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BibleMsg > ルカの福音書 > 99年9講 本当の隣人

99年9講 本当の隣人

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/23 (3299 回閲覧)
1999年ルカの福音書第9講

 

本当の隣人

 

御言葉:ルカの福音書10:25?37

要 節:ルカの福音書10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」

    するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

 

 ルカの福音書にはイエス様が語られた譬え話が多くあります。その中でも、最もよく知られている譬え話の一つが今日学ぼうとする「善きサマリヤ人」と呼ばれている譬え話です。この譬え話は子供達もよく知っています。この時間、善きサマリヤ人の譬え話を通してイエス様の教えの根本精神と愛を実行することについて学びたいと思います。この時間、善きサマリヤ人を通して本当の隣人は誰であるかを学ぶことができるように祈ります。

 

?.それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます(25-28)

 

 25節をご覧下さい。ある律法の専門家が立ち上がり、イエス様をためそうとして言いました。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」これは人間が尋ねる質問の中で最も重要で深刻な質問です。人生をまじめに生きている人は誰でも一度は心の中にこういう疑問を持ったことがあるでしょう。人は誰でも永遠のいのちを求めています。「永遠のいのち」とは、ただ、時間的に長く生きることではありません。何の意味もなく、罪の中で長く生きるのは苦しいことで惨めなことです。「永遠のいのち」とは幸福が含まれた質的なことです。ですから、この質問は「何をしたら永遠なる幸福を得られるか。」という意味です。だから、この質問は人間の幸福に深い関心を持ってした質問です。

 ところが、彼の質問の内容はすばらしかったのですが、その意図は純粋なものではありませんでした。彼はイエス様をためそうとして質問したのです。彼はイエス様の聖書に対する実力をテストし、多くの人々の前で自分の聖書に対する実力を誇ろうとしたようです。イエス様はその意図を読み取って言われました。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」律法の専門家はイエス様をためそうとしましたが、むしろ、イエス様にためされるようになりました。律法は神様の御言葉です。神様の御言葉には人々が永遠のいのちを得る道があります。律法の専門家はすぐ答えて言いました。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」彼はさすが律法の専門家らしく律法の根本精神についてよく知っていました。律法の精神は愛です。それは神様を愛し、隣人を愛することです。ギリシャ語には愛を意味する言葉が四つあります。エロースは愛に値するものを愛する愛で、特に男女間の自然な愛、性愛、恋愛のことです。フィリアーは友達との愛、すなわち、友情です。ストルゲーは親子の自然な愛情です。アガペーは、愛に値しないものを愛する愛です。すなわち、無条件的な愛です。神様の愛はこのアガペーの愛です。本文での愛は神様に対しても、隣人に対してもみなアガペーを用いました。それは神様に対する愛も、隣人に対する愛も真実で、犠牲的でなおかつ無条件的でなければならないことを言ってくれます。

 第一に、神様に対する愛は「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして」愛することです。これは私達が持っているすべてを持ってただ、神様にだけに心を向け、全身全霊を尽くして神様を愛することを意味します。私達は泉のように涌き出る知恵、誰にも負けない情熱、青年の若さと力、不屈の精神、そのすべてを持って神様を愛さなければなりません。神様はこのように愛する十分な価値のある方です。いや神様を愛することはいくら愛しても足りません。なぜなら、神様は最も愛しておられる一人子さえ私達の罪を贖うためになだめの供え物としてお与えになったほどに私達を愛して下さったからです。

 ところが、私達は神様は目に見えないから神様に対する愛を軽んじてしまいがちです。しかし、不思議にも神様を自分の都合によって愛すると、心に喜びと生命力が消えて行きます。私達が喜びといのちにあふれた生活をするためには、心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くして神様を愛さなければなりません。私達は時々、こんなに熱心に神様を愛すると、自分のことは何もできなくなるのではないかと思います。しかし、決してそうではありません。私達が神様を熱く愛する時、神様との愛の関係が成り立ち、神様との愛の関係性が成り立った時、やっと私達の心に真の幸福と真の自由が臨まれます。そうすると、自分を愛し、愛せない人までも愛することができます。ですから、神様を愛することは幸福への道です。

