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BibleMsg > ヨハネの福音書 > 07John19 もし死ねば、豊かな実を結びます

07John19 もし死ねば、豊かな実を結びます

投稿者: Calebkim 掲載日: 2008/1/14 (2943 回閲覧)
2007ヨハネの福音書第19講

もし死ねば、豊かな実を結びます

御言葉;ヨハネ12:1?50
要 節;ヨハネ12:24「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」

 先週、私は家族と一緒に三日間故郷に行って来ました。初めて子どもたちを連れて先祖たちのお墓、私が通っていた小学校と教会など見せながら家門の歴史や自分の子どもの時を教えることもしました。そのうち、村にある牧師先生のお話も聞きましたが、牧師先生はこんなに田舎にある教会であっても全国の教会になっていると言いました。自分が田舎にいてもその教会出身でソウル大学を卒業して牧師をやっている先生を指導していることも誇らしく言いました。 ところが、その教会は今から50余年前、ひとりのクリスチャンもいない村に嫁になって来たひとりの女性から始まりました。20代に嫁になったひとりの女性が様々な迫害の中でも死ぬ覚悟で建てた教会だったのですが、今は全国的な教会として実を結んでいるのです。
 この間、夏修養会の時に私たちは宣教師が一人もいない大阪UBFの牧者たちの活動とメッセージを通して大きな恵みを受けました。その大阪UBFの支部長である野路牧者は日本を愛して韓国にいる時も日本人に聖書を教えていた故洪ヨセフ宣教師の弟子です。故洪ヨセフ宣教師は一粒の麦として死なれましたが、彼の死によってこの日本にも豊かな実を結び始めているのです。
 このように、一粒の麦として死ぬ献身、犠牲があるところに豊かな実を結ぶみわざもあります。それを「一粒の麦の真理」と言います。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままですが、もし死ねば、豊かな実を結ぶ」ということです。
 今日の御言葉を通してこの真理を学び、豊かな実を結ぶ人生を生きることができるように祈ります。

1?19節まではイエス様がどんな方であるかを教えてくれます。3節を見ると、マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエス様の足に塗りました。また彼女の髪の毛でイエス様の足をぬぐいました。このことは一般的に考えると理解するのが難しいです。しかし、当時、ぜいたく品をささげることは王に敬意を示すために行なうことでした。第二歴代誌9章では、シャバの女王がソロモンに、「百二十タラントの金と、非常に多量のバルサム油と宝石とを王に贈った。(9節)」とあります。したがって、マリヤのしたことは、イエス様を王としてあがめていることなのです。大勢の人の群れもイエス様を王として歓迎しています。
12、13節をご一緒に読んでみましょう。「その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」 これは、詩篇118篇からのものです(118:25,26)。ここで「ホサナ」という言葉は私たちも賛美の時によく使っていますが、旧約聖書では歓呼の声として用いられました。ヘブルで「今、お救いください。」という意味です。大勢の人の群れはイエス様を救い主、イスラエルの王として歓迎したのです。ただ、彼らは、政治的なこの世の王国を建設する者としてイエス様を歓迎しました。ところが、イエス様は、ろばの子を見つけて、それに乗られました。軍馬に乗って凱旋将軍としてではなく、貧しい者の家畜であるロバに、それもロバの子に乗って平和の王としてエルサレムに入場されたのです。それは、イエス様が軍馬に乗ってローマを征服する政治的なキリストではなく、十字架の死によって人類を救うキリスト、平和の王であるからです。ところが、弟子たちは、そのとき、これらの意味が分かりませんでした。彼らはイエス様が十字架につけられ、復活し、昇天されてから分かりました。
では王の王であるイエス様が十字架につけられて死なれること、死後に復活し、昇天されることにはどんな意味がありますか。イエス様は一粒の麦のたとえを通してご自分の死が死で終わるのではなく、豊かな実を結ぶ死であることを教えてくださいます。旧約聖書に預言されているとおりに、イエス様はご自分の十字架の死がユダヤ人だけではなく、ギリシヤ人、すべての人々に救いをもたらす救い主、まことの王としての死であることを明らかにされたのです。
 
