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BibleMsg > ヨハネの福音書 > 07John20 互いに愛し合いなさい

07John20 互いに愛し合いなさい

投稿者: Calebkim 掲載日: 2008/1/14 (3993 回閲覧)
2007年ヨハネの福音書 第20講

互いに愛し合いなさい

御言葉:ヨハネの福音書13:1?38
要 節:ヨハネの福音書13:34「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

 この時間、私たちが学ぶ13章から17章までの御言葉はハネの福音書において最も興味深い部分であります。この部分の内容はマタイ、マルコ、ルカの福音書にはありませんが昔から聖書の最も貴重な部分の一つとして知られています。ここにはイエス様の「告別の説教」と呼ばれるメッセージがあります。このメッセージは私たちクリスチャンにとって食物であり、飲み物であります。大きな力であり、慰めであります。特に今日学ぶ13章は私にとっても大きな慰めであり、私の人生を支えているような御言葉であります。
私は大学3年の時に初めてこの13章の御言葉をメッセージとして書きましたが、伝えることはできませんでした。私はバイブルアカデミーのメッセンジャーのタイトルマッチで落ちたからです。それは私にとってとても恥ずかしいことであって当時は教会にいられなくなりました。しかし、その時私の心のうちに残されているイエス様の愛とへりくだりについての感銘と感動は実に大きいものです。今も13章の御言葉を読む度に、あの時が思い起こされるとキリストの愛とへりくだりに心打たれるものです。今回も、御言葉を準備しながらイエス・キリストを信じている者へのイエス様の愛は本当に深いものであると悟っています。それは確かに「人知をはるかに越えた」(エペソ3:19)ものなのです。私の腐敗した本性によっては、その愛を十分に理解することも、測り尽くすこともできないものです。私自身が悟り経験したことだけでも十分に表現することができないほどです。
ですから、この時間も、私はただ聖霊に頼りながら準備したメッセージを伝えたいと思います。

