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BibleMsg > X-mas > 06REV04 死に至るまで忠実でありなさい

06REV04 死に至るまで忠実でありなさい

投稿者: Calebkim 掲載日: 2006/2/5 (2677 回閲覧)
2006年ヨハネの黙示録第4講

死に至るまで忠実でありなさい

御言葉:ヨハネの黙示録2:8?11
要 節:ヨハネの黙示録2:10b「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」

先週、私たちはエペソ教会へのイエス様の賞賛と叱責を学びました。イエス様は彼らが主のために労苦忍耐し、信仰のために自らを守り、霊的な分別力を持って敵を見抜いていたことを賞賛されました。そして、初めの愛から離れていることを悔い改めて初めの行ないをするように命じられました。もし、私たちが初めの愛から離れることなく、神様を愛し続けるなら、私たちの家に神様の祝福が宿ります。夫婦の愛が初めの愛から離れないなら、きっとその家庭は祝福され、幸せになります。私たちひとりひとりが初めの愛を回復し、初めてイエス様に愛の告白をした時の感動と感激を持って生きることができるように祈ります。特に毎日主と交わる生活を通して初めの愛を保ち、この世が変わっても、私たちの主への愛は変わることなく、初めの純粋な愛で主を愛する生活ができるように祈ります。
 今日の御言葉はスミルナ教会をあて先に送られた手紙です。スミルナは現在のトルコで三番目に大きい都市であり、港町としては二番目であるイズミルだそうです。ヨハネの黙示録が書かれた当時も、スミルナは「アジアの冠」と言われるほど美しい町だったそうです。スミルナの市民は、当時栄えていたエペソ、ペルガモと比較されると、「スミルナこそアジアのメトロポリスである」と主張するほどにプライドを持っていました。彼らは自分たちの町の大きさ、美しさを誇りに思っていたのです。しかし、この町は霊的な意味で本当に美しい教会のある町でした。「スミルナ」という言葉は「没薬」から来ています。「没薬」とは私たちがクリスマスの時によく聞いている言葉です。東方の博士は「ユダヤ人の王」としてお生まれになったイエス・キリストの誕生を祝うために「黄金、乳香、没薬」を贈り物としてささげました。三つの贈り物の中で没薬は、死体を葬るときに使う香料ですが、まさに、スミルナは、信仰を守るために殺された殉教者の死体を葬る時に使う香料のように用いられました。それで、激しい迫害の中でも信仰を守り通した殉教者たちの死がキリストの香りとなり、町をただよわせていたのです。本文の御言葉を読んでみると、スミルナの教会の現実は、苦しみ、貧しさにあり、迫害下にあったのですが、純粋な信仰において富んでいて彼らの美しい信仰は自然の美しさにまさってほんとうに美しいものでした。彼らの素晴らしい信仰は2000年の歴史を越えている今でも、キリストの香りを私たちにただよわせています。
 では、イエス様がスミルナの教会に送られたメッセージは何でしょうか。ここで、イエス様が語られるご自分の紹介、教会への賞賛、警戒と励まし、教会に与えられたイエス様の方向を学ぶことができます。どうか、今日も聖霊が私たちのうちに力強く働いて、御言葉を悟らせ、受け入れさせてくださるように祈ります。

 ?.イエス様の自己紹介
 8節をご覧ください。「また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。』とあります。イエス様はアルファであり、オメガであられる方です。イエス様は創造主であり、さばき主です。イエス様は初めに天と地を創造されましたが、終わりの日にこの世をさばかれるさばき主であられるのです。何よりも、イエス様はいのちの鍵を握っておられるよみがえりであり、いのちであられる方です。ヨハネの福音書11:25、26節を見ると、イエス様は言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」私は信じます。罪のために汚れているこの体は衰えて行きますし、死ぬ時が来ます。昨夜、私は、子どもの時にかわいがってもらっていた伯父さんが亡くなった知らせを聞きましたが、いつか私もこの世から去るときが来ます。私の持ち物も、この地球も廃れるし、消えていきます。しかし、イエス様を信じる私たちは死んでも生きるのです。第二の死を経験することなく、汚れることも、朽ちることも、消えていくこともない天国で永遠に生きるようになります。
 スミルナの教会は迫害下にありました。当時のノンクリスチャンは「美しい冠」と言われる町で豊かな生活をしていました。美しい着物を着て町を歩き回り、美しいレストランに入って外食をしました。日ごろから趣味生活を楽しみ、週末には家族旅行もしました。時には海外旅行もしました。しかし、クリスチャンは信仰を守るために迫害を受けて苦しんでいました。キリストのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた人もいました。生まれ育った故郷も、職場も、失ってホームレス生活をしている人もいました。彼らは苦しみ、貧しさの中にいたのです。このようなクリスチャンの心の中を惑わすのはサタンの訴えです。人々から「イエス様を信じて何がよくなったのか、ますます貧しくなり苦しむばかりではないか」とののしられると、弱いクリスチャンの心は揺れ動きやすくなりました。実際にサタンに惑わされ、ののしられて信仰から離れていく人もいたでしょう。もし、この世ですべてが終わり、復活もないなら、彼らの選択は正しかったし、彼らこそ賢い人でしょう。そして、迫害の中でも死に至るまで信仰を守るクリスチャンこそ哀れな者たちです。特に迫害下にあるスミルナの教会こそ哀れであり、惨めな人たちでしょう。しかし、イエス様は「初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方」なのです。このイエス・キリストのうちに最後の勝利があります。イエス様のうちに真の栄光があります。私たちが受ける報いと栄光を考えると、今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものです(ローマ8:18)。その証拠はイエス様の復活にあります。イエス様は私たちの罪のために十字架にかかって死なれましたが、死者の中からよみがえられました。死んで、また生きた方なのです。ですから、イエス様は苦しみと貧しさの中にあるスミルナの教会にご自分を「死んで、また生きた方」と紹介されました。ではイエス様はスミルナの教会をどのように賞賛されましたか。

