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BibleMsg > マルコの福音書 > 09Mark08神の国はからし種のようなものです

09Mark08神の国はからし種のようなものです

投稿者: Calebkim 掲載日: 2009/10/13 (3038 回閲覧)
2009マルコの福音書第8講 

神の国はからし種のようなものです

御言葉:マルコの福音書4:21-34
要節:マルコの福音書4:31,32「それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。

 先週、私たちはPaul Hong宣教師を通していつでも祈るべきであり、失望してはならないことを学びました。これは私たちの人生においてとても大切な真理です。どうか、私たち一人一人がどんな状況の中でも祈り続けて祈りを聞かれる神様を体験して行くことができるように祈ります。
 今日は神の国に関する三つのたとえです。一つ目は燭台の上のあかりのたとえ、二つ目は成長する種のたとえ、三つ目はからし種のたとえです。これらのたとえを通して私たちは神の国の性格と特徴について学ぶことが出来ます。この時間、聖霊がたとえにある神の国の奥義を悟らせてくださるように祈ります。また、神様の御言葉を注意深く聞いて受け入れる時間となりますように祈ります。

?.燭台の上のあかりのたとえ(4:21-25)
21節をご覧ください。「また言われた。「あかりを持って来るのは枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。」とあります。ここで、あかりとは英語でLampです。私が小学生の時、うちの村には電気施設がなかったので夜になると、ろうそくやLampで部屋を明るくしていました。今は思い出になっていますが、子どもの頃、おばあさんはLampを持って来て部屋にある燭台の上に置きました。Lampを持ってくるのは枡の下や寝台の下に置くためではなかったのです。もし、あかりを枡の下や寝台の下に置くなら、部屋を明るくすることもできません。昔はOil Lampなので枡や寝台を燃やし、火事になる可能性もあります。しかし、Lampを燭台の上に置くと、そのLampが部屋の全体を明るくして本を読むことも出来ます。そのLampを持っていると、夜中でも自由に道を歩くことができます。子どもの時、私は深夜に魚の漁から帰ってくる父を迎えるために、しばしば母と一緒に小さな山の峠を歩いて行きました。その時、Lampは大きな頼りになりました。Lampのお蔭で道がよく見えて狭い山道でも安全に歩くことができたのです。
ところが、詩篇119編105節を見ると「あなたの御言葉は、私の足のともしび、私の道の光です。」とあります。ここで「ともしび」とは前の「あかり」と同じく、英語では「Lamp」になっています。神様の御言葉は霊的な暗やみを明るくするLampであり、光なのです。ですから、御言葉がある所に無知と暗やみが消え去り、明るい光が臨まれます。その光のゆえに夜中の山道を歩くようなことがあっても、さまようことなく、いのちの道を歩んでいくことができます。それでイエス・キリスト、聖書の御言葉を信じている人は世の中が暗くても明るく生きることができます。それは私たちを生かし、励まして正しい道に歩ませてくれる御言葉があるからです。
