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BibleMsg > ヨハネの福音書 > 01-8 ひとり子をお与えになった神様の愛

01-8 ひとり子をお与えになった神様の愛

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/23 (2250 回閲覧)
1998年ヨハネの福音書?部8講

 

ひとり子をお与えになった神様の愛

 

御言葉:ヨハネの福音書3:16ー36 

要 節:ヨハネの福音書3:16

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、

永遠のいのちを持つためである。」

 

 今日は本当の愛とはどういうものであるかということについて学びます。ある人は、ヨハネの福音書3:16を福音の要約であると言いました。この御言葉には世の人々に向かう神様の愛がよく現れています。また、永遠の滅びから離れ永遠のいのちへの道に入る救いの道がよく記されています。今日の御言葉を通して一人子をお与えになったほどに、私達を愛された神様の愛を学ぶことができるように祈ります。

 

?。世を愛された神様(16ー21)

 

第一に、神様が一人子をお与えになった動機(16a)

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」(16a)この御言葉には神様が一人子をお与えになった動機がよく現れています。世の中には愛らしい人と愛らしくない人がいます。私達は愛らしい人は愛することができますが、愛らしくない人は愛することが難しいです。たとえば私達に悪口を言う人を愛することはなかなか難しいです。利己的な人も愛することが難しいです。このような人は見るだけでもいやな気持になります。まさに私たちがこのように愛らしくない人々でした。人間はアダムが罪を犯して後、罪の奴隷となりました。らい病人のように惨めになり、取税人のように利己的な人になりました。いつも神様に逆らって自分勝手な道を歩んでいました。ローマ1:21?31節を見ると、堕落した人間の姿がよく記されています。人間は自由になろうと思って神様から離れました。しかし、その結果、自由になるところか偶像崇拝者となり、情欲の奴隷となりました。彼らは男女間の正常的な関係に満足せず、男と男、女と女が恥ずべきことを行う変態性欲主義者となりました。また、彼らはあらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪巧みとでいっぱいになった者となりました。私達もみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき人々でした。(エペソ2:1ー3)このように罪を犯した人間は神様の裁きを免れることができません。誰もこのような罪人を愛することができません。

しかし、神様は世の人々を罪に定めず、一人子をお与えになったほどに、愛されました。人間の愛は、打算が入っています。どんなに愛すると言っても、相手に価値を見いださないかぎり愛することができません。それで結婚の時にはいつまでも愛し合うことを人々の前で誓いますが、何年も経たないうちにいやになって離婚してしまうのです。しかし、神の愛は愛される価値のない者をも愛する愛なのです。神様は一人子を世の罪を取り除く神の小羊として遣わしてくださいました。神様ご自身が犠牲となってこの世に来られ、十字架にかかって死なれるほど、私達を愛してくださったのです。神様は私達を罪から救うために尊い代価を支払われました。?ヨハネ4:9,10節は言います。「神はその一人子を世に遣わし、その方によって私達に、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私達に示されたのです。私達が神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」このように救いのみわざは神の愛から始まるのです。神様が人間を愛さなかったなら罪の中に滅びるようにそのままほうって置いたでしょう。しかし神様は人間をあまりにも愛したので一人子をお与えになったのです。そして私たちがまだ弱かったとき、罪人であったとき、神様の敵であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神様は私たちに対するご自身の愛を明らかにしてくださいました(ローマ5:6?8)。ですから私達はどんな場合でも神様の愛を疑ってはなりません。

