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BibleMsg > X-mas > 05-23 偉大な力と栄光を帯びて来られるイエス様

05-23 偉大な力と栄光を帯びて来られるイエス様

投稿者: Calebkim 掲載日: 2005/9/11 (2154 回閲覧)
2005マルコの福音書第23講

偉大な力と栄光を帯びて来られるイエス様

御言葉:マルコ13:1?37
要 節:マルコ13:26、27「そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。」

 今日は、衆議院選挙日でありますが、アメリカ同時多発テロから丸4年を迎える日です。四年前、9月11日朝、アメリカが誇るニューヨークの世界貿易センターが、テロリストによって、二つとも崩壊しました。そして生々しい惨状をテレビによって全世界が見ました。そしてこの大事件は、多くの人々に終末の始めを感じさせました。その後も、スペイン列車爆破事件、イスラエル、イラクなどで起こっている自爆テロ事件、今年7月7日のロンドン同時爆破テロ事件などが人々を驚かせ、終末を感じさせています。でも、これらのテロより恐ろしいのは自然災害です。つい最近のことだけでもアメリカのニューオーリンズを直撃したハリケーン『カトリーナ』があります。去年インドネシアとスリランカを襲い、死者の推計が18万人にものぼったインド洋大津波もあります。世界だ地震の14%が起こっている日本のことは言うまでもありません。ところが、今後、人間はさらに自然災害に弱くなり、しかも災害そのものもいっそう激しくなるそうです。ベルギーにあるルーバン大学の研究によれば、1970年代に発生した地震のうち、人間の居住地域に影響を及ぼしたものはわずか11%しかなかったといいます。この数値は1993?2003年の期間では31%まで増加しました。これらのことは私たちに破局終末の秒読みが始まっていることを明らかにしているのではないでしょうか。実は聖書がそれを明確に預言しています。
今日の本文の中で31a節を見ると「この天地は滅びます。」と言われています。やがて終わりの日が来るのです。その日、イエス・キリストは偉大な力と栄光を帯びて来られます。これを「キリストの再臨」と言いますが、それが世の終わりの時です。私たちは本文の御言葉によって終末とそのしるしについて学ぶことができます。また、終わりの時に生きている私たちが真に望むべきことは何かを学ぶことができます。どうか、聖霊の啓示によって私たちが終末について正しく学び、真の希望をつかむことができるように祈ります。

?.福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません(1?13)
 1節をご覧ください。イエス様が宮から出て行かれるとき、弟子のひとりが、「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」と言いました。田舎者らしい感嘆の気持ちがよく表われています。それもそのはずです。私は中学校を卒業してから始めて田舎からソウルに行った時、高いビルディングを見て本当に驚きました。おそらく、田舎者弟子のひとりも、金箔で覆われている神殿のすばらしさに驚き、感嘆したでしょう。当時の世界の中で、これほど美しい建築物はなかっただろうと言われています。彼はこの建物のすばらしさに驚いているのです。神殿のあり方、神殿の役割、神殿の中で行なわれるべきことなど、神殿の本質的なことは考えませんでした。ただ、目に見える神殿の外側を見て感嘆したのです。しかし、目に見えるものはどうなりますか。
 2節をご覧ください。「すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」」とあります。イエス様は葉の茂っているいちじくの木に実がなかった時、それを呪われました。そのように神殿の役割を果たさない神殿、内側が汚くなっている神殿は崩れてしまうと言われました。石が積まれたまま残ることは決してないのです。これは、文字通り、AD70年、ローマ帝国がこの神殿をこわして実現されました。この神殿は人間の知恵と力を尽くして建てた素晴らしいものでした。この荘厳な建物は千年、二千年経っても壊れないと思われていたでしょう。しかし、この世のもので永遠に残るものはありません。汚れるもの、朽ちるものとなり、消え去ります。この世で生涯をあげて築き上げた名声も、人気も、美しさも野原の草のようにしおれ、消え去ります。「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです(?ペテロ1:24,25a)。主の御言葉だけがとこしえにあります。結局、目に見えるものは、必ず過ぎ去ります。イエスがこれから弟子たちに話されることは、目に見えるものがどのように滅び去るか、ということです。
