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BibleMsg > ローマ人への手紙 > 08Rom04M 神様の正しいさばき

08Rom04M 神様の正しいさばき

投稿者: Calebkim 掲載日: 2009/4/1 (1677 回閲覧)
2008年ローマ人への手紙第4講 

神様の正しいさばき

御言葉:ローマ人への手紙2:1?2:16
要 節:ローマ人への手紙2:4「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」

 先週、私たちは、パウロが異邦人の罪について指摘したことについて学びました。彼らは神様を神様としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。その結果、彼らは宗教的にも(18-25)、道徳的にも(26-31)罪を犯してしまいました。先週、学んだように、1:29-32節には罪のリストが記されています。「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。」とあります。そのようなことは死罪に当たり、死刑を受けなければなりません(32)。では、このようなことを行なう異邦人だけが神様の怒りとさばきを受けなければならないでしょうか。そうではありません。使徒パウロは、彼らをさばき、彼らを批判する人たちも同じく神の怒りとさばきを受けなければならない罪人であると宣言しています。

1節をご覧下さい。「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。」とあります。ここでパウロは「すべて他人をさばく人」も、さばかれるべき罪人と同じことを行なっていると指摘しています。
一般的に、悪いことをした人を罪に定める人、何かを教えている人は偉くて正しいと思っています。検事や裁判所の判事、大学教授や教師などは正しく行なっているかのように思うのです。ところで、ほんとうにそうなのでしょうか。検事や判事は法廷に立たされた人より正しく、立派な人なのでしょうか。相対的に考えてみると、「そうです」と言えるかも知れません。しかし、神様の御前ではそのように言えません。
「教授が学生よりりっぱだ。牧師は聖徒たちより偉い」とは言えないのです。人の罪をさばく検事や判事がさばかれている人より偉いとも言えません。聖書はすべての人が神様の御前では罪人であると宣言しています。
人々と話し合ってみると、「自分は比較的に悪いことをしていない」と思っている人たちが少なくありません。特にクリスチャンの中には「自分が善を行なっているし、人々にも仕えているのだ。」と思っている人が少なくありません。ある点ではそれも事実でしょう。約束を破ることも、人に迷惑をかけることもなく、真面目に生きている人たちがいます。それだけではなく、隠れたところで善を施し、自分の生活を犠牲にして人々に仕えている人たちもいます。
ところが、そういう人であればあるほど、自分が悪く言われることには我慢できなくなります。また、自分なりの義があって、その基準に合わないと他人をさばきます。いつも、偉そうになって人を教え、アドバイスをします。誰かが人のことを言うと、それに加えて人の悪口を言います。パウロはそんな人々に「そのように人をさばくことによって、自分自身を罪に定めていますよ。あなたは同じことを行なっているからです。」と言っています。
もちろん、社会生活において公的なさばきは必要です。社会の秩序と治安を維持するために行なわれる司法的なさばきはなくてはなりません。預言者たちが民たちの罪を指摘して悔い改めを促すような宗教的なさばきも必要です。しかし、私的なさばき、感情的なさばきはしてはいけません。個人的な感情から人をさばくなら、神様の主権に逆らう高慢です。また、不完全な人のさばきによって人々は傷つけられてしまいます。その傷のためにうつ病にかかったり、正常な社会生活ができなくなったりする場合も少なくありません。時には致命的な傷を受けて自殺してしまう場合もあります。ですから、自分勝手に人をさばくようなことをしてはいけません。正しいさばきは神様だけが行なわれます。
2節をご覧ください。「私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。」とあります。私たちは神様のさばきが正しいことを知っています。ですから、私たちは神様のさばきが正しいと信じてすべてのさばきは神様に委ねなければなりません。
ところが、私たちは簡単に他人をさばき、陰口を言いますが、自分を省み、悔い改めることはなかなかしません。むしろ、人をさばくことはによって自分の正しさを証明しようとします。しかし、イエス様は他人をさばく人々に言われました。「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気が付かないのですか。」「偽善者達。まず自分の目から梁を取り除けなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:3,5)。ですから、まず他人をさばく前に自分自身を顧みることが必要です。特に私のように教える立場にいる人は自分を顧みる生活を怠けてはいけません。 
