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7Step5 人は、新しく生まれなければ

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/14 (2627 回閲覧)
04年7Step第5講

人は、新しく生まれなければ

御言葉:ヨハネの福音書3:1?16
要 節:ヨハネの福音書3:3「イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」」

 先週、私たちは人がサタンの誘惑によって堕落し、神様に罪を犯したにもかかわらず、人を捜し求め、救い主を約束された神様の愛を学びました。また、神様は人を愛して下さり、罪のままの人が永遠に生きることがないように人をエデンの園から追い出されましたが、いのちの木への道を守ってくださいました。救い主イエス・キリストを通していのちの木を食べて永遠のいのちを所有できるようにしてくださったのです。では、どうやって、私たちは永遠のいのちを所有し、神の国を見ることができるでしょうか。正確な答えを言いますと「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」新しく生まれることほどに重要なことはありません。キリスト教の思想を一言で言うならば「新生」、新しく生まれることであると言えるほどです。新しく生まれることは神の国へのカギです。神の国を理解し、悟って神の国を見、はいることの唯一の方法は新しく生まれることです。
どうか、この時間、聖霊の助けによってイエス様の教えを正しく悟り、新しく生まれることの真理を確信することができるように祈ります。私たちのうちに新しく生まれるみわざが活発に起こるように祈ります。新しく生まれた者が所有する神様の祝福を自分のものにして生きることができるように祈ります。