20?22節をご覧ください。祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいました。彼らは弟子のひとりビリポのもとにやって来てイエス様に会いたいと告げ、その橋渡しを頼みました。そこで、ピリポともう一人の弟子アンデレは彼らの希望をイエス様に取り次ぎました。この時、イエス様は何と言われましたか。23節をご覧ください。「すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。 」とあります。イエス様は今まで「わたしの時はまだ来ていません。」と言われました(2:4,7:6,8:20)。しかし、今は「その時が来ました。」言われました。その時とは「イエス様の時、イエス様が十字架につけられて死なれる時」です。ところが、イエス様は「私が十字架につけられて死ぬ時が来ました。」と言われませんでした。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」と言われました。また、当時異邦人を代表していたギリシャ人が来た時にご自分の時が来たことを言われました。なぜでしょうか。ここで、私たちは二つのことを学ぶことができます。
一つ目は、イエス様は十字架の死をご自分が王の王、キリストとして受ける栄光としてご覧になったことです。イエス様は大勢の人の群れから王として大歓迎を受けながらエルサレムに入城されました。それをみた宗教指導者たちが「見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」と言うほどでした。これくらいの人々に歓迎されると、地上メシヤ王国を立てる絶好のチャンスとして受け取ることができます。この間、参議院選挙で民主党が大勝利すると、彼らは今こそ政権交代のチャンスだと思っています。彼らは国民の支持を受けている今こそ政権を握る絶好のチャンスだと思ってそのために励んでいるでしょう。それが一般的な人々の考えです。しかし、イエス様はそのような時に神様のみこころを考えました。神様のみこころは人類の罪を贖うために十字架につけられて死なれることでした。十字架につけられて死なれることは耐え難い苦しみであり、羞恥であり、呪いです。それは確かに敗北であり、愚かなことであります。ところが、イエス様はその十字架の死を栄光に考えられたのです。それはイエス様が十字架につけられて死なれることによって人間の罪が贖われ、輝かしい神の国に行く道が開かれるからです。われわれ人間の死は罪の代価ですが、イエス様の死は人類の罪を贖ういけにえとして死です。ですからイエス様の十字架の死は贖いの十字架、栄光の十字架です。また敗北の十字架ではなく勝利の十字架です。また、十字架は無力で愚かなことではなく、最も賢い知恵であり、驚くべき神の力です。使徒パウロは?コリント1:22?24節でこう言いました。「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」イエス様はこの十字架の奥義を知っておられたからご自分の十字架を栄光として考えられたのです。
 今日もこの十字架の奥義を知っている人たちは黙々と十字架を負う生活をします。この間SBCの時、写真を撮っていた牧者が立派なアルバムを作ったのですが、ある宣教師が自分の写真は一枚もないと言いました。そこで私は「あなたこそ偉いよ。」言いましたが、事実十字架の道はやさしくありません。
 先週、韓国の国民日報でマザー・テレサ(Mother Teresa)が1979年12ノーベル平和賞を受ける3ヶ月前に自分の精神的な同伴者であるマイケル神父に送った手紙の一部を読みましたが彼女が歩んだ十字架の道が心に伝わって来ました。こう言う内容です。「イエス様があなたにはとても特別な愛を注いでおられますが、何だか私は静けさと空しさだけに満たされています。それで見ても見えず、聞こうとしても聞こえません。祈りをする間に、舌は動きますが言葉で言うことはできない状態です。どうか、哀れな私のために祈ってくださいませんか。」テレサの柔和な笑顔と微笑みの裏側にこう言う悩みと苦しみが伴っていたのです。彼女は多くの手紙の中で自分の寂しさ、暗闇、苦しみ、悲しみなどを経験せざるを得なかったことで心を痛めていたそうです。たまには自分の経験が地獄そのものであるかも知れないと書き記し、その状態に対してイエス様を恨むこともあったそうです。幸いに彼女は自分に置かれた暗黒の状態を生活の一部として受け入れて信仰を守り続け、聖なる働きを続けることができたと記されてあります。彼女は十字架の奥義を知っていたからこそ、自分が経験する苦しみと悲しみを乗り越えて信仰を守り通すことができたのです。
二つ目に、イエス様は十字架の死によって得られる豊かな実を結ぶビジョンをご覧になりました。イエス様はご自分の死を通してユダヤ人だけではなく、ギリシャ人に代表される異邦人の世界に結ばれる豊かな実をご覧になったのです。イエス様はご自分の死を目の前にして絶望し、悲しみ嘆くべき時でしたが、むしろご自分の死を通して異邦人の中に成し遂げられる神様の驚くべき実わざを考えてビジョンに燃えておられました。それで、イエス様はご自分の死がどうして栄光になるのかを一粒の麦のたとえを通して説明してくださいます。
24節をご一緒に読んでみましょう。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」この御言葉は平凡な自然法則であり、生命の法則、創造の法則です。一粒の麦は豊かな実を結ぶ可能性を持っています。それは麦の中にいのちがあるからです。いのちとはほんとうに神秘なものです。いのちは必ず自分の同じいのちを複製できる生産性を持っています。成長し、実を結ぶことは生命体の特徴です。一粒の麦にもそのような特徴があります。ただ、一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。麦が死ななければ、それは二つ、三つになることもできません。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。ここでイエス様が「もし、死ねば・・・」と言われたのは死なないことも可能であるということです。イエス様はご自分のところに集まっている人々に言われましたが、イエス様の御言葉を聞いても死なないでいることができるのです。イエス様の素晴らしい御言葉を聞いて喜ぶこともできます。イエス様の御言葉を教えることもできます。ただ、実を結ぶことはできません。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。一粒の麦が地に落ちて死ぬということは自分を捨てて、自分を犠牲にして新しいいのちを誕生させる創造の働きです。
