの子孫である私たち人間は原罪のために何だかの不安や恐れの中で生きているのです。ところが,イエス様は私たちの罪と咎のために十字架の上で死んでくださいました。イエス様が私たちの罪と咎を背負って死んでくださったために私たちは罪が赦される恵みを受けるようになりました。その確かな証拠は復活です。イエス様は死んで葬られましたが、それだけ終わったら,イエス様の死は美しい愛の物語にすぎません。しかし、キリストは聖書に従って三日目によみがえられました。イエス様はこの復活によってご自分が私たちの罪のために、私たちが義と認められるために死なれたことを明らかにされました。パウロはこのイエス・キリストの復活が歴史的な事実であることを確実にするために「聖書に従ってよみがえられたこと」を強調しています。復活のイエス様の姿を目撃した人々を紹介しています。5?7節をご覧ください。よみがえられたイエス様はケパすなわちペテロに現れましたそれから十二弟子に現れて十字架上で釘つけられた手と剣に刺されてわき腹の傷あとを見せてくださいました。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。最後にパウロ自身にも現れてくださいました。法廷では二人の証言だけでも証拠能力を認めてくれます。ところが、イエス様の復活を証言できる証人たちは数多くいるのです。何よりも復活の主に出会った証人たちの変化はその事実をますます確実に裏付けてくれます。弱虫のような人が勇気ある人に、疑い深い人が確信に満ちた人に、利己的な人が犠牲的な人に、心細い者が大胆な人に変りました。このような変化は歴史家たちも認めています。東京大学の村川堅太郎先生が責任編集した「世界の歴史」という本には次のようなことが書かれています。「イエスを古来約束されたメシアすなわちキリストであると信じ,主キリストを礼拝する教団としてキリスト教会が成立した。このことを理性的,科学的に説明することは困難であろうが、イエスの逮捕の際、ひとり残らず逃げ去ってしまった弟子たちが百八十度の心境変化を来たして伝道に専心し,迫害と殉教に敢然と直面したことを考えると、のちの教会での作りごととだけは言いきれず、なにかふしぎなことがらがあったと推定してもよいであろう。」もし、この先生が学生の時代に大西磨希子牧者のようにUBFで聖書勉強をしたなら「何かふしぎなことがら」ではなく「キリストの復活」があったと書き記したことでしょう。だれでも学者的な良心を持って綿密に調べて見ると,復活の証人たちの変化に驚き,キリストの復活を認めざるを得なくなるのです。特にこの手紙の著者パウロの変化は著しいものです。彼はナザレ人イエスを異端としてキリスト教を残酷に迫害していました。しかし、彼は誰でもクリスチャンならみな殺そうと殺害の意に燃えてダマスコに行く途中、復活の主に出会いました。突然、天からの光が彼を巡り照らしました。この光はよみがえられたイエス様の栄光の光でした。彼は地に倒れましたがよみがえられたイエス様の声が聞こえました。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」復活のイエス様は彼に会ってくださったのです。その後、彼の人生は180度変わりました。過去彼は本当に高慢な者でした。その高ぶり,天に上り,人を人として見ず,クリスチャンならだれでも殺そうとしたのです。しかし、よみがえられたイエス様に出会ってから彼は最も小さい者になりました。彼は自分のことを「月足らずで生まれた者」と言っています。また、彼は使徒の中で最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者であると言っています。パウロはこのように謙遜になって主のために、人の救いのために死を恐れずに一生懸命に働きました。10節をご覧ください。「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました」。パウロは無に等しい自分が神様の恵みによって救われ、召され、他のどの使徒たちよりも多く働くことを許された喜びを語っています。彼の心にはいつも役に立たない罪人を救ってくださった救いの恵みが満ち溢れていました。その恵みのゆえにだれよりも多く働きました。しかも、パウロは多く働いたそのことに対しても「それは私ではなく、私にある神の恵みです」と告白しています。いっさいは神様の恵みであることを、パウロは片時も忘れずその恵みのゆえに他の使徒よりも多く働いたのです。

