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97-3 ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/23 (3719 回閲覧)
1997年 使徒の働き 第3講


ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい
御言葉:使徒の働き3:1?4:31
要 節:使徒の働き3:6
「 すると、ペテロは、『金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。』と言って、」

 3ー7章はエルサレムで起こった福音のみわざを記録しています。このみわざはペテロがイエス・キリストの名によって、足のきかない男を歩かせたことから始めてステパノの殉教で一段落しています。ペテロの五旬節のメッセージを通して初代教会が誕生し、福音のみわざは盛んになりました。そのような中で初代教会は外部と内部からの試練がありましたが、それはむしろ教会を御言葉の上に堅く立たせる機会となりました。今日の第3章は「美しの門」にすわっていた生まれつき足のきかない男が、ペテロの言葉によっていやされる事件です。第4章は議会の中でイエス様を証しするペテロについての内容です。本文を通してイエス様の御名の力と使徒達の福音信仰について学ぶことができるように祈るように祈ります。

?。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい(3:1ー11)

 1節をご覧ください。 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行きました。当時敬虔なユダヤ人には、一日に三回の特別な祈りの時がありました。これは、午前九時、真昼の十二時、午後三時でした。ユダヤ人は、たとえどんな場所でささげられた祈りでも効果があると考えていましたが、神殿の庭でささげられたときは、その価値が二倍になると思っていました。ペテロとヨハネは過去ライバルでした。自分がもっと偉くなろうとする人間的な野心のために激しく競争していました。また、彼らはイエス様がゲツセマネで祈っておられる間に目を覚まして祈ることができず、眠っていました。礼拝の時間にもよく居眠りしました。しかし、今彼らは心を合わせて働く良い同労者であり、規則的に祈る祈りのしもべになりました。彼らが互いにライバルの対象だっと時には互いに妬み、憎んでいたので神様の御業に用いられることができませんでした。しかし、彼らが心を合わせてからは力強く主と福音のみわざのために働くことができました。神様のみわざは一人の力によって成し遂げられるのではありません。特に二人が心を合わせて働くと主が彼らを尊く用いられます。イエス様はマタイ18:19節で約束されました。「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」

 彼らが宮に上って行くと、生まれつき足のきかない男が運ばれて来ました。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていました。宮の入口は、乞食にとって最上の場所でした。というのは、誰でも神を礼拝しに行く途中なので、そこに座っている人に気前よくするからです。彼は生まれつき足のきかない人だったので一度も歩いたことがない人でした。4:22節を見ると、彼は四十歳あまりでした。彼は一生物乞いをする生活をしていました。足のきかない人の特徴は何でしょうか。

 第一に、依存心が強いことです。彼は足のきかなくなったのは親と神様のせいだとつぶやき、この世を呪いながら生きていたでしょう。歩いている人を見ると腹が立ち、走る人を見るともっと腹が立ったでしょう。彼は運命の奴隷となり、何度も自殺を計ったかもしれません。しかし歳を取るにつれてそれも諦めて仕方なく生きていたでしょう。もう彼は物乞いをする生活になれました。彼は他人の助けなしには生きて行けない存在になりました。彼は身体が足のきかないことで霊的にも足のきかない人になりました。人間は本来獣と違って両足で歩くように創造されました。それは人間が自立的な存在として創造されたことを言っています。人間は両足で立ち、神様にのみ頼りながら自立的に生きる存在です。人間は自立的に生きる時に生きがいがあり、幸せになります。しかし少し状況が難しいと言って人に頼ったり、人に依存することはよくありません。自立的な人はどんな状況の中でも神様に頼り、信仰によって困難を乗り越えます。また、他人を理解し、愛し、仕えます。しかし霊的な足のきかない人はいつも他人に依存します。また、他人を愛するより愛されることを好みます。自分を理解してほしいと言います。他人に認められるのを望みます。このような人は乞食の心となり、何でも物乞いをしている人と同じです。

 彼の人間条件を考えて見ると彼は他人の助けなしには生きて行けない人のように思われます。しかし、世の中には不幸な人間条件を乗り越えて生きている人々が多くいます。1988年度ソウル障害者オリンピックの時に聖火を運んだ人の中にケニーという人がいます。彼は生まれた時、下半身が使えない状態だったので手術して切ってしまいました。しかし彼は上半身だけでもその町で一番明るく生きているそうです。また、ある足のきかない人は合鍵を作る仕事をしてビルを所有しているそうです。

 第二に、足のきかない人の特徴は成長がないことです。人は絶えず成長するように創造されました。人は成長する時に喜びがあります。子供が成長しないことは親にとって大きな悲しみと心配になります。人は体だけではなく精神的にも成長しなければなりません。ある人は歳は大人なのに精神年齢は子供のような人もいます。考えることがいつも子供のようで行動も子供のようです。私達は精神的に成熟しなければなりません。それだけではなく霊的にも成長しなければなりません。私達が霊的に新しく生まれて成長しないと霊的な足のきかない人です。私達の信仰生活は昨日と今日が違い、去年と今年が違って成長する時に根本的に喜びがあります。私達は現在の自分の姿を見て足りないと思い、絶望する時があります。しかし私達が足りないことが問題ではなく成長しないことが問題です。

