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BibleMsg > ルカの福音書 > 99年5講 青年を生かす御言葉

99年5講 青年を生かす御言葉

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/23 (2458 回閲覧)
1999年ルカの福音書第5講

 

青年を生かす御言葉

 

御言葉:ルカの福音書7:1?17

要 節:ルカの福音書7:14「そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが

    立ち止まったので、『青年よ。あなたに言う、起きなさい。』と言われた。」

 

 今日学ぶ御言葉には最初に百人隊長のしもべのいやし、次にナインの町におけるやもめの一人息子を生き返らせる出来事が記されています。イエス様の御言葉は人を癒すだけではなく、生かす力があります。主の御言葉は今も信じる人々に働いてその人を癒し、生かします。私達が主の御言葉の力によって癒され、生かされるように祈ります。

 

?.病人を癒す御言葉(1-10)

 

 6章でイエス様はあの有名な山上垂訓を言われました。1節をご覧下さい。イエス様は、耳を傾けている民衆にこれらのことばをみな話し終えられると、カペナウムに入られました。ところが、ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていました。百人隊長は、イエス様のことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いしました。ここで私達は当時の百人隊長としもべの身分について考えて見たいと思います。百人隊長はローマ軍隊の百人からなる部隊の隊長でした。百人隊長には軍隊の最優秀軍人がなったそうです。百人隊長はローマ軍の主力をになう存在でした。ローマは広大な地域を軍隊の力によって治めていたため植民地の百人隊長の力はかなり強いものでした。それに比べてしもべは牛や馬のような生ける道具とみなされている奴隷です。奴隷には何の権利もありませんでした。奴隷はいつも健康で、熱心に働かなければなりませんでした。ところが、この奴隷は病気で死にかけていたので何の役にも立ちません。通常、奴隷が年老いて仕事ができなくなった時には、外に捨てられ、死を待つしかありませんでした。しかし、百人隊長のしもべに対する態度は違いました。彼はこのしもべを愛し、彼を救うためにはどんな苦労もいとわなかったのです。彼にとってしもべはただの働く道具ではなく、愛する息子のような存在でした。彼はしもべの苦しみを自分の苦しみとして引き受けました。

 イエス様は罪と死の苦しみの下にいる人々を救うためにご自分が十字架につけられ死なれる苦しみを受けられました。神様は私達が愛らしく役に立つから愛してくださったのではありません。もし愛らしいから愛するなら真の愛とは言えないでしょう。神様は私達がまだ弱かった時、私達がまだ罪人であった時、神様に敵対していた時に愛してくださいました。ローマ5:8節は言います。「しかし私達がまだ罪人であったとき、キリストが私達のために死んでくださったことにより、神は私達に対するご自身の愛を明らかにしておられます。」この神様の無条件的な愛のゆえに私達は永遠の滅びから救われたのです。

 4、5節をご覧下さい。イエス様のもとに来たユダヤ人の長老たちは、熱心にお願いして言いました。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」当時はユダヤ人とローマ人が仲良くなるのは難しい時代でした。ユダヤ人が異邦人を軽蔑していたとすれば、異邦人の方ではユダヤ人を憎んでいたからです。しかし、百人隊長にはユダヤ人に対する関心と愛がありました。彼は民族と国家を超えてユダヤ人を愛しました。ユダヤ人達は彼の謙遜と愛に多いに感動されたでしょう。それによって彼らは百人隊長を尊敬し、愛するようになりました。

 6,7節をご覧下さい。イエス様は、彼らといっしょに行かれました。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエス様に伝えました。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」彼はまるでイエス様を自分の総司令官や王のように思っていました。ですから彼はこのイエス様を自分の屋根の下にお入れする資格がないと思いました。彼は謙遜な人でした。

 それでは彼はイエス様がどのようにして自分のしもべをいやして欲しいと頼みましたか。7b,8節をご覧下さい。「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」彼は軍隊生活で部下に命令を与えることが何を意味し、また自分も上官から命令を受けることが何を意味するかを知っていました。軍隊で上官の命令は絶対的なものです。敵を前にして部下達に、「突撃!」と言えば殺される危険があっても服従するのが軍人です。百人隊長は霊的な総司令官であるイエス様がどこででも言われると、その通りになることを知っていました。癒される者がその前にいようが、遠く離れていようが関係なく、その出される癒しの命令に対して絶対的に服従することを知っていました。百人隊長は多くの訓練を通して自尊心と反抗心を捨てて上官の命令に絶対的に従うことを学びました。