私はシンポジウムを準備しながらこのパウロを通して大きな恵みを受け,自分の不信仰と怠けている生活を悔い改めることができました。

私は高校3年生の時、栄養失調による肝炎にかかりました。弱い体は過ごし動いてもすぐ疲れてしまうので学校にいても家に帰っても眠くて眠くて何もできない状態でした。びりの成績で大学に入りましたが体はさらに弱くなり,疲れのために大学のベンチの上で寝てしまう時もしばしばありました。私の状態は生きる意欲を失って自殺を考えるほどになりました。神様はこんなに惨めな者をイエス様の十字架と復活によって救ってくださいました。特に大学一年の時習ったマタイの福音、ペテロの手紙第一の御言葉を通して復活の信仰を持ち,朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない生ける望みをつかむようになりました。するとふしぎにも復活の力が私のうちに働き、精神的に廃れていた心が癒され,体は回復されてベンチの上で寝ることがなくなりました。私はその大きな恵みのゆえに夜はアルバイトしながらも学問の十字架、牧者の使命を担うことができました。復活の主は牧者になってから今まで一度も主日礼拝に欠席することがないほどに健康を与えてくださいました。この足りないしもべを日本に遣わし、開拓者の一員として、メッセンジャとして、弟子養成家として用いられる恵みとともに家族や生活の面においても数多く祝福してくださいました。本当にすべてのすべてが主の恵みです。ところが,最近私は主が祝福として下さった職場の仕事にしばられて主のみわざのために熱心に働くことができませんでした。私は春休みの間早稲田サークル募集があったのでその間、一人の羊を得ようと思っていました。しかし、新入生募集のために熱心に働いている任ユキョン牧者、大西牧者、この働きをサポートしている小泉牧者、石原兄弟と宣教師たちを見ながらも同労することができませんでした。しかし、パウロは「私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。」と告白しています。私も私に対する神様の恵みがむだにならないようにもっと働かなければなりません。私はことを考え,祈りながら自分の安逸と不信仰を悔い改め一つの決断をしました。このイースター修養会が終わると、夏修養会150名参加のために150日夜明けの祈りを捧げることです。学生のようにキャンパスで働くことはなかなか難しくても他の同労者たちよりも多く祈ることはできるはずです。どうか、主がこのしもべの決断を守らせてくださいます様に祈ります。また、この時間、聖霊が私たち皆にも働いてくださって十字架と復活の福音によって救ってくださった主の恵みを覚えて感謝し,その恵みのゆえにますます福音のために働くことを決断することができるように祈ります。

 

一言 :復活の福音に立って

 

 

1999年イースター修養会復活シンポジウム?(朴ルカ)

 

復活の必然性

御言葉:コリント人への手紙第一15:12ー19要 節:コリント人への手紙第一15:12

「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、

どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。」

 

 私達は15:1ー11節の御言葉を通して、福音というのは何かについて学びました。特に、キリストの復活は多くの預言者達によって預言された上、多くの証人達によって証された歴史的な事実であることを学びました。ですから、キリストの復活は歴史的な事実で、確かなことです。本文ではキリストの復活の事実を基にして、私たちクリスチャンの復活の必然性と確実性について、即ちクリスチャンはなぜ復活しないといけないのか、クリスチャンの復活はどれほど確かなものであるかについてのべています。特に、パウロは逆説的な表現を使って非常に論理的に証ししています。ここでパウロがどれほど論理学、修辞学、などに富んでいたかがよくわかります。例えば私たちは「もし牧者であれば、羊を愛する」ということを「もし羊を愛しないのなら、その人は牧者ではない」というふうに言って強調します。また、「もしその人が本当の牧者でなければ、羊を愛することはない」というふうにも言って牧者だったら、羊を愛することを強調します。12―19節の御言葉で、パウロはこのような方法でクリスチャンの復活の必然性と確実性について強く証しします。

 12節をご覧ください。「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。」コリント聖徒たちの中にはイエスキリストの復活は信じましたが、聖徒たちの復活を否認する人々がいました。彼らはギリシャの思想の影響を受けて、魂の不滅は信じましたが、体の復活は信じませんでした。ギリシャの思想は二元論です。彼らは形而上学の世界、すなわち、精神と魂の世界は美しくて正しい物で、形而下学の世界、つまり、物質と肉体は汚くて、偽りものだと考えました。このようなギリシャ思想の影響を受けて、体の復活を否定したものです。パウロは体の復活を信じない彼らに、死者の復活の確実さについて話します。「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。」

 一番目、キリストの復活が本当だったら、死者の復活は確かなことです。13節をご覧ください。「もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。」死んだものの復活を否定すると、キリストの復活も否定しなければなりません。なぜならキリストも死者の中から復活されたからです。しかし、キリストは死者の中からよみがえられました。イエス様はすべての人の復活の初穂となられました。その証人たちも多くいます。ですから、キリストが復活されたので、死者の復活も確かにあるわけです。