ところが人々は小さな困難や苦しみに会うと神様の愛を疑います。「神様が私を愛しておられるならなぜこのような苦しみがあるのか」と神様の愛を疑います。このように神様の愛を疑うと無気力になり、絶望するようになります。しかし、私たちがどんな場合でも神様の愛を確信し、その愛に基づいて考えなければなりません。神様が愛する子を懲らしめるのだと思い、その苦しみが自分に与える意味が何かを考えるべきです。そうすると心の中に喜びが生じます。今年四月韓国大統領夫人が来日し、青山学院大学で名誉博士号贈呈されました。その時、その方は「苦難の現代的意味」と言う題目で講演しました。その講演の内容を要約した雑誌に次のように載せられてありました。「1962年に結婚。結婚後九日目に代議士だった夫の金大中氏が反政府活動にかかわったとして連行される。71年の大統領選挙の時には尾行や盗聴もされた。72年の総選挙で移動中に与党議員のトラックに追突され負傷。その後、日本での加療中の夫が拉致される。もどってきた夫は「もう死ぬんだという時にイエスを見た」と言う。83年には光州事件があり、夫は死刑宣告を受けた。ささえは神様しかなかった。祈り、賛美歌を歌い、聖書を何回も読んだ。その中で、苦難の謎の答えを悟った。それは、苦難は神様の愛からであるということだった。夫を助けてくださいとは神様に祈らなかった。そして、神様にまかせた。苦難は全ての正しいものの運命だった。苦しみの中で破滅するものと真理を悟るものがいる。92年の大統領選挙に落選し、神様をうらんだ。夫は年も年だった。しかし、神様の計画は人間にはわからない。神様は夫をIMF非常事態の時のために取っておいた。苦しみの問題は人間の歴史始まって以来のもの。苦難の現代的意味は、復活の能力を疑わずに確信して生きることにある。」神は愛です。神様の愛は犠牲的な愛であり、無条件的な愛です。神様の愛は変わらず、真実です。神様の愛は私達が計り知れない愛です。この世の中にこれより大きな愛はありません。

神様がこれほど私たちを愛してくださったのに私たちがそれをよく感じられず、感謝しない理由は何でしょうか。それは神様の愛を物質的なものや人間的なものとしてしか考えないからです。神様が物質的に祝福してくださったり、病気をいやしてくださると感謝し、神様が私を愛していると思います。しかし私たちが本当に感謝すべきことは霊的な愛です。私たちは死刑宣告を受けた癌患者のように霊的に不治の病にかかって死んで行く者でした。私たちは神様の裁きを受けて火と硫黄との燃える池の中で永遠に滅びるべき者でした。神様はこのような私たちをあわれみ、一人子を私たちの罪のために犠牲にさせて私たちを永遠の滅びから永遠のいのちへの道に入らせてくださいました。世の中にこれほど大きな愛はありません。私たちがこの神様の愛をいつも感謝し、賛美しなければなりません。そして私達は実生活の中でこの神様の愛を学ばなければなりません。なぜなら愛は理論ではなく実際的なものだからです。たとえば自分の力では愛せない兄弟を主の愛によって最後まで愛する時、私たちは神様の無条件的な愛、諦めない愛を学ぶことができます。また、兄弟を許せなくて苦しんでいる時、十字架の愛を学び、赦して上げることによって神様の赦しの愛を学ぶことができます。このように実生活の中で神様の愛をひとつひとつ体験して行く時に私たちの人生は喜びと感謝に満たされるようになります。しかし、神様の愛を体験できないと心がかたくなになり、信仰生活に喜びがありません。人間の愛はいくら多く受けても満足を知りません。しかし神様の愛を体験して行く時に真の満足を得ることができます。

第二に、神様が一人子をお与えになった目的(16b、17)

神様が一人子をお与えになった目的は何ですか。3:16bをご覧下さい。「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」人は罪によって滅びるしかありません。神様の裁きを免れることができません。人は一生食べ物を得るために苦労し、結局死んで土に戻る運命に処せられています。会社生活をしている人は給料をもらうためにどれほど苦労しなければならないかがわかります。このような自分の人生を考えるとむなしくなります。また、死後には神様の恐ろしい裁きを受けなければならないと思うともっと絶望するようになります。人は死刑囚のように根本的に何の希望も喜びもありません。神様はこのような人々を哀れみ、一人子をお与えになりました。そして誰でもイエス様を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つようにしてくださいました。永遠のいのちはただ単に寿命がいつまでも続くというものではなく、全く質の違う、永遠に神様の祝福の下にあり続ける人生に入れてくださることです。

17節をご覧下さい。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」神様はこの世を裁くしかありませんでした。しかし、神様は世を裁くために御子を世に遣わされたのではなく世を救うために遣わされました。一般的に人々は神様に対して罪を裁かれる方として考え、罪意識にさいなまれ、恐れています。神様をヒトラのような独裁者として考えている人もいます。しかし、神様は裁き主である以前愛の神様、救いの神様です。神様はすべての人々が悔い改めて永遠のいのちを得ることを願っておられます(?ペテロ3:9)。そのために一人子をお与えになりました。

