日本UBF案内 祈りの課題 日ごとの糧 メッセージ・説教一覧 問題集一覧 m

ユーザメニュー
日毎の糧
ログイン
ログイン
パスワード

  新規登録 |  
BibleMsg > 7ステップ > 7Step7 あなたはキリストです

7Step7 あなたはキリストです

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/14 (2523 回閲覧)
2004年7ステップStep第7講

あなたは、キリストです

御言葉:マルコの福音書8:27?38
要 節:マルコの福音書8:29 するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。

 神様がご計画の中で7Stepの勉強を通して神様とイエス・キリストに関する基本的な真理を教えてくださり感謝します。特に、7Step勉強を始めた目的と祈りの課題のとおりに新しい兄弟姉妹たちとの1:1聖書勉強ができるようになったことを心から感謝します。どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を1:1を始めた方たちに与えてくださるように祈ります。人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。さらに、このセンターが毎日1:1聖書勉強のためににぎやかになりますように祈ります。
今日は、7Step最後の御言葉ですが、クリスマスシーズンに、イエス・キリストに対する信仰告白を学ぶようになったことは感謝です。人知をはるかに越えた神様の導きを感じています。私たちは七講をクリスマスの御言葉として決めていませんが、神様は、このアドブェント(待降節)に、イエス・キリストについて深く考え、信仰告白をするように導いてくださっておられるからです(☆アドヴェントは4週間にわたって教会がキリストの降誕を喜び、そしてキリストが再び来られることを待望する期間です。11月30日にもっとも近い日曜日から始まり、クリスマスまでの4回の日曜日を祝います。)。
事実、クリスマスシーズンにおいても、私たちの人生においても一番大切に考えるべき方はイエス・キリストです。私たちによく知られているレオナルド・ダビンチ(1452-1519)には次のようなエピソードがあります。彼が43才になったときのことです。彼はイタリアのミラノの公爵ルドヴィーコ・イル・モーロの注文で、「最後の晩餐」を描くようになりました。3年間の作業を終えてほぼ完成された作品ができました。それで、友達に見せましたが、彼は絵の中にあるイエス様の右手にある杯を指しながら言いました。「この杯は本当に印象的であり、本物のような輝きがある。まるで生きている杯のようだ」とコメントしました。その時、ダビンチは、いきなり筆を取ってその杯を消してしまったそうです。友達はびっくりして「どうしてそうするのか」と質問しました。そこで、ダビンチは有名な言葉を言いました。「この絵の中で、どれも、どんなものも、イエス・キリストより大切なものがあってはならない」。これがダビンチの答えでした。
毎年、私たちはクリスマスを迎えています。今年もクリスマスシーズンになりました。クリスマスにかかわるものがあちこちに現われています。クリスマス・ツリー、クリスマスカード、クリスマスギフト、クリスマスケーキ、クリスマスイルミネーションがあります。クリスマススペシャルのテレビ番組や映画上映もあります。それらを楽しみながらロマンチックなクリスマスを過ごす方もいるでしょう。ロマンチックなクリスマス!いいですね。たまにはロマンチックな日を過すこともいいでしょう。しかし、クリスマスシーズンに忘れてはならない方がおられます。クリスマスシーズンの主人公イエス・キリストです。私たちの人生において、最も大切な方はイエス・キリストです。そしてこのキリストに対する信仰告白ほどに大切なこともありません。私たちはイエス様をキリストとして告白する時、それによって救われます。信仰告白によって永遠のいのちを得ます。
この時間は、それほどに大切な信仰告白について学びます。また、信仰告白してキリストに従う者の姿勢を学びたいと思います。どうか、聖霊によって信仰告白をし、キリストの従う決断も新たにすることができるように祈ります。

