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BibleMsg > ローマ人への手紙 > 09Rom17M やみのわざを捨て、光の武具をつけなさい

09Rom17M やみのわざを捨て、光の武具をつけなさい

投稿者: Calebkim 掲載日: 2009/4/1 (2494 回閲覧)
2009年ローマ人への手紙第17講

やみのわざを捨て、光の武具をつけなさい

御言葉:ローマ人への手紙13:1?14
要 節:ローマ人への手紙13:12「 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。」

先週、私たちは「霊的礼拝」を中心にしてクリスチャンの一人としてどのように生きるべきかについて学びました。
今日は社会人のひとりとして生きているクリスチャンの生活について学ぶことが出来ます。三つに分けて皆さんとともに考え学びたいと思います。

良き社会人になる資格の一つ目は「上に立つ権威」に従うことです(1-7)。
1をご覧ください。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」とあります。社会人のひとりとして生きるクリスチャンに求められることの一つ目は権威に従うことです。「従うべき」と言う言葉はあまり聞きたくないでしょう。権威主義者で高慢な指導者にも従うべきだと言われると、嫌になるかも知れません。ところが、聖書は「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。」と言っています。ペテロの手紙第一の2章18節をみると「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」とあります。優しい主人だけに従うのではありません。厳しくて一緒にいたくもない人にも従いなさいということです。自分中心に、自分の感情や自分の状態によって上に立つ権威に従うことなら、聖書で教える必要もないでしょう。それはクリスチャンの態度ではありません。クリスチャンは「権威はすべて、神によって立てられたものだ」と信じて、上に立つ権威に従うべきです。気に入らない人に対しても上の権威に従うべきなのです。
事実、この世には権威者らしくない権威者も多くいます。その人の権威に従うことはなかなか難しいことです。しかし、もし、皆が上に立つ権威を認めないなら、この世の中はどうなるでしょうか。家庭での父の権威、大学での教授の権威、国での総理大臣の権威を認めず、従わないならどうなるでしょうか。家庭の秩序も、大学の秩序も崩れてしまうことでしょう。さらに、国全体が無法天地になってしまうはずです。結局、国も、自分も滅んでしまいます。
自分にある権威を正しく使わなければその人に責任があります。神様が権威を与えた人に責任を問われるでしょう。神様は全人類、全宇宙において最終的な権威者です。神様はその権威によって世界を支配し、統治しておられます。ですから、クリスチャンは、家庭には夫、父親に治める権威を与えられ、教会には牧師に聖徒たちを導く権威を与えてくださったことを信じて従うのです。学校や職場においても、先生や上司に神様が与えられた権威を認めて従うのです。
2節をご覧ください。「したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」とあります。権威に逆らっている人は、神様の定めにそむいているのだと言われています。そして、そむいた人は自分の身にさばきを招くと言っています。サタンはこの事実をよく知っているようです。それでサタンは二つの社会を攻撃します。まず家庭を攻撃します。夫の権威が崩れて離婚するなら、その夫婦だけではなく、子どもたちも不幸になります。それは子どもが属している学校や社会にも広がっていきます。それでサタ家庭での父親の権威が崩されることを狙っています。またサタンは教会の成長を止め、破壊させようとしています。教会の指導者の権威が崩れると、聖徒たちは散らされていきます。一つの教会が崩れるとそのうわさは急速に広がります。だから、サタンはどうしても上に立つ権威を引きおろそうとします。牧師の権威が崩れると、教会を導くことができなくなるでしょう。国や社会の指導者の権威も同じです。今、日本は総理大臣の権威が地に落ちてしまいました。それで、経済不況が深刻化しているのに政治も混迷しています。私たちはクリスチャンである麻生総理が権威を回復し、経済も回復するように祈る必要があると思います。麻生さんのためよりも、日本のためです。この日本の各分野に立てられた指導者たちの霊的権威、正しい権威が認められる社会になると、サタンは働けません。人々が本当に権威に従い、命令に従い、善を行なう社会には秩序が保たれます。上に立つ権威に従う社会は、実に祝福された社会となるのです。
3-5節をご覧ください。「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。」とあります。私たちクリスチャンは国家の法律に従わなければなりません。法律を遵守すれば、その人は良心的な市民であるとほめられます。ある国の法律は、他の国とは異なる場合があります。たとえば、日本では道路は左側運転ですが、韓国では右側です。言うまでもなく、私たちは、自分が住んでいる国の規則を守るべきです。私が韓国人だから右に走るとするなら、交通事故が起こるでしょう。私たちが、各国の法律に従う必要を、理解するのは、非常に重要なことです。
6,7節をご覧ください。「同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。」納税の義務を果たさなければいけないと、パウロは言っています。これは実に明解であります。私は税金を使う道路工事を何度も繰り返しているのを見て、「なんで、こんなに税を払わなければいけないのか!」と疑問に思う時があります。去年、NHKで問題があった時は、私もNHK受信料を支払いたくなくなりました。しかし、パウロがこの手紙を書いていたときのローマ帝国を考えてみると、ローマは今の日本に負けないほど腐敗していたことでしょう。それでも税金を払うように教えています。だから、腐敗した政府であっても、腐っているNHKであっても私たちは神様に従うゆえに、この国の法律を守り、税金を納めなければならないことを学びます。

