日本UBF案内 祈りの課題 日ごとの糧 メッセージ・説教一覧 問題集一覧 m

ユーザメニュー
日毎の糧
ログイン
ログイン
パスワード

  新規登録 |  
BibleMsg > 列王記 > 第4講 あなたのような神はほかにありません

第4講 あなたのような神はほかにありません

投稿者: Calebkim 掲載日: 2005/2/10 (2106 回閲覧)
2005年列王記第一第4講

あなたのような神はほかにありません

御言葉:?列王記8章
要 節:?列王記8:23 「言った。「イスラエルの神、主。上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と愛とを守られる方です。」

 先週、私たちはソロモンが神様から与えられた知恵、最高の技術者、最高の材料によって美しく素晴らしい神殿を建てたことを学びました。今日は、神殿が完成するときにソロモンがイスラエル全員を集めて、神殿奉献の式を行なわれたことについて学びます。ソロモンはこの神殿奉献式の中で大祭司的な祈りをしています。私たちはこの祈りを通して神殿について、神様について学ぶことができます。ソロモンの祈りに現われている神様の特徴は第一に、人と約束を結び、その約束を成し遂げられる約束と愛の神様です。第二に、人の罪を裁かれ、赦すことができる全能なる神様です。第三にイスラエルだけではなく、異邦人を含めた全人類の神様です。具体的に、目に見える宮に留まる方ではなく、全宇宙を支配する方であって、まことの唯一の神様です。ソロモンが「イスラエルの神、主。上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません。」と告白したとおりです。この時間、御言葉を通して、大いなる神様についてもっと深く知り、私たちがどんな姿勢で神様を礼拝し、祈るべきかを学ぶことができるように祈ります。