1節をご覧ください。「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」とあります。ここでの「過越の祭り」とはイエス様がこの世で最後に参加する祭りです。つまり、イエス様は、この祭りで「神の小羊」として十字架につけられて殺されるのです。イエス様はその十字架の死、この世を去って父なる神様のみもとに行くべきご自分の時が来たことを知られました。それで、世にいる自分のものを愛されたイエス様は、その愛を残るところなく示されました。世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛しとおされたのです(口語訳)。
イエス様は初めに愛された者を終わりまで愛されます。イエス様の約束は決して破棄されることがありません。イエス様が「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」(ヨハネ6:37)と言われたとおりです。ご自分を裏切り者でさえ最後まで愛しとおされます。2節を見ると、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエス様を売ろうとする思いを入れていました。悪魔はユダがイエス様を裏切るように仕掛けていたのです。イエス様はそんな裏切り者ユダにもご自分の愛を残るところなく示されました。イエス様は父なる神様が万物をご自分の手に渡されたことも知っておられましたが、ご自分の愛を残るところなく示されました。イエス様は父がすべての権力をご自分の手に委ねてくださったことを十分に承知しておられながらもへりくだられて、最も卑しい奴隷のようになって弟子たちに仕えられたのです。
4,5節をご一緒に読んでみましょう。「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子達の足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」ここにはイエス様の愛の行ないが詳細に記されてあります。ちょうど七つに区分された事柄が並べられています。「立ち上がること」、「上着を脱ぐこと」、「手ぬぐいを取ること」、「腰にまとうこと」、「たらいに水を入れること」、「洗うこと」、「ふくこと」です。このように詳細に記されていることはイエス様の行ないに対するリアリティーを明らかにしてくれます。
ここで、「上着」とはもちろん、長くゆるやかなものであり、パレスチナ地方の人々がいつも着ているものです。これは体を使ってひと仕事をする時には脱ぐべきものです。イエス様は上着を着たままで適当にご自分の愛を示されたのではなく、夕食の席から立ち上がって積極的に仕事をし始められました。しかも、イエス様は奴隷がするように手ぬぐいを腰に巻きつけ、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗われます。仕える者の姿の特徴である腰の手ぬぐいで拭き始めました。
恐らく、この時、ペテロは年若い者が他の人々の足洗いの役割を自発的に引き受けてくれるだろうと期待したでしょう。ところが、プライドはプライドを呼び起こすものです。若い弟子たちも誰かがやってくれるだろうと思っていたようです。イエス様の行動に戸惑いながらも弟子たちの間ではつぶやきとプライドの争いか起こっていました。自分の方から進んで奴隷の仕事をすることは嫌がっていました。ただ、だれかが最初に再び立ち上がるだろうかと思っていたのです。そこで、イエス様は、夕食の席から立ち上がり、弟子たちの足を洗われました。
6節をご覧ください。こうして、イエス様はシモン・ペテロのところに来られました。その時、ペテロはイエス様に言いました。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。決して私の足をお洗いにならないでください。」若い弟子ではなく、先生であるイエス様が自分の足を洗おうとされたのでペテロは驚いています。彼は「イエス様のような方が、自分のような者の足を洗ってくださると!」と思ったでしょう。彼はイエス様が自分の足を洗ってくださることを拒みました。しかしイエス様は彼に何と言われましたか。8bをご覧ください。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」とあります。イエス様は彼に「あなたはわたしと何の関係もない」と言われました。この御言葉は単純ですが、深い豊かな意味を持っています。ジョン・C・ライルは次のように講解しています。「わたしの行なっている象徴行為に、あなたが邪魔立てしているのは、賢いことではありません。誰でも、わたしがその人の罪を洗い流すのでなければ、その人は救われることができず、わたしとわたしの救いのわざになんの関係もなくなるのだ、ということを覚えなさい。わたしがあなたの多くの罪を洗い流さなければ、あなたシモン・ペテロであっても、わたしとなんの関係もないのです。わたしは救われるすべての魂を洗わなければなりません。そして、すべて救われる魂は、洗われなければならないのです。だから、わたしがはるかに大いなるわざをあなたの魂に対してしなければならないと言うのに、あなたの足に対して教育的・比喩的行為をするのを妨げるとは、確かに、あなたにふさわしくないことです。」ということです。
私たちはイエス様を救い主として信じることによって救われます。イエス様が信じる者のすべての罪をご自分の血潮によって洗い流してくださるからです。イエス様は救われたご自分の民を最後まで愛しとおしてくださいます。しかし、イエス様が私たちの足を洗わなければ私たちはイエス様と関係が無くなってしまいます。イエス様の教えをよく知っていて議論には負けない人であっても、自分の汚い足をイエス様に洗ってもらう生活がなければイエス様との関係はなくなってしまうのです。私たちが牧者や宣教師であることや、信仰告白した者であることや、聖書の達人であることや、そのたぐいのことで十分なのではないのです。イエス様はこの世の生活の中で汚れている汚い私たちの足を洗うことを願っておられます。「私は大丈夫、私はキリストの弟子なのだ。私は主に祝福されているのだ。」ということよりも主の御前にへりくだって汚れている足を洗っていただくことです。私たちひとりびとりに対してイエス様は語られます。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」と。豊かな知識によってどんな議論にも負けず、ペテロのように自分の主張が強い人は偉そうに見えます。議論に負けた人は、敗北感に陥る時もあるでしょう。しかし、そういう知識や議論によってイエス様との関係は深くなるのではありません。自分の罪と汚れをイエス様に告白し、洗っていただくことによってイエス様との関係が本当に深くなって行きます。もちろん、自分の汚い足を出すことは恥ずかしいことです。その汚さが罪に定められるのではないかという恐れもあります。自分ががんばったことや、苦労したこと、自分の功績などは言い表しやすいですが、汚い罪を告白して悔い改めることはやさしくないでしょう。しかし、もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。それによって私たちの魂は洗われて聖なる主との愛の関係はますます深くなります。神様との深い関係性を保つと、私たちは私たちの間で行なわれる神様の力あるわざと不思議としるしを体験するようになります。そういうわけでイエス様は「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」と言われたのです。
9節をご覧ください。イエス様の「何の関係もない」という御言葉に、ペテロはびっくりしました。それで彼は「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗って下さい。」と言いました。ペテロの子どのような純粋さが現れています。彼の言い方は極端から極端に方向転換しています。彼はイエス様に洗ってもらわなければならないことに気づかされた時、全身を洗ってもらおうとしました。しかし、イエス様は何と言われましたか。