良き市民になる資格の二つ目は互いに愛し合うことです(8-10)。
8節をご覧ください。「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。」とあります。パウロは、「何の借りもあってはいけません。」と言っています。これは、「借金をいっさいしてはいけません、」と言うことではありません。約束した日までに借金を返済しなければいけないことを意味しています。もちろん、神様が試練を通して経験させるのでなければ基本的に借金は良くないことです。ある場合は、神様は私たちに試練を通して、借金の重荷を経験させられます。苦しい状況の中でも神様に信頼するように訓練される時があるのです。昨日の日ごとの糧の御言葉を見ると、ダニエルは獅子の穴に投げ込まれて一晩を過ごしました。しかし、聖書には「彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼していたからである。(6:23)」とあります。獅子の穴に投げ込まれるような試練の中でも神様に信頼していたダニエルは救われたのです。ですから、やむを得ずに負債があるなら、その中でも全能の主を信頼して負債から抜け出すように、主に求めなければなりません。なぜなら、負債は霊的生活の上に、恐ろしい程の影響があるからです。神様は私たちが必要としている資金を豊かに流れ出してくださいます。たとえ、それは、すぐではなくても、私たちが神様に従ってさえいれば、神様は資金を調達してくださいます。
私たちは去年、この教会堂に引越して来たのですが、まだ銀行ローンがあります。何の借りもないように、主に祈り求めて行きましょう。私たちが主のみわざに忠実でありながら主に求める時、必ず主が資金も調達してくださることを信じます。私たちの間で力あるわざと不思議としるしを行なってでも調達してくださいます。
 そしてパウロは、「互いに愛し合うことについては別です。」と言っています。というのは「互いに愛し合うことについては借りがあっても良い」と言うことです。
厳密に言えば、私たちは皆、愛の負債を負っています。誕生の時から私たちは親に返すことのできない負債を負って生まれます。
事実、私たちの母は産みの苦しみを経験しながら私たちがこの世に生まれるようにしてくださいました。それだけではありません。成長して自立するまでどれだけの養育費、教育費、医療費がかかったでしょうか。それも負債です。親だけではありません。私に関わった友達、素晴らしい先生や牧者たち、良き隣人たちがよくしてくださいました。そういう方たちの助けと愛があったからこそ、今の私がいるのです。救いに関しては言うまでもありません。私が救われるためにしたことは何もありません。全く神様が一方的に私たちを愛してご自分のひとり子イエス・キリストを世に遣わされ、十字架にかけて死なせられました。その十字架の死によって私のような者も救われています。私たちには返すことのできない愛の負債があるのです。ですから、パウロは「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。」と言っているのです。「あなたがたは、すでに返すことのできない愛の借りがあるのだ。それは無くすことができない。だから、あなたがたが愛されてきた、その愛によって互いに愛し合わなければならないのだ」と言っているのです。本当に、愛されていること、救われていることを確信しているなら、私たちもを赦し、愛するしかないでしょう。こんなに愛されているのだから愛さなければならないと思うのです。
マタイの福音書18章にあるイエス様のたとえ話を読んでみると、主人は、まず一万タラントの借りのあるしもべに返済する能力がなかったので、彼をかわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやりました。ところが、そのしもべは、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会うと、彼はその人をつかまえ、首を絞めて「借金を返せ」と言いました。その人がもう少し待ってくれれば返すと言っても、彼は承知せず、借金を返すまで牢に投げ入れました。そこで、主人は彼を呼びつけて言いました。「悪いやつだ。お前があんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がお前をあわれんでやったように、お前も仲間をあわれんでやるべきではないか。」
このたとえから、私たちは愛されただけに愛さなければならないことを学ぶことが出来ます。無条件で愛されているのだから、私たちも無条件で愛するのです。パウロはその愛と律法の関係も説明してくれます。
9,10節をご一緒に読んでみましょう。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」
 モーセをとおして与えられた律法があります。その代表が十戒であり、その他にもさまざまなおきてがありました。けれども、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という律法の中に要約されます。イエス様ご自身がこのことを語られました。律法の中でもっとも大切な戒めは、「主なる神を愛する」ことと、「自分自身のように隣人を愛する」ことであると言われました。もし、本当に神様を愛しているなら、他の神々をつくって偶像崇拝することはないでしょう。神様を愛するなら、神様の御言葉を守ります。「父母を敬いなさい」と言う御言葉に従って親を大事にし、愛します。もし、本当に隣人を愛しているなら、その人の妻と姦淫の関係に入ることは考えもしないでしょう。もちろん殺しません。その人のことを愛しているなら、盗むこともしません。むさぼりもしません。本当に隣人を愛していれば、たくさんある律法をすべて守っているのです。だから、愛によって律法を全うしているとパウロは言っているのです。ですから、私たちクリスチャンは社会生活において神様を愛し、隣人を愛する愛の使徒として生きなければなりません。
イエス様も言われました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