?.あなたはキリストです(27-30)
27aをご覧ください。「それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。」とあります。ピリポ・カイザリヤはヘロデ王の子、ビリポが皇帝アウグストに献上したことからピリポ・カイザリヤと名づけられたそうです。この地方は。ガリラヤ湖からは520メートルも高く、美しい避暑地としても知られていました。ここで有名なペテロの信仰告白がなされました。
27bをご覧ください。イエス様は最初、弟子たちに「人々はわたしをだれだと言っていますか。」と質問されました。弟子たちは、この質問に即答しています。まず「バプテスマのヨハネだと人々が言っている」と答えました。恐らく、この答えの背景にはヨハネが当時の人々に一番有名人として知られていたからでしょう。今年、日本で一番に人気ある言葉は「ヨン様」ですね。当時、イスラエルでは「ヨハネ」でした。ヨン様が東京に来ると、大騒ぎになりますが、ヨハネがヨルダン川に行くと大勢の人々が集まって来ました。彼らはただ、ヨハネの顔を見て喜ぶのではなく、メッセージを聞いて悔い改めました。人々はイエス様をそのような有名人、力ある説教者として考えていたのです。次の「エリヤ」は言うまでもなく、旧約聖書を代表する預言者です。彼は力ある預言者でした。人々はイエス様が五つのパンと二匹の魚だけで五千人も食べさせた奇跡や盲人の目を開けてくださったことなどを見てエリヤのように奇跡を行なう人だと思いました。また「預言者のひとりだ」という人もいました。彼らはイエス様を神様から遣わされた預言者として見ていました。一番正解に近い答えだと思います。ほかの人々は人気者、有名人、力ある者として見ていましたが、この人たちは神様から遣わされた方、神様が特別に選んで用いられる方として見ていたからです。しかし、イエス様は彼らの見解にも満足できませんでした。
そこで、イエス様は質問の対象、答えるべき人を変えて質問されました。
29節をご覧ください。「するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだといいますか。」とあります。「人々が言っていることはそれでいいよ。彼らが、ただの人気者として見ていても、偉大な先生、特別な能力を持っている人として考えていていいのよ。では、あなたがたはわたしをだれだと言いますか」ということです。ここで、強調される言葉は「あなたがた」です。あなたがたはわたしを誰だと言うのか?と質問されたのです。今までわたしと侵食をともにして来たあなたがたはわたしをだれだと言うのか?悪霊を追い出し、病人を癒やす現場にいたあなたがた、五つのパンと二匹の魚で五千人を食べさせる奇跡を行なうときも、その現場にいたあなたがた、わたしから学び、わたしの力を経験したあなたがたはわたしをだれだと言いますか?
長い間、御言葉を聞いてきたあなたがた、何度も賛美し、祈ってきたあなたがた、7Stepの勉強もしてきたあなたがたは「イエス様をだれだと信じていますか?」ということです。これが今日イエス様が聞かれる質問です。イエス様は人の声ではない、あなた自身の声を聞こうとされました。すると、ペテロは答えました。
「あなたは、キリストです」 とても短い答えです。でもそれは正解でした。ペテロは見事に「あなたは、キリストです」と答えました。皆さんもいっしょに答えて見ましょう。「あなたはキリストです」そうです。イエス様はキリストです。キリストとはメシヤと同じ意味です。この告白はキリスト教のすべてのメッセージを含んでいます。イエス様はキリストです。「キリスト」とは「油を注がれた者」を意味します。旧約聖書を読んでみると、油を注がれた者には預言者、祭司、王がいます。預言者として油注がれた者は神様からのメッセージを伝えます。祭司として油注がれた者は民の代わりに神様の罪のいけにえ、罪過のいけにえ、和解のいけにえなどをささげる人です。罪人である人間は聖なる神様の御前に近づくことができませんでした。罪の問題を解決しなければ神様の御前に出て行くことができなかったのです。ですから、祭司はこのような人間のために神様に罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえをささげることによって神様の御怒りを和らげました。イスラエルの歴史において祭司は、とても重要な役割を果たしてきました。民の代わりに罪を贖い、神様と和解するためにいけにえをささげていたからです。でも旧約の祭司の働きは不完全なものでした。そこで、彼らは真の祭司を待っていました。神様が直接に油注がれることによって完全な祭司の役割を果たす方を待ち望んでいたのです。
ところが、ペテロはイエス様こそ、イスラエルが待ち望んできた完全な祭司だと告白しました。この「祭司」と言う言葉を今日、私たちになれている言葉に変えると「救い主」です。つまり、ペテロは「イエス様!あなたは私たちの罪を贖い、救ってくださる救い主です。」と告白したのです。「私を罪から救って下さる方、神様の御前に近づかせてくださる方、まさに救い主です」ということです。
また、キリストが意味している言葉は「王」です。イエス様は祭司として私たちの罪を贖い、罪から救ってくださることだけではなく、私を支配し、統治してくださる王です。「イエス様は王です」という告白はイエス様が私の主、私の主人であるということの告白です。「私のすべては主のものです」と告白したことです。イエス様は私の主人、私の人生のすべてにおいて主権的に働かれる方、絶対的に支配して導いてくださる主です。
ですから、「イエス様はキリストです。」この告白こそ、キリスト教の告白です。イエス様をキリストとして発見した人、イエス様に出会って、イエス様をキリストとして信じている人がキリスト者です。教会に通っているからクリスチャンになるのではありません。イエス様をキリストとして信じている人、どんな場合にもイエス様に「あなたはキリストです」と告白する人がクリスチャンなのです。皆さんは信じますか?これは本当大切な告白です。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです(ローマ10:9,10)。」ペテロの信仰告白を聞かれたイエス様は弟子たちに今まで教えなかった一つの秘密を教え始められました。

