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ヨハネ1:1-18 人となられたイエス様

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/25 (2792 回閲覧)
2004年 クリスマス特集第2講

人となられたイエス様

御言葉:ヨハネ1:1-18                       
要 節:ヨハネ1:14「ことばは人となって、私達の間に住まわれた。私達はこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

 先週、私たちはひとりのみどりごとしてお生まれになったイエス様について学びました。やみと死の陰にすわっている人々は大きな光を見ました。このイエス様には四つお名前がありました。一つ目はワンダフル・カウンセラーです。二つ目は力ある神、三つ目は永遠の父です。そして四つ目は平和の君です。イエス様は今年も、ワンダフル・カウンセラーとして私たちをカウンセリングしてくださいました。昨日、崔慶原宣教師は、今年3月、博士課程の試験に落ちた時、目の前が真っ暗になりましたが、イエス様がカウンセリングして下さったし、結婚のことでもどうすればいいのかよく分からなかった時も主のカウンセリングはワンダフルだったと告白しました。そうです、彼だけではなく、私たちはイエス様のカウンセリングによってさまざまな問題を乗り越えてきました。また、力ある神様のわざを見ることができました。特に今年は結婚して七年間も赤ちゃんを産むことができなかったし、医者も難しいと言っていた寺崎アブラハム牧者の家庭にマリヤちゃんを許してくださいました。永遠の父の愛によって私たちの必要は満たされ、守られてきました。平和の君であるイエス様が与えてくださる心の平安も経験することができました。本当に、イエス様は私たちにとってワンダフルカウンセラー、力ある神、永遠の父、平和の君であられました。その御名を心から賛美します。
今日、学ぶヨハネの福音書を書いた使徒ヨハネはイエス様をことばとして紹介しています。イエス様の誕生に対して「ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」証しています。私たちの間に住まわれるイエス様にはいのちがあります。このいのちは人の光です。この時間、人となって私たちの間に住まわれたイエス様の謙遜と犠牲、愛による大きな恵みが私たちの上に臨まれますように祈ります。