 3,4節をご覧ください。「イエスがオリーブ山で宮に向かってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに質問した。「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」」とあります。弟子たちは、この神殿が滅びることに関連して、世の終わりについてイエス様に質問しています。なぜなら、ゼカリヤ書14章には、終わりの日にエルサレムが攻められることが記されているからです。では彼らの質問に対するイエス様の答えはどうですか。
 5?8節をご一緒に読んでみましょう。「そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大勢現われ、『私こそそれだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。」とあります。イエス様は弟子たちに話し始めながら、まず、「人に惑わされないように気をつけなさい。」と言われました。「3年間もイエス様について来た弟子たちが惑わされることもあるかなあ」と思われます。しかし、イエス様は彼らも気をつけなければ、人に惑わされることを認められました。信仰生活を何年間もしたとしても人に惑われる場合があります。事実、弟子たちはまだ霊的な価値観を持たず、目に見えるものによって心が動かされていました。神殿で黙々と祈り、御言葉を教えることより、神殿で商売している宗教指導者たちの豊かな生活をうらやましがっていました。霊的な価値観よりイエス様の弟子として得られるメリットにもっと関心があったのです。ですから、霊的な価値観をはっきりしていない彼らはいつでも人に惑わされる可能性がありました。弟子の道から離れ、自分勝手な道に行ってしまう可能性もありました。今はイエス様の弟子であってもユダのように価値観が変わらなければ人の話を聞いてイエス様を裏切り、同僚の弟子たちも裏切ってしまう可能性があったのです。ですから、イエス様は『人に惑わされないように気をつけなさい。』と言われました。
 次に、イエス様は「戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません」と言われました。この世では絶えず、不吉な知らせが聞こえます。人類の文明は絶えず発展しているにもかかわらず、紛争、戦争、災難が続いています。7月7日のロンドン同時爆破テロの実行犯の一人と見られる男はイスラム教徒への残虐行為がやまない限り戦いを続けると宣言しました。彼は欧米の人々に向かって「お前たちが爆撃、攻撃、投獄、虐待をやめない限り我々は戦いを終えない。欧米の市民が安全と感じることはなく、我々の標的であり続ける」と英語で語ったそうです。つまり、私たちはいつでもどこでもがテロが起こりうる世の中で生きているのです。実は今日も、イラクのアルカイダ系組織によるテロが東京の中心地で起こるのではないかということで警視庁は厳重な警戒をしています。これらのことを聞くと、恐ろしくなるでしょう。人々は戦争のことや戦争のうわさ、テロのことなどを聞くと、恐れたりあわてたりしやすいです。特に身内のものがテロや自然災害の被害者になると、あわてて神様の存在までも否定してしまいがちです。ですから、私たちは戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。なぜなら、それは必ず起こることだからです。しかし、終わりが来たのではありません。終わりの前に民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるのです。イエス様は「これらのことは、産みの苦しみの初め」であることを言われました。「産みの苦しみ」とは新しいいのちの誕生のために必ず経験しなければならい苦しみを意味します。産みの苦しみなしに新しいいのちは誕生しないのです。また、「産みの苦しみ」とは「陣痛」のことです。陣痛は断続的に起こるそうです。そして、出産が近づくにつれて、その間隔が小さくなり、出産の直前は、その痛みは最高潮に達し、子どもを産みます。けれども、いったん子どもが産まれると、その喜びで体験した苦しみは過ぎ去ってしまうそうです。したがって、世の終わりには、希望があるのです。そして、その希望が実現されるためには、この世が滅びなければなりません。アダムが罪を犯してから、世界はサタンの支配下に入りました。この世界が続くことはクリスチャンにとっては、むしろ悲しいことです。サタンに支配されているからです。しかし、神様は、この世界を滅ぼし、神様のみが王である世界を再び造られます。今の世界の人々は、これまでにない災難による苦しみを味わっています。しかも、その間隔が小さくなっています。出産前の陣痛が始まったのです。これからはますますその間隔が小さくなることでしょう。すると、私たちが受ける苦しみは出産前の母親の陣痛のようにもっと激しくなります。ますます頻繁に災難に会い、苦しむことも多くなります。
