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ヨハネ3:16ー21 ひとり子をお与えになった神様

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/25 (13559 回閲覧)
2000年聖誕メッセージ 第3講



ひとり子をお与えになった神様



御言葉:ヨハネの福音書3:16ー21

要 節:ヨハネの福音書3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世

    を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のい

    のちを持つためである。」

 

 今日ほど愛という言葉が氾濫している時代もまたないと言ってよいでしょう。至る所で愛という言葉が使われ、また愛がささやかされていて、愛なしには生きられないような時代です。今日は本当の愛とはどういうものであるかということについて学びたいと思います。ヨハネの福音書3:16は福音の要約であると言われていますが、この御言葉には世の人々に向けられた神の愛がよく現われています。そして、永遠のいのちを持つ方法が記されています。ですから、この御言葉が本当に分かれば、人は誰でも救われます。今日の御言葉を通して本当の愛がわかり、永遠の命を得ることができるように祈ります。



第一に、神様が一人子をお与えになった動機(16a)

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」(16a)この御言葉には神様が一人子をお与えになった動機がよく現れています。人はアダムが罪を犯して後、罪の奴隷となりました。らい病人のように惨めな人になり、取税人のように利己的な人になりました。いつも神様に逆らって自分勝手な道を歩んでいました。ローマ人への手紙1:21-31節を見ると、堕落した人間の姿がよく記されています。人間は自由になると思って神様から離れました。しかし、その結果、偶像崇拝者となり、情欲の奴隷となりました。彼らは男女間の正常的な関係に満足せず、男と男、女と女が恥ずべきことを行う変態性欲主義者となりました。また、彼らはあらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪巧みとでいっぱいになった者となりました。私達もみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けなければならない者たちでした(エペソ2:1-3)。誰がこのような罪人を愛することができるでしょうか。

ところが、神様は世の人々を罪に定めず、一人子をお与えになったほどに、愛されました。人間の愛は、どんなに愛すると言っても、相手に価値を見いださないかぎり続けて愛することができません。それで結婚の時にはいつまでも愛し合うことを人々の前で誓いますが、何年も経たないうちに相手がいやになって離婚してしまう人々も少なくありません。相手の価値を愛する愛では、その価値がなくなってしまったら、愛もまたなくなってしまいます。それは本当の愛ではありません。男女の愛の多くはそうではないでしょうか。しかし、神の愛はそうではありません。神の愛は、愛される価値のない者をも愛する愛なのです。神様は私達を罪から救うために尊い代価を支払われました。尊い神の御子イエス・キリストの死こそ神が私達を買い戻すために支払われた尊い代価です。神様はご自身が犠牲となってこの世に来られ、十字架にかかって死なれるほど、私達を愛してくださったのです。?ヨハネ4:9,10節は言います。「神はその一人子を世に遣わし、その方によって私達に、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私達に示されたのです。私達が神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」このように救いのみわざは神の愛から始まるのです。神様が人間を愛さなかったなら罪の中に滅びるようにそのまま放置して置いたでしょう。しかし神様は人間をあまりにも愛したので一人子をお与えになったのです。そして私たちがまだ弱かったとき、罪人であったとき、神様の敵であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神様は私たちに対するご自身の愛を明らかにしてくださいました(ローマ5:6-8)。神様がそのひとり子を惜しまずに私達のために死に渡されるということは、神様が私達をかけがえのない大切な者として愛しておられる証拠です。神様は私達が神様に背を向け、生けるまことの神様より他のものに心が向いて行く時にも、なおも愛し続けてくださいます。ですから私達はどんな場合でも神様の愛を疑ってはなりません。いのちがけで私達を愛してくださる神様を信じないわけにはいきません。

ところが人々は困難や苦しみに会うと神様の愛を疑います。「神様が私を愛してくださるならなぜこのような苦しみがあるのか」このように神様の愛を疑い始めると今まで熱心に主と福音の御業に仕えていた人も失望して無力になります。ですから、私たちは困難や苦しみに会う時にも神様の愛を確信し、その愛に基づいて考えなければなりません。神様が愛する子を懲らしめるのだと思い、その苦しみが自分に与える意味は何かを考えなければなりません。私達に対する神様の愛は変わらない愛です。使徒パウロはこの神様の愛を確信して言いました。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:38、39)。