 それでは霊的に成長することはどんなことを意味するでしょうか。子供の特徴は忍耐心がなく、分別力もなく、責任感もありません。何よりも自己中心的です。子供はすべてのことを自分を中心に考え、行動します。ですからすぐ傷ついたり、不平不満が多く、よくつぶやきます。このような子供の状態から成長するというのは相手の立場で考え、他人を理解し、愛し、抱いて仕える者となることです。また、責任感がある人になることです。すなわち、神様中心、他人中心になり多くの人々を抱いて仕える神様の人となることです。このように成長するとき、信仰生活に喜びと恵みがあります。しかし信仰生活をしてから1年経っても5年経っても10年経っても成長がない人は神様に悲しまれる人で、人々に負担を与える人です。

 ペテロとヨハネはこのような足のきかない人をどのように助けましたか。ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、彼は施しを求めました。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめました。それは彼に何が一番必要なのかを知るためでした。人を助けるためにはまずその人を見つめる必要があります。そうしないと相手を正しく助けることができません。ペテロとヨハネは彼に「私たちを見なさい。」と言いました。すると、男は何かもらえると思って、ふたりに目を注ぎました。ペテロとヨハネは、物乞いをする彼に何を与えましたか。6節をご覧ください。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」そして、彼の右手を取って立たせました。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだしました。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行きました。

 ここで私達はペテロを通して人を正しく助ける方法を学ぶことができます。牧者は人を助ける人です。人を助けることは難しいことです。助ける側は善良な心を持って助けますが、相手は誤解して受け入れる場合も多くあります。それで助けて上げたにも関らず、恨まれる時もあります。ある人は牧者に向かって「あなたのせいで私の状態がもっと悪くなったよ。」と言います。それを聞くと牧者は辞表を出したくなります。それでは人を正しく助ける方法は何でしょうか。現在物乞いをする人に必要なのは金銀です。しかし、それは一時的な必要を満たすことはできても彼の根本問題の解決にはなりません。

 ですから人を正しく助けるのは彼が根本的に自立するように助けることです。それは彼が神様に頼って自ら問題を解決できるように信仰を植え付けることです。ペテロには金銀はありませんでした。しかし、彼にあるものがありました。それはイエス・キリストの名です。彼はナザレのイエス・キリストの御名によって彼に信仰を植え付け、信仰によって歩くように助けました。

 私達は羊達を助ける時同情して羊達を足のきかない人にしてしまいがちです。大抵羊達は初期段階では牧者との関係性の中で成長します。羊達は牧者の関心と愛を食べながら成長します。しかしある段階に行っては神様の御前で個人信仰を持ち、霊的に自立するように助けなければなりません。そうしないといつまでも牧者のふところの中で子供のように暮らします。そうだと言って冷たく手放ししてもいいと言うのではありません。ペテロが彼の右手を取って立たせたように羊が自立的な信仰を持つまで手を取って立たせることが必要です。

 それではペテロは何に頼ってこのようなことをすることができましたか。6節をもう一度ご覧ください。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」ペテロは過去自分の能力や経験に頼っていました。すると、彼は失敗し、無気力な人生を過ごすしかありませんでした。イエス様がなさる力あるわざを見て驚くばかりでした。ところが、彼が復活したイエス様に出会い、ナザレのイエス・キリストの御名に頼った時、足のきかない人を歩かせる力ある主のしもべになりました。彼は力の源がイエス・キリストの名にあることがわかりました。イエス・キリストは私達の罪のために死なれた方です。また、神様の全能の力によって死者の中から三日目によみがえられた方です。

 ナザレのイエス・キリストは十字架と復活によって人を根本的にだめにしてしまう罪と死の勢力を打ち破った方です。ですからナザレのイエス・キリストの御名によって生きる時に、人を正しく助けることができます。

?。その御名を信じる信仰のゆえに(3:11ー26)

 足のきかない男が歩きがなら、神様を賛美しているのを見た人々はみな非常に驚いて、ソロモンの廊という回廊に、やって来ました。ペテロはその機会を利用して自分の栄光を現わすこともできました。しかし彼は、集まって来た民達の関心を誰に向かせましたか。12ー15節をご覧ください。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。」ペテロは集まって来た民達の関心をイエス様に向かせました。16節をご覧ください。「そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」信仰が単なる知識にとどまってしまい、実際の生活の上で力になっていないことが多くあります。イエス・キリストの名によって、歩くとき、今まで味わうことも見ることもできなかった神様の福音によって、躍り上がって喜び賛美する生活へと変えられて行くのです。イエス様の名を信じる信仰がなければ、イエス様の名も私達の内に力を発揮しません。私達が人に頼り、金銭に頼っている間は、イエス様が来られたことによってもたらされた福音にあずかることはできません。私達が、ナザレのイエス・キリストの名によって歩むというイエス・キリストの御業にふさわしく生きて行く時、祝福にあずかる生活に生きる者となります。私達がナザレのイエス・キリストの御名を信じる信仰によって自立的に歩く人生、力ある主のしもべとしての人生を送ることができるように祈ります。

