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マタイ1 インマヌエルのイエス様

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/25 (2664 回閲覧)
1997年聖誕メッセージ第1講

 

インマヌエルのイエス様

 

御言葉:マタイの福音書1:18?25

要 節:1:21「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、 

    ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

 

 今年ももう12月になりました。今日から三週間にかけて聖誕の御言葉を学びます。今日のメッセージはヨセフの立場からの処女降誕物語です。また、マタイの聖誕メッセージです。今日のメッセージを通して三つのことを学びたいと思います。第一に、処女マリヤを通して聖霊によってお生まれたなるイエス様について、第二に、罪が及ぼす影響と救いの道について、第三に、インマヌエルのイエス様について学びます。今日の御言葉を通してインマヌエルのイエス様による豊かな恵みが皆さんに与えられるように祈ります。

 

?。聖霊によって胎に宿られたイエス様(18ー20)

 

 18節をご覧ください。「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。」これから二千年の昔、美しいガリラヤの湖がある町にヨセフとマリヤが住んでいました。彼らは互いに愛しあっていました。それでヨセフとマリヤは婚約しました。ユダヤの婚約は法律上の夫婦となることでした。この婚約の期間は一年ほどで、婚約を取り消すためには離婚手続きが必要でした。もし婚約期間中男が死んだ場合には女は「やもめの処女」と呼ばれました。この婚約期間が終わってから、婚礼を挙げ、実際の夫婦生活に入ることができました。ヨセフは貧しい大工でしたが、ダビデ王の子孫でした。彼は王の子孫らしい事柄を身に付けて体も心も信仰も丈夫な青年でした。マリヤは山中の百合のような純粋な女性でした。ふたりは結婚の日を待ち望みながら日々を過ごしていました。ヨセフは大工の仕事をしながらマリヤのことをぼーと考えているうちに槌で自分の指を打ってしまう時もありました。しかし、マリヤを考えると痛みはすぐ消えました。彼は夕焼けの燃える太陽を見ながらマリヤに向かう自分の愛もそのように燃えていると思いました。丸いお月様を見ている時にはマリヤの顔がその中に現われました。するとヨセフは「お!マリヤ。」と歌いました。

 ところが、これは何と言うことでしょうか。ある日からマリヤのお腹が段々大きくなっているのではありませんか。彼は最初にマリヤがご飯を食べすぎてお腹が出ているかなと思いました。しかし、そうではありませんでした。マリヤはみごもっていたのです。ルカの福音書1:31節を見ると御使いガブリエルがマリヤに現われて「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」と言いました。マリヤは御使いの言ったことをヨセフに告げなかったようです。ヨセフはマリヤが妊娠したことを聞いて「そんなはずがない。」と思いました。しかし、マリヤがみごもっていることは段々明らかになりました。ヨセフはマリヤが不倫をしたと思うとどんなに大きなショックだったでしょう。当時、旧約の律法によると姦淫の罪を犯した人は死刑に処せられました。申22:24に「ふたりを町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。」と言っているとおりです。もし、ヨセフが感情的な人だったならマリヤを縛って人々の前に連れて行ってそのようにしたでしょう。しかしヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めました。「正しい人」は、ヨセフが真に敬虔なユダヤ人であることを意味します。彼は「神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた」ザカリヤとエリサベツ(ルカ1:6)と同じような人でした。彼にはマリヤをあわれむ心がありました。

 20節をご覧ください。ヨセフがこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言いました。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」ヨセフの決心が実行される前に、神様は介入されました。神様はご自身の時を知っておられ、その時が到来すると問題解決の道を与えられます。ヨセフは神の御子の母親となる者を守り、救い主誕生という救済史の大ドラマに大きな役割を果たすようになります。御使いはマリヤがみごもったのは聖霊によるのだと言いました。それでは処女マリヤが聖霊によってみごもったことにはどんな意味があるのでしょうか。

 第一に、預言の成就です。処女マリヤが聖霊によって救い主をみごもったことはある日突然起こった出来事ではありません。神様は人類を罪と死とサタンの力から救うメシヤを女の子孫から与えると創世記3:15節で約束されました。それは将来メシヤが処女のからだを借りてこの世に来ることを暗示しています。それからイザヤは紀元前八世紀に次のように預言しました。「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名付ける。」(イザヤ7:14)。それから定めの時が来て神様はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました(ガラテヤ4:4)。イエス様は処女マリヤからお生まれになることによって聖書の預言が成就されました。