一粒の麦が地に落ちて死ねば四ヵ月後に100?125個の粒が結ばれるそうです。そのようにして5年後になると100億―125億という驚くべき実を結ぶようになります。それは200名の人が一日に三食をちゃんと食べても34年間の食料になるそうです。イエス様はご自分の死によってこのように豊かな実を結ぶ栄光のビジョンをご覧になりました。
本当の栄光は、キリストが死なれてからでないと現れません。イエス様が死ななければ、救いが異邦人に及ばないからです。そこで、イエス様は、死んでしまう一粒の麦のたとえを話されたのです。イエス様が死ななければ、イエス様ご自身は生きるが、他の人々はみな滅んでしまいます。けれども、イエス様が死ねば、多くの人が救いを受けるようになるのです。ですから、ギリシヤ人がイエス様のところに来たとき、この十字架によって、あなたがたも救いにあずかることができるのだよ、と言うことを教えられたのです。さらに、イエス様は一粒の麦のたとえがご自分の生涯だけではなく、私たちの生涯にも適用できることを教えておられます。
25,26節をご覧ください。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」とあります。私たちの人生は一粒の麦のようです。私たちには豊かな実を結ぶことができる生命力と無限な可能性があります。私たちがイエス様についていくなら、つまり、イエス様に見習って自分が死ぬ生活をするなら豊かないのちの実を結ぶことができなるのです。それは自分のいのちを愛して自己中心的に生きることではなく、自分のいのちを憎むことです。自分のいのちを憎むことは自虐することではありません。それは罪の欲を捨てて神様の栄光のために生きることです。世の快楽を捨てていのちのみわざ、救いのみわざのために自分の生涯を投資することです。自分の時間と才能、物質をささげて主に仕えることです。すると神様はその人に報いてくださいます。イエス様に仕えるその中にあって霊的祝福を受けるようになるのです。自分を愛する者はそれを失われてしまいますが、自分の十字架を負っていく者は霊的祝福をいただき、豊かな実を結ぶようになるのです。ですから、イエス様は苦しい十字架であってもそれを負っていく覚悟を決断なさいました。
27?29節をご覧ください。「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ。」と言った。」とあります。イエス様は耐え難い肉体的な苦痛と、人々から捨てられる侮辱と非難のために苦しまれました。さらに一時的に神様からも捨てられなければならない苦しみのゆえに、できればその時から逃れることを望まれました。しかし、イエス様は自分を捨てて神様のみこころに従われました。このイエス・キリストについてパウロは次のように証しています。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」 そうです。実に十字架の死にまでも従われたイエス様に神様は、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それで、30?33節にはイエス様の死によるみわざが記されてあります。この世をさばくわざです。イエス様は十字架の死によってこの世を支配する者、つまり悪魔をさばかれます。悪魔はずっと、人を神様から切り離していました。しかし、十字架によって、人は神様と一つになることができるのようになったのです。ですから、悪魔の仕業は、根本的に打ちのめされました。イエス様は、十字架の上で、王として悪魔にさばきを下されたのです。
 34?50節にはイエス様が十字架の死によって起こるいのちのみわざ、救いとさばきについて話されたにもかかわらずそれを信じない人々を光の世界に招かれたことです。36節をご覧ください。「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。」イエス様を信じない者たちは根本的に闇の中に縛られています。彼らは自分たちが何をしているのか、人がどこから来てどこへ行くのかを知りません。罪を犯していながらも罪の結果がどんなに恐ろしいかが分かりません。闇の勢力に支配されている人々は自分の力と意志によっては救われる道がありません。彼らには光が必要です。光を信じる時に闇の勢力から解放されて光の子どもとして生きることができます。そして、光の子どもになると、光の世界で光り輝く人生を生きるようになります。イエス様を信じる者は闇の中でさまよう人生ではなく、光の世界で生きるようになるのです。ます。
私たちは、神様から、選択の自由が与えられています。信じるか、信じないかの選択が与えられています。そして、私たちは、福音を信じる機会が与えられるときに、信じるか、信じないかは自由です。ただ、信じる者は、そのときに新たに生まれ、心が一新されます。けれども、信じない者は、心がかたくなにされます。次に福音を聞くときは、もっと信じるのが難しくなります。そして、受け入れないとさらにもっとかたくなるのです。そして、ついて、信じる能力が失ってしまうほどの状態されてしまいます。信じることができない状態になってしまうのです。ですから、イザヤは言いました。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。(55:6)」私たちが今、みことばに従わなかったら、今度同じような機会が与えられるとは保証できません。むしろ、もっと従うことが困難になります。ですから、機会が与えられたら、その時に応答する必要があるのです。

イエス様は私たちが救われていのちを得、それを豊かに得るために一粒の麦として死なれました。このイエス様を信じる者は救われて永遠のいのちを得ます。そして、イエス様に見習い、イエス様のように、自分を犠牲に、死ぬ生活をするなら、豊かな実を結びます。「毎日が死の連続です」と告白したパウロのように、日々自分が死ぬような生活を続けることは難しいでしょう。しかし、もし一粒の麦として死ぬなら、豊かな実を結ぶということは真理であり、事実です。どうか、私たちが豊かな実が結ばれる秋を迎えて豊かないのちの実を望みながらイエス様のように自分を犠牲にする生活ができるように祈ります。

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