日本UBF案内 祈りの課題 日ごとの糧 メッセージ・説教一覧 問題集一覧 m

ユーザメニュー
日毎の糧
ログイン
ログイン
パスワード

  新規登録 |  
BibleMsg > ローマ人への手紙 > 00-6 救われた者が受ける幸い

00-6 救われた者が受ける幸い

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/23 (1991 回閲覧)
2000年ローマ人への手紙第6講

 

救われた者が受ける幸い

 

御言葉:ローマ人への手紙5:1?21

要 節:ローマ人への手紙5:1

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、

私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」

 

先週私達は信仰によって義と認められた人々について学びました。特にアブラハムとダビデの信仰について学びました。私達も彼らの信仰の足跡に従い、信仰によって神様に喜ばれる者となるように祈ります。今日から学ぶ5-8章までの御言葉は信仰によって義と認められた人の祝福された新しい生活について言っています。今日学ぶ5章は救われた者が受ける幸い、すなわち信仰によって義と認められた人が受ける祝福に関する御言葉です。御言葉を通して私達が受けた祝福は何かを学び、その祝福の中で生きる者となるように祈ります。

 

?.義と認められた者の幸い(1-11)

 

1節をご覧下さい。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」この御言葉は1-4章までの結論であり、5章の前提です。私達が義と認められたのは律法の行ないによってではなく、ただ信仰によってです。使徒パウロはこれに基づいて信仰によって義と認められた者は何を受けるようになったか、すなわちクリスチャンが受ける祝福は何かを言っています。

第一に、神様との平和を持っています。信仰によって義と認められた人に与えられる祝福は神様との平和です。これはイエス・キリストによって、罪が赦された者の心の平安とたましいの喜びを言っています。私達がイエス様を信じる前には神様と不和状態でした。不和状態になると、話し合うことがなくなり、敵対するようになります。人との不和状態があっても心に安らぎがありません。たとえば、夫婦喧嘩をした後、心に平安があるはずがありません。和解するまではそのような状態が続きます。同じく神様と不和状態でありながら心に平安と喜びがあるはずがありません。まるで罪を犯した人が警察から逃げ隠れているように神様に罪を犯した人には平安がないのです。その人はいつも神様のさばきを恐れています。人間の心の不安、恐れ、悩みなどは、根本的に神様との不和状態から生じるものです。

しかし、信仰によって義と認められた私達は、私達の主イエス・キリストによって、神様との平和を持っています。エペソ2:14には次のように書いてあります。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、」イエス様は十字架につけられ、私達の罪を赦してくださることによって、神様と人との間にある罪の壁を打ち壊してくださいました。神様が私達の過去の罪を赦してくださったので、私達は神様の前に恐れる必要がなく、平安を得ることができます。私達はイエス様によって神様と和解するようになり、不安と恐れから解放されました。その人は真の平安を所有している幸いな者となります。これは神様を信じる人に与えられる大きな恵みです。人々が真に望んでいるのは、お金や権力ではなく、心の平安です。人々は心の平安を得るためにどれほど多くの努力をしているでしょうか。修行をしたり、座禅をしたり、音楽を聴いたり、本を読んだりあらゆる努力をしています。つらい現実を忘れるためにお酒を飲む人もいます。仕事に没頭したり、快楽を求める人もいます。このようにすべての人々は心の平安を捜し求めています。しかし、世の何によっても、どんな努力によっても、願う平安を得ることができません。それはまったく神様がイエス・キリストを信じる人に与えられる霊的なプレゼントだからです。

イエス様が与える平安はこの世が与える平安とは違います。イエス様は恐れている弟子達に言われました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」(ヨハネ14:27)この平安は金を払って買うこともできません。努力して得ることもできません。この平安は心の奥底に隠された宝のようなものなので、誰も奪うことができません。この平安はまるで深い海の底流のようなものです。この世がどんなに揺れ動いても心の底から流れるものです。神様からの平安が与えられた人はぐっすり眠ることができます。顔は穏やかで幸せそうに見えます。安定感があります。神様はイエス様を信じる人にこのような平安を与えてくださいます。神様との平和を持っている人は生き生きとした信仰生活をします。神様と和解した人は、隣人とも和解し、自分自身とも和解します。彼はどこでも平和をもたらす人となります。

