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BibleMsg > ヨハネの福音書 > 01-1 この方にいのちがあった

01-1 この方にいのちがあった

投稿者: Jubfadmin 掲載日: 2004/12/23 (2368 回閲覧)
1998年ヨハネの福音書?部1講
 

この方にいのちがあった

 

御言葉:ヨハネの福音書1:1ー5 

要 節:ヨハネの福音書1:4

「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」

 

 この時間筑波大学開拓礼拝を捧げるようにして下さった主に感謝致します。今日からヨハネの福音書の学びを始めます。この福音書を通して何を学んだらいいでしょうか。この福音書を記録した目的について著者ヨハネは次のように書いています。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(20:31)。今年ヨハネの福音書の学びを通してキャンパスの多くの学生達が「イエス様が神の子キリストである」という真のキリスト教信仰に導かれるように祈ります。さらに私達の信仰が強くなるように祈ります。

 今日はイエス様がどんな方なのかを学びたいと思います。メッセージを通して神様であるイエス様、創造主であるイエス様、いのちの源であるイエス様について学び、いのちの光であるイエス様を受け入れることができるように祈ります。

 

?。イエス様は神様です(1、2)

 

 1節をご覧ください。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」「初めに、ことばがあった。」この御言葉は創世記1:1節の御言葉「初めに、神が天と地を創造した」を思い出させます。しかし創1:1の「初めに」は時間の最初、歴史の最初を意味していますが、ヨハネ1:1節の「初めに」は時間の最初ではなく、時間が始まる以前、つまりあらゆる時間と空間を超越した永遠の初めを意味します。創造のみわざが開始される前にすでに「ことば」がありました。

 ことばはギリシヤ語で「ロゴス」です。ギリシヤ人は、ロゴスと言えば、論理とか原理を考えました。彼らは初めに万物を存在させて支配する「理性的な原理」があったと考えていました。しかしこれは人格的な実態ではなく抽象的な観念にすぎませんでした。反面ユダヤ人はことばを単なることばではなく、行動を伴い、力と知恵を持つ生きた人格として考えました。従ってヨハネが言っていることばとは、神以外の何者でもありません。このことばは14節では人となられたイエス様を指しています。1、2節をもう一度ご一緒に読んで見ましょう。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」ここでヨハネは言葉ー神様ーこの方という三段論法を利用してイエス様が永遠の前からおられる神様であり、生きておられる神様であることをあかししています。

 1節で「ことばは神とともにあった」とはことばが父なる神様と区別された方であることを言ってくれます。「ともに」ということばは同等、連合、区別された他の主体であることを意味します。またどこに「向かって」(toward)いることを意味します。これはことばであるイエス様が、父なる神様と同等の神性を持つことを意味します。また一つの区別された他の主体として連合していますが、父なる神様との永遠の交わりの中におられることを言ってくれます(ヨハネ17:5)。「ことばは神であった。」というのはイエス様が神様としてのすべての性質を持っておられることを意味します。イエス様は永遠の方であり、全能なる方です。イエス様はいのちと光と知恵と愛、義に満たされた方です。著者は初めから「イエス様は神様です。」と言いながら彼の神性を強調しています。ここで私達は三位一体の神様を見ることが出来ます。神様は唯一の方ですが、父なる神様、子なる神様、聖霊の神様の三位が存在し働いておられます。この三位一体は人間の理性によっては理解できない神秘的な真理です。イエス様は永遠の前からおられる神様です。

 

?。イエス様は創造主です(3)

 

 3節をご覧ください。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」この御言葉はイエス様が創造主であることを言ってくれます。創世記1章を見ると神様は御言葉によって天地万物を造られました。神様が「光よ。あれ。」とおおせられると光ができました。万物は神様の御言葉であるイエス様によって造られました。ヨハネは「この方によらずにできたものは一つもない。」と言ってイエス様がすべてのものを造られたことを強調しています。ここですべてのものとは目に見える世界だけではなく目に見えない世界もすべて含めています。コロサイ1:16節はそれを次のように言います。「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」イエス様は被造物ではなくすべてのものを造られた創造主です。