?.イエス様についていく道(31-38)

31節をご一緒に読んで見ましょう。
「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長,律法学者に捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと弟子達に教え始められた。」
 イエス様は十字架の苦難と復活に関する真理を教え始められました。今までは弟子たち似この真理を公開したことがありませんでした。「あなたはキリストです。」という告白を聞いてから、イエス様は弟子たちがご自分の十字架の死と復活を受け入れる準備ができたと思われたようです。そこで、イエス様はこの偉大な真理、十字架の道と復活を弟子たちに啓示されたのです。このイエス様の教えは、イエス様がどうやってキリストになられるかについて示唆してくれます。
第一に、イエス様は真の祭司、救い主になるためには必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺されなければなりません。祭司の重要な責任は神様にささげるいけにえを準備することです。イエス様が罪のいけにえとして準備なさったものは何ですか。それはイエス様ご自身のからだです。イエス様は、罪のために神様のさばきと呪いを受けなければならないし、神様に近づくことさえできない私のためにご自分のからだを罪のいけにえ、和解のいけにえとしておささげになるのです。罪のために神様に近づくどころか、滅びるしかない私を救うために、イエス様は十字架につけられて死なれるのです。それだけではありません。
第二に、イエス様は王として私の人生を統治し、いつもともにいて導くためによみがえらなければなりません。キリストはもう死なれた方ではありません。主は生きておられます。もし、キリストが生きておられるのでなければ、私たちの祈りは無意味なものです。しかし、イエス様は死者の中からよみがえられました。イエス様は生きておられます。生きておられるから私たちの祈りを聞いてくださいます。私の人生を統治してくださいます。私とともにいてくださいます。私を導いてくださいます。イエス様は祭司として私たちの罪のために死ななければならなかったし、私たちの王、私の主となるためによみがえらなければならなかったのです。皆さんはこの事実を信じますか。イエス様はキリストです。イエス様はキリストとして私たちの罪、つまり、無関心、高慢、情欲、失敗、恐れ、不信の全てを引き受けて十字架につけられました。私たちの罪を贖い、救うために十字架につけられたのです。しかし、私たちを王として私たちの人生を統治して私たちを永遠の命、復活の命へと導くためによみがえられました。
 ところが、そんなイエス様の苦難と復活に対するペテロの反応をしましたか。「主よ、なんてことを言うのですか!」ペテロは、自分のそれまでの生活を全て捨ててイエス様についてきていた弟子でした。イエス様についていけば、メシヤの愛弟子として人々から尊敬されるかもしないというような夢を持っていたのかもしれません。そんな自分の将来が崩れるのを彼は恐れたのです。それを見抜いたイエス様は、ペテロをしかりつけました。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」いつもやさしくペテロを助け、守ってきたイエス様がこのような厳しい態度をとるのは、めずらしいことです。ペテロは人間的にみると一見あたり前のような態度をとりました。しかし、人のことを思っていたのは、十字架の御業を否定するものだったのです。イエス様が地上に来られた目的を妨げるものだったのです。どんなに人間的には良いものでも、自分の思い、この世の思いを神様の御心よりも優先するとき、私たちは神様のみわざを邪魔するサタンになってしまいます。私たちは人のことを思わず、神のことを思うためにいつも御言葉を愛し、御言葉を口ずさむ生活に励まなければなりません。
 では、イエス様についていく人はどんな態度を取るべきでしょうか。34節をご一緒に読んでみましょう。「それから、イエス様は群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。『だれでも、わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい。』」
 この御言葉から私たちはイエス様に従う弟子の道を学ぶことができます。イエス様について行きたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてイエス様について行かなければならないということです。では自分の十字架とはどんな十字架でしょうか。
第一に、使命の十字架です。イエス様について行く者にはだれでも神様から与えられた十字架があります。救われた者として自分が受けた救いの恵みをほかの人々にも伝える使命があり、私が出会ったイエス・キリストをほかの人々も出会うことができるように助ける使命もあります。また、神様から一タラント、二タラント、五タラントを預かった者として忠実に商売する使命があります。何よりも何をしても神様に栄光のためにしなければならない使命もあります。初代教会の聖徒たちは、自分たちがこれらの使命のために生まれたと思っていたし、その使命のために全力を尽くしました。
ところが、現代のクリスチャンの中には「使命の十字架」という言葉さえ負担に思ってしまう場合があります。十字架なしに天国に行こうとするし、神様の祝福を受けたい、聖霊を受けたいと思いますが十字架を負うことは嫌がる人もいます。しかし、イエス様について行きたいと思うなら自分の十字架を負わなければなりません。神様は自分の十字架を負う人を愛してくださいます。十字架を負ってイエス様について行く人、その人に必要な健康もやお金、職場と地位を与えてくださいます。助けてくれる人も送ってくださいます。
英国のヴィクトリア朝時代に生きた芸術批評家・社会思想家である。ジョン・ラスキン(John Ruskin 1819―1900)はこう言いました。「僕は使命のためにこの地に生まれた。他人が僕より優れた仕事をすることができても、僕がやるべきことはできない。まるで、僕の足を他人につけて歩くことはできないことと同じです。」私たちにはそれぞれ自分に与えられた使命があります。この使命を他人に譲っても、奪い取ってもいけないし、めんどくさいから人に任せてもいけません。私たちは各々に与えられた自分の使命に忠実に生きる必要があるのです。
第二に、苦難の十字架です。
私たちクリスチャンは「十字架」と言えば、私たちのために水と血を流されたイエス様の十字架、その苦しみを覚えます。十字架は飾り物ではありません。十字架はお金で計算できる宝物ではなく、この世の何によってでも変えることのできな神様の賜物です。主のために苦しみを受けるとき、神様が彼に栄光の冠をかぶらせ、主のために迫害を受ける時、神様が彼のために天の報いを用意してくださいます。パウロはこう言いました。「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです(コロサイ1:24)。神様はこの地上に教会を立てられ、ご自分のからだなる教会のためにご自分の民たちにからだの器官としての使命を与えてくださいます。私たち聖徒たちが足や手、目、鼻、耳などの役割を果たすようにされたのです。ですから、私たちが再びイエス・キリストが来られるまでキリストのからだなる教会の器官として自分が負うべき苦難十字架を負っていかなければならないのです。教会のために受ける苦難とは、福音のために受ける苦難です。?テモテ1:8bをみると「むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。」あります。十字架がない信仰生活は何の意味もありません。私たちが福音のために苦難を受け、汗を書いたり、眠れない夜を過ごしたり、とても忙しい生活の中でも教会のために奉仕して見るときにイエス様が私たちのために多くの苦しみを受けられた十字架を悟るようになります。そして、十字架に伴う復活の栄光、神様の祝福も経験するようになります。善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神様に喜ばれることです{?ペテロ2:20b}。
 私たちが何に自分のいのちをささげるべきかを考えることは、非常に大切なことです。なぜなら、それは、自分の人生の最終目的地を決めることを意味するからです。 35節をご覧下さい。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです」。イエス様は人の生きる道を教えてくださいます。人のいのちはこの世の命のためだけに費やしてしまうなら、それはむなしいものです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(?ヨハネ2:17)。