良き市民として生きる三つ目の資格は自分に光の武具をつけることです(11-14)
11節をご覧ください。「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。」とあります。パウロは、「救いは近づいている」と記しています。主の再臨の時が近い、ということです。わたしたちの周囲で起こっていることすべてに、無感覚で鈍感に生きることは難しくありません。ある人は「地震が起こっても生き残る人がいるし、飛行機が墜落しても生き残る人がいるでしょう。さあ、飲み食いしようではないか。」と言います。しかし、パウロが言っているように、「主が来られるのが近い」と思わなければいけません。パウロは、「今がどのような時か知っているのです」と言っています。今の時代がどのような時であるのか、私たちは知らなければいけません。確かなことは、私がイエス様を信じたその時よりも、今がキリストの再臨に近づいているということです。そこで、パウロは、「あなたがたが眠りからさめるべき時刻が近づいているのです。」と言いました。これは霊的に眠っていることです。私たちは霊的に無感覚で鈍感になっているなら悔い改め、霊的に眠っている状態から目覚める必要があるのです。
 12節をご一緒に読んでみましょう。「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。」パウロは決断を促しています。夜がふける、というのは、暗やみのわざが行なわれている、ということです。けれども、夜がふけているからこそ、昼が近づいている、とパウロは言っています。ここが、私たちクリスチャンが理解しなければいけない、大切な真理です。夜が一番暗くなるときは、夜明け前であると言われています。最近では3時から4時のときでしょう。日が出てくる直前が、もっとも暗くなるときなのです。ですから、私たちが、この世に生きているときに、もっとも希望が持てないような状況、がっかりしてしまうような状況にいるときにこそ、大いなる希望が近づいていることを知ることができるのです。神様の正義に照らしたら、私たちの周りではとんでもないことが次々と起こっています。その上、私たちの伝道もなかなか難しくなっています。けれども、それはむしろ、主が再び来られる時が近づいていることを示しているのです。今、日本だけではなく、世界的に不況が続いています。だからこそ、私たちは、昼が近づいている、と期待することができるのです。
 このような状況をふまえて、パウロは、私たち自身に対して果たさなければいけない責任について話し始めます。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。と強く決断を促しているのです。そして、「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」と命じています。決断して、命令に従いましょう。
 私たちはこれまで、この社会の中に生きていて、政府に対する責任、隣人に対する責任について学びましたが、ここでは、この社会に生きているときの、私たち自身に対する責任、個人の責任について語られています。それは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けることです。エペソ書6章にも書いてあります。私たちは神の武具を身に着けなければいけません。真理の帯を締めて、正義の胸当てを着けて、救いのかぶとをかぶります。平和の福音の備えのはきものをはき、信仰の盾を取って、みことばの矢を放ちます。このように、私たちは、キリストの兵士として生きることが勧められているのです。私たちは信仰の戦いをしています。
 この世は、パーティーをする、酔っ払うことで、気を晴らそうとします。しかし、私たちは、そのような行ないに加わってはいけません。インターネットが発達して淫乱、好色がはびこる世になっていますが、これらからも離れなければいけません。さらに、争いとねたみからも無縁の生活をしなければいけません。そして、主イエス・キリストを身に着けるのです。私たちが、これらの戦いを行なうのではなく、私たちが主によりすがって生きることによって戦うのです。私たちのうちには、何もよいものがありません。けれども、キリストにあって、私たちは完全にされています。この方を見上げて、この方の名を呼び求めて、イエス様の御名によってすべてのことを行ない、イエス様にあって休みます。すべてはキリストであり、キリスト・イエスを私たちは身につけるのです。

このように私たちは、自分たちが社会の中に住んでいることを知ることができました。社会に対して無関心ではなく、上に立つ権威に対しても、隣人に対しても、また自分自身に対して責任を負っていることを知ることができました。私たちが目をさますときが来ています。どうか、光の武具をつけ、主イエス・キリストを着て生きるように祈ります。キリストの愛、キリストの謙遜、キリストの知恵を着るように祈ります。

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