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09Rom11M 神の御霊に導かれる人

投稿者: Calebkim 掲載日: 2009/4/1 (2056 回閲覧)
2008年ローマ人への手紙第11講

神の御霊に導かれる人

御言葉:ローマ人への手紙8:1?17
要 節:ローマ人への手紙8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

 神様が新年修養会を通して、初めの愛を回復し、御言葉を愛するように導いてくださり感謝します。御言葉によって明るく輝かしい新年を明けまして心から感謝します。
今日からはローマ人への手紙に戻って行きます。去年、私たちは7章まで学びました。先週、私は子どもとの1:1で久しぶりにローマ人への手紙を学ぶようになったので「7章までの内容の中で一つでもいいから覚えていることを言って見なさい。」と聞いて見ました。すると息子はかなり長く考えてから「パウロがローマ人に書いたでしょう。」と答えました。私はがっかりしましたが、皆さんはどうでしょうか。7章までの内容を覚えているでしょうか。パウロは「神の福音から始めて神様のさばき、人間の罪深さ、信仰による義認、アブラハムの信仰」などを述べました。そして、7章の最後にパウロはどうにもならない自分の罪のために「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と言いました。この苦悩からだれが救ってくれるだろうか。」と叫んだのです。そして、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と告白しています。パウロは「キリストが救ってくださるのだ。」と結論したのです。罪から救うキリストの救いは、犯した罪を赦すだけでなく、この罪の性質からもきよめる完全な救いです。こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者にどんな恵みが臨まれているでしょうか。
 この時間、御言葉を通してその恵みを確認し、キリスト・イエスにある者としての生き方を学びます。つまり、キリストにあって救われた人々の内に住まわれる「神の御霊」に導かれる人生き方を学びます。