 第二に、隣人に対する愛は「自分自身のように愛する」ことです。隣人を愛することは自分が基準になります。人々は誰でも自分を愛しています。自尊心が傷つけられると、腹を立てます。お腹がすいていると、何とかして食べ物を食べます。疲れている時には、休みます。眠くなると、礼拝中でも居眠りします。自分を愛することは本能的です。このように隣人を尊く思って尊敬し、関心を持って愛しなければなりません。

 神様と隣人への愛は区別して考えるものではありません。神様を愛する時、隣人を愛することができます。また、隣人を愛する時、神様への愛が私達の心に臨まれます。隣人を愛することは神様の愛の具体的な表現です。神様を愛していると言いながらも助けが必要な隣人を愛していなければ、それこそ口先だけの愛であって実際には愛していないことになります。信仰生活とは神様を愛し、隣人を愛する生活です。ところが、自分の気に入る人は愛することができても、そうでない人を愛することはできません。人を愛しているように思っても、結局は自分を愛しています。私達はそういう弱さを持っています。律法の専門家の答えを聞かれたイエス様は彼の答えをどのように考え、どんな方向と約束を下さいましたか。28節をご覧下さい。イエス様は言われました。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」イエス様は彼の答えが正しいと認められました。しかし、聖書の知識が永遠のいのちを与えてくれるのではありません。もちろん聖書の知識は人々に役に立つものです。しかし、御言葉のとおりに実行しなければ、信仰の体験はできません。言葉では表現できない深い霊的な世界を知ることができません。たとえ律法の専門家であっても行いがなければ、その心には喜びと希望、永遠のいのちに対する確信から来る平安がありません。1:1聖書勉強をしていても御言葉を実行しない人の心には喜びと真の自由がありません。たましいが離れた体が、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。それで、イエス様は律法の専門家が律法について知っているそのとおりに実行するように方向を下さいました。御言葉を実行する時、真の自由と生命力ある幸せな生活を送ることができます。これは御言葉に従って実行している人なら、誰でも体験している告白です。御言葉のとおりに実行することが幸福の道であり、永遠のいのちを得る道なのです。

 

 

?.本当の隣人(29-37)

 

 律法の専門家はイエス様から明確な方向を受けましたが、それをすなおに受け入れませんでした。むしろ、彼は自分の正しさを示そうとして質問をしました。29節をご覧下さい。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」一生懸命隣人を愛していた律法の専門家は「では私の愛さなかった隣人はいったい誰ですか」とイエス様に尋ねたのです。彼は律法を知っていながらも日ごろの生活においては、真実に隣人に対して考えたり、助けたりしませんでした。ただ、自分は知識的に知っているから、隣人を愛していると思い込んでいました。彼は自分が愛することのできる人だけを愛していました。イエス様はこのような彼に本当の隣人とは誰かを分かりやすくたとえで教えてくださいました。

 30?32節をご覧下さい。ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われました。彼がエルサレムからエリコへ下っているのを見ると、ユダヤ人であるに違いないと思います。エルサレムからエリコへ下る道は、危険な道でした。そこは岩がごつごつとびでている狭い道で、強盗がよく現われました。余りにも多くの人々が殺されたので、「血の道」と呼ばれていたそうです。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行きました。その人は血まみれになったまま道に倒れていました。彼はそのまま放って置くと、死ぬしかない危篤状態でした。彼は誰かの助けが本当に必要でした。