 二番目、私達の伝えることと信仰こそ実質のあるものです。14、15節をご覧ください。「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。」私達が信じて伝えるのは、キリストが私達の罪のために死なれて、三日目によみがえられて、いのちの主となられたことです。なのに、キリストが再び生き変えられなかったなら、イエスキリストの復活を預言し、証した預言者たちキリストの復活の証人である使徒たちは皆うそつきになります。しかし、イエスキリストは復活されました。イエスキリストがよみがえられたので、私たちの伝えることと信仰は実質のあるものです。牧者になって1:1で聖書の御言葉を教えることは、正しくて実質のあることです。この時間復活のシンポジウムを伝える宣教師達はみな詐欺師ではなく、正しいことを証ししていることになります。

 三番目、キリストの復活によって、神様は能力者として現れます。15bをご覧ください。もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずです。もし、死んだものが再び生きることがなければ、神様はキリストを再び生かすこともなかったことでしょう。そうなると、神様は善が悪に滅んでも何もできない無能な神様、死んだ神様にすぎません。しかし、神様はキリストを再び生かすことによって、神様こそ今も生きておられ、能力で働いておられる方であることを明らかにされました。

 四番目、キリストの復活によって私たちの罪の問題は解決されました。17節をご覧ください。「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」イエス様が復活されなかったならば、イエス様の死によって、私達の罪は赦されたことを証明する方法がありません。罪の代価は死であるから、死の問題が残っているなら、罪の問題も未解決のままであることを意味します。しかし、キリストがよみがえられたので、私たちは罪の問題はもちろん、死の問題さえも解決されたのです。

 五番目、キリストの復活によって、信者はすべての人々の中で一番幸せものです。18、19節をご覧ください。「そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」初代教会のときの多くの聖徒たちは復活の希望の中で、キリストのために殉教の血を流して眠りに入りました。ところが、もし、死んだものの復活がないとしたら、彼らは滅んでしまいます。彼らの死は無駄な死に過ぎなくなります。それだけでなく、この世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちも、すべての人の中で一番哀れな者です。この世のほとんどの人々はできるだけ楽しい人生を送るために励みます。それに比べると、信者たちはこの世の楽しみとはかけ離れて自分を否認し、十字架を担って、自分より主を喜ばせるために懸命です。ですから、キリストの復活がないと信者はどれほど哀れな者でしょうか。しかし、イエスキリストはよみがえられました。キリストにあって眠った者たちは絶対滅びません。復活の栄光が待っているのみです。キリストの復活が確かですから、ただキリストに希望を置いている私たちも、すべての人の中で一番幸せな人々です。主のために時間と物質、青春を捧げて死ぬまで苦労する私たちには復活の栄光が待っています。しばらくは損をして苦労しますが、よくやった、忠実なしもべだと誉められ、報いを頂きます。またこの世で復活の信仰に燃えると状況を越えた人生、いつもヤングマンーとして生きることができます。復活信仰を持っている私の名前は幸せなのです。

 私は本文の御言葉を準備しながら、キリストの復活が確かだから、死者の復活、私の復活も確かであることを学びました。またキリストに単なる希望を置いているクリスチャンこそ一番幸せ者であることを学びました。職場の生活の中で主の御業に仕えるということはそうやさしいことではありません。週5回以上キャンパスで祈ることはなかなか難しいです。しかし、私がこの国に来ている目的はただ裕福に食べて楽しい人生を送るためではありません。キリストに単なる希望を置いて、キャンパスの牧者として生きるためです。この道こそ一番幸せな人生の道であることを確信します。今年、復活信仰をもって、キャンパスに毎週5回以上のぼり、祈りの祭壇を築き、早稲田大学理工学部で3人の弟子養成ができるように励むことを新たにします。

一緒に12節を読みます。「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活は、と言っている人がいるのですか。」

 

一言:復活はある

 

 

 

 

 

 

 

 

1999年イースター修養会復活シンポジウム?(寺崎アブラハム)

 

眠った者の初穂

 

御言葉:コリント人への手紙第一15:20?34

要 節:コリント人への手紙第一15:20

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」

    

 私たちは、12?19節の御言葉を通して、「もし死者の復活がなかったらどんな深刻な問題が起こるのか」、について学びました。この時間は、イエス様が死者の中からよみがえられたことによってどんなことが起きたのか、また復活信仰に堅く立って「毎日が死の連続です」と告白した使徒パウロがどんな生活をしたのか、について学びたいと思います。

 

?.万物の回復(20-28)