 では、キリストにある者にはどんな恵みが臨まれますか。
第一に、キリスト・イエスにある者が罪に定められることはありません。1節をご覧下さい。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」これは偉大な自由宣言です。「罪に定める」ということは永遠の死とさばきを意味します。ヘブル人への手紙9:27節にあるように人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっています。しかし、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。罪に対する法的な刑罰や神様の御怒り、また、良心の呵責と恐れによる現在の苦痛から解放され、とやがて臨まれる永遠の破滅と第二の死からも免れるということです。世の中でこれ以上大きな恵みがどこにあるでしょうか。神様にさばかれるしか罪人が「キリスト・イエスにある者であることだけで無罪が宣言されているのです。「キリスト・イエスにある者」とは、「キリストを信じ者、キリストが十字架にかかって流されたその血による贖いを信じることによって義と認められた人のことです。つまり、クリスチャンが罪に定められることは決してないのです。
第二に、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が支配します。2節をご覧ください。「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」過去には罪と死の原理に支配されていました。罪の誘惑に支配され、死の恐怖に支配されていました。私の職場で一人の先生は熱心な仏教徒ですが、いつものように健康に関する本を読んでいます。そして、私にも紹介してくれるので、何冊か読んだのです。先週も「50歳から若返る」という本を勧められたのですが、「私はまだその年ではありません。」と言い切りました。ところが、彼の話を聞いてみると、彼の家族、近い親戚のうちに癌にかかっている人が多くいました。それで彼は死を恐れていました。いろいろ、努力していますが、死の原理から解放されず、否定的な考えにさいなまれているのです。しかし、キリスト・イエスにある者は、いのちの御霊の原理に支配されています。いのちの御霊の原理は物事を因果応報的に考えるのではなく、何でも生かされる、新しくされる、私の理解を新しいことが始まるという原理で考えます。たとえば、私の弟は癌の手術を受けたし、父は肺がんのために天に召されたが、私がいのちの御霊が私のいのちを保護し、導いてくださると信じています。父の葬式を終えて家族が集まった時も、私は弟たちに父は天国に召されて行ったこと、父の犠牲のゆえに、父の子孫はますます良くなり、繁栄する。ただ、私たちは父が真実と行ないによって愛していたことを覚え、私たちもその愛を受け継いでいこうと言うことを言いました。それはキリストのある私が「父がガンで亡くなったから私もガンで亡くなるかも知れない。」という死の原理に支配されるのではなく、いのちの御霊の原理に支配されているから言えることです。過去、私は物事を運命的に、否定的に、暗く考えていたので自殺と言う言葉が脳裏から離れなかったのですがキリストを信じていのちの御霊の原理に支配されると、何でも明るく、肯定的に考え、ビジョンと希望を持って言える人生になったのです。これはほんとうに大きな恵みです。
このように、キリスト・イエスにある者に大きな恵みが臨まれたのも、神様がしてくださったことです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神様はしてくださいました。
3b、4節をご覧下さい。「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」律法の要求はとても厳しくてそれを守らなければ裁かれます。ところが、人間は弱くて律法を守ることができません。それで、律法によっては自由になることも、罪と死の原理から解放されることもできません。ところが、神様はこの律法の要求をすべてイエス様に背負わせることによってこの問題を解決してくださいました。イエス様は罪深い人間の姿でこの世に来られ、人間が負うべきすべての罪の重荷を背負われました。そして、イエス・キリストは私たちの代わりに十字架につけられ裁かれ、死なれました。このようにして律法の要求を全うされたのです。そういうわけで、私たちが罪に定められることなく、いのちの御霊の原理に支配されていのちにあふれた人生を生きる恵みを受けたのです。
では、恵みを受けた私たちはどのような生活をするべきでしょうか。パウロは5?11節の御言葉を通して肉に従う者と御霊に従って歩む私たちの生活を対照しながら、御霊に従って歩むことこそ、私たちの信仰が成長し、神様に喜ばれる生活であることを教えています。では、肉に従う者の生活はどうですか。
第一に、肉的なことをもっぱら考えます(5)。
人間はその心の中に何を考えているかによってその人が良い人か、悪い人か、高潔な人格を持っているかどうかが評価されます。それは心にある良い考えから良い行ないが出てくるし、悪い考えから悪が出てくるからです。それで、神様は言われました。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく(箴言4:23)。」
5a節をご覧下さい。「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、」とあります。肉に従う者は自分が願っても願わなくても、肉的なことを考え、肉的なことを行なうようになります。肉的なことは聖霊に逆らいます。肉的なことを考えていると、クリスチャンも聖霊に導かれることができず、肉の行ないをします。聖書に「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。(ガラテヤ5:19?21)」とあります。これらの肉の行ないが私たちの周りにはいっぱいあります。大部分の映画、雑誌、音楽、淫乱ビデオや成人漫画、インターネットサイトなどが私たちに肉的なことをもっぱら考えるように誘惑しています。いわゆる、この世で緊張とストレスを解消する場所は大部分が肉の行ないを商品化して売り出しています。ですから、私たちも目を覚ましていなければ、瞬間的にそういう環境に入り込んでしまいます。肉的なことを考えると、結局肉に従って生きるようになり、私たちの心のいのちの御霊の働きが中断されます。心は乾き、口からが不平不満の言葉出てきます。
第二に、神の律法に服従しません(7)。
肉に従っている不信者たちは神様に対して反抗し、神の律法に服従しません。彼らは神様の愛を望むこともできず、イエス様の命令と御言葉に従う服従もきません。彼らは神様との関係が切れているからです。ただ、自己中心的に考えて生きています。エゴイストになっているのです。「自分の力で頑張る。」というのは良い言葉のように聞こえるかも知れません。しかし、エゴイストの心には「自分の惨めさや力の無さや愚かさや傲慢さばかりになって行きます。これはクリスチャンでもそうです。去年より今年はもっと霊性がアップされ、成熟した信仰の人になることを望みますが、肉的なことをもっぱら考えるなら成長できません。肉にある時には何年クリスチャンをやっていても酷いことを言ったりやったりしてしまうのです。人との競争心とか、妬みや嫉妬や人をさばく言葉しか出てきません。「それでもクリスチャンと言えるだろうか」言われる状態です。
この状態とは対照的に御霊に従って歩む者の生活はどうですか。
第一に、御霊に属することをひたすら考えます(5b、6)。
5b節をご覧ください。「御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。ここで「御霊」とは聖霊を指しています。私たちが聖霊によって生まれ変わるとき、聖霊が私たちのうちに留まれます。ここで、御霊に属することを考えるという意味は神様の御言葉と聖霊の御旨に従って生きることを意味します。いくらクリスチャンになったとしても、私たちは肉的なことで満ちている世の中に生きています。だから、時々、肉的なことを考えてしまう場合もあるのです。しかし、クリスチャンんは本質的に御霊に従って歩む存在なので御霊に属することがが心を占めているので肉的なことが長く留まる場所が無くなります。では「御霊に属すること」は何でしょうか。
ピリピ4:8節は言います。「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」御霊に属することは「真実なこと、誉れあること、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判の良いこと」など霊的なことを言っています。つまり、ほんとうに神様に認められたい、神様に愛されたいと素晴らしい考えで生きることなのです。具体的に言うなら、そういう素晴らしい心から神様に喜ばれる弟子養成、世界宣教のみわざのために励むことです。それこそ真実なこと、誉あることですし、神様から認められること、評判の良いことだからです。
第二に、神様の律法に服従する生活をします(7)
肉に従う者が神様の律法に服従しないこととは対照的に御霊に従って歩む者は神様の御言葉に服従する人です。服従のために御言葉を学び、御言葉を口ずさむことは素晴らしいことです。御言葉を喜びとし、口ずさむ生活の中で御言葉が心に刻まれ、その御言葉に従うようになるからです。しかし、御言葉を英語単語や数学公式を暗記する程度に留まり、従わないなら、その人には聖霊が臨まれません。聖霊に導かれることができないのです。そうなると、聖潔な生活も、信仰の成長もできません。御言葉に服従するということは御言葉に基づいて悔い改める生活をすることを意味します。自分の肉の欲を悔い改めなければ御言葉に服従することもできないからです。
使徒の働きでペテロは言いました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けるでしょう。」
聖霊を受けるためには聖徒たちがペテロのメッセージを聞いたように、御言葉を聞いたり読んだりして気づかれた罪を悔い改める時に聖霊を受けることができます。もちろん、聖霊は神様が主権的にくださいますが、私たち人間が聖霊に逆らうことをしてはいけないし、私たちがすることもあるのです。言うまでもなく、私たちがすることは悔い改めです。悔い改めは祈りの中で、証の中で、所感を書く中でできます。
この間、ある宣教師は私たちUBFにとって特徴は所感だからやはり所感を書いて発表することが必要だと言いました。私は「なるほど」と思いました。それで、先週、兄弟たちの集まりの話が出た時は私の口から「所感」という言葉が多く出たかも知れません。また、UBF教会の他には、所感発表がないので抵抗感を感じている方もいるかも知れません。ただ、確かなことは御言葉に基づいて悔い改める時に聖霊が臨まれるということです。そして、多くの人々が所感は御言葉を聞いて悔い改めることができる素晴らしい手段であると告白していることです。私たちが御言葉に服従する生活をする時、聖霊が臨まれ、聖霊に従って歩む生活す時に信仰が成長し、成熟した信仰者の生活ができます。