?.イエス様の賞賛
9節をご覧ください。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。——しかしあなたは実際は富んでいる。——またユダヤ人だと自称しているが、実はそうではなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。」とあります。イエス様は彼らに二つのことを賞賛されました。
一つ目は、彼らが苦しみと貧しさの中でもよく信仰を守っていたことです。彼らが苦しみと貧しさの中にいたのは、もちろん迫害を受けていたからです。無労働、無能力のためではありません。不真面目な生活のために貧しくなったのでもありません。信仰を守るためであり、迫害のために貧しくなりました。使徒の働き2章に記されているとおりに、自分の財産を持って人々をもてなし、教会のために、宣教のために、献身する信仰生活の中で貧しくなっていました。特に当時は迫害が激しく財産が奪われる時もあったでしょう。パトモスという島に流されているヨハネのような聖徒たちは全財産を失ったでしょう。ところが、イエス様は、彼らが富んでいるとみなしておられます。イエス様はあなたがたこそ富んでいるのだと賞賛しておられるのです。ここで、私たちは、イエス様の評価が私たち人間の評価とは大きく異なっていることが分かります。私たち人間は人の経済力で評価します。貧しい人は金持ちをうらやましく思い、金持ちは貧しい人を見下げています。しかし、主は目に見える財産よりも心の中にある信仰を見て評価されるのです。いつかは朽ちるものであり、消えていくものである財産より、信仰によって相続する天国こそ永遠の財産となるからです。マタイの福音書6:20節は言います。「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません」信仰によって天にたくわえる宝こそ永遠の財産になるのです。先週、乗客乗員約1370人を乗せたエジプトのフェリー「サラーム98」が沈没してタイタニック以来の惨事であると言われていますが、この世のものは、いくら丈夫なものでも、いつ消えるか知れないのです。ですから、ヤコブ先生はご自分の手紙の中でこう言っています。「神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者にされたではありませんか。(2:5)」とあります。神様が私たちを選んでスミルナの教会の聖徒たちのように、信仰に富む者としてくださり感謝します。信仰に富む者こそ、本当に富んでいる人です。
 二つ目は、ののしられてもよく忍耐していたことです。スミルナにはクリスチャンをののしる人々が多くいました。「ののしる」という意味は他人を肉体的に、精神的に、霊的に傷つけるために偽りを言うことです。当時、多くの人々は、ユダヤ人でもないのにユダヤ人だと自称しながらクリスチャンの信仰生活を馬鹿にしました。彼らは嘘と悪意を持ってクリスチャンの心に傷つけました。それでまだ1%にも足らなかったクリスチャンとしては彼らのののしりに耐えることができず、信仰から離れていく人たちもいました。そこでイエス様は、スミルナでクリスチャンたちを迫害しているユダヤ人だと自称している人たちはサタンの会衆である、と言っています。「ユダヤ人だと自称している人」とは自分こそ正しいと思っている人のことです。私たちが信仰によって生きようとすると、世の人々の中にクリスチャンライフを馬鹿にする人がいます。特に私たちより年上の人、先輩、先生などは自分たちの価値観が正しいと思ってクリスチャンを無視します。この日本でも100人の中で99人はノンクリスチャンだから毎週礼拝をささげ、忙しい生活の中でも聖書勉強をし続ける人を無視する人がいるでしょう。彼らは偉い人、大学の教授であっても、イエス様がご覧になると、信仰生活をそこなわせる人です。また、彼らはサタンの会衆であると言われます。私たちは彼らの言葉にだまされることなく、信仰を守り通さなければなりません。そして、私たちがスルミナの教会のようにののしられていても忍耐しながら信仰によって生きているとイエス様から賞賛されます。