20節をご覧ください。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」使徒パウロは今までの「もし」という仮定を覆して、イエス様が死者の中からよみがえられたことを強調しています。イエス様のよみがえりは、誰も否定することのできない歴史的な事実です。そしてパウロは「キリストが眠った者の初穂としてよみがえられた」と言いました。「初穂」とは何でしょうか。例えば、人が柿の種を蒔くと、その種は芽を出しやがって立派な柿の木に成長します。しかしすぐに実を結ぶわけではありません。それでも人々は立派な実を結ぶために一生懸命に柿の木の世話をします。やがて時になると、柿が実り色鮮やかに熟するようになります。その柿の実を見て人は慰めを受けます。そして、次の年もまたその次の年もずっと柿の実を結ぶという望みで満ち溢れるようになります。それだけ初穂が持つ意味は大きなものです。同じように、キリストのよみがえりは、将来私たちもキリストのようによみがえることを示唆し、私たちに望みを与えます。過去私たちはアダムの影響を受けていました。アダムは、私たちの初穂として神様に逆らって罪を犯しました。その結果、アダム一人の罪によって、私たちは罪と死の支配を受けるようになりました。どんなに偉大な指導者も、哲学も、思想も、宗教も、私たちの罪と死の問題を解決することができませんでした。それで人々は罪と死の前では無力になるしかありませんでした。死を運命だと考え思い、生きていても絶えず死の恐怖におびえるしかありませんでした。しかし一人だけ罪と死の問題を解決した人がいます。その人はイエス様です。イエス様は人類の代表として私たちの罪のために十字架につけられて死なれ、三日目に死者の中からよみがえられました。イエス様のよみがえりによって、罪と死の問題が解決されるようになったのです。誰でもよみがえりでありいのちであるイエス様を信じさえすれば、罪と死の勢力から解放されるようになるのです。力がみなぎり生命力がみちあふれるようになります。もう一度、24?28節をご覧ください。キリストはよみがえり昇天され、神様の右に着座されましたが、最後には世を裁くために再び来られます。その時、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストはすべての敵をその足の下に置かれ、最後にご自分も神様に従われます。その時、アダムの罪によって崩れていた創造の秩序が回復されます。そしてイエス様は、私たちクリスチャンを、「聖なる都、新しいエルサレム」に導いてくださいます。その日、神様は私たちが地上で流した涙をすっかりぬぐい取ってくださいます。罪ととがによって流した涙、愛する兄弟姉妹たちのために流した涙を、神様は知っておられます。私たちは弱く、時には、サタンの誘惑に負け、罪を犯すしかありませんが、神様は傷ついた私たちの心を癒してくださいます。私たちを受け入れ、慰めてくださいます。そこにはもはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。なぜなら、以前のものがもはや過ぎ去ったからです(黙21:14)。ただ、まことの平安と自由があるだけです。私たちは永遠のいのちを受け、いつまでも愛するイエス様と一緒に住むようになります。イエス様が再臨されるその日、私たちクリスチャンにとって勝利の日になるのです。まさにイエス様が再臨される時こそが、本当に私たちクリスチャンが持つべき生ける望みなのです。

 

?.復活信仰(29-34)

使徒パウロは、死者の復活がなければ、パウロ自身もいのちの危険にさらされる必要がない、と言っています。コリント人への手紙第二11章には、使徒パウロがどんな危険にさらされていたのかが記されています。使徒パウロは、何度も牢に入れられたり、むち打たれたり、死に直面したりしました。また、幾度も旅をし、難船したり、一昼夜、海上を漂ったこともありました。労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。しかしパウロがこのような苦難を受けたのは、彼自身の栄光のためではありませんでした。ただ、いのちの危険を冒してでも、いのちの福音を宣べ伝え、罪と死によって滅んで行くたましいを生かそうとしました。どのようにしてパウロはこのような生活ができたのでしょうか。パウロが勇敢だったからでしょうか。イエス様に対する義理と人情があったからでしょうか。いいえ。パウロには「死んでもよみがえる」という復活信仰がありました。その復活信仰によって、パウロは死を恐れず、危険を冒して福音の御業に仕えたのです。