 第二に、イエス様が処女マリヤを通して聖霊によってお生まれになるのは人類の救いのみわざを成し遂げるための神様の知恵です。人類を罪から救うためには罪のない人が必要でした。ところが、アダムの子孫であるすべての人は罪人として生まれます。イエス様は聖霊によって宿るようになりました。イエス様は本来神様である方です。また私達と同じ人間として来られます。しかし、罪のない方です(ヘブル4:15b)。イエス様は神様であり、罪のない人として神様と人との間の唯一の仲介者となることができます。?テモ2:5は次のように言っています。「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」罪のないイエス様が処女マリヤからお生まれになったのは人類を救うための神様の知恵でした。

 第三に、処女降誕は神様の力でした。人々は処女降誕は信じられないと言います。確かに常識的に考えて見るとそれは信じられないことです。聖霊によって処女がみごもることは人間の理性では理解できない神秘的なことです。イエス様をみごもるようになったマリヤもそれが理解できなかったので御使いに言いました。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」(ルカ1:34)。すると御使いは答えて言いました。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。神にとって不可能なことはありません。」(ルカ1:35、37)。聖霊は神様の創造の力であり、天地創造のわざをなされました(創1:2、詩33:6)。この創造の働きによってメシヤはマリヤの内に宿ります。旧約にも、神様の介入によって誕生したイサクやサムエルなどの例があり、バプテスマのヨハネの誕生も神の働きによるものでした。不妊の女と言われていたエリサベツからバプテスマのヨハネが生まれたのです。しかし、イエス様の誕生には人間の父親が存在しません。これは神様が人となるために起こった出来事で奇蹟の中の奇蹟です。このような出来事は以前にもこれからもない唯一の出来事です。

 私達は毎週の礼拝の時に使徒信条を唱えます。「われは天地の造り主、全能の父なる神を信じ、われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信じ」これは神様が天地を創造された全能なる方であり、イエス様が私達の主であり、キリストであることの告白です。ところが、イエス様に対する信仰告白の中で最初の告白は「主は聖霊によりおとめマリヤより生まれ」です。これは信仰の基礎になる非常に大切な信仰告白です。それを信じられないなら罪の赦しも復活も裁きもすべて信じられないことになります。異端思想と自由主義の神学者達は処女マリヤから聖霊によってイエス様が生まれたことを否認します。それは信仰の基礎を崩すことであり、神様に敵対する行為です。

 

?。罪から救ってくださる方、イエス様(21ー25)

 

 21節をご覧ください。「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」この御言葉はイエス様がこの世に来られた目的が何かを教えています。「イエス」という名は救い主という意味です。「ご自分の民」は神の選民ユダヤ人を指します。そして、この選民を通して、救いはすべての人に与えられます。イエス様はローマの圧政から救う者として来られるのではなく、イスラエルのすべての悪の根源である「罪」からの解放者として来られます。イエス様はご自分の民をその罪から救うためにこの世に来られました。ここで私達はまず罪とは何であり、その性質と結果は何であるか、そしてどのようにしてイエス様は私たちを罪から救ってくださるのかを学びたいと思います。

 第一に、罪とは:罪とは関係性の破壊だと定義することができます。「罪」は「的をはずす」意味であり、したがって、神様の法則にはずれた生活を意味します。一般的に社会で通用する法律を違反すると社会との関係性を破壊したことで罪になります。たとえば飲酒運転をする人が事故を起こすと交通違反の罪を犯したことになります。嘘をついたり、不品行などは人間相互間の関係性を破壊することで道徳的な罪になります。今日の人々は主に社会的な概念の罪だけを罪として扱います。法律は宗教的な概念の罪を排除しています。その結果、罪は場所と時代の状況によって変わる相対的なものとして認識されるようになりました。このように罪を相対的に認識すると罪を正しく理解することができません。罪は宗教的な概念として神様との関係の中で認識する時のみ正しく認識することができます。神様との関係の中で罪を認識できる一番基本的な戒めがモーセの十戒です。人々は内面の貪欲を罪として思っていません。心から何百人を殺しても、いくら心の中で姦淫の罪を犯してもそれを罪として扱いません。しかし十戒は貪欲は罪であると明らかにしています。イエス様は女の人を見て情欲を抱く人はすでに姦淫の罪を犯した人であり、兄弟を心から憎む人や悪口を言う人に対しては殺人の罪を犯したと言われました。神様は罪を犯しうる原因から罪として扱われました。私達が神様の御言葉の前で自分の罪を認識する時にその罪から救われることができます。罪を罪として認識することは非常に大切なことです。自分が罪人であることを深く悟れば悟るほど救い主イエス・キリストを待ち望み、イエス様の誕生を喜ぶようになります。自分が罪人であることを悟らなければイエス・キリストの誕生は何の関係もありません。ただクリスマスの雰囲気だけを楽しむ人になります。