?.イエス様の警戒と慰め
スミルナの教会は苦しみと貧しさの中にあっても実は富んでいたと賞賛されるほどの霊的な価値観を持って生きていましたが、警戒するべきこともありました。そこで、イエス様は彼らを警戒し、励ましておられます。
10aをご覧ください。「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。」とあります。スミルナの教会は苦しみの中で信仰を守っているものの、心の中に恐れがあったようです。特に、イエス様がご覧になったとき、彼らのうちのある人たちが牢に投げ入れられるようなことがあると、恐れて信仰から離れそうになっている人たちもいたようです。そこで、イエス様は彼らに「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない」と言われます。人間は特別な迫害を受けなくてもよく恐れるものです。それで聖書に「恐れるな」という言葉が365回も記されていると言われます。それはアダムの犯罪以後の人間が罪のために弱くなったので神様が毎日人に向けて「恐れるな」とおっしゃっておられることだそうです。ましては迫害の中で恐れずにいられるでしょうか。ある程度の苦しみを忍耐心によって我慢したとしても苦しみ続けられると、人の心も弱くなるものです。権力ある者たちが同じ信仰の仲間を牢に投げ入れていく現実の中で恐れずにいられるでしょうか。しかし、イエス様は「苦しみを恐れてはいけない。」と言われます。仲間に続いて自分が牢に投げ入れられる苦しみがあっても恐れてはいけないということでしょう。苦しみを覚悟しなさいということです。
クリスチャンは迫害の中で苦しみを受けるということです。イエス様は、「わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。(マルコ13:13)」と言われました。また、?テモテ3:12節を見ると「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」とあります。でも、それは神様が私たちクリスチャンを苦しめるために許されたものではありません。「見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。」とあります。クリスチャンへの迫害の背後には、悪魔がいます。悪魔が、教会への迫害の源となっているのです。また、それは世々限りなく続くのではありません。「あなたがたは十日の間苦しみを受ける。」あります。「十日」というのは、試みられるときの期間のことでしょう。ダニエル書1章を見ると、ダニエルは信仰の純粋性を守るために王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願いました。すると、宦官の長は栄養のある物を食べなかったためにダニエルが同年輩の少年より元気がないのを見られると自分が罰せられるのではないかと恐れました。そこで、ダニエル、宦官の長に「どうか十日間、しもべたちをためしてください。」とお願いしています。そして、十日の終わりになると、ダニエルの顔色は他の少年よりも良く、からだも肥えていました。つまり、試みられる期間の十日間がすぎると、ダニエルはもっと良くなっていたのです。
私たちも苦しみを恐れて自分の道に行ってしまうと、むしろますます苦しくなってしまい場合が多くあります。私はそういう話をよく聞きました。教会に試練があったとき、自分や自分の家族に苦しいことがあった時、信仰生活を続けることを恐れて教会から離れると、良くなるどころか、むしろ惨めになってしまったということです。しかし、苦しみを恐れずにダニエルのように信仰の中心を守るなら、ノンクリスチャンよりも顔色も良くなり、体も肥えるようになります。何をしても繁栄し、栄えるようになります。苦しみが襲ってくると、怖くなり、恐れてしまいがちですが、実はそれはしばらくの間だけです。苦難と迫害はいつまでも続くのではなく、終わりがあるのです。そして、苦しみを恐れないで信仰を守りきる人に大勝利があるのです。ですから、イエス様はスルミナにある教会にいのちの方向、栄光の方向を与えられます。