神様は私たちUBFに聖書を教える恵みと特権を与えてくださいました。永遠の救いと永遠のいのちを与えるために人々に聖書を教えることはとても光栄な使命です。ここにいる私たちも、世界中にいるクリスチャンも聖書先生から教えられた御言葉によって救われています。聖書を教えるところに救いといのちを受ける伝道のみわざが起っているのです。しかし、聖書先生がたてまえとほんねが違う二重生活をしながら教えるなら、伝道の妨げになってしまうでしょう。ですから、神様は私たちUBFに教える特権とともに所感を書く恵みも与えてくださいました。おそらく、神様は私たちUBFが1:1聖書勉強で教えることばかりするなら高ぶりの者、偽善者になってしまい危険があるので所感も書くようにしてくださったと思います。所感を書く生活をすると、人をさばくことよりも、自分を省みて悔い改めることができます。それによって霊的に成長し、イエス・キリストの心を持って人々に教えることができるようになります。しかし、自分を省み、悔い改める生活を怠けていると、自分の義が高まり、神様のさばきが正しいことを忘れてしまいます。神様に委ねるより、自分が他人をさばいて神様のさばきを受けるようになるのです。
3節をご覧下さい。「そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。」とあります。自分を省みることなく、他人を教え、他人をさばく人は、自分も知らずに自分は神のさばきを免れると思っているのです。しかし、彼らは神様の御怒りを自分のために積み上げています(5)。積み上げられている罪が限界を超えるときは、神様にさばかれます。ノア時代の人々がそうでした。彼らが肉にすぎない存在になってしまった時、大洪水によってさばかれました。ですから、私たちは他人をさばかないで自分の生活の中で気づいた罪を告白し、悔い改める生活をしなければなりません。神様は、私たちが生まれてきて行なったこと、思ったこと、話したことのすべてを知っておられます。天国のビデオに撮影されています。それで、時になると、神様の正しいさばきが行なわれます。
6-8節をご覧ください。「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。」とあります。ここで、神様のさばきがどのように行なわれるかを知ることができます。
 第一に、神様は、ひとりひとりに、その行いによってさばかれます(6)。神様の裁きは個人的で人格的です。私は教師として学校で生徒たちからよく言われる言葉は「私だけじゃないでしょう。」ということです。生徒たちは自分だけではないことを強調します。それは子どもたちだけではないでしょう。むしろ、大人たちがそう言っているから子どもたちも「私だけじゃないでしょう。」と言っているかも知れません。人々は「自分はそんなに悪くない、あの連中よりはましだ」と思っています。また、自分が犯した罪に対しては他の人もこれくらいはやっていることだからと思います。しかし、神様の御前で「みなが、このようことを行なったから」という言い訳はできません。みなが行なっていることに迎合しないという選択肢もあるからです。皆と一緒に行なったことも、ひとりで行なったことも、ひとりひとりに、その行いによってさばかれます。ですから、神様のさばきは公平です。もし、グループに従って報いが与えられるなら、それは不公平になるでしょう。同じ教会のメンバーでもひとり、ひとりの考えや行ないは違うからです。また、行いではなく富や知識によってさばくとしたら、それも不公平なことです。もし、金持ちは救われ、貧乏人は救われなかったり、聖書に対する知識がある人は救われ、無学な人は救われなかったりするならどんなに不公平でしょうか。しかし、神様はひとりひとりの行ないに従ってさばかれます。ですから、私たちは人々と比較する必要がありません。皆が遅刻しても自分は礼拝の前に来て祈りを準備するなら、その行ないに報いが与えられます。神様の御前で自分ひとりでも正しく生きようという絶対的な姿勢が大切です。私たちが神様の御前で相対的に考えないで、ひとりひとりが悔い改めの行い、従順の行い、愛と謙遜の行い、献身の行い、信仰の行いに励んで行くように祈ります。
 それでは行いと信仰とはどんな関係があるでしょうか。行ないは信仰の現われです。正しい信仰を持っている人は正しい行ないが伴うはずです。「心は形に現われ、形は心を整える。」という言葉がありますが、そのとおりです。人が本当に信仰を持っているかどうかは行ないに現われます。正しい信仰を持っている人は正しい行ないによってその信仰が現わされます。ほんとうに、神様の御言葉を信じるなら、どうしても御言葉に聞き従おうとするでしょう。毎週、主日礼拝のメッセージ、日ごとの糧の御言葉を軽んじるようなことはしないはずです。もちろんなかなか実践できない時もあるでしょう。一週間を顧みると自分の弱さにため息をつく時もあるでしょう。しかし、本気で御言葉を信じているなら御言葉に従う生活をあきらめるようなことはしません。自分が弱いからこそ私たちは主の助けを求め、主に頼っていくのです。そして、今すぐ実を結ぶことができなくても日々主の御言葉に聞き従う生活をする時、私たちの人生は水路のそばに植わった木のように豊かな実を結ぶようになります。その中で神様の慈愛と忍耐、寛容を経験しながら圧倒的な勝利者の人生を生きるようになります。