 第二に、罪の性質と結果:罪は目には見えませんが一人の人間の人格とたましいを破壊し、家庭を破壊し、社会を破壊する恐ろしい力を持っています。罪はよく癌にたとえられています。癌の細胞は体の秩序とバランスを崩して結局その人を死なせます。癌の細胞は統制ができません。また、不治の病です。罪もこのような性質を持っています。

 人は誰でも神様のかたちに似せて造られたのできよく、正しく、恐れなく生きることを望んでいます。しかし罪の奴隷となった人間はそのようにできないのです。

 また、罪は影響を及ぼします。静かな湖に石を投げると波が出来て段々広がるように罪も回りに段々広がり影響を及ぼすようになります。影響力が大きい人であればあるほど罪の影響力も大きくなります。指導者、特に宗教指導者が罪を犯すとその影響力は大きいのです。アダム一人の罪はカインに及ぼされ、ついに全人類に及ぼされました。ところが、罪は毒薬を塗った飴のように犯す時には甘い快楽があります。人々はこのような罪から来る甘い快楽を求めて段々罪を犯すようになります。罪を犯すと段々中毒者となり、自らの力によってはそこから免れることができなくなります。人々は罪を犯すことは大したことではない思います。また、自分の意志や力によってそれを治めることができると思います。それで密かに罪を犯してそっとその罪から逃げて二度と同じ罪を繰り返さないと決心します。しかし、それが思い通りにならないのです。一度罪を犯すと二度、三度繰り返して罪を犯すようになり、結局その罪の奴隷となってしまうのです。まるで麻薬のようです。このように罪は私たちを無気力にし、偽り者とし、惨めにします。罪には必ず苦しみが伴います。また、罪の代価は死です。死とは肉体の死と霊的な死、すべてを意味します。霊的な死は火と硫黄との燃える池の中で永遠に苦しむ第二の死です。人間は罪を犯すことによって永遠に滅びるようになりました。このような惨めな人間を誰が救ってくれるのでしょうか。

 第三に、救い主であるイエス様:人々は昔から罪の問題を解決するために非常な努力を尽くして来ました。罪を忘れようとして苦行したり、善行を通してその罪を償おうとしました。罪を忘れようと髪の毛を剃ってお寺の中に入りました。しかし、このようなあらゆる人間の努力にも関らず罪の問題は少しも解決できませんでした。除夜の鐘は108回打つようですが、それは人間の煩悩が108あるからだそうです。そのようにいくら鐘を打っても人間の罪による悩みや苦しみは消え去りません。人間は罪のゆえに絶えず煩悩する人生を暮らしています。

 このような人々をあわれみ、神様はひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。イエス様は私達の罪のために十字架につけられ死なれることによって私達のすべての罪の代価を払ってくださいました。そして、誰でも自分の罪を言い表わし、イエス・キリストを信じるならその人の罪を赦し、神様の子供としてくださいました。このイエス様の十字架こそ人間の罪を解決できる唯一の特効薬です。十字架の福音は罪の問題を部分的に直すのではなく根本的に直します。それで使徒パウロは確信を持って次のように言いました。「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(?コリント5:17)。新しく造られた者となると、この世が新しく見えます。同労者の顔が天使のように美しく見えます。キリストによって新しくなった人は、全く身分が変わります。その人は罪の奴隷ではなく神様の子供になります。新しい価値観を持って暮らすようになります。新しくなった人はたとえ肉体が弱くてつまずくこともあっても根本的には罪の奴隷にならず、罪と戦うようになります。そして、段々栄光から栄光へと変えられて行くのです。段々神様のかたちを回復するようになります。十字架の福音だけが人間の罪の問題を根本的に解決することができます。孔子や釈迦は弟子達に真理を捜すように教えました。誰も自分が真理だと言っていません。彼らも真理を捜し求めていた一人の求道者だったのです。しかし、イエス様だけは弟子達に「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と教えられました。このイエス様こそが私たちをその罪から救ってくださる唯一の救い主となられる方です。   