?.この方にいのちがあった(1?13)
1-3節をご一緒に読んでみましょう。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」ここで、「ことば」とは私たちによく知られていることばで「ロゴス」です。「ロゴス」ということばは、もともとギリシヤ人哲学者たちによって用いられていました。彼らは、すべての物は、形が存在する前に考えにおいて存在していた、と考え、その考えをロゴスと呼びました。例えば、ピアノがありますが、ピアノができる前に、ピアノについての考えがあったはずです。その考えがなければ、このように、きちんとした形になることはできません。ですから、ギリシヤ哲学者は、この宇宙にあるすべての物は、それが存在する前に、考えにおいて存在していたし、その考え、ロゴスによって動かされていると言いました。ヨハネは、そのロゴスがまさに神様である、いやロゴスさえ造られた方が神様であると宣言しています。そして、人となって私たちの間に住まわれたロゴス、イエス様はまさに神様であると言っています。すべてのものは、この方によって造られました。造られたもので、イエス様によらずにできたものは一つもありません。コロサイ人への手紙1章15節はこう言っています。「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また、見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです。」そうです。御子イエス様は創造主の神様なのです。私たちの人生を含めて、この世に存在するすべてのものはイエス様抜きに考えることはできません。これはまるで私が認めても認めなくても私を産んでくださった両親がいたことと同様です。親抜きにして、自分の人生を想像することも、論じ合うこともできません。さらに、私たちは自分の親も造られ、この世界、全宇宙を造られたイエス様を覚えなければなりません。創造者のイエス様抜きにして自分の人生を計画したり、人生について論じたりすることは虚しいことです。私たちは創造主のイエス様を覚えてその主権を認め、イエス様に礼拝する人生を生きるべきです。
伝道者の書12章1,2節は言います。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また、「何の喜びもない。」という年月が近づく前に。太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。」人々は若い時は、若いから何でもできると思うし、何でも自分の好き勝手にやりたいと思います。しかし、若い日に神様を覚えることなく、自分勝手に生きることは危険です。哀れみ深い主は、死ぬ直前、イエス様を救い主として信じても救ってくださいますが、それは恥ずかしい救いになるはずです。何よりも、若い日に恵みとまことに満ちておられるイエス様の恵みを受けることなく、虚しい日々を過ごしてしまうなら、それほどにもったいないこともありません。わざわいの日が来ないうちに、また、「何の喜びもない。」という年月が近づく前に、私たちを造られた方を覚えなければなりません。
幸いに、私を含めて、ここに来られた皆さんが、まだ、若い日に創造者を覚え、イエス様を信じることができたことは大きな感謝です。クリスマスシーズンに、キリスト教の文化を楽しむのではなく、創造者を覚えて礼拝し、イエス様の御心に従う人生にしている皆さんに大いなる神様の祝福があると信じます。12月は「師走」と言って先生も走るほど忙しいようですが、その中でも創造者のイエス様中心に過ごすことができるように祈ります。 そうすると、天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また、見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべてを造られたイエス様が私たちをベストの道に導いてくださいます。
 4,5節をご一緒に読んでみましょう。「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」すべての物を造られた神は、人のいのちも造られました。すべてのいのちの源は神にあります。ここで言う「いのち」とは「ゾエ」で「霊的ないのち」「永遠のいのち」「意味あり勝ちあるいのち」を意味しています。 イエス様はまさに、このいのちを与えるためにこの地に来られました。もともと、神様は創造の時に、このいのちを人間に与えて永遠に、幸せに、価値あり意味ある人生を生きるようにしてくださいました。ところが、人類の先祖アダムの犯罪によって永遠のいのちの園、幸福の園、エデンから追い出される時から永遠のいのちの祝福を失ってしまいました。私たち人間は、いつ死ぬか知らないけれども、いつかは必ず死ぬ存在になってしまいました。生きている間も、死の恐怖のために、虚しく、無意味な人生を生きるしかない存在になってしまいました。生きていても無気力に、死んだも同様な者として生きるしかない存在なのです。しかし、イエス様にいのちがあります。このいのちは人の光です。?コリント15:45節に「聖書に『最初の人アダムは生きた者となった。』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。」とあります。あだむの子孫である私たちはLiving being、生きた者に過ぎませんが、イエス様はLife-Giving spirit、生かす御霊としていのちを与えてくださいます。ですから、イエス様を信じる者はイエス様からいのちを受けます。いのちを受けることは本当に素晴らしいことです。やみと死の陰にすわっている人たちが生かされるようになります。枯れ木から芽生えて花を咲き、実を結ぶようないのちのみわざが起こります。すると、その人生は輝くようになります。イエス様にあるいのちは人の光だからです。教会もイエス様のいのちがある限り、成長し、実を結ぶことができます。世の中で輝くようになります。私たちの教会は、半地下にあり、小さいホールですが、イエス様のいのちがあるから成長しています。私はこの教会、キャンパスの学生たちを日本の若者たちにキリストの光を輝くようになるビジョンを持っています。私たちは足りませんが、私たちにイエス・キリストのいのちがあるから、このいのちは人々に光となるのです。
私はUBFに最初に来た時、人々の顔が明るく、輝いていることに驚きました。事実、イエス様からいのちを受けてない時の私はとても暗い顔つきをしていました。 不思議なことに心が暗くなっていると、それが体にも現われてしまいますね。私は、髪の毛がかなり白くなっていますが、中学一年生の時から白髪が生えていました。いつも、自分の年より三歳か四歳上の人のように見られていました。意欲もなく、夢もない人生を生きていました。しかし、御言葉を学び、イエス様を心から受け入れて信じると、イエス様はいのちを与えてくださいました。不思議にも、聖書勉強をすると、私の内側から花が咲くような力を経験するようになりました。私たちにいのちを与えるためにこの地に来られたイエス様に感謝します
5節をご覧ください。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」とあります。やみを打ち消したいと思って一生懸命手を振っても、消え去りません。やみを打ち消すことは、ただ光を照らすことだけです。自分がいくら一生懸命努力しても、自分の力ではやみの勢力に打ち勝つことができないのです。ただ、光であるイエス様を信じることによってのみ、やみに打ち勝ち、明るい人生を生きることができます。
6-8節をご覧ください。「神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。」このヨハネは、この福音書を書いているヨハネのことではありません。バプテスマのヨハネと呼ばれているまた別の人です。彼は当時の人々にとって光のような存在でした。人々から「キリストではないか」と言われるほどでした。しかし、彼は真の光ではありません。イエス様だぇがまことの光なです。
9-11節をご覧ください。すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていました。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知りませんでした。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかったのです。ここで、世とは、世界にいる人間のことです。人間は、イエス様のことを聞いても、この方がすべてのものを造られ、自分のからださえも造られたことを知りません。しかし、イエス様を受け入れた人々もいます。
12,13節をご覧ください。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」とあります。イエス様を受け入れる人々、すなわち、その名を信じた人々には、大きな特権が与えられます。神の子どもとなる特権です。しかも、それは血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってではなく、ただ、神様の恵みによって与えられる特権です。どんなに頑張っても、教会に行ったり、聖書を読んだりしても、それでクリスチャンになることはできないのです。ただ、イエス様を心に受け入れることによって与えられます。なぜなら、イエス様は神様だからです。ヨハネはイエス様が神様であることを断言しています。