 そこへ、たまたま、祭司がひとり、その道を下って来ました。祭司は民の指導者階級です。エリコは、当時エルサレム神殿に仕えている祭司階級の半数が住んでいましたから、恐らく彼は祭司の務めを終えて帰っていたと思います。彼は血まみれになっている人を見ました。彼は祭司として血まみれになっている人を助けなければなりませんでした。彼は民たちにこういう場合には必ず助けなければならないと教えていたはずです。しかし、強盗に襲われた人を見るとどうしましたか。彼は反対側を通り過ぎて行きました。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行きました。レビ人は神殿で神様のみわざに仕える人達です。彼は神様に仕えている者として強盗に襲われた人を助けなければなりませんでした。しかし、彼は周りには誰も見ている人がいないからその人を見なかったふりをして反対側を通り過ぎて行きました。彼らはなぜ、助けが必要な人を見ても避けて通り過ぎたのでしょうか。

 助けてあげようとすると、お金や時間を費やしてしまうと思ったかも知れません。祭司には神殿の仕事があったかも知れません。また、自分達も強盗に襲われるかも知れないという恐れがあったかも知れません。彼らは「安全第一」をモットーにしている人々でした。彼らにとっては人間の苦しみよりも神殿の仕事や自分の計画のほうが重要でした。自分を犠牲にし、危険を犯してまで他人を助けるつもりはなかったのです。

 一方、あるサマリヤ人はその人を見た時、どうしましたか。33-35節をご覧下さい。あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思いました。ユダヤ人とサマリヤ人は付き合いをしませんでした。サマリヤ人はユダヤ人が一番軽蔑している人達でした。当時「あなたはサマリヤ人だ」という言葉は「こいつはバカだ」という悪口でした。ですから、サマリヤ人は強盗に襲われた人を見てユダヤ人であることがわかったら、もう一度蹴ったり、殴ったりしてから通り過ぎたかも知れません。しかし、彼はどうしましたか。彼は苦しんでいる人を助けるのに時間やお金がどのぐらいかかるかと計算しませんでした。彼はその人を見るやかわいそうに思いました。「かわいそうに思う」という動詞はルカの福音書7:13節でイエス様が一人息子を亡くして泣いているやもめを見てかわいそうに思われた動詞と同じ意味です。それは単なる同情心ではなく、腹の中にある内臓まで動くほどその心が動くことを意味しています。同じ状況を見てある祭司とレビ人は心を閉じて通り過ぎましたが、サマリヤ人は心を開きました。それはサマリヤ人が強盗に襲われた人に対してかわいそうに思ったからです。

 彼が苦しんでいる人に対してかわいそうに思った時、相手がどの国の人か、どんな身分を持っているかを考えずに助けてあげることができました。かわいそうに思う心は民族感情や恐れや利害関係を乗り越えて助けるようにしました。彼は近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやりました。オリーブ油は苦痛を和らげる陣痛剤として用いられ、ぶどう酒はアルコールの役割をします。彼は応急処置をしてから自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやりました。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言いました。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います」。彼はまるで自分のことのように最善を尽くしてその人を介抱してあげました。彼は忙しい旅の中でも犠牲的にその人を助けました。また、最後まで責任感を持って助けました。彼は名もなく、誉れもなく、良いことをしました。ここで、私達は二つのことを学んで見たいと思います。

 第一に、かわいそうに思う心です。サマリヤ人は祭司やレビ人のような偉い人ではありませんでした。彼はユダヤ人たちが軽蔑するサマリヤ人であり、忙しい旅の途中でした。しかし、彼には人をかわいそうに思う心がありました。かわいそうに思う心は人間なら当然持つべき心です。強盗に襲われて半殺しになっている人を見てもかわいそうに思う心がなければ人間ではなく、獣と同じです。サマリヤ人のようにかわいそうに思う心は死にかけている人を生かします。かわいそうに思う心がある時、時間やお金を犠牲にしながらも喜んで人を助けることができます。人を助けることは義務感によってはある程度まではできるでしょう。しかし、それには限界があります。かわいそうに思う心がある時、どんな状況の中でも犠牲的にその人を助けることができるし、それによって命が生かされるのです。