?.イエス様の方向
10bをご一緒に読んでみましょう。「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」本当に、心に留めておきたい御言葉です。イエス様は「苦しみを恐れないで死に至るまで忠実でありなさい」と命じておられます。イエス様が求めておられることは、「忠実さ」です。能力でも、タラントでもありません。経歴とか実力を求めることでもありません。私たちに求められることは忠実さです。そして、「死に至るまで忠実でありなさい」というのは「死ぬ時まで忠実でありなさい」という意味だけではなく、「殺されても忠実でありなさい」という意味だそうです(米田豊)。激しい暴雨の中で危険な航海をしている船の船長が危機に処せられた船の安全のために叫ぶ時「お!神様!あなたの心なら私たちを救うことも、沈没させることもできます。しかし、どんなことがあっても私は「舵」だけは正しくつかんでいます。」というような姿勢です。そういう姿勢で生きる忠実なクリスチャンにいのちの冠が約束されています。イエス様は「そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」と約束しておられます。イエス様は他に何か特別なことを願っておられるのではありません。イエス・キリストに対する忠実さです。秋の空のように変わる信仰ではなく、どんな状況の中でも初めの愛で愛し、キリストのその名を否まない、その忠実さに集中されています。しかも、死に至るまで忠実であることです。私たちのうちには、本当に忠実に主のみわざに仕えている主のしもべたちが多くいます。私は2004年、MSU修養会の時、中国の北京で活動しているある宣教師の証を聞きました。彼は中国で福音を伝えながら逮捕され、監獄の中で叩かれ、ののしられながら一ヶ月間過ごしました。最初は中国人に対する憤りと憎しみのために苦しかったそうです。しかし、ある主日にセメントの上にうつ伏せになって祈るとき、自分のために十字架の上で御血を流しておられるイエス様の御姿を見て彼らを赦し、愛することを決心しました。結局、彼は韓国に追放されました。すると、今度は名字の綴りを変えてパスポートを作り、再び中国の宣教師として入国しました。そして、学生たちに聖書を教えました。彼はまた逮捕されて監獄に投げ入れられました。そして、釈放されると、また追放されました。こうなると、どうするでしょうか。皆さんならどうなさるでしょうか。驚くべきことに彼はまた、名字も名前も変えてまた中国に行きました。そして、中国宣教のために中国人の姉妹と結婚しました。そして、中国の学生たちに聖書を教えています。もし、彼に出会ったら、何と慰めることができるでしょうか。でも、彼は力強く証しし、中国宣教のために忠実に働いています。彼にいのちの冠が待っているでしょう。
 スミルナの教会にはこのイエス様の方向に忠実に従ったヨハネの弟子がいました。その名はあの有名な殉教者「ポリュカルポス」です。死に至るまで忠実であったこの尊敬すべき指導者はAD155年2月23日にフィラデルフィヤの聖徒11人とともに焼かれていきました。ユダヤの歴史家ジョセフスが書き記した彼の殉教物語は、非常に有名です。スミルナには大きな円形競技場があったそうですが、ユダヤ人は、他の異邦人を扇動して、彼をローマに訴えることに成功し、ポリュカルポスはそこに入れられました。それで、90歳代になっていた彼は、あの円形競技場で十字架上の火刑に処されました。その時、死刑執行者はこう言ったそうです。「老人が死ぬのを見たくない。ただキリストを否んで、自由にされなさい。」けれどもポリュカルポスは言いました。「80年以上、私は主にお仕えしてきました。一度たりとも、主は私を否むことはありませんでした。私もこの方を否みません。」死刑の執行者は、「火力を上げよ。」と命じました。すると、ポリュカルポスは、「あなたが経験する火よりは、熱くないでしょう。少しも恐れないから勝手にしなさい。」と言いました。そこで、彼らはポリュカルポスを火刑に処しました。結局、ポリュカルポスは一握りの灰になってこの世から去りました。しかし、ポリュカルポスの殉教の結果はキリスト教の勝利でした。スミルナ教会は尊敬すべき指導者を失いましたが、この出来事によってノンクリスチャンはクリスチャンを非常に恐れるようになりました。また、ポリュカルポスの殉教はアジアでの迫害に終止符を打たせ、キリストに対する信仰を公開的に告白できなかった弱い聖徒たちに大きな信仰の勇気を与えました。どんなに美しい信仰でしょうか。どんなに忠実な信仰でしょうか。私たちも死に至るまで忠実であるように祈ります。

結論的に11節をご覧ください。「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」とあります。「第二の死」というのは、黙示録20章に出てきます。白い大きな御座が現われて、死とハデスが死者をはきだします。復活した不信者たちは、ここでその行ないによって父なる神様からさばかれます。そして彼らは火と硫黄の池に投げ込まれます。これが第二の死です。肉体の死ではなく、死んだ後に、永遠に神から離れていることを意味します。スミルナの人は死にますが、けれども第二の死を経験しません。イエス様が弟子たちに言われました。「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。(ルカ12:4?5)」。 私たちが殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる主だけを恐れ、どんなときでも苦しみを恐れずに死に至るまで忠実であるように祈ります。死に至るまで忠実であることが、今日、私たちにイエス様が与えてくださるいのちの冠への方向です。いのちの冠を目指していつまでも忠実でありましょう。殺されても忠実に信仰を守り通すことができるように祈ります。

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