?.新しく生まれることの祝福(1-8)
1節をご覧下さい。「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。」この御言葉からニコデモに関する情報を得ることができます。彼はパリサイ人でした。皆さんがよく知っているとおり、分離主義者であって「私はお前と違う。」という誇りを持っている人たちです。彼らは旧約聖書の権威を信じ、それを守っていると確信している人でした。実際に、彼らはぱりぱりの背広を着て、バリバリと仕事をこなすような人たちのように外見上の姿は立派に行っていました。それで、多くのパリサイ人人々からの尊敬を受けていました。このパリサイ人の中から今でも有名な人でガマリエル、パウロ、ジョセフスなどがいます。また、彼はユダヤ人の指導者でした。この言い方は、彼がユダヤ人議会サンヘドリンの議員であったことを表わしています。彼は、当時、政治、経済、社会、宗教などあらゆる分野で法を執行することができ、警察権と権力を握っているサンヘドリンのメンバーだったのです。また、10節を見ると、彼はイスラエルの先生として呼ばれるほどの知識人でした。ヨハネの福音書19:39を見ると、ニコデモはイエス様の死体のために没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ30キログラムばかり持って来たほどの財産を持っている財産家でした。
結局、彼は上流階級に属して権力も名誉もありました。最高の知識人としての実力も、お金もある人でした。つまり、食べるのに困ることなく、何も欠けていないような人だったのです。そんな彼がイエス様のもときました。2節をご覧下さい。「この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」」とあります。彼は人々に何かをお願いするような人ではありませんでした。特に彼は夜、人のところに来て何かの頼みをする必要がなかったと思われるのです。では、どうして、パリサイ人であり、ユダヤ人の指導者である彼が夜、イエス様のもとに来たのでしょうか。ある方はイエス様が昼間は忙しかったからと言います。また、イエス様と話し合っている場面が発覚されるとサンヘドリン議員たちから批判を受けることを恐れたからだと言っています。つまり、イエス様を非難している人々を避けて夜こっそりイエス様のところに来たということです。でも、私たちが正確な理由を知ることはできないと思います。ただ、一つ言える事は彼がすべてを所有したとしても夜イエス様にところに来なければならない不安、あるいはイエス様に対する好奇心があったということです。彼は出世し、名誉も権力も、お金も手に入れましたが心の中には満たされない不安と恐れがあったのです。しかし、イエス様は行いにおいても、言葉においても力に満ちていました。自分は立派な教師だと思っていましたが、イエス様の教えには自分としてはまねすることもできないほどの権威と力がありました。このイエス様のことを考えると、今まで自分が信じてきた律法、自分の価値観は虚しいものでした。名誉も、権力も、財産も意味を失いました。そこで、彼は葛藤しました。今まで自分が獲得してきた権力によっても、実力によっても、お金によってもできない力がイエス様にはあったからです。イエス様の教えやイエス様が行われるしるしはだれも行なうことのできない力があったのです。それで、彼は「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」と言いました。つまり、彼はイエス様が神のもとから来られた教師であることも、神様がともにおられるのでなければ、イエス様がなさっているしるしをおこなうこともできないことを知っているけれども、それをもっと知りたくて、もっと確信したくて来たのだと言っているのです。
信仰はこのような好奇心から出発し、このような好奇心によって成長します。イエス様の教えにも、しるしにも関心を持たなければ信仰の世界にはいることができません。また、イエス様の教えやしるしを知っていても常に好奇心をもってもっと確実に知りたい、もっと確信したいという意欲がなければ成長しません。ニコデモに知的な好奇心がありました。夜、イエス様のところに来て尋ねなければならないほどの好奇心、強い意欲があったのです。ですから、すぐに新しく生まれることができなかったけれども19章を見ると、彼が信仰を持ち、イエス様のために献身していることがわかります。信仰とは古い自分の価値観、自我が崩れるとともにイエス・キリストに関する知識から新しい真理と光を悟る時に成長するのです。でも、ニコデモはまだ、信仰の人ではなく、知識の人でした。「知識は力なり」と言われますが、知識は力ではありません。知識だけでは混乱します。頭が疲れるだけでしょう。しかし、信仰は力です。キリスト教に関する知識が豊かな人はいろんなことを話しますが、信仰のないことばには力がありません。信仰の言葉、信仰の行ないに力があります。イエス様は言われました。「できるものなら、というのか。信じる者にはどんなことでもできるのです。」信仰こそがどんことでもできる力なのです。ですから、私たちは知識の段階から信仰の段階に移って行かなければなりません。ニコデモはまだ、情報の確認、知識の段階に留まっていました。「おそらく、イエス様は天から来られた方でしょう。」「なんか、神様がついている方だと思います。」と言えるくらいに留まっていたのです。しかし、その状態を信仰とは言えません。私たちは教会に長く通うと、イエス様に関する知識を豊かに持つことができます。しかし、それが信仰ではありません。ニコデモの状態がそのような状態です。イエス様のことを聞いたり、見たりしてよく知っていますし、もっと知りたがっています。こういう人を指して求道者と言います。反対していませんが、心から確信しているともいえない状態です。この礼拝に参加している方の中にもこのような方がいるかも知りません。まだ、救われていない状態です。イエス様はそのような方たちのために、まだ、神様から来られたイエス様のおこないも、しるしも確信していないニコデモ言われました。
3節をご一緒に読んで見ましょう。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」イエス様は驚くべきことを言われました。イエス様が「まことに、まことに」と言われたのは、とても大切な御言葉であるからです。神の国を見ることができるカギは新しく生まれることです。私たちの価値観と宗教観の核心は、まさにここにあります。「新しく生まれたか」ということです。イエス様は尋ねておられます。「新しく生まれましたか。」新しく生まれなければ神の国を見ることができません。肉的に生まれていても、霊的な目が開かれていなければ、神の国を見ることができないのです。私たちはこの世の生活に慣れています。ところが、「この世」だけではなく、「あの世」があります。神の国があるのです。人々が死を恐れます。死ぬとすべてが終わりだと思うからです。また、恐れているのは、死後に対する準備がないからです。ところが、死後には何もないでしょうか。そのように思っている人もいるでしょう。しかし、死後に何もないなら、人間は植物や動物に過ぎない存在です。天国も、永遠もなく現実だけだったら道徳的に生きる必要もありません。「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」ということになります。しかし、天国も、地獄もあります。「あの世」永遠の世界があるのです。私たち人間は植物や動物と違います。私たちは悩み、恐れ、さまよう人間です。私たちは霊的な存在なのです。ですから、私たちは神の国を見、神の国にふさわしい者になって行かなければなりません。つまり、人は新しく生まれなければならないのです。ところが、ニコデモは何と答えましたか。