 今日は罪の文化が普遍化された時代です。人々は文化という名のもとで自分達の罪を合理化し、罪による苦しみを忘れようとします。芸能人達は結婚する前から一緒に暮らし、妊娠していることを堂々と発表します。また、離婚することも平気でやっています。すると、それらが普遍化されて人々はそれらのことが当たり前のように思います。私達のクリスチャンはこのような罪の文化と戦わなければなりません。さらに健全な文化、神様中心の福音的な文化を創造して普及しなければなりません。私たちを通してこの時代神様中心の新しい文化が創造されることを祈ります。 

 第四に、インマヌエルのイエス様です。22、23節をご覧ください。「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私達とともにおられる、という意味である。)」この御言葉はイザヤが紀元前八世紀に預言した御言葉です。イエス様の誕生は神様が私たちを見捨てず、私達とともにおられる具体的な証拠です。

 インマヌエルに関する預言はイザヤが住んでいた時代、戦争の恐怖にさいなまれている民に神様が与えられた救いのしるしであり、愛のしるしでした。当時人々は神様の愛を疑っていました。彼らは神様に頼るより強大国に頼っていました。神様はこのような彼らを見捨てるしかありませんでした。しかし神様は彼らを相変わらず愛し、インマヌエルしてくださいました。歴史的に見るとイスラエルは続けて神様を捨てて自分勝手な道を歩みました。しかし、インマヌエルの神様はいつも彼らとともにおられました。そして、時になると預言の通りに処女マリヤの体を借りて、この世にお生まれになりました。イエス様は私達と全く同じ体を持ってこの世に来られました。私達と同じく罪の誘惑を受け、私達と同じく肉体的も精神的も苦しみを受けられました。イエス様は本来神様であられる方であり、罪のない方なのに、罪人とともにおられました。イエス様は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来られました。マタイはこのインマヌエルのイエス様に出会いました。彼は公認された罪人として人々に捨てられた人でした。彼はマタイの福音書を書くほどの知識人であり、取税人の試験に合格するほど有能な人でした。しかし、彼は利己的な人でした。その結果、彼は同胞から裏切り者、売国奴として呼ばれ、疎外された人生、捨てられた人生を過ごしていました。お金はたくさん持っていましたが孤独な人生でした。人々は彼を指差し、誰も彼を理解してくれませんでした。しかし、イエス様は彼のところに訪ねて来られ、彼を弟子として呼んでくださいました。そして、3年間ともにおられ、彼の心の病を癒し、彼を聖マタイにならせてくださいました。マタイはこのインマヌエルのイエス様のことを考えると感激するしかありませんでした。インマヌエルの愛が彼を新しく造られた者としたのです。

 イエス様は中風の人のように無気力になっている人、取税人のように利己的な人、サマリヤの女のように情欲の奴隷になっている人とともにおられ、癒してくださる方です。痛んだ葦を折ることもなくくすぶる燈心を消すことがない方です。神様が私達とともにおられる、それは聖誕です。今日はマタイのような人々が段々増えています。コンピュータの時代を生きている若者達は周りの人々との関係性を結ぶことを負担に思います。段々関係性が断絶され、孤独な人生を過ごしています。コンピュータのような機械と話し合いますが、真の満足はありません。人々は激しい競争の社会の中で生き残るために利己的な人生を過ごします。人々は誰かが自分を愛してくれることを願います。しかし真に理解し、愛してくれる人は誰もいない現実のことで絶望するしかありません。

 しかしイエス様はこのような私達とインマヌエルしてくださいます。イエス様はいつでもどこでも私達とともにおられます。私達の良い友であり、牧者です。イエス様は地上の生涯の後も臨在することを約束しておられます。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)。マタイの福音書は文字どおり「インマヌエル」で始まり、「インマヌエル」で閉じています。

 私達はインマヌエルのイエス様がおられるので悲しみを打ち勝つことができます。孤独に打ち勝ち、罪の誘惑に打ち勝つことができます。インマヌエルのイエス様がおられるので委ねられた使命を果たすことができます。私たちを罪から救って下さった救い主イエス様、インマヌエルイエス様をほめたたえます。

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