?.神殿に対するソロモンの見解とメッセージ(1-21)
  第一に、神殿は御言葉が留まれる所です(1-11)
 1節をご覧ください。「そのとき、ソロモンはイスラエルの長老たち、およびイスラエル人の部族のかしらたちと一族の長たちをすべて、エルサレムのソロモン王のもとに召集した。ダビデの町シオンから主の契約の箱を運び上るためであった。」とあります。「その時」とは完成した神殿にダビデが聖別したものを運び入れ、主の宮の宝物倉に納めました時のことです。その時、ソロモンはイスラエルの主だった人々を召集しました。ダビデの町シオンから主の契約の箱を運び上るためです。神殿が神殿としての役割を果たすためには契約の箱がなければなりませんでした。なぜなら、神殿建築のきっかけは、天幕に置かれたままの契約の箱にあったからです。?サムエル7:2節を見ると「王は預言者ナタンに言った。「ご覧ください。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています。」」とあります。ですから、神殿は契約の箱の「家」として建てられました。そこで、ソロモンは国の主だった人々全員を招集してから天幕にあった主の契約の箱を神殿に運び入れるようにしたのです。
 3-8節をご覧ください。イスラエルの長老全員が到着したところで、祭司たちは箱をにない、主の箱と、会見の天幕と、天幕にあったすべての聖なる用具とを運び上りました。これらの物を祭司たちとレビ人たちが運び上りました。神様のために聖別された人々が運び上ったのです。それは神様に仕える礼拝がとても重要なことであって霊的な成熟さが求められるからです。
主の契約の箱が到着すると、ソロモン王、そして彼のところに集まったイスラエルの全会衆が羊や牛をいけにえとしてささげましたが、その数があまりにも多くて数えることも調べることもできませんでした。どれほど契約の箱を大切にしていたのかが伺えます。祭司たちは主の契約の箱を、定めの場所、すなわち神殿の内堂である至聖所のケルビムの翼の下に運び入れました。ケルビムは箱の所の上に翼を広げ、箱とそのかつぎ棒とを上からおおいました。ケルビムは御使いを象徴しています。ですから、契約の箱は御使いたちによって守られるようになったのです。ではなぜ、主の契約の箱をそれほどに大切にしているでしょうか。
9節をご一緒に読んで見ましょう。「箱の中には、二枚の石の板のほかには何もはいっていなかった。これは、イスラエル人がエジプトの地から出て来たとき、主が彼らと契約を結ばれたときに、モーセがホレブでそこに納めたものである。」とあります。箱の中には、二枚の石の板のほかには何もはいっていませんでした。石の板には十戒が刻まれていました。十戒とは神様がご自分の民イスラエルに与えられた戒めの御言葉です。神様はこの御言葉に基づいてイスラエルとの契約を結び、契約の御言葉に基づいて彼らを導かれました。ですから、ソロモンは最も大切な契約の箱を運び入れ、至聖所に置いたのです。すると、主の宮はどうなりましたか。
10、11節をご覧ください。祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちました。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができませんでした。主の栄光が主の宮に満ちたからです。神殿の中心に御言葉がはいってきたとき、主の栄光が満ちたのです。御言葉のあるところに、神様の輝きがあります。どんなに立派な神殿であっても神様の御言葉がなければ神殿としての意味がなくなってしまいます。しかし、神殿の中心に御言葉を迎え入れるなら、神様はそれを喜ばれます。栄光の雲の宮に満ちて歌えるようになります。「栄光の雲が宮に満ちて私はうたうよ。主にーむかい・・・・」と歌うようになるのです。私たちが住んでいる家もそうです。神様の御言葉が中心にあると、主の栄光が臨まれます。何よりも「私たちは生ける神の宮」です(?コリント6:16)。私たちはソロモンが主の宮に契約の箱を運び入れたように、私たちの中心に神様の御言葉を迎え入れなければなりません。また、契約の箱はいつも主の宮にあります。生ける主の宮である私たちにもいつも神様の御言葉がなければなりません。つまり、御言葉が私たちにとどまるようにすることです。
どうすれば、御言葉が私たちにとどまるでしょうか。それにはいろいろな方法があると思います。私は御言葉の黙想、所感を通して神様について悟り、深く知る経験しています。御言葉の黙想を通して真実な自分の姿を発見することもできました。完璧な人になったのではなく、自分の弱さ、罪深さを悟って悔い改め、全能の神様、哀れみ深い神様に頼れる生活ができるようになったのです。朝、御言葉を黙想すると、一日が新しくなります。主の栄光が臨まれるので、明るく生きることができるようになります。
私たちはイエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、信じるなら、救われます。すると、私たちはソロモンの神殿のように生ける主の宮となります。でも私たちの中心に御言葉がなければだれももっと寂しくなってしまいます。イエス様を信じて世の楽しみ、快楽を捨てたのに、霊的な喜びも得ることができないからです。ですから、生ける主の宮である私たちに、いつも主の御言葉があるなら、世の楽しみとは質が違う喜びを経験するようになります。実は、このようにすることがクリスチャンとしての基本姿勢です。クリスチャンライフとは自分のうちに契約の箱、御言葉を受け入れて神様と交わる生活、楽しくて恵みある生活なのです。
第二に、神殿は神様が臨在される所です(8:12-21)
 12節をご覧ください。「そのとき、ソロモンは言った。「主は、暗やみの中に住む、と仰せられました。」」ソロモンは、主が暗やみの中に住む、と言っています。どういう意味でしょうか。神様は光ですから、光の中に住む、というなら、理解しやすいでしょう。しかし、暗やみの中に住むと言っているのです。ちょっと理解しにくいです。でも、主ご自身が暗やみなではなく、暗やみの中に住む」と言われています。暗やみの中に主が住んでおられるのです。出エジプト13:21節によると、主は雲の柱の中にいてイスラエルの前を進まれました。神様は光そのものより輝かしい方であり、人間の限界を超えておられる方なので人間が近づけない方です。暗やみになっている雲の中でなければ人間に直接に御姿を見せになることができないのです。暗やみの中であってもモーセは「私は恐れて、震える。」と言いました(ヘブル12:21)。本当に神様は私たちが恐れて、震えるしかできないお方です。私たちが慎みと恐れとをもって、神様に喜ばれるように奉仕をする理由がここにあります(ヘブル12:22-29)。