?.人となられたイエス・キリスト(14-18)
14節を読んでみましょう。「ことばは人となって、私達の間に住まわれた。私達はこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」ヨハネは「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」と断言しています。何の説明もなく、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」といっていますが、これは驚くべき宣言です。ヨハネは最初に「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」と証しました。ですから、創造者の神様が人となってご自分が造られた世界に住まわれたと宣言しているわけです。神様が人となって私たちの間に住み始められたその日がクリスマスです。ですから、このみことばは、ヨハネのクリスマスメッセージです。
「ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」このメッセージは救われたクリスチャンにとって本当に驚くべき真理です。毎日覚えて心に刻み、黙想するべきみことばです。本当に、この事実を深く悟れば悟るほど、私たちは感動し、感激します。この上もなく喜ぶようになります。牛舎の子牛が外に出て跳ね回る喜びに満たされるようになります。私たちはクリスマス礼拝のために毎日祈り会をしながら準備していますが、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」イエス様の謙遜と犠牲、愛に対する感謝があるからです。パウロは、この感動的なメッセージをピリピの聖徒たちにこう証しました。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです(ピリ2:6ー8)。」
神様は罪を犯した人間を処罰することもできました。しかし、ご自分のひとり子を遣わしてくださいました。遣わされたイエス様は私たちの間に住まわれました。この方は恵みとまことに満ちておられました。ことばは人となったというところは、肉となったと訳すことができます。韓国語の聖書はそのように訳されました。神様が肉体の姿を取って現われました。すべての物の前に存在し、すべてを造られ、いのちであり光である方が、人となって私たちに現われたのです。ご自分を無にして来られました。ここに恵みがあります。
これがキリスト教の真理であり、核心です。これこそ本当の謙遜です。「謙遜」の本質は神様が人となられたことにあります。イエス様は神様であられる方なのに、人となってくださいました。ご自分を無にしてくださったのです。キリスト教の本質は自分を捨てることにあります。キリスト教がこの世の英雄として、世の権力として登場するなら、すでにキリスト教の本来の姿を失ったことです。クリスチャンが自分を捨てる自己犠牲なしに自分の栄光だけを求めるなら、もはやクリスチャンではありません。イエス様は仕えられるためではなく、仕えるために来られました。贖いの代価としてご自分のいのちまでも犠牲にされたほどにすべての人々に仕えました。このイエス様に恵みが満ちています。
私たちは、クリスマスを祝っていますが、まさにこの奇蹟を祝っているのです。神様が、私たちの間に住むために、いやしい飼い葉おけに寝かされました。このようなものすごいことが、約2千年前に起こりました。ヨハネはそれを見て、聞いて、触ることができました。そして、イエス様から神様の栄光を見ました。そこで、彼「私たちはこの方の栄光を見た。」と言っています。ヨハネの福音書は福音書の中でも一番最後に書かれたと知られています。恐らく、長い間、イエス様のことを黙想し、イエス様の愛を実践しながら、イエス様のことをだれよりも深く悟ったようです。彼が本当に謙遜になったとき、人となってくださったイエス様の謙遜が分かるようになりました。高慢な人にはつぶやき、不平、不満が多くあります。しかし、謙遜なイエス様を学ぶ人には恵みが満ちています。謙遜に仕える人が仕えられるためではなく、仕えるために来られたイエス様を学ぶことができます。人のために謙遜に仕えることのない人は、自分に仕えてくださる人の恵みがよく分かりません。本当の意味で愛することがない人は愛されていることもよく分かりません。自分にそのような経験がないからです。私たちが人となってくださったイエス様の謙遜、その犠牲、愛を学び、実践する時に、私たちはさらに恵みを受けるようになります。子どもの時は親の愛がよく分かりませんが、自分の子どもを愛しながら、親の愛が分かるようになるものです。私たちが本当に人を愛すると、自分が愛されていることも分かるようになります。自分が謙遜になって行く時に、イエス様の謙遜がいかに大きいものかが少しでもわかるようになります。ご自分を無にして人となられたイエス様の謙遜を悟り、深い恵みを受けるようになります。イエス様が神様の約束のとおりに来られたメシヤである事実、その真実、その真理も悟るようになります。まこととは神様は約束を守ることにおいて真実であられることを表しています。イエス様をこの世に遣わしてくださったのは神様の真実性を表します。人となって私たちの間に住まわれたイエス様を深く黙想すると、神様が約束のとおりにイエス様をこの世に遣わしてくださった真実も悟るようになります。そこで、私たちはイエス様から素晴らしい神様の栄光を見ることもできます。ヨハネはそれらのことが分かりました。彼は「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」と証しています。そして、バプテスマのヨハネの証も紹介しています。