9節をご覧ください。「だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。」この議会は、ユダヤ人指導者によって形成されるサンヘドリンです。会堂はユダヤ教の礼拝堂です。つまり、クリスチャンはユダヤ人から迫害されます。初代教会のステパノは激しい迫害を受けました。人々は彼に石を投げつけていました。それでもステパノは信仰を曲げることなく、信仰の中心を守り、「主イエスよ。私の霊をお受けください。」「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と祈りました(使徒7:59,60)。このようなステパノの姿はかたくななサウルを悔い改めさせて主の全生涯をささげて献身したパウロにならせました。そして、パウロも迫害を受けて総督や王たちの前に立たせられましたが、それもイエス・キリストを証することになりました。パウロは、法廷に立たされるたびに、彼らをキリストへの信仰へと導こうとしました。ヘロデ・アグリッパ2世は、「あなたは、ほとんど、私をキリスト者にしようとしている。(使徒26:28参照)」と言いました。
 10節をご一緒に読んでみましょう。「こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。」
イエス様は、「こうして」と言われました。つまり、不思議なことですが、迫害を受けることによって、福音はあらゆる民族に伝わる、と言われているのです。神様はご自分のひとり子をお与えになったほどに私たちを愛しておられます。それほど、私たちを愛しておられる神様は子どもたちが多くの迫害を受け、むち打たれる時にどんなに御心を痛めるでしょうか。愛する子どもたちが石に打たれ、殉教の血を流すとき、それをご覧になる神様の御心はどんなに痛くなるでしょうか。それにもかかわらず、なぜ、神様は愛する子どもたちに迫害、苦難と試練を受けることを許されるでしょうか。こうして、福音があらゆる民族に宣べ伝えられなければならないからです。神様は私たちがどんな迫害を受けても、どんな苦しみを受けても福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられることを切に願っておられるのです。あらゆる民族が福音を受け入れて救われ、永遠のいのちと生ける望みを持つことは神様の望みです。そして、愛する子どもたちがこの大切な福音のみわざに用いられることです。福音のために苦しみを受けることは人間的に考えると、本当につらいことです。私たちの中でも福音を伝えるためにわざと苦しみを受けている方たちが多くいます。人間的に考えると、夜遅くまで働きながら土日も休まずに主と福音のために一生懸命に励んでいる方たちのことで心が痛くなります。しかも、一生懸命に仕えても人々から非難されたり、比較されたりすると悲しくなります。できるものなら、苦難と犠牲を避けたくなります。しかし、福音がまず伝えられなければならない神様の救いのみわざのために経験する苦難と痛みは祝福であり、光栄なことです。人は主と福音のために経験する聖なる苦難と痛みがなければ利己的な欲望と快楽のために苦労するようになるし、それによる人間的な葛藤と罪悪感などで苦しみます。そのような苦難は人間の心も体も病ませ、腐敗させます。しかし、主と福音のために経験する痛みと苦難は真のいのちと幸せに至らせます。聖なる喜びと満足、生きがいのある人生にならせます。その最高の模範がイエス様ご自身です。イエス様は多くの苦難を受け、十字架につけられたことによってご自分のいのちまでも見捨てになりました。このイエス様の苦難と犠牲によって世界中にいる人々が救われるようになりました。ですから、使徒ペテロは言いました。「むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。(?ペテロ4:13)」。結局、私たちはこの世で一生懸命に働き、何かを追い求めていますが、究極的な目的は福音がまずあらゆる国に伝えられることになければなりません。ただ、自分のために働き、いろいろ追い求めるなら空しくなります。しかし、あらゆる民族に福音を宣べ伝えるために生きる、その救いのみわざに用いられるという目的がはっきりしていると、何をしても意味があり、価値がある人生になります。目的がはっきりしている時、生活には喜びといのちがあふれるようになります。疲れることも、たゆむこともない人生、日々わしのように新しくされる人生を生きるようになります。