第二に、恵みの世界に導き入れられるようになりました。2a節をご覧下さい。「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは」私達は信仰によって恵みの世界に導きいれられました。これはイエス様が十字架につけられ死なれることによって開かれた新しい恵みの世界です。過去、私達は律法の世界に住んでいました。律法の世界はいつも100%完全な行ないを要求します。少しの過ちも赦しません。罪を犯すと必ず罰を受けます。人々は律法の要求を行なうために努力していますが、罪の欲情がからだの中に働いていて、常に失敗します(ローマ7:5)。その人は自虐しながら罪悪感と運命主義にさいなまれます。反面、少しでも律法の要求を行なった人は、自己義が生じて高慢になります。高慢と自虐は律法の世界に住む人が持っているものです。また、律法の世界では理解と赦しがありません。律法の要求の通りに行なわなければ容赦せず裁いてしまいます。ですから、この世界に住む人はいつも緊張し、縛られた生活をするために喜びがありません。

しかし、恵みの世界ではすでにイエス様が十字架の上で律法の要求をすべて全うされたので、誰も私達を裁いたり罪に定めたりすることができません。ここには理解と愛があり、あわれみと赦しがあります。人を生かします。恵みの世界はいのちの世界です。恵みとは何の資格のない者に値なしに与える神様からの贈り物です。罪の赦しの恵み、救いの恵み、召されの恵み、主の御業に用いられる恵みなど、神様の世界ではすべてが恵みです。それで使徒パウロは?コリント15:10で「神の恵みによって、私は今の私になりました。」と告白しました。何の資格のない者に恵みを施してくださった神様のことを考えると、すべてが喜びであり、感謝です。ですから、神様の恵みを知り、恵みの世界で住む人は幸いです。その人は高慢になりません。実を結んだからといって自分を誇りません。他人に要求するよりいつも感謝する心を持っています。その人の心は謙遜です。すべてのことについて感謝します。すべてが何の資格もない者に与えられた神様の恵みによる贈り物であることがわかっているからです。

第三に、神様の栄光を望んで大いに喜ぶ生活をします。2b節をご覧下さい。「神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」これは将来天国に入って神の国の栄光に参加することを望んで喜ぶことです。これはクリスチャンの究極的な望みであり、人生の目的です。その時、主は私達の目から涙を拭い取ってくださいます。そして、「よくやった。忠実なよいしもべだ。」と抱いて祝福してくださいます。その時には子供が父親に甘え、あるいはひざの上に座るように、私達は神様に迎えられます。そのことを考えると心から喜ぶことができます。

神様の栄光を望んで喜ぶ生活のもう一つは、神様の栄光を実生活の中で体験したいという望みです。イエス様は死んでから四日目になったラザロの墓の前でマルタに言われました。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」(ヨハネ11:40)。その時、弟子達はよみがえりであり、いのちであるイエス様の力によって、死んで臭くなっていたラザロが墓から出て来る神様の栄光を見ました。出エジプト記33:18を見ると、奴隷の民、イスラエル人のゆえに苦しんでいたモーセが「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」と祈る場面が出ています。この祈りは私達の祈り、私達の望みであるべきです。そして、私達もどんなに絶望的な状況の中でも神様の栄光を見たい望みで満たされるべきです。

世の栄光や自分の栄光は得てみると虚しいものです。それは私達に真の幸せと喜びを与えてくれません。それでパウロはローマ8:24で次のように言いました。「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。」私達には朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない生ける望みがあります。この望みがない人は歳をとればとるほどふけて行く自分の姿を見て虚しくなり、ため息をつきます。しかし、神の栄光を望んで喜ぶ人はますます生き生きとした生活をするようになります。私達にこのような望みがあることは幸いなことです。