 13節をご一緒に読んで見ましょう。「そこで私はあなたのお治めになる宮を、あなたがとこしえにお住みになる所を確かに建てました。」ソロモンは「主がとこしえにお住みになる所を確かに立てました」と言っています。ソロモンは「主がとこしえにお住みになる所を確かに建てました」と告白しています。暗やみの代わりに、「外は雲色の石に囲まれ、中が光なる神様のご性質にふさわしい純金で飾った主の宮殿を建てたのです」という告白です。しかし、それは誇りではなく正直な感動です。光栄に思ったでしょう。同時に、このことばには「この宮をとこしえに主がお住みなる所にしてください」という願いが込められています。いつも、この宮で私たちと交わり、私たちの願いごとを聞いてくださいという望みが込められているのです。もちろん、ソロモンは主がこの地上の建物に拘束される方ではないことを知っています。27節を見ると「それにしても、神は果たして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。」と告白しています。でも、ソロモンは神殿に主の契約の箱を置いたとき、主の栄光が主の宮に満ちたことを考えると、間違いなく神殿建築が神様に喜ばれていることだと分かりました。自分が本当に祝福されていることが分かりました。そこで、ソロモンはイスラエルの全集団を祝福しました。そして、イスラエルの全集団に神殿に対する神様の御旨について伝えました。神殿建築は個人の意思によるのでなく、神様がダビデに語り、約束したとおりに成し遂げられたことを伝えています。
20、21節をご覧ください。「主は、お告げになった約束を果たされたので、私は父ダビデに代わって立ち、主の約束どおりイスラエルの王座に着いた。そして、イスラエルの神、主の名のために、この宮を建て、主の契約が納められている箱のために、そこに一つの場所を設けた。その契約は、主が、私たちの先祖をエジプトの地から連れ出されたときに、彼らと結ばれたものである。」とあります。神殿建築はソロモンの意思ではなく、神様が出エジプト以来の全イスラエルとの契約によるものであったのです。神様は出エジプトを導いたモーセに神様の宮として天幕について約束してくださったのですが、ダビデの時まで続いていました。ダビデは自分は立派な宮殿に住んでいるのに、主の契約の箱がまだ天幕にあることが気になって神殿を建てようとしました。でも、神様はダビデが建てることを赦さず、ソロモンが建てるようにされました。そこでソロモンは「すべては主がお告げになったとおり、約束のとおりである」ことを強調しています。神様が言われることはすべてがそのとおりになります。そして、神様が言われ御言葉を中心にある所には主の栄光が満ちるようになります。
?.ソロモンの祈り(22-66)
第一に、神殿は祈りの家です(8:22-30)
ソロモンはイスラエルの全集団の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を天に差し伸べて祈り初めました。両手を上に差し伸べるのは、天におられる神様に対して、自分は何もできない者であることを認めて神様を仰ぎ見、神様に服従することを告白したことです。同時に、主が言われることを大きく心を開いて受け入れることを意味しています。彼は本当に謙遜に祈っています。
23節をご一緒に読んで見ましょう。「言った。「イスラエルの神、主。上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と愛とを守られる方です。」」ソロモンは主が天地の神であり、ほかの神々と呼ばれているものとは異なることを強調しています。この世には神々と呼ばれているものがいっぱいあります。
先週、私は現代日本の宗教文化を理解するために東京大学の島園進教授が書いた「現代救済宗教論」の韓国語版を読みましたが、日本だけでも本当に数多い神々が祭られていることを再び実感しました。日本で新宗教は現在法人として登録されたものだけでも数万個に達しているそうです。(新宗教とは一般的に19世紀中盤から20世紀に発生した宗教のことです。)しかし、それらは本当の神ではありません。人間の必要に応じて発生し、消えていくものです。島園教授は日本の新宗教が1920年代から1970年代に急成長しましたが、それは日本社会の変化によるものであると指摘しています。この期間は日本社会がとても急激に変化した社会変動に苦しまれる時期でした。この50年間に国民総人口は約五千六百万から一億四百万に増えました。産業化、都市化が進みました。民主主義、社会主義革命などによるイデオロギーの闘争、1931年からは中国と、1941年からは連合軍との戦争もありました。このような混乱と国家的な危機の中で新宗教が急激に発展したが、今は衰退期にはいっているのです。結局、神々と呼ばれる偶像は人々の必要に応じて発声し、消えていくのです。しかし、イスラエルの神、主だけは創造主としてとこしえまでおられる神様です。この方は、天地万物の創造主だけではなく、契約と愛を守られる方、約束を果たし、真実であられる方です。上は天、下は地にも、主のような神はほかにありません。ソロモンは主なる神様に向かって祈っています。
27-30節をご一緒に読んで見ましょう。「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。けれども、あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが、きょう、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。そして、この宮、すなわち、あなたが『わたしの名をそこに置く。』と仰せられたこの所に、夜も昼も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたのお住まいになる所、天にいまして、これを聞いてください。聞いて、お赦しください。」
ソロモンは本当に知恵ある人です。彼は天も、天の天も、神様をお入れすることはできないと告白しています。「まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです」と告白しています。神様は宇宙万物を造られた創造主なのに、どこに神様をお入れすることができるでしょうか。けれども、ソロモンは私たち人間が最善を尽くして建てたこの美しい宮でささげる祈りと願いを聞いてくださると信じました。この宮に向かってささげる祈りも聞いてくださると信じて祈りました。それに対して神様は答えてくださいます。来週学びますが、9章3節を開いてみてください。「主は仰せられた。「あなたがわたしの前で願った祈りと願いをわたしは聞いた。わたしは、あなたがわたしの名をとこしえまでもここに置くために建てたこの宮を聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。」とあります。神様はこの神殿を神様が臨在される所として認めてくださいました。神様はソロモンの心を受け取ってくださったのです。