11節をご覧ください。「彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」
私たちが福音を伝えるのに、何の準備もせずにしなければならないときがあります。準備したとしても自分の足りなさのために心が萎縮される時もあるでしょう。ところが、その時は、聖霊が話すべきことを教えてくださるのです。ですから、私たちは常に聖霊の助けを求めなければなりません。聖霊は、必要なみことばや知恵、みことばの解き明かしを与えてくださいます。
12,13節をご覧ください。「また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」
私たちクリスチャンは家族関係に頼ることができないときが来るのです。キリストの名のゆえにすべての人々から憎まれる時もあります。私たちはイエス様のゆえに仲間に入れてもらえず、仲間はずれになる時もあるでしょう。だれも分かってくれない孤独の中で悲しみと苦しみを経験する時もあります。主と福音のために生きるということは狭い門にはいる道です。時には十字架の重荷を背負って険しいゴルゴタの丘に上るような道でもあります。それで、多くの人々が途中、世の中に戻っていきます。十字架を避けて楽な道を求めて教会から離れていく場合も多くあります。しかし、どんな人に最後の勝利と最後の救いがありますか。「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」とあります。そうです。最後まで耐え忍ぶ人は救われ、祝福されます。アブラハムは25年間耐え忍んでイサクを得ました。ヨセフは苦難と試練が続く日々を過ごすときも耐え忍んでエジプトの総理大臣になり、ききんの時にイスラエルを救うようになりました。ヨセフは寂しい荒野生活40年間を耐え忍ぶことによって鍛えられて出エジプトの指導者になりました。本当に、教会に試練があっても、自分の人生に試練があっても最後まで耐え忍ぶ者は救われて最後の勝利者になります。

?。輝かしいキリストの再臨(14?37)
 14節をご覧ください。「『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば(読者はよく読み取るように。)ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。」とあります。荒らす憎むべきもの、という人物が出てきました。そして、この人物について、読者はよく読み取らなければいけません。「読者はよく読み取るように。」となっているからです。ということで、よく読み取ってみましょう。マルコより遅く福音書を書いたルカはもっと分かりやすく「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら」(ルカ21:20)と言い換えています。ですから、『荒らす憎むべきもの』が自分の立ってはならない所に立つということはローマ軍がエルサレムを包囲した時に成就しました。イエス様はその時、ユダヤにいる人々は「山に逃げなさい」と言われました。そして、この御言葉を信じたユダヤにいるクリスチャンたちは、神殿に何の執着も持たず、ペレヤ地方へ逃げて難をまぬがれました。しかし、イエス様の御言葉を軽んじて信じず、神殿に行けば助かると思った人々はみんな滅んでしまいました。また、15、16節を見ると、その時には「家から何かを取り出そうとしたり、着物を取りに戻ったりしても生けないと言われています。また、このことが冬に起こらないように祈るように言われています。その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです。そのとき、あなたがたに、『そら、キリストがここにいる。』とか、『ほら、あそこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もって話しました。