 人間は空を飛ぶジャンボ機を作り、ロケットを宇宙に飛び打ち上げます。またノートサイズのコンピュータを作り、その中に大量の情報を保存したり、インターネットで世界の情報を簡単に手に入れることができます。先週アフリカのザンビアのネヘミヤ宣教師から日本の中古車の値段を調べてほしいと電話がありました。私はインターネットを使ってすぐその情報を手に入れてザンビアにその資料を送ることができました。しかしこのようなすべてのものはすでに存在する材料を持で作ったものです。人間は無からは何も作ることができません。ですから人間には創造ということばを使うことができません。創造ということばは神様のみに使われることばです。イエス様は無から有を創造されました。青い大空、広くて深い海、輝く太陽、各種の動物と植物、美しい桜の花、そして神様の傑作品である人間、このようなすべてのものを創造主であるイエス様が造られたのです。

 多くの人々は昔から宇宙の起源について深い関心を持って研究し、万物を存在するようにした第一原因は何かを考えて来ました。万物はどのようにして存在するようになったのか、生命体はどのようにして存在するようになったのかなどを探って来ました。古代哲学者達は水、火、空気などが万物を存在させた第一原因だと考えていました。後にダーウィンのような進化論者達はアメーバが生命体の根源だと主張しました。彼らはアメーバが段々進化して猿になり、猿が進化して人間になったと言いました。このような理論は人間を猿やアメーバの水準に陥れました。しかし彼らは無生物がどうやって考えたり、話したり、愛したりする人間になったか説明できません。また空気や水やアメーバがどうやって存在するようになったかも説明できません。しかし、ヨハネ1:3はそれに対する明確な答えを出しています。「すべてのものは、この方によって造られた。造れれたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」

 「イエス様は創造主です。」このことばは人間の根本問題を解決してくれます。もしある人が「僕は親から来て僕の先祖は猿だ」と言うならどうなりますか。彼は偶然な存在となってしまいます。彼の人生は偶然にこの世に生まれ、時になるとこの世から去って行く存在になります。このように自分が偶然な存在だと思うと人生が虚しくなります。どこからも自分の人生の存在意味や目的を見つけることができないから運命主義者になります。人々は有名人になったり、金持ちになることによって運命主義を克服しようとします。しかしこのようにしては決して運命主義を克服することができません。

 しかしイエス様が創造主であることを信じる時、私を絶対的な御旨と目的の中で神様に喜ばれる存在として造られたことを悟るようになります。すると私達の人生は生まれ変わります。私達は神様の真理の御言葉に基づいて人生の絶対的な意味と目的を持って祝福の使命人として生きるようになります。その時、私達は次のように言うことができます。「私は神様から来て神様に帰る存在です。そして生涯のすべての日に神様に喜ばれる存在として神様の栄光のために生きるのです。」使徒パウロはエペソ2:10で次のように言いました。「私達は神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私達が良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」人生の意味と目的を知って一生使命人として生きることはどんなに祝福でしょうか。それはイエス様が創造主である事実を信じる時のみ可能です。

 このような創造の信仰によって私達は自然万物の存在意味も知ることができます。今日は礼拝の後に新宿御苑に花見に行きます。この世の人々は満開した桜の花を見て「ああ美しいなあ、本当にきれいですね。」と言って、その美しさしか見られません。しかし、私達は花が美しいと思うだけではありません。その花を見てその花を創造し、育てた神様はすばらしいと見ていくことができます。こんな小さい花にも、あの栄華を窮めたソロモンよりもすばらしく着飾ってくださった神様はなんとすばらしい方かと、神様のわざを見ることができます。詩篇19:1節は次のように言います。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」イエス様が創造主である事実を信じると、私の人生だけではなくすべてのものが神様の摂理と御旨の中で造られたことがわかります。3節をもう一度ご一緒に読んで見ましょう。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」

 

?。イエス様はいのちの源です(4、5)

 

 4節をご覧ください。「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」この御言葉はほんとうに驚くべき御言葉です。この御言葉はイエス様がいのちの源であり、いのちの主であることを言ってくれます。いのちはほんとうに神秘的なものです。春になると死んだように見えた木の枝から芽生え、美しい花が咲きます。どのようにしてこのように芽生え、花が咲くのでしょうか。それはその木にいのちがあるからです。また私達は考え、働き、愛し合い、憎みます。それも私達にいのちがあるからです。もしいのちがなくなると体のすべての活動は中止されます。死体は互いに愛し合ったり、憎んだりすることができません。いったいこのいのちはどこから来たのでしょうか。