私はこの間、娘から誕生日のプレゼントをもらいました。ただ、一枚の紙ですが、そこに「私はパパが好きです。私がどんなにパパを愛しているか、パパは知っているでしょう」と書いてありました。私は感動しました。一枚の紙ではなく、娘の心に感動したのです。神様はソロモンの建てた神殿が美しくて、高価な金で飾ったから受け取ってくださったのではありません。神様に向かったダビデの心、ソロモンの心を受け取ってくださったのです。そこで、神様は神殿をご自分が臨在される所、祈りの家にしてくださったのです。神殿はいけにえをささげて罪を贖い、神様に礼拝するところです。今はイエス・キリストの御血によって私たちの罪は贖われ、赦されます。ですから、イエス・キリストの血潮を信じて礼拝する礼拝堂が神殿です。つまり、私たちが礼拝しているこのセンターが神殿の役割を果たしています。ですから、今の私たちにはこのセンターが神様の臨在する所、神様と出会いができる所、祈りの家になります。
皆さん、富士山に登ったことがあるでしょうか。ある方は五合目まで行ったことでも富士山に行って来たと言います。山頂まで上った人でも富士山に行って来たと言います。もちろん、ふたりとも間違っていませんが、言葉の内容は違います。同様に、私たちはいつでも、どこでも神様に礼拝し、祈ることができます。しかし、その礼拝、その祈りは教会でささげるものとは違うでしょう。ここは神様の祝福が約束された祈りの家であり、神様の臨在が約束された礼拝の場所であるからです。事実、神様には特別な場所がいりません。神様は時間、空間を越えておられる方だからです。しかし、私たち人間は時間、空間に制約されるでしょう。私にそんな制約はないという方がいるかも知れませんが、人は時間と空間に制約されるのです。洋服を着ているときと半ズボンを着ているときとは違うでしょう。歌舞伎町のボーリングセンターで祈るとどうでしょうか。もちろんそこでも祈れるでしょうが、うまくできないはずです。しかし、静かな夜明けに主の宮で祈ってみてください。また、静まって聖書を読んでみてください。受ける恵みの質が違ってきます。このセンターは祈りの家です。自分の家でも布団をかぶって祈る時と、起きて場所を移し、心を主に向けて祈る時とは全然違うのではないでしょうか。私たちは時間と空間に影響されるのです。ですから、人となられたイエス様は、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられました(マルコ1:35)。ダニエルは神殿で祈ることができませんでしたが、エルサレムに向かって祈りました。彼はソロモンの祈りを読んで実践していたのです。彼がバビロンにいてもエルサレムの神殿に向かって祈ると、神様は彼の祈りを聞いてくださいました。私たちが主の宮で祈れることは大きな恵みです。しかし、そうでなくても心を主に向けて祈るなら神様はその祈りを聞いてくださいます。では私たちはどんな内容で祈るべきでしょうか。知恵あるソロモンから学びましょう。
第二に、神殿は罪の赦しを受ける所です(35-66)
35節から53節までに、罪が赦されるための具体的な七つの祈りの課題をソロモンが述べています。一つ目は隣人に罪を犯した時、二つ目は敵に打ち負かされた時、三つ目は雨が降らない場合、四つ目は災いが発生した場合、五つ目は外国人が祈る時、六つ目は敵に立ち向かう時、七つ目は敵国に捕虜として捕らわれていった場合です。これらの祈りの内容を少し現代的に変えてみると人間関係に問題が生じた時、どうするべきでしょうか。主の宮で祈りなさいということです。ききんの時も、地震の時も、雨の時も主の宮で祈ると聞いてくださいということです。物質の問題が生じた時も、風邪を引いた時もどうするでしょうか。主の宮で祈ると、神様は聞いてくださるのです。何よりも、主の宮で罪の赦しを求める必要があります。主の御前に来て罪を犯したことが思い浮かぶなら、悔い改めて主の赦しを求めるのです。そして、主との関係を新たにしてその問題の解決を求めるなら、それを聞いてくださいということです。特に46節を見ると、ソロモンは、「罪を犯さない人間はひとりもいないのですから」と言っています。賢い彼は人間の罪性についてよく知っていました。パウロも「すべての人が罪を犯し、神の栄誉を受けることができない(ローマ3:23参照)」と言っています。私たちは、自分が何でこんなに罪深いものだろうか、なんでこんなに自分で憎むようなことを行なってしまったのか、と悔いるときがあります。自分の弱さに絶望し、苦しむ時もあります。惨めな自分の姿に悲しむときもあります。けれども主は初めから、私のことを知っておられます。それでこのような汚れた者でも、主の宮に来て祈ると、その祈りを聞いてくださいます。主はご自分のあわれみによってすべての罪を赦し、心を回復させてくださいます。ソロモンは、神様はどんな罪でも赦してくださることを信じていました。特に、彼は罪人が罪のために罰せられる時、どんなに苦しまなければならないかも知っていました。しかも、罪を犯さない人間はひとりもいなく、すべての人がさまざまな罪のために苦しんでいることを知りました。それで、彼は罪人が神様の御前で悔い改めることによって罪の赦しを受け、神様の祝福を受けることを願いました。特に、彼は人間のさまざまな問題は罪によることを知り、人々が直接に神様に祈って神様の赦しを受けるように祈りました。神様は公義の方ですが、哀れみ深い方であり、罪を赦してくださる方です。私たち人間の悩みと苦しみ、悲しみをよく知っておられる主は私たちの心を癒し、回復させてくださる方です。ソロモンはこのような神様のご性質をよく知っていたので民のために大祭司的な祈りをささげることができました。
 54-66節ではソロモンがひざまずいて、両手を差し伸ばしていた主の祭壇の前から立ち上がり、まっすぐに立って、イスラエルの全集団を大声で祝福したことばです。56-61節からご一緒に読んでみましょう。「約束どおり、ご自分の民イスラエルに安住の地をお与えになった主はほむべきかな。しもべモーセを通して告げられた良い約束はみな、一つもたがわなかった。私たちの神、主は、私たちの先祖とともにおられたように、私たちとともにいて、私たちを見放さず、私たちを見捨てられませんように。私たちの心を主に傾けさせ、私たちが主のすべての道に歩み、私たちの先祖にお命じになった命令と、おきてと、定めとを守るようにさせてください。私が主の御前で願ったことばが、昼も夜も、私たちの神、主のみそば近くにあって、日常のことにおいても、しもべの言い分や、御民イスラエルの言い分を正しく聞き入れてくださいますように。地上のすべての国々の民が、主こそ神であり、ほかに神はないことを知るようになるためです。あなたがたは、私たちの神、主と心を全く一つにし、主のおきてに歩み、今日のように、主の命令を守らなければならない。」 ソロモンはここで三つのお願いをしています。一つ目は主がともにおられること、二つ目は、彼らが主に心を傾けること、そして三つ目は、主が祈りと願いを聞いてくださることです。私たちはとにかく、自分の願いがかなえられることを優先してしまいがちです。しかし、祈りが聞かれるよりももっと大事なことは、いつもともにおられる主とともに歩むこと、心を主に向けて生きることです。
62-66節にはソロモン王と王のそばにいたイスラエル人が主の前にいけにえをささげたことが記されています。ソロモンは主へのいけにえとして和解のいけにえをささげましたが、それは牛二万二千頭と羊十二万頭でした。彼らは十四日間、神様の前で祭りを行ないました。彼らは神様がそのしもべダビデと、その民イスラエルとに下さったすべての恵みを喜び、心楽しく彼らの天幕へ帰りました。