24?27節をご一緒に読んでみましょう。「だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。」とあります。この御言葉はイエス様が終わりの日について直接に言われた預言の御言葉です。ここで、私たちは人類の歴史がどこに向かって言っているのかを知ることができます。地球が回るから人類の歴史はくるくる回るのではありません。初めがあり、終わりがあります。やがて終わりの日が来ます。その日には地上の苦難や迫害に続いて天地に異変が起こります。そしてキリストが再臨されるのです。私たちは終末に向けて秒読みの始まった時代に生きています。その時、メシヤであるイエス様が天から来られます。イエス様が私たちを救うためにこの地に始めに来られた時は人として静かに来られ、飼い葉おけに寝かされました。しかし、再び来られるその時、人々は、キリストが偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来られるのを見るのです。その時に、イエス様は偉大な力と栄光を帯び、世界のすみずみから選びの民であるクリスチャンを集められます。私たちは、御使いたちにエスコートされて再臨のキリストのもとへ連れて行かれるのです。そして、その範囲は、「地の果てから天の果てまで」すなわち、どこにいても私たちは集められるのです。そして、全世界は神様の御前にさばかれ、クリスチャンの救いはこの時完成するのです。私たちは新しい天と新しい地で永遠に神様とともに栄光の中で生きるようになります。ですから、終末、キリストの再臨は悲しみや嘆きではなく、待ち焦がれたお方の到来なのです。これこそ、人類の究極的な望みです。朽ちることも消えることもない生ける望みです。
 この望みを持っている私たちはこの世でどのように生きるべきでしょうか。
第一に、御言葉を学び、知るべきです。
28?31節をご覧ください。「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」
イエス様は「いちじくの木から、たとえを学びなさい。」と言われました。この間、パレスチナのいちじくの木について話しましたが、「葉が出てくると、夏の近いことがわかります」とあります。いちじくは夏に実を取れるようになるから「収穫の季節が近い」ということです。つまり、私たちはイエス様が語られたような終末の前兆が起こるのを見たら、主の再臨が間近になっていることを知るべきです。イエス・キリストが戸口まで近づいていると知らなければならないということです。なぜなら、「これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去らないからです。」イエス様はこのことを確信しておられました。つまり、この時代が過ぎ去る前に、イエス様が言われた前兆が起こるということです。この天地は滅びるのです。しかし、神様の御言葉は決して滅びることがありません。
31節をご一緒に読んでみましょう。「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」滅びそうもなく見える「この天地」も、やがて滅びます。しかし、イエス様の御言葉は決して滅びることがないのです。ですから、目に見えるこの世のもの、滅び去るものに執着しないで御言葉を学び、御言葉を知らなければなりません。私たちはイエス様が「学びなさい」「知りなさい」と言われていたことに注目する必要があります。聖書に「「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあります。この世に永遠なるものはありません。しばらく存在していてしおれ、消え去るものです。目に見えるものに希望をおいて生きる人たちはその希望が廃れ、草の花のようにしおれ、散る日には絶望せざるを得なくなります。しかし、とこしえに変わることがないイエス・キリストとキリストの御言葉を信じて、キリストのために生きる人々は、キリストが再び来られるその日に永遠の栄光にあずかる者となります。
第二に、目を覚ましていることです。
35?37節をご一緒に読んで見ましょう。「だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」
 エルサレムの指導者たちは世俗的な権力の目先の利益に心を奪われていました。また、世の快楽を求め、それを楽しんでいました。神様のみこころを見失い、イエス様が来られても彼がキリストだとは気づきませんでした。弟子たちもなかなか気づきませんでした。彼らはよみがえれたイエス様に出会ったからやっと再臨信仰を持つことができました。では私たちはどうでしょうか。イエス様は、今日の御言葉を読んでいるすべての人が、目をさましているように命じておられます。つまり私たちです。イエス・キリストを信じる者たちは、天から下ってこられる主をいつも待ち望み、主に仕えていくべきです。私たちが目先の有益だけを求め、安逸に陥ってイエス様が来られたら、どんなに恥かしいことでしょうか。自分が好きなこと、自分のやりたいことばかりして主のためには何もしていない時にイエス様が雲に乗って来られたら、恥かしい救いを得るでしょう。どうか、私たちひとりひとりが目を覚まして御言葉を学び、キリストの再臨を備えて行く者であるように祈ります。

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