10節をご覧ください。イエス様は彼に言われました。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」「水浴する」とは罪を悔い改めてイエス様をキリストとして信じて聖霊によって新しく生まれることを意味します。これは一生一度しかないことです。「足を洗う」ことは日常生活の中で犯した罪を悔い改めることです。これは一生続くことです。私たちは肉体を持っているので心ならず罪を犯す時があります。ですから、救われているクリスチャンであっても汚れている足を洗っていただく生活をしなければならないのです。そこで、私たちUBFでは所感を書くことや日ごとの糧の御言葉を通して日々足を洗ってもらう生活に励んでいます。
イエス様は、弟子達の足を洗いながら、足を洗ってもらうことの大切さを教えられましたが、それがおわると、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われました。12?15節をご覧ください。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」イエス様は先生であり、主ですから弟子達に仕えられるにふさわしい方です。そのイエス様がへりくだって奴隷の仕事をなさいましたが、それは弟子たちに模範を示したことでした。模範とは何でしょうか。それは先生とも主とも呼ばれているお方が奴隷の仕事である洗足を行なわれたことです。
私には4人の子どもがいますが、上の3人が一番下の子の面倒をよく見てくれます。小さい妹が可愛く遊んでいると自分たちも喜んでいます。しかし、オムツを替えることやトイレに連れて行くことは嫌がります。つまり、兄弟であっても人の汚いところを洗うことは嫌がるのです。むしろ「パパ臭いが酷いよ。」と言います。しかし、子どもを愛する親はどんなに汚れていてもそれを洗ってあげます。
弟子たちも仲良く遊ぶ時はともに喜びますが、人の汚いところを洗ってあげることは難しかったでしょう。つまり、「ペテロは自己主張が強い人間だ。ビリポは計算が速くて利己的だ。トマスは疑い深い人間で議論ばかりだ。」というふうに人の弱さ、汚さを指摘し、非難することはよくできます。しかし、人の弱さと汚れをかばい、洗ってあげることはなかなか難しいのです。しかし、イエス様はご自分を裏切ろうとしているユダの足までも洗ってくださいました。親が子どもを愛するような愛、いやそれよりも大いなる愛を示されたのです。そして、イエス様は弟子たちにもご自分が模範を示されたように、へりくだって奴隷のようになって互いに足を洗いあいなさいと言われたのです。
アダムの子孫である私たちは本性的に汚れています。それで人を知れば知るほど汚い所が多く見えて近づきにくくなります。私はUBF教会に始めてきた時、先輩の牧者たちが世の中ではまれに見る人格者のように見えました。しかし、共同生活をしてみると、汚いなあと思われる時が何度もありました。夫婦関係も、信仰の時は美しく見えたのに、歳月が流れるとお互いに弱点と汚い所ばかり見えてくる場合が多いでしょう。そのような時、私たちはイエス様がどんなに汚い自分を洗ってくださったのか、自分の弱さと汚い罪を洗い流すために十字架にかかって死んでくださったイエス様の模範を思いこすべきです。そして、そのキリストの愛で一番近くにいる人の足から洗うことが大切です。私たちがイエス様のようにへりくだって互いに洗い合うなら、私たちは祝福されます。17節を見ると「あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。」とあるとおりです。互いに弱点と弱さを指摘し合うところにはストレスがたまりますが、謙遜になって互いに足を洗い合うところには神様からの大きな祝福があるのです。
しかし、自分の足を洗ってもらうことも、互いに洗い合うこともしない人はイスカリオテ・ユダのようになります。18?30節にはイスカリオテ・ユダの問題が出ています。イエス様は裏切る者が今一緒に食事をしていることを弟子たちに知らせられました。同時に、イエス様はイスカリオテ・ユダにパン切れを浸して与えることによって彼が悔い改めるように助けられました。ユダに汚れている足を洗っていただける機会を与えられたのです。その時、イスカリオテ・ユダはパン切れをもらわず、悔い改めるべきでした。しかし、彼は悔い改めず、パン切れを受けると、その時、サタンが彼に入りました。30節をご覧ください。「ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。」とあります。ヨハネの福音書の著者は彼が外に出て行った時はすでに夜であったことを明らかにしています。結局、悔い改めることによって汚れた自分の足を洗ってもらうべき時に、悔い改めないと、イエス様との関係はなくなり、彼は夜の人になってしまいます。まことの光であられるイエス様との関係は切れてやみの子どもとなったのです。これは本当に悲しいことです。人生の中で一番悲しいことの一つは親子関係が切れることでしょう。それより悲しいことはイエス様との関係が切れることです。ユダは最後まで愛しとおされるイエス様の愛を受け入れず、悔い改めるべき時に悔い改めなかったためにイエス様との関係が切れてしまいました。これはイエス様にとっても大きな悲しみでした。愛する者がご自分を裏切って出て行ったときに経験する悲しみはどんなに大きかったでしょうか。しかし、イエス様は人間的な感情よりもユダが出て行くことによって確かとなった死に向かって、後戻りすることなく進んで行くことを覚悟なさいました。そこで、イエス様は「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。」と言われました。イエス様は十字架の死を通して来る復活の栄光をご覧になりました。イエス様はユダの裏切りによってご自分の死と復活が間近になっていることが分かったのです。それはイエス様にとって罪人のためにご自分を犠牲のいけにえとしてささげて人類を救う十字架の栄光であり、父のみもとへ行かれる道が開かれる復活の栄光です。しかし、それは「子どもたちよ」と呼ばれる未熟な弟子たちにとって悲痛な死別です。再び会うことのない別れとなります。もちろん、イエス様が十字架につけられて死なれることは肉体的な分かれであっても霊的な別れではありません。しかし、それでも十字架の死はこの地上では二度と会えなくなる分かれ目になるのです。そこで、イエス様は弟子たちに遺言的な告別メッセージを残されました。
34、35節をご一緒に読んでみましょう。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」 旧約聖書の戒めでは、「あなた自身のように愛しなさい」でした。つまり、自分を愛するのと同じ程度に愛しなさいということでした。しかし、主の新しい戒めでは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ということです。イエス様はへりくだって弟子達の足を洗われました。イエス様は真実と行ないを持ってご自分のものたちを最後まで愛されたのです。そのように愛することが新しい戒めの特徴です。主のようにへりくだって愛することです。人のきれいなところ、美しいところ、気に入るところだけを愛するのではなく、汚いところも愛することです。汚れと弱さに対して「汚い、臭いがする。」と指摘し、非難するのではなく、それをかばい、洗ってあげる愛です。この愛は生まれながらの人がいくらまねをしようとしてもできるものではありません。必ず行き詰まってしまいます。それは、キリストの十字架上の死によって示された神の愛を頂いた者にだけできる愛です。愛することは感情の問題ではなく信仰の問題です。ですから私たちはイエス様の御言葉に聞き従わなければなりません。その時に愛らしくない人も愛することができます。そして私たちの互いの間にその愛があるなら、それによって、私たちがイエス・キリストの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。弟子たちは互いに汚いところ、不正、腐敗などを指摘し、議論する仲間ではありません。互いにへりくだって弱さをかばい、汚れを洗い合う愛の仲間です。
使徒ペテロはこの愛の秘密を悟って迫害によって散らされているクリスチャン達に次のように言いました。「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」(?ペテロ4:8)。また著者ヨハネも次のように勧めました。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。」「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」(?ヨハネ4:7、3:18)