第四に、患難さえも喜ぶ生活をします。3、4節をご覧下さい。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」信仰によって義と認められた人々の新しい生活は患難さえも喜ぶ生活です。世の人々は患難の中で恐れ、悲しみ、絶望します。信仰がないと、患難から逃げようとします。しかし、クリスチャンは患難さえも喜びます。それは患難がもたらす有益を知っているからです。患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。自分が受けている患難の意味を知っている人は、その患難さえも喜ぶことができます。

ここで言う患難はイエス様を信じる者が受ける迫害や苦しみを意味しています。クリスチャンにこのような迫害や苦しみがあるのは、この世に属する者ではなく神様に属する者となったからです。人々の言葉より神様の御言葉に聞き従うことを優先的に考えるからです。そういうわけでノンクリスチャンとの間に衝突が起こり、その衝突は迫害や苦難を生み出します。今まで偶像に拝んでいた人がクリスチャンになってからそれをやめると言うと周りの人々からいろいろ言われます。苛められたり疎外されたりします。?テモテ3:12を見ると、「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」と言っています。不信仰の時代、不敬虔な時代に信仰による生活、敬虔な生活をすると迫害を受けます。

しかし、私達がこのような時代の雰囲気に調子を合わせて妥協すると迫害や苦難を免れることはできるかも知れませんが、神様の御前に立つ時に恥ずかしくなります。神様に用いられた人々はみなこの世と妥協することを拒み、苦難を受けることを選び取りました。ローマの迫害の時代には多くのクリスチャンが殉教しました。イエス様も苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいりました(ルカ24:26)。苦難を通しての栄光、これが聖書の教えることです。苦難にはこのような外部からの迫害や苦難のほかにも主に仕えるために、羊に仕えるために受ける犠牲、損害、心の苦しみなどもあります。私達は過去患難が来ると何とかしてそれから逃げようとしました。その時の患難は無意味なものであり、私達を傷だらけにしてしまいました。しかし、今は患難に対する私達の姿勢が変わりました。私達は患難さえも喜ぶことが出来るようになったのです。それは患難が私達にもたらす有益を知っているからです。

それではその有益について詳しく学んで見ましょう。まず、患難は忍耐を生み出します。ここで言う忍耐は消極的に耐え忍ぶことではありません。むしろ、将来の栄光を望みながら積極的に患難に立ち向かう強い力を意味します。すなわち、キリスト・イエスにある恵みによって心が強くなることです。これはまるで木が雨風に耐えながらもっと深く根を降ろすように、患難を通して信仰の根を深く降ろすことです。このような人はどんな患難の中でも信仰の中心を守ります。最近の若者達は豊かな生活の中で育ったからか、あまり忍耐心がなさそうに見えます。心が弱くて少しの患難さえも耐え忍ぶことができません。その結果、患難に耐えられず精神病にかかったり、ひどい場合には自殺をしたりします。忍耐は勉強して得るものではありません。それは実生活の中での苦しみや患難などを通して得ることができるものです。信仰生活はマラソンのようです。私達は1月にマラソン大会を行ないましたが、たった5キロの距離を走るのにも忍耐が必要でした。マラソン選手に忍耐心は大切なものです。いくら最初によく走っても途中諦めてしまうと賞をもらうことができません。同じく信仰生活において忍耐は大切なものです。それでイエス様はルカの福音書21:19で「あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」と言われました。牧者生活、宣教師の生活がいくら大切なものだとしても忍耐できず、途中諦めてしまうなら、どんな意味があるでしょうか。私達は神様が用意してくださった栄光の冠、義の冠を望んで信仰生活をしています。私達が忍耐を持って最後まで勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通すことができるように祈ります(?テモテ4:7,8)。