私達は神様の愛を目に見えるものとして考えがちです。神様が物質的に祝福してくださったり、病気をいやしてくださると感謝し、神様が自分を本当に愛してくださっていると思います。ところが、病気にかかったり、試験に落ちたりすると神様は本当に私を愛してくださるのかなと思います。しかし、私たちが本当に感謝すべきことは霊的な愛です。私たちは自分の犯した罪のゆえに死刑宣告を受けた者たちでした。私たちは神様の裁きを受けて火と硫黄との燃える池の中で永遠に滅びるべき者たちでした。神様はこのような私たちをあわれみ、一人子を私たちの罪のために犠牲にさせて私たちを永遠の滅びの道から永遠のいのちへの道に入れてくださいました。世の中にこれほど大きな愛はありません。イザヤ書43:3には「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とあります。神様は「あなたは成績がいいから尊い。」とか「あなたは顔が奇麗だから尊い。」と言っておられません。神様の目には、あなたは高価で尊いのです。あなたは、神様から尊ばれ、重んじられている存在、愛されている存在なのです。このことを裏付ける証拠として神様はひとり子イエス・キリストをお与えになりました。私たちはこの神様の愛をいつも感謝し、賛美しなければなりません。ひとり子をお与えになったほどに、私達を愛してくださった主に感謝します。

第二に、神様が一人子をお与えになった目的(16b、17)

神様が一人子をお与えになった目的は何でしょうか。16bをご覧下さい。「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」人は罪に犯したので神様の裁きを受け滅びるしかありません。人は一生食べ物を得るために苦労し、結局死んで土に戻ってしまうと思うと悲しくなります。また、死後には神様の恐ろしい裁きを受けなければならないと思うと絶望するしかありません。人はまるで死刑囚のように何の希望も喜びもありません。神様はこのような人々を哀れみ、一人子をお与えになりました。そして誰でもイエス様を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つようにしてくださいました。信じる時に、神様は私達を破滅の人生から祝福の人生に入れてくださいます。それこそ永遠のいのちです。永遠のいのちはただ単に寿命がいつまでも続くというものではなく、全く質の違う、永遠に神様の祝福の下にあり続ける人生に入れてくださることです。それこそ、神の国に向かって歩み出す人生です。あなたは今、破滅への道をまっしぐらに歩んでいますか。それとも永遠のいのちへの道を歩んでいますか。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

17節をご覧下さい。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」神様はこの世を裁くしかありませんでした。しかし、神様は世を裁くために御子を遣わされたのではなく救うために遣わされました。一般的に人々は神様に対して誤解しています。裁き主としての神様しか考えていないのです。神様を冷たい神様として考えています。そういう人は罪意識にさいなまれ、恐れています。しかし、神様は裁き主である以前愛の神様、救いの神様です。暖かい神様です。神様はすべての人々が悔い改めて永遠のいのちを得ることを願っておられます(?ペテロ3:9)。そのために一人子をお与えになりました。

第三に、救いの条件(18)

イスラム教では救われるために五つの厳しい規則を守らなければなりません。夜明け4時に起きて一日五回祈らなければなりません。年に一ヶ月間は断食をしなければなりません。また旧約聖書の中で禁じられている食べ物を食べてはなりません。貧しい者に施し、善を行うために励まなければなりません。そして死ぬ前に聖地巡礼をしなければなりません。この五つの規則を絶対的に守らなければ救いを得ることができないのです。このように他の宗教には救われるためのいろいろな厳しい条件があります。仏教でも世のすべての欲を捨てて心から真理を悟り、解脱しなければなりません。しかし、キリスト教には何の条件もありません。誰でもイエス様を信じる者は救われるのです。神様は私達に行ないや業績を要求せず、ただ信仰だけを要求されます。信仰は神様が私達のために用意してくださったものを感謝して受け入れることです。信仰は自分が罪人であることを認めて主の助けを求めることです。ですから信仰は謙遜な人だけが持つことができます。神様が私たちに与えてくださった最大の約束は滅びから救われ永遠のいのちを持つということです。これは最大な特権であり、祝福です。このような祝福を値なしにただ信仰によって受けるのです。これはどんなに驚くべきことでしょうか。