先週、メッセージを伝えてくださったDr. Paul Hong宣教師はアメリカに行って8年経った時、経済学での修士課程と会計学でのMBAを卒業しました。ところが、7ヶ月間ずっと仕事を探し続けても就職ができませんでした。目の前が真っ暗になったでしょう。実際に、Hong宣教師はマクドナルドでの単純な仕事でさえ雇ってもらえないように思えました。しかし、そんな彼に御言葉が与えられると、道が見えました。「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」という御言葉を通して、これから200件の様々な求人に応募しようと決心したのです。すると、100件目に応募しようとしたところで、家の近くの大学で職を得るようになりました。もし、Hong宣教師に御言葉がなかったら、その人生はどうなったでしょうか。暗やみの中でさまよい、絶望感の中で何もかもあきらめてしまったかも知れません。しかし、神様の御言葉があったから、暗闇の中でも希望を持って祈り、チャレンジし続けることができたのです。御言葉が彼を照らし、彼の人生を導いてくれたので、今は宣教師としても、大学教授としても多くの実を結ぶ人生を生きています。このように、人は御言葉によって暗やみの中から驚くべき光の世界に移されて生きるようになるのです。ところが、イエス様がたとえで話された教えのように隠れている場合もあります。覆い隠されている場合もあるのです。その理由は何でしょうか。
22節をご覧ください。「隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。」とあります。イエス様が話された聖書のたとえ、真に語ろうとしていることは、隠されており、おおいが隠されているということです。それで、普通に読むとすっと読みすごしてしまうし、その前を行きすぎてしまいます。しかし、隠れているのは、表わされることを前提としています。現われるために隠れているのです。 
それは、まるで「かくれんぼ」のようです。しばしば、うちでは子どもたちがかくれんぼをします。かくれんぼをすると、家のどこかに隠れますが、それは見つけられることを前提としているのです。永遠に鬼に会わないように逃げようと思っているのではなありません。きっと鬼に見つかると思いながらも、そのスリルを楽しんでいるのです。そして、鬼はいくつかを数えてから「もういいか。」と言うと、隠れている人が「まだだよ、もういいよ。」と答えます。それでその声をよく聞いていると、聞こえる方向に行って見つけることができます。
同じようにイエス様のたとえに真理が隠れているも明らかにされることが前提になっています。そして、その真理はよく聞いている人たちに現われ、明らかにされます。聖書に「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについての御言葉によるのです。(ローマ10:17)」とあります。そこで、イエス様は「聞く耳のある者は聞きなさい。」とも言われました。さらに、御言葉を聞いて受け入れることの大切さを教えておられます。
24-25節を読んでみましょう。「また彼らに言われた。「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」ここで、主の御言葉を注意深く聞く程度に応じて、与えられる恵みも異なるということを教えてくれます。御言葉にいのちがあり、光があります(ヨハネ1:4)。ところが、どれほどのいのちが得られるか、どれほどの光が得られるかは聞き方次第です。私たちが御言葉を聞いてもよく注意しなければいのちを得ることも、光に照らされることもできません。同じ御言葉を何度も聞いているからと思って不注意に聞いている人は「持っているものまでも取り上げられ」る結果になります。「私は何度も聞いたよ、またそれか。」と言うふうに思っているなら、過去の受けた恵みも取り上げられてしまうのです。しかし、主の御言葉を注意深く聞くなら、いのちを得、豊かに得ることができます。毎日の生活が忙しいですが、その中でも毎朝注意深く主の御言葉を聞く生活をするなら、毎日、霊的ないのちにあふれて生きることができます。同じ御言葉でも日々違う味を味わい、その信仰も日々新しく成長していきます。それは御言葉の種にいのちがあるからです。そこで、イエス様は成長する種のたとえとからし種のたとえも教えてくださいます。