 信仰は従順です。信仰の世界は従順を通してのみ学ぶことができます。罪の属性は不従順と反抗心です。私達のうちにはアダムの不従順の血とカインの反抗心の血が流れています。そのために私達は従順するのが苦手です。従順より不従順することや反抗するのが自然です。自ら進んでしようとしたことも誰から言われると反発する心が生じてやる気を失います。イエス様は神様の御子ですが、苦難を通して従順を学ばれました。イエス様は十字架につけられ死なれるまでも神様の御心に従われました。私達が信仰の世界に漕ぎ出して行くためには必ず自尊心と反抗心と自分の考えを否認して従順を学ばなければなりません。

 イエス様は彼の信仰をどれだけ高く評価されたのでしょうか。9節をご覧下さい。これを聞いて、イエス様は驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われました。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」イエス様は百人隊長の信仰に驚かれました。イエス様の御言葉の力を信じる彼の信仰はイエス様を驚かせるほどでした。今もイエス様の御言葉は力強く働いています。イエス様の御言葉は人を新しく生まれさせる力があります。?ペテロ1:23は次のように言っています。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」イエス様は御言葉の力を信じる百人隊長の信仰を祝福されました。10節をご覧下さい。使いに来た人達が家に帰ってみると、しもべはよくなっていました。

 神様が私達に百人隊長のような兄弟姉妹達を哀れむ心と御言葉を信じる信仰を与えてくださるように祈ります。

 

?.死人を生かす御言葉(11-17)

 

 11節をご覧下さい。百人隊長のしもべを癒されたイエス様は間もなく、ナインという町に行かれました。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっしょに行きました。イエス様が町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところでした。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていました。一人の死は自分の家族だけではなく、隣人にも悲しみを与えていました。しかし、誰もこの死の行列を止めることができません。また、この死の道は人間であるなら誰でもいつかは行かなければならない宿命的な道です。しかし、イエス様に従う行列はいのちの行列、光の行列です。私達はイエス様を信じて従うことによって死の行列から離れていのちの行列に加わるようになりました。

 一人息子をなくしたやもめの悲しみはどうだったのでしょうか。やもめにとって唯一の望みはひとり息子でした。彼女は息子のために一所懸命に働きながら息子を育てたでしょう。ところが、この一人息子が死んでしまったのです。やもめは世の中で最もつらい、最も悲しい経験をせざるをえなくなりました。親は子供が風邪を引いていることだけでも自分が身代わりになってあげたいくらいです。それなのに、息子が死んだ時、しかも一人息子が死んだ時、彼女のショックと悲しみは言い尽くせないものでしょう。彼女にとって息子の死は何にも比べることができない悲しみでした。多くの人々が彼女を慰めに来たと思いますが、真の慰めにはなりませんでした。

 主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われました。イエス様は息子をなくしたやめもを深い同情を持って慰めてくださいました。それではイエス様はどのようにしてやもめの悲しみの問題を解決してくださいましたか。14,15節をご一緒に読んで見ましょう。「そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、『青年よ。あなたに言う、起きなさい。』と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。」ここで、死んでかつぎ出されたやもめの息子のことを考えてみましょう。彼は死んでいました。しかし、イエス様は「死人よ!」と呼ばれませんでした。彼の名前も呼ばれませんでした。イエス様は「青年よ」と呼びかけることによって彼が青年であることを強調しておられます。青年はビジョンに満ちている時期です。また、青年の時は精神的、肉体的に活動が旺盛な時期です。青年の時は大きなことを計画し、新しい歴史を創造する時です。ところが、やもめの息子はどうでしたか。彼は死んで棺の中に寝かされています。彼にはいのちがありません。何の可能性もビジョンもありません。働く力もありません。棺に横たわっている青年は自分だけが惨めなものではなく、周りの人々にも大きな悲しみと絶望を抱かせました。