 最後に38節で、イエス様はおっしゃっています。「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」イエス様は、私たちの頭の善し悪し、顔の善し悪しを見ません。性格や職業を見て、判断される方ではないことが分かります。イエス様は、私たちの信仰をご覧になるのです。私たちの内面が永遠の神様に向いているか、御言葉を喜ぶ心があるか、またイエス様を恥とせず、自分の主として信頼しているかご覧になるのです。

 イエス様は、私たちを罪から、さまざまな傷と病、悲しみから救うことのできる唯一の主です。私たちが救われる道は、イエス様に個人的に信仰告白することです。人々がイエス様に対してどんな考えを持っているかは重要なことではありません。イエス様はそれらと関係なく、私たち個人の信仰に関心をもっておられる方です。世の人々が何と言おうと、周りの友達が何と言おうと、私自身がイエス様を自分の救い主、キリストだと告白すれば、イエス様は私たちの王、私の主となってくださいます。私の人生に責任を持って私たちの人生を導き、治めてくださいます。罪の勢力、暗い思い、恐れや不安から自由になり、永遠のいのちへの望みが与えられます。世の中には、ストレスがたまったり、対人関係の恐怖からうつ病にかかったり、引きこもりになっている人々が多くいます。彼らの助けるためにストレス解消のグッズや、心の病に悩む人のための本が出回っています。私の同僚先生は「牧師はそういう人たちをうまく助けなければならない」ということでカウンセリングの本を50冊もくれました。しかし、私たちの人生の問題を、根本から理解し、助け、解決できる方は、イエス様だけです。イエス様を自分の救い主、キリストとして告白し、イエス様についていく喜びにあふれる人生が歩めますように切に祈ります。

ページ移動
7Step6 永遠のいのちへの水 次の記事
投稿された内容の著作権はコメントの投稿者に帰属します。
個人情報保護について HPのリンクについて データの引用(著作権) 聖書のデータについて お問い合わせ
Copyright ⓒ 1997- Japan UBF. All rights reserved.
日本UBF 公式サイト    HP管理者への問い合わせ