?.成長する種のたとえ
26-29節を読んでみましょう。また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」
皆さん!夜はゆっくりと休むことができるぢょうか?朝はすっきりと目覚めることができるでしょうか。不眠症の方がおられるかも知れませんが、その方は一日も早く癒されるように祈ります。やはり夜はぐっすりと眠り、朝はすっきりと起きあがりたいものです。そうこうしているうちに、種は芽を出し、収穫の時が来るとは、なんと素晴らしい約束でしょう。 もちろん、同じ土地でも育て方によって収穫量とか、実の品質違います。
私は農村で生まれ育った者だから分かりますが、種を蒔いてから収穫までの育て方、その年の雨、台風などの天候によって収穫の量が違ってくるのです。しかし、地は人手によらず実をならせるものです。小学生の時、学校でも朝顔とか、大豆の種を蒔いて育てましたが、種を蒔いて置くと、いつの間にか、芽が出て1cm、2cm伸びていきます。初めは苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。すると、大豆の場合は鞘(さや)が大きくなってきたら、二回も収穫します。最初は豆が大きく、水分を十分に持っている緑のうちに収穫します。すると、それは枝豆にできます。ゆがいて、塩をふって、おいしくいただけます。二回目は鞘が黄色く、固く、乾いてきたら、大豆として収穫します。すると、それは私たちが毎日のように食べている味噌、豆腐、納豆、醤油などを作る材料として用いられるようになります。
ところが、人が地に種を蒔いてからすぐに収穫することはできません。人が種を蒔くと、種はしばらく見えなくなります。やがて芽を出しますが、人がそれを伸ばして実らせるようなことはできません。確かなことは、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育つということです。蒔かれた種は、確かに着実に成長して行くのです。
神の国もそのようなものです。私たちが日常生活を歩んでいて、気づかないうちに、みことばが私たちを大きく変えています。御言葉を聞いて受け入れているうちに、いつの間にか、栄光から栄光へと変えられて行きます。夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに私たちはキリストの似姿に変えられているのです。もちろん、ある意味では、自分の成長のために、教会の成長のために人手をかける仕事をしなければならないでしょう。しかしそれらの本質は、御言葉の種を蒔く仕事であり、そんな中、知らないうちにすべてが成長して行くのです。
ある方は「私なんかクリスチャンになっても、あまり変化がない」と思っているかも知れません。あるいは、自分の家族や隣人に対して「この人はなかなか成長しない。何年だってもあまり変化がない。」と思われるかも知れません。しかし、すべてのクリスチャンには、すでに種が蒔かれております。今も、皆さんの中に御言葉が蒔かれています。ですから、それは人手によらず、夜寝ているうちに、目覚めて仕事をしているうちに、気づかないうちにどんどん成長して行きます。人手によらず、神様は私たちを養ってくださるからです。今日も、明日も、神様が養ってくださるからこそ、私たちは成長し、実を結ぶ人生を生きるようになります。イエス様は言われました。「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。(ヨハネ15:5)」。ですから、私たちは、ただ御言葉を心の中に保って主の御言葉を信頼していれば良いのです。この麗しい聖霊の働きに自分をゆだねることができるように祈ります。