4節をご覧ください。「ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」とあります。ニコデモはまだ救われていないことが現われています。彼には人間的な知識はありましたが、霊的な洞察力はありませんでした。皆さんはどうでしょうか。第二の誕生を知っていますか。この地で生きているけれども永遠の神の世界、素晴らしい霊的な世界を経験したことがあるでしょうか。教会生活を何年したのかが大切なことではありません。牧者なのか、宣教師なのかが大切なのではありません。第二の誕生を経験したのかどうかが大切です。心理学者のウイリアム・ジェムズは、「一度しか生まれたことのない人は二度死ぬ。しかし、二度生まれた人は一度しか死なない。」と言ったそうです。つまり、普通の肉体の誕生しか経験していない人は、肉体の死とともに、最後の永遠の死、つまり永遠のさばきを経験します。しかし、普通の肉体の誕生とともに、霊的誕生である新生を経験した人、つまり新しく生まれた人は、肉体の死を経験するだけで、最後の永遠の死は経験しないのです。ですから、新しく生まれることは永遠の世界、永遠のいのちとかかわる重要なことなのです。ニコデモはこの重要な真理を知りませんでした。そこで、イエス様は言われます。
5節をご一緒に読んで見ましょう。「イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」新しく生まれることの核心は水と御霊です。水は「水で洗う」ことから「悔い改め」と「御言葉」を意味しています。ペテロは私達が新しく生まれたのは、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのであり、これは福音のことばであると言いました(?ペテロ1:23、25)。水によって生まれるとは、御言葉を聞いて罪を悔い改めることによって、神のかたちを回復することです。すると、神様は、その人に聖霊を注いで下さいます。聖霊は人を導きます。聖書勉強を始めるように、礼拝に参加するように、悔い改めるに導いてくださる方は聖霊です。それでパウロは「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」と言いました(テトス3:5)。そうです。私たちが行なった善行や努力、宗教的な習慣によって新しく生まれるのではありません。新しく生まれることは聖霊によるのです。素晴らしい救いと神の国を体験できるようになったのは私が神様の所に来たからではありません。神様が私を選び、導いてくださったのです。神様が私を愛してくださらなかったら、私が神様を愛することもできません。私が聖書勉強を始め、神様を愛していたと思ったのですが、実は私が神様を知らない時からすでに選ばれていたし、愛されていました。このような悟りによって信仰にはいる道です。「     」聖歌があります。信仰は、こういう意味で恵みであり、感動です。私の努力、私の意志によって神様の祝福を受け、神様に愛されるようになったなら誇れるでしょう。しかし、自分がやったことは何もなく聖霊が私のうちに働かれ、導いてくださったので、私は神様の子どもとして新しく生まれることができたのです。
自分が生まれる所と日時も、親も名字も、どれひとつ自分が選択できなかった肉体の誕生のように、霊的な誕生も同じです。神様が私に霊的な渇きも、神様を求める心も与えてくださり第二の誕生を許されたのです。これが恵みです。大いなる祝福です。神様が私の所に来られた時、私の心から神様を慕い求めるようになります。まさに、これこそ神様が私を誕生させてくださることです。私の両親が私を生んでくださったように聖霊が私を生んでくださいました。それによって私たちは新しく生まれるようになりました。その時から自分の力によって生きて行くものではありません。聖霊の力、御言葉の力、神様の力が私のうちに宿るようになります。すると、なんだか喜びと平安、言葉では説明できない不思議な力を体験するようになります。生きる意欲が生じるし、ビジョンを持つようになります。もはや弱い体も、貧しさも、低い学歴も問題になりません。聖霊によって新しく生まれたからです。祈りたくなるし、音痴でも賛美したくなります。この世では経験しなかった新しいビジョンと力、エネルギーを経験するようになります。聖書を読めば読むほど、祈れば祈るほどますますそれらのことをもっと多く経験するようになります。悲しみと苦しみが喜びと平安になり、必ずマイナスがプラスになると信じるようになります。そして、実際にそれらのことを体験するようになります。私たちの内側に聖霊に住み着いてくださるからです。これが新しく生まれることであり、新生した者の生活です。
 ところが、ニコデモはこの素晴らしい新生、新しく生まれることを不思議に思いました。6,7節をご覧下さい。「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」肉によって生まれた者は母から生まれた人間です。ところが、肉によって生まれた者は神の国に入ることができません。肉によって生まれた人は肉に過ぎない存在であり、その人は霊的な世界を知ることができません。だから人が神の国に入るためには御霊によって新しく生まれる必要があったのです。人は、新しく生まれて初めて、神様と交わり、神様の御声を聞くことができるようになるのです。それができるようにしてくださる方が聖霊です。そこで、イエス様はニコデモに聖霊の働きを説明してくださいました。
8節をご覧下さい。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」へぶる語も、アラム語も、ギリシャ語も風と聖霊と語源が同じであるそうです。風と聖霊は多くの共通点を持っています。風は思いのまま吹きます。風は吹いていても、それを目で見ることはできませんし、どこから吹き始めて、どこへ吹いて行くのかわかりません。ただその結果や現象としての音を聞くことができ、雲や煙がたなびくのを見ることはできます。それと同じように、御霊の働きも肉の目で見ることはできません。しかし、御霊が新しく生まれさせてくださると、その人の人生は変えられるのです。聖霊は目に見えませんが、人は、その実を知ることができます。新しく生まれた人は聖霊の実を結びます(ガラテヤ5:22)。ですから、御言葉と聖霊によって生まれた人は成長し、実を結ぶ人生になるのです。成熟します。人生の目的と方向が変わります。新しく生まれるとすべてが新しくなります。水と御霊によって生まれる人は今、この世にいるときも神の国を得るのです。そして、いつか、この世を離れて、この神の国に入るようになります。水と御霊によって新しく生まれた人に、このような祝福の人生が与えられるように祈ります。