 私たちは神様に愛され、人々に愛されています。私たちが神様を愛し、自分の家族や友人、多くの人々を愛していることも事実でしょう。自分自身のように隣人を愛している人もいます。先週、アフガニスタンの旧支配勢力タリバンによる韓国人拉致・殺害事件で人質になっていた19人を解放することが大きなニュースになりました。彼らは全員韓国セムル教会のメンバーですが、韓国では彼らに対する批判も多く、宣教のやり方も問われています。しかし、私は彼らのアフガニスタンの民への対する彼らの実践的な愛、熱い愛に深い感銘を受けました。人々は自分よりハンサムな人、きれいな人、力ある人たちに愛されること、彼らを愛することを望みます。しかし、イエス様は世の中では疎外されている人々、高い所より低い所の人々に愛され、彼らを積極的に愛する生涯を送られました。しかも、言葉や口先だけで愛することではなく、行ないと真実を持って愛されました。人の体でいえば、あまり目立たない、しかも汚い臭いがする足のようなところに目を向け、手を出して彼らを抱きしめ、愛されました。彼の汚れを洗い流す愛で愛されました。私たちもそのような愛によって愛されています。キリストの愛によって私たちの罪も、汚いところも、腐敗しているところもきよめられて聖なる国民となっています。どうか、私たちがそのイエス・キリストの愛を覚えてその愛を実践する生活に励むように祈ります。そうすると、私たちはキリストの愛によって生かされていきます。私たちの教会がキリストのように愛し合う時に、生かしあう教会になります。

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