?.からし種のたとえ(30-34)
 30?32節をご一緒に読んでみましょう。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」からし種は一点のように非常に小さな種です。イスラエルではよく見かける植物でイスラエルから持って来た種を見たことがありますが、0.5ミリにも満たないちっちゃな種です。ころが成長すると3メ?トルほどの大きさの木になるそうです(画面)。このたとえから二つのことを学ぶことが出来ます。
一つ目は神の国は始まりはちいさくてもやがて大きく進展拡大することです。実際に、この地上での「神の国」は小さなユダヤの国のガリラヤ湖地方で漁師をしていた12名の無学な若者たちの小さな群から始まりました。ところが、12弟子から始まった神の国はどうなりましたか。神の国はエルサレム、ユダヤとサマリやの全土、および地の果てにまで、宣べ伝えられました。今や民族、言語、文化の違いを越えて世界最大の宗教として15億人もの人々がイエスキリストを救い主と信じ、その教えに従って生活をしています。神の国は東洋の地の果てである日本にもザビエルによって伝えられて来ました。ヘボン式ローマ字で有名なヘボン宣教師を初めとする日本プロテスタント宣教も150年の節目を迎えました。その間にキリスト教が日本の歴史と文化にどれだけ大きな影響を与え続けてきたでしょうか。たった12名の無学で無力な若者たちの群がこのように世界的に、この日本までも拡大するとは誰が予測できたでしょう。しかし、神の国はからし種のようで、大きく拡大して来たのです。それは神の永遠のご計画の中で導かれているからこそ可能となったのでした。
二つ目は、小さく無価値に見える存在であっても永遠で最高に価値ある存在となることを示しています。からし種は本当にちっちゃなもので無価値なものに見えます。しかし、からしは中東、地中海に生育し、エジプト時代から香辛料や薬草、あるいは防腐剤としても使われました(『ウィキペディア(Wikipedia)』。神の国も、初めは、無価値に見える存在であっても、無能力のように思われても、天地を創造された偉大な全能者である神様の働きによって価値あるもの、偉大なものへと成長します。やがて世界の人々を癒し、腐敗を防ぐ働きをするようになります。イエス様の12弟子たちも、小さく無価値に見えました。実際に彼らは無学で無力な人たちでした。しかし、彼らのうちに働く御言葉の力、神様の導きによって彼らは偉大なものへと成長して地の塩、世の光として最高に価値ある存在となりました。
私たちの日本UBF教会も21年前はからし種のように微々たるものでした。四畳半の部屋で4,5人が集まって礼拝をしていました。しかし、東京UBF教会だけではなく日本全国に15支部があります。最初はメンバーも、アルバイトしながら日本語学校に通っている人たちで小さく無価値に見える存在ばかりでした。しかし、今や東京大学を初め、大学教授たちがいますし、博士号を取っている宣教師も10人を超えています。外的に大きくなりましたが、内的にもこの日本に地の塩、世の光としても影響を与えているのです。
ですから、私たちは今の自分自身の能力や存在の無価値さ無力さだけをみて失望したり、落ち込んだり、他人をうらやましく思ったりする必要がありません。自分の過去の生い立ちや環境だけをみてあなたは将来に対する希望を失ってもいけません。人は過去や環境だけによって未来を支配される存在ではありません。神様によってあなたの将来は無限の可能性をもって導かれているのです。神様は小さなものを大きくし、偉大にします。また、無力なものに力を与え、無価値なものをかけがえのない尊いものとしてくださるお方です。
イエス・キリストを信じている人は神様の導きの中にいます。ですから、自分に与えられた御言葉を保ち、信仰の中心を守っていれば、神様が私たちを成長させ、実を結ばせて偉大なものにしてくださいます。また、私たちがこの国の若者たちに蒔いた御言葉の種が無駄になることはありません。私たちがを熱心に蒔けば、必ず大きく成長します。今、聖書勉強を始めたばかりの方も、聖書勉強をしていても、まだ礼拝には参加していない方でも、彼らに蒔かれた御言葉の種から芽生え、成長していくのです。今は小さく無価値な存在に見えても、本当に価値あり、偉大な人生になるのです。
 そういうわけで、一人の心に御言葉の種を蒔くことはとても大切なことです。イエス様はサマリヤの一人の女性の変化をご覧になって言われました。「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」(ヨハネ4:35)。神様は私たち東京UBF教会にはこの新しいセンターを通して大いなる神様のみわざの兆しを見せてくださいました。神様が私たちの間に力あるわざと不思議、しるしを行なわれることを見せてくださったのです。そして、多くの兄弟姉妹たちが1:1聖書勉強をはじめ、礼拝にも参加するようになって来ました。やがて50チーム、50人礼拝もできるでしょう。やがて47都道府県に広がっていきます。御言葉の種は私たちのうちに働き、成長させる力があるからです。私たちがこの真理を信じて、周りの人々に御言葉の種を蒔くことが出来ますように祈ります。

結論的に33,34節をご覧下さい。イエス様はこのように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、御言葉を話されました。たとえによらないで話される事はありませんでした。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされました。それを通して敵たちと高ぶる人たちには隠され、弟子たちに神の国の奥義を明らかにされました。そうすることによって、弟子たちを御言葉のしもべとして訓練されました。弟子たちにだけ解き明かされたので、彼らは御言葉の奥義を預かった者としてのプライドを持つようになりました。結局、弟子たちは、からし種のたとえに表わされたイエス様のビジョン通りに大きく、偉大な神様のしもべとして成長し、豊かな実を結ぶ人生を生きるようになりました。イエス様はこの時代に、私たちにも大きなビジョンを持たれ育てられます。私たちはちっちゃな自分の姿に絶望するときもあるでしょう。しかし、私たちの人生はイエス様のビジョンの通りになりました。ただ、私たちがイエス様の御言葉を注意深く聞いて受け入れ、イエス様のビジョンを抱いていれば良いのです。どうか、日々、主の御言葉に頼り、主にゆだねて生きることが出来ますように祈ります。

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