?。新しく生まれる者に注がれる神様の愛(9-16)
9節をご覧下さい。ニコデモは答えて言いました。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」ニコデモは、まだイエス様の教えを悟ることができませんでした。イエス様が1:1してくださってもなかなか悟れないニコデモでした。では、ニコデモ永遠に悟れなかったでしょうか。いいえ。ヨハネの福音書7:50,51節を見ると、イエス様が祭司長やパリサイ人の攻撃を受けておられる時、イエス様のために弁護してくれた人がニコデモです。ニコデモは変化が遅かったようですが、変わりつつあったのです。ですから、今、新しく生まれたことが確信できなくても心配する必要はありません。御言葉の勉強を続け、礼拝を守り続けることが大切です。そうすると、ある日神の国を見ることができるし、神の国の素晴らしさを体験するようになります。私たちが御言葉を聞いていると聖霊が風のように私たちに触れてくださいます。時には強く、時には弱く吹いてくるでしょう。あるいは台風のように強い力によって私たちに触れてくださいます。
10-13節をご覧ください。「イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。わたしあちは、知っていることを話し、見たことを証しているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。」とあります。」ニコデモがイエス様のお言葉を理解できなかった理由は不信仰です。イエス様は「私たちが知っていることを話し、見たことを証ししている」とおっしゃいました。事実を事実として受け入れる、これが信仰です。イエス様は真実を話しておられます。それを信じることが信仰なのです。イエス様はこの信仰の奥義を教えてくださいます。
14、15節をご覧下さい。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」その信仰を通して私たちは新しいいのち、永遠のいのちを得ることができます。民数記21:4-9節を見ると、神様はイスラエルの民が紅海を渡るようにしてから荒野で訓練させました。食べ物も、飲み物もなくなり、我慢できなくなる環境を通して訓練されました。苦難がなければ栄光もありません。私たちは苦難にあったとき、神様が訓練される方法であることを覚える必要があります。ところが、イスラエル人は神様の恵みを忘れてモーセと神様につぶやきました。すると、神様は彼らのもとに毒蛇を送られました。つぶやいた者たちはその毒蛇にかまれ、次々と死んでゆきました。すると、この苦しみの中からやっとイスラエル人は罪を悔い、モーセにとりなしの祈りを頼みました。モーセが祈ったとき、神様は、青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけるようにと言われました。そして、「すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる」と言われました。神様が示された救いの方法を疑って仰ぎ見ない人はそのままみな死んでしまいました。しかし、苦しみの中、わらにもすがるような思いであっても、青銅の蛇を仰ぎ見た人は救われました。
 神様はこの出来事を通してやがて十字架につけられたイエス様のことを教えようとされました。全人類の罪と咎をあがなうためにイエス・キリストが嘲られ、鞭に打たれ、ついに十字架につけられて御血を流されるイエス様を信じ、仰ぎ見る者はだれでも救われるという救いの秘密を教えようとされたのです。これこそ福音の確信です。それはキリスト教の確信とも言われています。ただ信仰によって救われ、いのちを得るのです。
結論的に、16節をご一緒に読んで見ましょう。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」これが福音です。神様の救いの方法はひとり子をお与えになることであり、私ができることは信じることです。「それは御子を信じる者」です。知識のある人か、無知な人かが問題ではありません。条件があるとすれば信仰です。「あなたはイエス様を知っていますか」と言われません。「あなたはイエス様を信じていますか」と聞かれます。知ることによって救われるのではありません。信じることによって神様とつながります。私たちは大いなる神様を人間の知恵や知識によって全部知ることができません。知ろうとするならそれは傲慢です。理解して信じようとしても無理です。どうやって私たちの経験や知識によって理解することができるでしょうか。それは無理です。ですから、救われる方法は信仰です。謙遜にひざまずいて礼拝し、賛美し、信じることが大切です。神様は私たちを救うためにひとり子を遣わしてくださいました。その結果は何ですか。二つがあります。消極的な結果として滅びることがないということです。積極的な結果は永遠のいのちを持つことです。これがキーポイントです。もし、この事実を信じているなら、もう新しく生まれたことです。皆さん、新しく生まれましたか。これはとても重要なことです。私がまだ道徳的に未熟で、信仰の経歴が短いということは問題ではありません。重要なのはいのちがあるかどうかです。神様は私たちを愛してくださりひとり子をお与えになりました。この事実を堅く信じてください。すると、神様の子どもになっていることです。新しく生まれたことです。その土台の上に私たちの信仰を育てて生きましょう。
ひとり子をお与えになったほどに私たちを愛し、その神様の愛を信じるようにして下さった神様を賛美します。聖霊によって新しく生まれた私たちに与えられた新しいいのちが日々成長し、成熟したクリスチャンとして実を結ぶようにしてくださるように祈ります。

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