 ヨハネの福音書はこれについて明白な答えをくれます。「この方にいのちがあった。」(1:4a)。この御言葉はイエス様がいのちの源であることを教えています。ギリシヤ語にはいのちを表すことばが三種類あります。肉体のいのち表すビオスと精神的ないのちを意味するピュシケと永遠のいのちを表すゾエです。ヨハネ1:4のいのちは永遠のいのちを意味します。永遠のいのちは単に量的に永遠に生きることを意味するのではありません。永遠のいのちには必ずまことの喜びと幸福が含まれていなければなりません。この永遠のいのちはイエス様の中にだけあります。いのちの源であるイエス様を離れてはこのいのちを得ることができません。?ヨハネ5:11、12は言います。「そのあかしとは、神が私達に永遠のいのちを与えられたと言うこと、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を待たない者はいのちを持っていません。」私達がプールがついている大きな家と立派な車と高い社会的な地位と権力、富と名誉などこの世で自分が願うすべてのものを得たとしましょう。しかし私達にイエス様のいのちがなければすべてのものが空しいものです。しかし貧しくて持っているものがあまりなくてもイエス様のいのちを持つ人は世の中で一番豊かな者であり、幸せな者です。

 いのちの源であるイエス様はキリストを信じる私達にいのちを与えられ、死からいのちへ移してくださいます。ですから私のいのちは私のものではなくイエス様のものです。私のいのちだけではなく親のいのち、子供のいのちもすべてイエス様のものです。イエス様は私達のいのちの主です。私達はただ神様から与えられたいのちの管理人に過ぎません。私達が常に神様に感謝すべき理由がここにあります。私達がこのいのちをむだにしてはならない理由がここにあります。私達は尊いいのちをよく管理して神様の栄光のために多くの実を結ぶ責任があります。そしてこのいのちを時になると主であるイエス様に返さなければなりません。

 ところが世の中にはいのちをまるで自分のもののように錯覚している人々が多くいます。彼らは自分のいのちを失わないために一生懸命に努力します。このような人々は自分がいのちの責任を負わなければならないのでいつも不安です。彼らは親と子供に対する心配が消えません。しかし究極的には彼らのいのちに対して責任を負うことができません。自分自身のいのちに対しても責任を負うことができません。私達のいのちは神様の中にあります。神様は私達にいのちを与え、また取られます。ですから私達は自分のいのちや子供のいのち、親のいのちを主に任せなければなりません。

 それではこのいのちは人々にどんな役割をしますか。4bをご覧ください。「このいのちは人の光であった。」イエス様の中にあるいのちは人の光の役割をします。過去私達はやみの中をさまよっていました。やみの中にいる人は方向がわかりません。自分がどこからこの世に来たか、またどこへ行くかを知りません。人生の真の意味と目的を知らず、この世と調子を合わせて生きていました。神様はこのような私達をあわれみ、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いて下さいました。人々はいくら豊かな生活をしていても光がなければ苦しくなります。ゲーテは死ぬ時「私に光を!」と叫びながら死んだそうです。人々には光が必要です。いのちを与え、希望を与える光が必要です。イエス様はヨハネ8:12で言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」私達が世の光であるイエス様に従う時、いのちの光を持つようになります。その時、人生の虚しさ、無気力、絶望の代わりに意味と生命力と希望に満たされるようになります。光であるイエス様は人を根本的に生き返らせることができます。イエス様から離れた人はまるで花瓶の中にある花のようです。花瓶の中の花はいくら美しくてもしだいにしおれていて、花は散ります。

 5節をご覧ください.「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」

ここでやみはサタンに支配されているこの世を指します。すなわち、やみは罪と不信によって暗くなった堕落した人類を指します。やみの中に光がさし込んでくると、やみは姿を消してしまいます。しかし、光の中にやみを入れることはできません。光はやみを退けることはできても、やみは光を退けることはできないのです。この世はやみの力が強くてやみがこの世を支配しているように思われる時があります。しかし、そこにキリストが輝いておられる限り、絶望はありません。いくらやみの力が強くても光であるイエス様に打ち勝つことが出来ません。光であるイエス様は私達に究極的な勝利を与えてくださいます。

 いのちの光であるイエス様がみなさんひとりひとりにその光を照らしておられます。いのちの光であるイエス様がこの世に来られたのにまだやみを愛し、やみの中に歩んでいる方がいますか。この時間いのちの光であるイエス・キリストのもとに出て行きましょう。心を開き、いのちの光であるイエス・キリストを受け入れましょう。そうすると、すべてのやみはその姿を消してしまいます。この光を受け入れる人は決してやみの中を歩むことがなく永遠のいのちを持つことができます。

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