 かわいそうに思う心はまさに神様の御心であり、イエス様の御心です。神様がもし罪を犯した人間をかわいそうに思ってくださらなかったなら、誰一人救われなかったでしょう。しかし、神様は罪によって死にかけている人々をかわいそうに思って救い主イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。イエス様は人々をかわいそうに思っていろいろと助けて下さいました。イエス様はらい病人をかわいそうに思って癒してくださいました。また、羊飼いのいない羊のような群衆をかわいそうに思って疲れの中でも夜遅くまで神様の御言葉を教えてくださいました(マルコ6:34)。イエス様は罪人達をかわいそうに思い、身代わりとなって十字架につけられ死なれました。イエス様は十字架の上でご自分を十字架につける人々のために祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」イエス様のかわいそうに思われる心のゆえに私達は救われました。イエス様によって私達は滅び行く道から離れ、永遠のいのちを得るようになったのです。

 第二に、実行する愛です。サマリヤ人はかわいそうに思うだけではなく、さらに進んで愛を実行しました。自分も強盗に襲われる危険があるのにもかかわらず、強盗に襲われた人を助け、介抱してやりました。そのために彼は時間を費やし、お金を費やしました。律法の専門家、祭司、レビ達はみな聖書に詳しい人々でした。しかし、彼らは愛を実行しませんでした。彼らの愛は言葉や口先だけの愛でした。しかし、サマリヤ人は真実と行ないを持って愛しました。

 36,37節をご一緒に読んで見ましょう。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

 以上のたとえを通して私達は本当の隣人は誰かを学びました。イエス様は良きサマリヤ人のたとえを通して隣人の概念を完全にひっくり返されました。ユダヤ人の隣人の概念は律法的で、民族主義に基づいていたものでした。彼らは自分達を中心に同心円を描き、自分の次に肉親、肉親の次に親類、次に同僚、次にイスラエル人、次に改宗者というランクを設定して隣人を位置付けていたのです。彼らの隣人に対する最大の範囲は、この改宗者まででした。しかし、イエス様の隣人の概念は神様の愛に基づいた世界同胞主義です。これは血縁、地縁、階級、身分、理念、民族感情などすべてを越えています。

 私達にもユダヤ人のように自分の羊、自分のFellowshipなどを中心に同心円を描いてその以外には無関心であることはないでしょうか。しかし、隣人は単に隣に座っている人、隣に住んでいる人達だけではありません。助けが必要なすべての人々、神様の愛が必要な人は、すべて私達の隣人です。キャンパスには各種異端が数多くの人々のいのちを奪い取っています。サタンは情欲や虚無、高慢の棒を持って若者達を殴って半殺しにしています。彼らは誰かが助けてあげなければ滅んで行くかわいそうな人々です。そういう人々が日本だけではなく、世界中にいます。誰が彼らの隣人でしょうか。イエス様は私達に言われます。「あなたも行って同じようにしなさい」主が私達にキャンパスの学生達をかわいそうに思う心を与えてくださり、1:1聖書勉強を通して助けることができるように祈ります。また、一人ずつサマーバイブルキャンプに連れて行き、彼らがイエス様によって罪が赦され、救われるように祈ります。

 結論、この時間、本当の隣人は誰かについて学びました。私達が心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神様を愛し、隣人を自分のように愛することができるように祈ります。特に罪によって苦しんでいるキャンパスの学生達をかわいそうに思う心を持って聖書の御言葉を持って助けることができるように祈ります。それによって多くの人々が生かされるみわざが起こるように祈ります。イエス・キリストは、苦しんでいる人を哀れみ、その傷を癒される恵みの主です。私達もこの主の愛に満たされ、苦しんでいる人、悩んでいる人を救うためによいサマリヤ人として生きることができるように祈ります。

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