もう一度、皆さんと一緒に31節を読みたいと思います。「兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。」では、「毎日が死の連続」とはどんな生活を指すのでしょうか。それは、使徒パウロがキリストの苦しみに参加することによって、キリストのよみがえりを知りたいと願っている生活を意味します。キリストを学ぶためには、安逸や情欲などの肉の欲を服従させる生活です。また、自分の夢や自分の野心、自分の計画を捨てて、イエス様を学び従って行く生活です。使徒パウロは毎日イエス様を学ぶ生活をしました。そしてその生活を誇りに思ったのです。人間条件を見ると、使徒パウロには誇るべきものがたくさんありました。使徒パウロは学問や才能に優れ、多くの業績を残しました。パウロはエリート中のエリートでした。ところがパウロがダマスコに向かう途中よみがえられたイエス様に出会った時、それまで彼が誇っていたものを全て排泄物だと思うようになりました。そしてイエス様の生涯を学ぼうとしました。よみがえりの秘密を知ろうとしました。また、主にあってコリント教会の聖徒たちを誇りに思いました。その誇りは復活信仰から来るものです。32節を見ると、パウロ自身も自分の有益のために生きていたようです。使徒パウロは、主と福音のために働くことが最も大きな永遠の有益であることを知っていました。使徒パウロは永遠の有益のために、しばし受けるこの世での有益を犠牲にしたのです。 

 誰でも自分にとって益になる生活をしたいと思っています。問題は、目先のものを求めて永遠の有益を犠牲にするのか、あるいは永遠の有益のために目先のものを犠牲にするのか、その選択にあると思います。使徒パウロは、永遠の有益を得るために、果敢に目先のものを犠牲にしたのです。。

33、34節をご覧下さい。友達が悪ければ、良い習慣がそこなわれてしまいます。人は良い影響よりも悪い影響を受けるからです。クリスチャン人口の少ないこの国で、私たちが復活信仰を堅くつかむことは容易なことではありません。天気の良い日曜日には、教会に行って礼拝を捧げることより、友達とどこかに遊びに行ったほうが有意義に思えます。また人々の前で、自分がクリスチャンだと言えば、変人扱いされるので、適当に友達と調子を合わせようとします。しかし回りの人々は自由に見えますが、結局は罪によって滅んでしまいます。それでクリスチャンはいつも目を覚まして、正しい生活を送り罪をやめなければなりません。その生活を通してのみ、いのちを得ることができるからです。私たちも、使徒パウロのように復活信仰の上に堅く立ち、日々イエス様を学ぶ生活ができるように祈ります。

私は、シンポジウムを準備しながら、復活信仰の上に堅く立ち、日々イエス様について行こうとする使徒パウロを学ぶようになりました。神様は、一方的な恵みの中で、信仰のある美しいマリヤ宣教師を同労者として立ててくださり、今の職場を下さいました。私は、この神様の恵みを覚え、さらにキャンパスに福音を証しする御業に仕えようとしました。しかし実際に自分の生活を振り返って見ると、職場生活で疲れ切った生活をするしかありませんでした。私は、会長団として、日ごとの糧部として、FELLOWSHIP牧者として、外側は一生懸命神様の御業に仕えました。ところが、内面は、イエス様を学ぶ生活よりは現実の問題にとらわれるしかありませんでした。給料が少なく、これから子どもが生まれたらどうするのか、どのように子どもを育てたら良いのか、そのことでマリヤ宣教師と意見が食い違うことが多くありました。子どもだけではなく、将来の方向を考えると、私はマリヤ宣教師の助言に耳を傾けることより、自分の信仰に基づいて自分なりの考えを主張しました。そのためお互いに自己主張するだけでした。私はイエス様を学びたい願いはありましたが、同労者と深く話し合うことができませんでした。そのため、相手の話を聞いて理解することができませんでした。私たちの家庭を見て、果してキャンパスの兄弟姉妹たちが信仰の結婚に対する望みを持つようになるのか、それを考えると心を痛めるしかありませんでした。私は、そのような生活を直したいと思いましたが、自分の努力や意志ではそれを直すことができませんでした。しかし、今日の御言葉を照らして考えてみると、完全に自我が死に切れていないことを発見するようになりました。また、将来に対する恐れが生じるのは、自分に復活に対する信仰がないからです。しかし「死んでもよみがえる」という復活信仰の上に堅く立ち、自分の自我が砕かれる時、痛みが伴いますが、柔和で謙遜なイエス様を学ぶことができます。十字架の上で死ぬまで弟子たちに仕えられたイエス様を学ぶ時、自分の同労者を尊く思い愛し仕えることができます。お互いに祈り同労する時、聖霊が臨み、全ての人々を受け入れる大きな器を造ることができます。私が将来入る天の御国を仰ぎ見て、マリヤ宣教師と同労する中で今年、早稲田大学文学部キャンパスの一人の新入生に仕えることができるように祈ります。

 

一言:死んでもよみがえる

 

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