 それからペテロは大胆に悔い改めのメッセージを伝えました。19節をご覧ください。「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」ペテロのメッセージを聞いて男だけ五千人が悔い改めてイエス様を信じました(4:4)。彼がナザレのイエス・キリストの御名の力に頼って大胆に悔い改めのメッセージを伝えた時、多くの人々を悔い改めさせ、神様に立ち返らせることが出来ました。

?。議会の中でイエス様を証しするペテロ(4:1ー31)

 使徒達が民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエス様のことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、彼らに手をかけて捕えました。そして翌日まで留置することにしました。祭司たち、宮の守衛長、サドカイ人たちは当時の宗教指導者達であり、イスラエルの支配階級でした。サドカイ人達は復活を信じていませんでした。それでペテロとヨハネがイエス様の復活を宣べ伝えるいるのに、困り果てて捕らえました。このように神様のみわざがある時、サタンのしわざがあります。初代教会の柱である二人の使徒が捕われ、福音のみわざは大きな試練にぶつかりました。翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まりました。大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席しました。彼らは使徒たちを真中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。」と尋問しだしました。ペテロとヨハネが引き出された裁きの座は、議会でした。議会はユダヤ人の最高裁判所で、ローマの支配下にありながら逮捕権を持っていました。偉い人々の前に立つと震えて一言も答えにくいです。しかし、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに大胆にイエス様を証ししました。

 彼はまず足のきかない人が直って、彼らの前に立っているのは、彼らが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によると証ししました。このイエス様は彼ら家を建てる者たちに捨てられた石でしたが、礎の石となりました。このイエス様を通してのみ救いを得る事ができます。12節をご覧ください。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」ペテロは彼らにイエス様の御名の力を証ししました。イエス様の御名の力は死の力を打ち破った復活の力です。その御名の力は人類に救いを与える唯一の力です。仏陀や孔子のような名は私達に理性と良心を悟らせてくれますが根本的に私達を罪と死の力から救うことはできません。しかし、イエス様の名は人を罪と死から救う事ができます。イエス様の名は情欲と自意識と運命の奴隷となって死んで行く人を生かし、この時代の信仰の父であり、祈りの母とならせます。イエス様の名は傷んだ葦を丈夫にし、くすぶる燈心を燃え上げる力があります。イエス様の御名の力は罪の奴隷を神様の子供とすることができます。三年前までガリラヤ湖で漁をしていた男が、学者やこの世の権力者を前にして、堂々と「この方以外には、だれによっても救いはありません。」と言いました。それはペテロが知識を持っていたのではなく、彼がイエス様に救われ、イエス様の御名に頼っていたからです。

 議会の人達は、ペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚きました。人々はこの無学な二人が話すことを不思議に思い、どうすることもできず、この世の権力で脅そうとしました。そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じました。しかし、ペテロとヨハネは彼らに何と答えて言いましたか。19、20節をご覧ください。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」彼らは人を恐れず、神様を恐れました。イエス様は「からだを殺しても、たましいを殺せない人達などを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)と言われたからです。彼らには神様のしもべとしてのはっきりとした姿勢がありました。議会の人々は使徒達の勇気に圧倒されてどうすることもできず、釈放しました。

  釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告しました。これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて祈りました。彼らは何を祈りましたか。彼らは「主よ。彼らの脅迫から私達を守ってください。無事に信仰生活が送れるようにしてください。」と祈りましたか。いいえ。そうではありません。弟子達は「あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。」と祈りました。29、30節をご覧ください。「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出しました。神様のみこころと一致した祈りを主は聞いてくださいます。御心に反した祈りが聞かれるわけはありません。私達の祈りが神様の御心に一致するとき、神様は天地を造られたあの力で応答してくださいます。その時、私達はどんな権力、どんな脅迫に対してもびくともしない証し人とされるのです。

 以上から、ペテロがイエス・キリストの御名によって、足のきかない男を歩かせた出来事と大胆に議会の中でイエス様を証ししたことを学びました。当時イエス様はナザレのイエスと呼ばれました。それはイエス様を無視する意味でした。イエス様の名は無視されました。イエス様は人々に見捨てられ十字架につけられ死なれました。しかし、神様はこのイエス様をよみがえらせ、礎の石とならせました。イエス様の名は世のすべての人々を罪と死の力から救う名です。私達がイエス・キリストの御名を信じる信仰によって自立的に歩く人生となるように祈ります。また、ペテロとヨハネのようにイエス・キリストの御名によって霊的に足のきかない人を歩かせる人となるように祈ります。そして、大胆にイエス・キリストの御名を証しする人となるように祈ります。このイエス・キリストの御名が私達を通してあがめられますように祈ります。

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