 15節をご覧ください。「ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「私の後から来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。」と私が言ったのは、この方のことです。」とあります。ヨハネは、当時の人々なら、だれもが偉大な預言者として認めていました。イエス様も、ヨハネを女の中から産まれたもので、彼より偉大な者はいないと認められたほどです。けれども、ヨハネは、イエス様は自分よりもまさっていると主張したのです。なぜなら、先におられるから、つまり、自分が生まれる前に、すでに存在しておられる神様だからです。あのヨハネもイエス様は神様であることを証していたのです。ですから、これだけを聞いても、イエス様は信じるに値する方であることが分かります。その神様が人となって私たちの間に住まわれたのです。ですから、使徒ヨハネも、バプテスマのヨハネも、イエス様を受け入れた人々は恵みの上にさらに恵みを受けました。
 16-18節をご一緒に読んで見ましょう。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである。」とあります。
ヨハネは、イエス様をモーセと比べて、恵みの上にさらに恵みが与えられたことを言っています。神様が人々に近づいてくださったのは、あのシナイ山の上においてでした。シナイ山は、雷といなずまと密雲があり、激しく震えていました。そこで神様は、イスラエルの民が聖なる国民と成るべく、律法を与えられたのです。このこと自体恵みであります。神様は遠く離れたお方ではなく、イスラエルの民に深く関わってくださいました。けれども、私たちは、多くのイスラエル人が死に、さばかれたことを知っています。神様は聖いお方なので、汚れた人が近づくと死んでしまったのです。けれども、イエス様を信じる者は永遠のいのちを得ます。イエス様において私たちにはさらに恵みが与えられたのです。また、イスラエルの民には幕屋が与えられました。そこに神が住まれて、ご臨在されました。新約聖書では、幕屋は実体の影にしかすぎないこと語っています。実体は天国であり、天国にあるものを、神様は幕屋において模型として表してくださったのです。どころが、14節の、「わたしたちの間に住まわれた。」というギリシヤ語を直訳すると、「わたしたちにために、幕屋を張られた。」となります。出エジプト記を見ると、幕屋は神様がおられる所です。幕屋にはいる人は身をきよめ、いけにえをささげて贖いの代価を払った人だけが神様と会うことができました。幕屋は神様と出会うところであり、罪が赦されるところ、神様との関係が回復されるところ、救われるところ、新しい勇気と希望を得られる場所でした。私たち人間は幕屋に来られる神様との出会いによって罪から救われ、聖なる神の民としての恵みを受け、祝福されたのです。
ところが、今は幕屋を通る必要がなく、私たちの間に住まわれるキリストによって神様に出会い、罪の赦しを得るようになりました。イエス様は十字架の死によって私たちのすべての罪を贖って聖所、至聖所の間にある垂れ幕を破り、神様にまっすぐに行ける道を開いてくださったからです。ですから、だれでも、イエス様をキリストとして受け入れて信じるなら、神様がその人のうちに住まわれ、その人は神様の救いを経験するようになります。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」というみことばにはこのような意味があるのです。イエス様は人間の姿を取って来られ、獣の血ではなく、ご自分が十字架上で流された御血によってすべての罪を贖うことによって私たちを救ってくださったのです。その救いのためにこの地の飼い葉おけにお生まれになった日がクリスマスなのです。 

結論的に、私たちは人となって私たちの間に住まわれ始めたクリスマスを通して暗やみの世の中からも光を見ることができます。希望を持つことができます。人となってくださった神様であるイエス様が私たちを罪から救っていのちと光の世界、恵みの世界に移してくださるからです。私たちは私たちのうちに住まわれるキリストによってワンダフルカウンセリングを受けることができるし、神様の子どもとしての特権を持って勝利の人生を生きることができます。人となって私たちの間に住まわれたイエス様の犠牲と謙遜、大いなる愛を心から賛美します。

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