 今日の若者の中には体は青年ですが、考えはまるで棺の中に寝かされている青年のようになっている人々が多くいます。無気力や安逸の棺中に寝かされている人々は授業をさぼってぶらぶらしています。情欲の棺の中に寝かされている人はいつも淫乱な考えをしながら自分の若さを費やしてしまいます。遊びの棺の中にいる人は、何をしても遊ぶことばかり考えます。就職したらなかなか遊べないだろうから、大学の時にたくさん遊ぼうとする人々が多くいます。虚無の棺の中に寝かされている人は「勉強してどうするの。どうせ、死ぬのに」と言いながら一度しかない自分の尊い若さを無駄に費やしています。その他にも心配の棺、劣等感の棺、絶望の棺の中に寝かされている若者達もいます。事実このような人々は青年だと言えません。体は青年だとしても本当は棺の中に寝かされている青年と同じ状態です。しかし、彼らも本音は無気力、絶望、虚無の中で生きることは願っていません。燃えるビジョンやチャレンジ精神を持って情熱的な生活をしたいのです。ただ、青年らしく生きられる力がないことが問題です。内面に生命力がないことが問題です。それでは死人のような人がどのようにすればビジョンがあり、情熱的な、生き生きとした人生を過ごすことができるでしょうか。

 イエス様は棺の中に寝かされている青年に言われました。「青年よ。起きなさい。」これは自ら起きなさいというのではなく、イエス様がいのちを与えるから起きなさいということです。イエス様はいのちの主として死んだ青年にいのちを与えて下さいました。私達は自らの力によって虚無と運命の棺、無気力の棺、情欲の棺から起き上がることができません。私達はイエス様からいのちが与えられなければなりません。永遠のいのち、本当のいのちを受けなければならないのです。イエス様は死んでいる人や死んだも同様な人にいのちを与えてくださる方です。私達はこのイエス様の御言葉を聞く時、死の棺から起き上がることができます。ヨハネの福音書5:25節は言います。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」イエス様の声を聞く時、枯れていた木のような私達の心に主の命が入って来ます。モータに電気が供給されると、巨大な工場が動き始め、大きな働きができるように、イエス様によっていのちが与えられる時、私達は生きる意欲に満たされて力強い人生を過ごすことができます。どんな苦しいことがあっても恐れることなく、挑戦するスピリットが満ちている人生を過ごすようになります。イエス様の御言葉を聞く時、罪と死の支配から解放され、青年らしい人生を送ることができます。

 15節をご覧下さい。死んだ青年がイエス様の声を聞くと生き返りました。彼は起きて座り、話しました。イエス様はその青年を母親に返されました。その時、母親の感激と喜びはどうだったことでしょうか。このやもめは失った生きがいと喜びと希望、幸せを戻していただきました。先日の悲しみと絶望は消え去り、彼女の心は喜びと希望と賛美に満たされました。イエス様はこのやめもに真の慰めを与えてくださいました。また、この青年にはいのちとともに失った青年の人生を取り戻してくださいました。イエス様は彼にもう一度青年として生きる機会を与えられたのです。イエス様は死んだ青年を生かすことによっていのちの主、神様であることを明らかにされました。このイエス様は私達を助けるために来られた神様です。16節をご覧下さい。 人々はイエス様が死んだ青年を生かしたことを見て恐れを抱き、「大預言者が私たちのうちに現われた。」とか、「神がその民を顧みてくださった。」などと言って、神をあがめました。ここで「顧みた」とは訪ねて来たことを意味します。イエス様は無気力や虚無や絶望のような棺の中にいる私達を生き返らせるためにこの世に来られました。ですからイエス様は私達が起き上がって青年のように生命力に満ちてビジョンと情熱に燃えて生きることを願っておられます。老人のように過去のことを誇りにして生きるのではなく、現在実を結ぶ人生を過ごすことを願っておられます。そのためには私達はイエス様の声を聞けばいいです。そうすればイエス様の中にある復活の生命力が私達の心に満ち溢れるようになります。

 結論、イエス様の御言葉は病人を癒す力だけではなく、死人を生かす力があります。私達はみな青年です。21世紀この国の主役は青年達です。21世紀はキャンパスの学生達の手にかかっているのです。ところが、青年達が棺の中に寝かされている青年のようになっていたらどうなるでしょうか。私達がイエス様の御言葉に聞き従うことによって癒され、生かされ青年らしく生き生きとした人生、豊かな実を結ぶ人生を送ることができるように祈ります。

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