第二に、人生の目的に従ってさばかれます(7-11)。もう一度7、8節をご覧下さい。「忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。」ここで「求める」、「従う」とはその人の人生の目的を意味します。栄光と誉れと不滅のものとを求める者とは、霊的なことを求め、神様の栄光を求めるのが人生の目的である人のことです。このような人には永遠のいのちが与えられます。栄光と誉れと平和が与えられます。党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者とは、自分の有益を求めることが人生の目的で、利己的な人です。その人は食べるにも、飲むにも、何をするにも自分の有益のためにします。いくら慈善事業を多くしているとしてもその目的が自分の名誉のためにするなら、その人には神様の怒りと憤りが下されます。患難と苦悩が与えられます。ですから、私たちは毎日自分の人生の方向が神様にあるのか、自分にあるのかチェックして見なければなりません。皆さんは、今、何を求めているでしょうか。何を目的にしているでしょうか。私たちが忍耐を持って善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者でありますように祈ります。
9-11節は「悪を行なう者」と「善を行なう者」の内面状態が記されてあります。表面的には悪を行なう者でも金持ちになって幸せに生きているかのように見えます。一方、善を行なっているのに、生活は貧しく苦労ばかりしているように見えます。しかし、実情は違います。人の内側は違います。患難と苦悩とは悪を行なうすべての者の上に下ります。彼らの心は罪意識のために苦しみ、絶えない不安と焦り、苦悩のために眠れぬ夜を過ごすほどです。しかし、善を行なう者の上には栄光と誉れと平和があります。彼らにはまことの満足と喜びがあり、神の国の平安があります。彼らはぐっすり眠ります。この原則はユダヤ人をはじめギリシャ人にも同じです。神様にはえこひいきなどはないからです。
第三に、律法に従ってさばかれます(12-15)。12、13節をご覧ください。「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。」とあります。ここで罪を犯した者は律法なしに罪を犯しても、律法の下にあって罪を犯してもその行ないよってさばかれると言っています。ではその行ないの基準とは何でしょうか。もちろん、律法の下にあって罪を犯した者は律法に従ってさばかれるでしょう。では律法なしに罪を犯した者が滅びる基準とは何でしょうか。
14-15節をご覧ください。「 ・・律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。」とあります。パウロは律法を持たない異邦人は自分自身、自分自身の良心という道義的なおきてがさばきの基準となることを言っています。
人間には本来、良心というものがあります。自分だけでなく、自分の回りをとりまく人々、自然、地球、宇宙、そして将来世代の人々と共生共栄していかねばならないという公共的責任感もその良心の一つでしょう。このような良心に基づいて意思決定を自然になしていくことが出来る潜在能力をすべての人間は持っているのです。それで、私たちはよく「良心の呵責を受ける」とか「良心の呵責に耐えられない」という表現をします。人間がもっている利己的なこころを抑制する、もっとも基本的な精神規範が「良心」といわれるものだと思います。神様はすべての人の心に刻まれたこの良心の基準に基づいてさばかれるのです。私たち人間が良心に従っていなければそれも神様のさばきの対象になります。私たち人間は、他人の心の中にある動機を知ることができません。私たちが人をさばくときは、うわべだけでさばくことになります。動機を知っているのは神様のみであり、それゆえ、私たちが個人的に人のしていることをさばくことが禁じられています。
第四に、最終的にはイエス・キリストによってさばかれます。16節をご覧ください。「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。」とあります。神様がこの世を最終的にさばかれる日があります。その日に、イエス・キリストがさばき主となって人々の隠れたことをさばかれます。人々はだれも見えないところでは自由に罪を犯します。しかし、その日に隠れたことが全部現わされます。その日に、おのおのの行ないに従ってさばかれるようになります。ただ、イエス様を信じ、イエス様に頼って生きていた人たちが恐ろしいさばきから免れます。ですから、その日はイエス様を信じる者たちには栄光の日ですが、不信者たちには恐ろしい怒りの日です。
 以上で私たちはユダヤ人にも、異邦人にも神様の正しいさばきがあることを学びました。私たちはイエス様を信じて救われているからと言って自分勝手に生きることはできません。また、聖書を知らなかったからと言って自分を弁解することも出来ません。正しい良心に従って生きているのかどうかを考えてみる必要があります。結論的に私たちは神様の御前で神様を恐れおののく生活をしなければならないことを学びます。また、絶えず善を行ない、主に喜ばれることを行なう生活に励まなければならないことを学びます。しかし、神様の目的はさばきではありません。神様は豊かな慈愛と忍耐と寛容を持ってすべての人々が神様を知り、悔い改めて救われることを願っておられます。神様はモーセに宣言されました。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」とあわれみ深く、情け深い神様の愛を心から賛美します。

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