 以上で、私たちはソロモンの祈りについて学びました。彼は本当に知恵ある人です。神様についてよく知っていたことが分かります。彼は「イスラエルの神、主。上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と愛とを守られる方です。」と告白しています。そして、彼は「地上のすべての国々の民が、主こそ神であり、ほかに神はないことを知るようになるためです。」と言っています。彼は神殿奉献式を通して自分が知っているイスラエルの神、主を地上のすべての国々の民が知り、主こそ神であり、ほかに神はないことを知るようになることを切実に願っていたのです。彼は神殿での祈り、神殿に向かって祈る人々を通して地上のすべての人々が主こそ、神であることを知るように、世界宣教のために祈ったのです。私たちもセンター建築のために祈ることだけではなく、このセンターを通して東京の大学生たち、若者たちすべてが、さらに世界の人々が主こそ、神であることを知るようになるみわざに用いられるように、つまり、世界宣教のために用いられるように祈りましょう。「主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王」です。(詩篇95:3)。私たちが主の御言葉を第一にし、ソロモンのように主に向かって祈る時、大いなる神様の祝福をいただき、まことに祝福された人生を生きるようになります。

ページ移動
良く読まれた記事 第5講 繁栄されたソロモン王国 第3講 主の宮を建てたソロモン 次の記事
投稿された内容の著作権はコメントの投稿者に帰属します。
個人情報保護について HPのリンクについて データの引用(著作権) 聖書のデータについて お問い合わせ
Copyright ⓒ 1997- Japan UBF. All rights reserved.
日本UBF 公式サイト    HP管理者への問い合わせ