第三に、人間を救われる神様の基準(18)

イスラム教では救われるためには五つの厳しい規則を守らなければなりません。夜明け4時に起きて一日五回祈らなければなりません。年に一ヶ月間断食をしなければなりません。また旧約で禁じられている食べ物を食べてはなりません。貧しい者を施し、善を行うために励まなければなりません。そして死ぬ前に聖地巡礼をしなければなりません。この五つの規則を絶対的に守らないと救いを得ることができません。このように他の宗教には救われるためのいろいろな厳しい基準があります。仏教でも世のすべての欲を捨てて心から真理を悟り、解脱しなければなりません。しかし、キリスト教には何の基準もありません。誰でもイエス様を信じる者は救われます。神様は私達に行いや業績を要求せず、ただ信仰だけを要求されます。信仰は神様が私達のために用意してくださったものを感謝して受け入れることです。信仰は自分が罪人であることを認めて主の助けを求めることです。ですから信仰は謙遜な人だけが持つことができます。神様が私たちに与えてくださった最大の約束は滅びから救われ永遠のいのちを持つということです。これは最大な特権であり、祝福です。ところがこのような祝福を値なしにただ信仰によって受けるのです。これはどんなに驚くべきことでしょうか。

18節をご覧下さい。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」永遠のいのちと永遠の滅びは一人子イエス・キリストを信じるか信じないかにかかっています。神様のプレゼントはある特定の民族やまじめな人に与えられるのではありません。それはこの世のすべての人々に与えられます。ここには貧富の差別、身分や人種の差別がありません。誰でも神様の愛のプレゼントを受けるだけで滅びることなく永遠のいのちを持つのです。神様のプレゼントを拒否することは永遠のいのちを拒否することであり、神様のさばきを招くことです。誰でもイエス様を信じる時に裁かれることがありません。

第四に、信じない理由(19?21)

19節をご覧下さい。「その裁きというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりやみを愛した。その行いが悪かったからである。」ここで私たちは人々がイエス様を信じない根本原因が何かを知ることができます。人々はイエス様を信じない理由としていろいろなことを言います。「それは外国から入って来た宗教だから信じない。」「忙しくて信じない。」「教会に行けば献金しなければならないから信じない。」しかし信じない本当の理由は光よりやみを愛しているからです。ニコデモの問題も知識の問題ではなく光よりもやみを愛する罪の問題です。罪を犯すことがよくないことを知っていても罪を楽しむ心のために光のほうに来ないのです。しかし、私たちには二つの道しかありません。やみの道は滅びの道です。地獄への道です。しかし光の道は私たちを救いといのちと天国へ導きます。私たちはこの二つの道の中でひとつを選ばなければなりません。

 20、21節をご覧下さい。「悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」多くの人々が最初は喜んで聖書を学びますが、少し深く学び始めると負担に思ってやめようとします。なぜなら自分の罪の問題が明るみに出されることを恐れるからです。裁きというものは、普通世の終わりにあると考えられています。事実、世の終わりにあるのですが、しかし世の終わりにだけあるのではなく、もう現在始まっているのです。最初の人アダムとエバが罪を犯した時、神様を恐れて身を隠したように、罪を犯すと、いつも人は神様を恐れて身を隠そうとします。ですから、神様のもとに来ようとしないこと自体、神様の裁きにほかありません。しかし、光のほうに来るときに一時的に自分の罪を言い表す痛みがありますが、その後には驚くべき赦しの恵みがあります。光のほうに来た人にはいのちと自由と喜びが満ちあふれます。真理を行う人は、光のほうに来ます。真理を行う人は真理を愛し、真理の御言葉に聞き従う人々です。

?。私は衰えなければなりません(22ー36)

 

その後、イエス様は弟子達と、ユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられました(22)。一方ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていました(23)。ヨハネは、まだ投獄されていなかったからです。バプテスマのヨハネが以前ヨルダン川でバプテスマを授けていた時は、「エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々」がやって来ました。ところが、バプテスマのヨハネが、イエス様のことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言って、あかしをし始めると、どんどんイエス様の方へ行ってしまったため、ヨハネの弟子達は内心おもしろくありません。ヨハネの弟子達はイエス様のみわざは盛んになり、自分の先生のみわざは段々衰えるからねたみと競争心が生じたようです。それで、ヨハネの弟子達が、ヨハネのところに来て言いました。「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」(26)。その時、ヨハネは何と答えましたか。