18節をご覧下さい。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」イエス・キリストを信じようが信じまいが自分勝手だと考えている人々もいます。ところが、永遠のいのちと永遠の滅びは一人子イエス・キリストを信じるか信じないかにかかっています。神様は人々のためにすばらしいプレゼントを送ってくださいました。そのプレゼントはユダヤ人宛てに送られたのではありません。特定の民族やまじめな人に送られたのでもありません。すべての人々宛てに送られました。ここには貧富の差別、身分や人種の差別がありません。誰でも神様の愛のプレゼントを感謝して受け取るだけで滅びることなく永遠のいのちを持つことができます。御子を信じる者はさばかれません。ところが、自分は神様のプレゼントなんか要らないと拒否してしまうとどうなりますか。それは永遠のいのちを拒否することであり、神様のさばきを招くことです。さばかれるかさばかれないかの責任は人間の側にあるのです。神の御子イエス・キリストがご自分のいのちを捨ててまで私達のためにしてくださるのに、その方を信じないとは何と大きな罪でしょうか。ですから、そういう人が裁かれたとしても、それは当然のことです。

第四に、信じない理由(19?21)

19節をご覧下さい。「その裁きというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりやみを愛した。その行いが悪かったからである。」ここで私たちは人々がイエス様を信じない理由が何かがわかります。人々はイエス様を信じない理由として、「それは外国から入って来た宗教だから信じないよ。」「僕は忙しくて信じる暇がありません。」「教会に行けば献金をするのが嫌だから信じません。」などと言います。しかし信じない本当の理由は光よりやみを愛しているからです。人々は罪を犯すことがよくないことを知っていながらも罪を楽しむ心のために光のほうに来ないのです。しかし、私たちには二つの道しかありません。暗闇と光の道です。暗闇の道は滅びの道であり、光の道は救いの道です。人はこの二つの道の中でどちらかを選ばなければなりません。

 20,21節をご覧下さい。「悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」多くの人々が最初は喜んで聖書を学びますが、少し深く学び始めると負担に思ってやめようとする場合があります。なぜでしょうか。それは自分の罪の問題が明るみに出されることを恐れるからです。裁きというものは、普通世の終わりにあると考えられています。事実、世の終わりにあるのですが、世の終わりにだけあるのではなく、もう現在始まっているのです。最初の人アダムとエバが罪を犯した時、神様を恐れて身を隠したように、罪を犯すと、いつも人は光である神様を恐れて身を隠そうとします。ですから、神様のもとに来ようとしないこと自体、神様の裁きにほかありません。しかし、光のほうに来るときに一時的に自分の罪を言い表す痛みがありますが、その後には驚くべき赦しの恵みがあります。光のほうに来た人にはいのちと自由と喜びが満ちあふれます。ですから、暗闇の生活から光の生活に入ることは、早ければ早いほどよいのです。神様の御言葉を聞いて、それをいいかげんに聞き流してしまうと、自分で自分の心をかたくなにし、暗闇の中で、心を麻痺させていくことになるからです。もう自分はだめだと言って諦めようとする人の心は、すでに暗闇の中で、自分で心をかたくなにしている人です。どんな時にも諦めてはなりません。真理の御霊が私達の心を照らしてくださる限り、その人にはまだチャンスが残されています。今心が少しでも動いたら、「真理を行なう者」としての一歩を踏み出してください。真理を行う人は、光のほうに来ます。真理を行う人は真理を愛し、真理の御言葉に聞き従います。

ヨハネの福音書3:16節をもう一度ご一緒に読んでみましょう。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」神様は私たちの罪のためにひとり子をお与えになったほどに愛してくださいました。私たちは、私たちを愛してくださった方によって、どんな患難や迫害の中にあっても、圧倒的な勝利者となります(ローマ8:37)。神様がお与えになったひとり子イエス様を信じる者は誰でも滅びるこなく永遠のいのちを持つ事ができます。今年のクリスマスに罪人を救うために一人子をお与えになった神様の愛を深く知る事ができるように祈ります。今年のクリスマスに暗闇の中にいる多くの人々が光のほうに来る事ができるように祈ります。一人子をお与えになったほどに、私達を愛してくださった神様の愛に感謝致します。

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