次に、忍耐は練られた品性を生み出します。練られた品性は英語でキャラクター(character)としてテストの後に認められた人格を意味します。患難と忍耐を通して内面の不純物は段々なくなり、熟練した者としてりっぱな人格を持つようになります。練られた品性について考えると、旧約聖書に出ているヨブのことが思い出します。ヨブは理由なしに多くの苦難を受けました。彼は自分がなぜそのような苦難を受けるのか知らなくてもっと苦しみました。しかし、彼は苦難の中でも神様に罪を犯しませんでした。むしろヨブ記23:10で彼は、「しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。」と告白しました。精錬して出て来る金のような人格がキャラクター(character)です。実際に純金を得るためには溶鉱炉に金鉱石を入れて不純物を取り除く作業が必要です。りっぱな人格、金のように輝く品性はただで形成されるものはありません。これは実生活の中での患難と忍耐によって得られるものです。鉄は金槌でたたいて強くするそうです。人の品性も同じです。

練られた品性は希望を生み出します。患難を通して私達が持っていた偽りの望みは消え去り、真の望みを持つようになります。この世の希望は成就されると私達を失望させます。私達を虚しくします。しかし患難を通して生み出された希望は私達を失望させません。ですから、患難さえも喜びます。患難から逃げようとせず、むしろ、「患難よ。かかって来い」と言うことができます。それではこの希望が必ず成就することをどうして確信することができますか。それは私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです(5)。神様の愛は私達に水のように注がれています。神様の愛は私達の心に注がれ満ち溢れています。私達をそれほど愛してくださる神様はその希望も必ず成就してくださることを確信することができます。それで私達は真の望みを確信して患難さえも喜ぶ幸いな人になることができます。

 

?.アダムとキリスト(12-21)

 

12-21節までの御言葉はアダムの犯罪による罪の歴史とイエス様の死による救いの御業が人類にどんな影響を及ぼしたかを対照して説明しています。アダムひとりによって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がりました(12)。全人類が罪を犯したのです。これはアダムの子孫である人類は罪の勢力から免れることができないことを意味します。それだけではなく罪の代価として死ななければなりません。アダム一人の不従順が人類の歴史に及ぼした影響力は致命的なものでした。しかし、イエス様の従順によって新しい歴史が始まりました。イエス様を信じる者はアダムの影響の下ではなく、イエス様の影響の下に置かれるようになります。アダムは罪の歴史、不従順の歴史を創造しました。しかし、イエス・キリストはいのちの歴史、従順の歴史を創造されました。それで歴史はイエス・キリストを中心に紀元前と紀元に分かれます。私達もイエス様をいのちの主として受け入れる時、私達のうちに新しい創造が始まります。19節をご覧下さい。「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」ここで一人の大切さを学ぶことができます。私達は自分を過小評価する傾向があります。自分一人で何かできるかと思います。自分一人が信仰生活をするからといって、この国が変わるかと思います。しかし、私一人は家庭や学校、社会、さらに人類の歴史においていなければならない大切な存在であることを知らなければなりません。私ひとりの影響を大きいものです。人類の歴史は一人から始まりました。一人はこの世の何物とも変えられない尊い存在です。ですから、私達が1:1聖書勉強によって仕えている一人の兄弟は大切な存在なのです。

今日の御言葉を通して信仰によって義と認められた人々の幸いについて学びました。私達は私達の主イエス・キリストによって、神様との平和を持つようになりました。また、恵みの世界に導き入れられるようになりました。神様の栄光を望んで大いに喜ぶ生活をするようになりました。さらに、患難さえも喜ぶようになりました。神様はイエス様を信じる信仰によって義と認められる人々をこれほど祝福してくださいます。私達が神様から与えられたこの祝福を毎日味わいながら幸いな人となるように祈ります。

ページ移動
良く読まれた記事 00-7 あなたがた自信とその手足を義の器として神にささげなさい 00-5 信仰によって義と認められた人々 次の記事
投稿された内容の著作権はコメントの投稿者に帰属します。
個人情報保護について HPのリンクについて データの引用(著作権) 聖書のデータについて お問い合わせ
Copyright ⓒ 1997- Japan UBF. All rights reserved.
日本UBF 公式サイト    HP管理者への問い合わせ