27節をご覧下さい。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることは出来ません。」バプテスマのヨハネはすべてのものが神様から与えられるという神様の主権を信じる信仰がありました。イエス様の権威も神様から与えられたものです。みわざが盛んになることも神様がなさったことだから妬むべきではなく喜ぶべきです。私たちが神様の主権を信じてすべてのことを神様の側から見るときに問題を克服することができます。

 29、30節をご覧下さい。「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」ここで花婿とはキリストを指しており、ヨハネは花婿の友人として喜びに満たされていました。主役はあくまでも花婿であって、花婿の友人ではありません。花婿の友人は花婿を引き立て、花婿の結婚を助け、花婿が花嫁と結婚して、喜びの生活に入れるようにする役割を果たします。ヨハネはイエス様を高くするために自分を否認しました。彼は自分が衰える時に悲しんだり運命的な考えに陥ったりしませんでした。彼は自分がどうなってもイエス様が盛んになることを喜びました。彼は謙遜な人でした。「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。」(?コリント4:5)。これは、パウロがコリント教会の信者達に書いた手紙の中で語っていることですが、クリスチャンとはまさにこれなのです。キリストはいよいよ光り輝き、栄光をお受けになるお方ですが、私達クリスチャンは、このお方をあかししさえすれば、それでこの世における使命は終わり、消えていくべき者たちなのです。

 31?36節はキリストとはどういうお方なのかを教えています。まず第一に、イエス様は上から来られた方です。このイエスというお方は、ただの人間ではなく、天から来られた方です。地上の人間が地上のことを語るように、天から来られた方は、天のことをあかししてくださいます。

 第二に、イエス様のあかしを受け入れた者は、神は真実であることがわかります(33,34)。33節をご覧下さい。「そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。」神様は私達人間の救いについての御心を、聖書として啓示してくださいました。聖書が神様からの啓示であると言えるのは、神の霊感によって書かれたからです。ですから、今日、聖書に記されているところは、キリストが地上生活を送っておられた時に語られたのと同じ権威を持っている神様の言葉です。ですから、私達はこの聖書の御言葉に聞き従わなければならないわけです。そうするとき、神様は真実であることがわかります。

第三に、万物はイエス様の御手の中にあります(35,36)。神様は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになりました。ですから御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまります。イエス様は神様からさばきと救いの権威を委任されました。イエス様を信じる者は現在永遠のいのちを持つが、信じない者は現在神の怒りがその上にとどまっています。ここで「信じる」という言葉と相対するものとして、「聞き従わない」という言葉が使われています。これは「信じる」とは、ただ単に頭で承認するといった知的な問題なのではなく、「聞き従う」心の態度の問題です。いくら神の言葉を聞き、イエス・キリストの救いの福音を聞いても、それに従う意志がないだけでなく、これからも従って行こうと思わない心の態度、生活方針をとる人は、永遠の祝福にあずかることがないだけでなく、「神の怒りがその上にとどま」り続けるのです。

結論的にヨハネの福音書3:16節をもう一度ご一緒に読んでみましょう。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを待つためである。」神様は愛です。神様は私たちの罪のためにひとり子をお与えになったほどに愛しておられます。私たちはこの神様の愛を疑うことができません。私たちが神様の愛を受け入れると心の中の恐れが消え去り、喜びと平安に満たされます。それは愛には恐れがないからです。全き愛は恐れを締め出します(?ヨハネ4:18)。私たちは、私たちを愛してくださった方によって、どんな患難や迫害の中にあっても、圧倒的な勝利者となります(ローマ8:37)。人間の問題は結局罪の問題と愛の問題です。世の中には神様の愛を知らない人々が多くいます。私たちがますます神様の愛を悟り、愛が必要な人々に神様の愛を施す者となるように祈ります。真の愛に渇いているこの時代の人々を神様の愛によって愛することができるように祈ります。

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