以上のように御霊に従って歩む者たちにはどんな祝福が与えられますか。
第一に、私たちのうちに住んでおられる聖霊の力を頂いて生きるようになります。
10?11節を読んでみましょう。「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」ここでパウロは「あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」と言っています。キリストを信じる者、悔い改める者のうちに住んでおられる聖霊は死ぬべきからだをも生かしてくださる力を持って働いてくださるのです。ですから、聖霊に導かれる人は自分の弱さを頑張って克服するのではなく、自然にそれを乗り越えていく力が自分に働いていることを経験をするようになります。その経験ができるかどうか、単純なところにあります。それは私たちのうちに住んでおられる聖霊にお任せするかどうかと言うことです。パウロはすべてを自分のうちに住んでおられる聖霊にお任せして聖霊に従う生活をしました。だから、彼は『私は、私を強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです(ピリピ4:13)』と言えました。これはパウロだけが経験することではありませんキリストを信じるすべての人が経験できることです。キリストは今生きておられます。(♪♪聖歌)どうか、2009年は私たちも、パウロのように生きておられる聖霊の力を体験して行きますように祈ります。
第二に、神様の相続人になります。
12?17節には人がどうやって神様の子どもとなり、その特権が何かについて記されてあります。
12,13節をご覧ください。「ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」とあります。私たちがクリスチャンになったとしても神様に任せないで、肉に従って生きるなら、自分が責任を取らなければなりません。自分がやったから自分で責任を取るのは当たり前だと思うかもしれません。その結果は恐ろしいものです。「もし、肉に従って生きるなら、あなたがは死ぬのです。」とあります。ノンクリスチャンと同じくなってしまいます。しかし、もし御霊によってからだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。ですから、私たちにとって大切なのは瞬間瞬間に肉の思い、からだの行ないを殺して神様の御言葉に従って生きることです。
14?16節を読んでみましょう。「神の御霊に導かれる人は、誰でも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」自分が罪人であることを認めて救い主イエス・キリストを信じた時、聖霊が私のうちに臨まれ、神様を「アバ、父。」と呼べるようにしてくださいました。それで、神の御霊に導かれる人は子どもとして「パパ」と親しさを込めて親を呼ぶことができる関係を持てるようにしてくださいました。そして、そのような親しい関係性の中で、聖霊と交わる生活の中で自分が神様の子どもとされていることをますます確信するようになり、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であることも分かるようになります。険しい世の中でも全知全能の神様が味方してくださる神様の子ども、神様の相続人であるから、大胆に、たくましく生きることができます。結局、圧倒的な勝利者の人生を生きるようになるのです。
 結論、イエス・キリストを信じてキリストにある者になったことを感謝します。私たちが罪に定められることなく、いのちの御霊の原理に支配されるように私たちの身代わりになって十字架にかかって貴い血を流されてイエス様の恵みを心から感謝します。私たちがこの恵みを覚えて真理の御言葉、御霊の御声に聞き従いますように祈ります。自分のうちに住まわれ、自分を助けてくださる聖霊と交わりながら御霊に従う生活ができますように祈ります。肉的なことをもっぱら考えるのではなく、御霊に属することをひたすら考える者として生きるように祈ります。そうして、いつも御霊に導かれて毎日信仰の奥義を悟り、熟練した信仰の人として成長するようになります。すると、私たちは神様の相続人として苦難もありますが、キリストとともに栄光を受けるようになります。

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